場所:木之本町土倉
資料提供:白川雅一氏
場所:木之本町土倉
資料提供:白川雅一氏
体験者の語り(大正6年生まれ )
【伊勢湾台風前の木之本町土倉の様子】
私は、昭和21年5月に戦地より帰国復員し、父の待つふるさと土倉に帰り、親の面倒を見るため、土倉鉱山に入社しました。
土倉は、木之本町の中心部より東北へ、杉野川沿いに国道303号がうねる、岐阜県との境界の近くにあります。標高330mの地点で、土地が狭く豪雪地帯で、昭和に入ってから、3年毎に4回もの表層雪崩(通称アワー)が発生し、26名の犠牲者が出たため、昭和15年に、鉱山の施設を標高300mの出口土倉に移しました。
鉱山には保安消防団が組織されていて、火災は勿論のこと、災害救助等は、常に訓練を重ねて万全を期していました。
【昭和34年9月25日、伊勢湾台風が発生】
26日夜に入って、大型台風が近づくというニュースが流れ、集落内にある映画館に避難するようにと、マイク放送や団員の呼びかけによって対応していました。
夜9時過ぎには一段と風雨が強くなり、河川の水も多くなり、400mm位の雨量だったと思います。
そんな時不思議なことが起こりました。上流からの水が突然止まってしまい、何が起こったのだろうと一同思っていたら、急に大きな音をたてて水が流れだし、瞬く間に洪水で川を埋め尽くし、川の近くにあった住宅の前の物置小屋が4軒、流されてしまいました。
住宅も危険な状態になったので、各家の畳を持ち出し、みんなが一列になって、元の川に流れるよう畳堤による川づくりをした結果、社宅は難をのがれました。
その後雨も小降りになったので、一同休憩しようと事務所に引き上げる途中、下町の方から黒川さん宅の裏山が崩れて生き埋めになっているとの知らせで、現場に急行しました。あちこちから助けを叫ぶ声。まさに生き地獄の様相でした。
消防団員は手分けして救助しましたが、停電で夜も更けての作業でしたので、やむを得ず明朝ということで、作業を打ち切りました。
翌朝、自衛隊や木之本町の他地区の方々の応援もあり、全員の死体を発見することができましたが、残念ながら黒川つねさんの首だけは見つけられませんでした。
黒川さんの裏山の危険性を調査中に、再度土砂崩れが発生し、消防団員の大方は逃げたのですが、隣村の金居原の消防団員の方が、長靴に足をとられ生き埋めとなり、救出して人工呼吸を行いましたが、助けることはできませんでした。
後日、黒川さん宅の葬儀が下町の分教場で行われ、6人家族のうち1人だけ助かったお父さんが、出棺の際、亡くなった6年生の娘に、「お母さんは目を失って見えないから、お前があんじょう連れて行ってやれよ。たのんだぞ。」と涙ながらに話しかけられていたことに、参列者一同涙したのを思い出します。
体験者の語り(女性:母親)
【台風が襲来】
伊勢湾台風が滋賀県を襲った昭和34年9月25日の3日ほど前から、激しい雨が降り続きました。それまで体験したことのないような雨量でした。
土倉鉱山の町内放送が、「今までにない、大きな台風が近づいている」「どういう事態になるか分からないから、缶詰を備蓄しておくように」ということを何回も知らせていました。
そのため、雨の中を配給所(鉱山が経営する、ただ1つの食料品店)に行き、食料品を購入しました。
災害当日、杉野川は水かさが異常に増し、川を見に行くと、大きな岩がゴロゴロと流れ落ちてきていました。普段は川の水面から橋桁まで3~4メートルもあるのに、その時は橋桁まで1メートルもないように見えました。
夜中になると、主人たち会社員は、鉱山の施設や事務所を警備するため出かけたので、ほとんどの家庭は、主婦と子どもだけで留守番という形になりました。
そのうち、消防団の人が、下流にある川に近い家12軒を1軒1軒回って、川の増水が心配だから、分校に避難するように勧告しました。
私も避難の用意をしていましたが、子ども4人を(1歳、3歳、小学校3年と小学校6年)を起こすのに手間どっていたところ、隣の奥さんが駆けつけて娘をおぶってくれ、一緒に分校に避難しました。時間は午前零時過ぎだったかと思います。
分校には、すでに勧告を受けた家の人たちが集まっていました。
分校には炊事場もあったのですが、鉱山のはからいで、おにぎりの炊き出しがすぐにあったのには驚きました。
分校でどのように過ごしたのか、もう記憶がないのですが、飛田さんの親戚の人たちが、何回も飛田さんの奥さんと坊やを探しにきました。
「そう言えば来ていないようだ」。また、「稲光を見た」「大きな不気味な音を聞いた」などの話も出てき、あの親子もこの親子もいないということも分かってきました。
夜が開けて、山崩れがあったことが噂で伝わってきました。黒川さんの家がないことも伝わってきました。
私が家に戻ろうとすると、「まだ危ないから帰ってはいけない」と消防団から止められました。
今度は分校裏の山も崩れるかもしれないということで、分校から出て、安全な家に分宿して避難して、次の夜を迎えることになりました。
【台風の被害】
台風が来た翌々日に、初めて自宅前の山崩れ現場を見たように、記憶しています。川と反対方向の自宅前の山が崩壊し、山の中腹にあった2軒の家が、見る影もなく消えていました。
土砂は家の前10メートル前まで流れてきており、川よりも山の方向が危なかったのだと、思い知らされました。川の氾濫や鉄砲水が危ない事だけを心配していたのに、反対の山にやられたということでした。3日間激しく降り続いた水を、山が耐えきれないほど吸い込んで、崩壊したのです。
あんな激しい雨は初めての体験でした。
犠牲になった方は、川から遠い家なら大丈夫だろうと、山の方の家に避難していました。
消防団からは、分校に避難するように言われてたのですが、遠慮のないその家に避難したようです。
主人たちは鉱山の警備に出かけていたため助かりましたが、奥さんや子どもたち、赤ちゃんが犠牲になりました。
隣村の消防団の方も犠牲になりました。自衛隊がまだ到着しないとき、山崩れの中腹で不明者を捜索していたときに、再度山が崩れ土砂に飲み込まれて、亡くなったのです。二次災害でした。
私はその時、自宅前で作業を見ておりましたが、土砂があっという間に崩れ流れ落ちた光景は、一生忘れることはないでしょう。
今から思うと、あの時の雨量は異常なほどでした。激しく、しかも長い降雨でした。
崩れた山は禿げ山でもなく、杉などが植林されていました。清水が湧き出しており、”この水が濁ると危ない”という言い伝えがあったようです。
しかし、台風襲来の当日は、水は濁っていなかったということも聞きました。山が支えきれないほど雨が降って、土の水分が基準を超えてしまったのではないでしょうか。
1ヶ月ほど後に、犠牲者の方々の会社葬が鉱山のグランドで行われました。
黒川さんは家族4人を失い、悲しみのため、葬儀では歩くことができないぐらい憔悴していました。台風前には真っ黒だった黒川さんの髪は、真っ白に変わっていたことを今も思い出します。
もうほぼ50年前のことですから、記憶違いもあるかもしれません。
はっきりしているのは、川の氾濫による災害ではなく、土砂崩れによる災害であったということです。川は激しく荒れてましたが、橋も落ちることなく無事でした。山崩れ現場には、その後防災のためのコンクリート防壁が二重に築かれ、防壁の脇には慰霊碑も建てられたように記憶しています。
体験者の語り (男性:当時小学3年生の息子)
伊勢湾台風が襲来したのは、私が小学校3年生の時でした。
避難した分校では、普段と違う環境に興奮していたのか寝付けず、教室をうろうろと歩き廻っていたのを思い出します。
そのうち、同級生の戸高雪子ちゃんを見ていないかと何回か質問されました。行方が分からないという話でした。
翌朝になって、自宅近くの裏山が崩れたと聞いて、事故現場を見に行くと、そこには、今までなかった、山崩れによる崖が出現していました。
土砂は、山のふもとから数十mも流れ出て、押し出していました。
山の中腹にあった黒川さんの家と近藤さんの家が、跡形もなく流れ落ちていました。 多くの人が巻き込まれたことも分かってきました。また、「遺体がどこそこで見つかった」「どこどこに安置してある」という話も伝わってきました。同級生の戸高雪子さんも犠牲者の1人だったのです。
学校は、しばらくの間休みになりました。
自衛隊の方々が駐屯して、遺体収容にあたってくれました。テントによる駐屯生活では、食中毒を起こさぬよう衛生管理が厳しいことが、話題になっていました。
社葬のあった日は、授業が半日になり、午後から葬儀に子どもも参加しました。雪子さんらの写真を高く揚げた葬列が、会場を通り抜けたのを記憶しています。
その後、崩壊あとに、土砂防止のコンクリートの防護壁が二重に建設されました。
伊勢湾台風は、私の記憶では雨台風でした。杉野川の推量が増えて洪水の危険があったのですが、予期しない山崩れで、犠牲者が出る結果となりました。
崩れた山は、高い山ではありませんでした。大きい樹木はなかったように思います。
体験者の語り(大正15年生まれ)
大雨が降ると、一番最初は、川の水が増えてくる。
そうすると、字の役員、区長とか消防団の人が、堤防の弱いところの見張りに歩く。
これは危ないなという水量になったときに、お寺の鐘を乱打する。
そうすると、必ず一軒に一人の男が、現場へ出る。
現場では、堤防の弱いところが分かってて、堤防の裏側から水が浸み出よる。堤防を越えて、下をくぐって。
手当をせな危険やから、水が流れている堤防にナゲシをかける。
「ナゲシ」とは、大きな木の枝、または枝のついたままの木を、流れが強く当たる部分に当てて流し、堤防が切れないように保護すること。
堤防の裏側には、堤防強化のために、大きな杭を打つ。そういったことをして、急場をしのぐ。
昭和に入り、一番すごい水害が伊勢湾台風。
伊勢湾台風の時は、姉川の水が堤防を越えたと思う。それで一帯が浸いた。
私の家は石垣を3~4段積んでいたので、水は家の中までは入ってこなかったが、玄関を出て3mほどのところまで水が来ていた。
田んぼはダメやった。
”差し苗”と言って、苗が腐ったり虫にやられても、代わりの苗を植えられるように、田んぼの隅っこあたりに稲の苗の束を保存しているところがあるんやけど、上流の方でそれが残っているお宅へ、”差し苗”をもらいに歩きました。少しでも米がとれんかなと。
野菜は、嫁さんの親元に頼んで収穫出来るまでもらったり、米は借りた。米が出来たら返すからと。
飲み水は、水に浸いていないところへもらいにいった。唐国は浸いていない。地下水の水点が高いんです。ガチャコンで水が出てくるんです。近くの人たちも水を頂いていたと思う。
土地の高いお宅は、近所の人たちの大切な荷物を、浸からないように預かっていたそうだ。
体験者の語り(昭和4年生まれ)
唐国はみな、石垣を積んで家屋を上げている。1m50ぐらいかな。石垣を5段ぐらい積んでいる。水が浸くことを予測したような感じで。けど、家の道なんかは浸いていました。家までは入らへんけど。
【姉川の氾濫】
伊勢湾台風の時も、このあたり、ダムみたいになった。この一帯は畑と田がほとんどで、一面海のような感じで。
そして、姉川が氾濫した。その場所を”キレショ” という。
水が増水したときには、大堤防の、「切り通し」に板をはめて、集落側に水が入るのを防ぐようになっとった。
けど、気づくのが遅くてそれができなくて、その堤防の切れ目から水が溢れてきた。
「切り通し」いうんは、川の中との行き来のために、堤防に切れ目を入れてあるとこのことで、ふだんは通行できるようにしておいて、いざというときには、そこに板をはめて、水の浸入を防ぐやり方。
それが、板をはめるのが間に合わんかった。
【高時川】
高時川は、決壊しなかったけど、危なかった。それで「ナゲシかけ」(木流し)をした。
高時川の水が増水してくると、消防団やら村の役員らが川の周りを見て廻るんですね。
堤防のあたりから、ジャラジャラと伏流水が音を立てて出てくるようになると、「これは危険やぞ」とみんなに知らせる。「みんな、堤防の護衛をせなあかんから、出てくれ。」ということで、「ガンガン」と大鐘を突いて、知らせた。
昔はお宮さんにも鉦(かね)があったんで、その鉦を鳴らして、男も女も、出られる者は出てこいと、みんな総出で。
家にいる人は、大切なものを2階に上げるとか、逃げる準備をした。
【唐国の状況】
川の淵には、たえず伏流水があるから、それを排水する三尺ぐらいの川が、唐国に付いているんです。堤防が守れるように。
水を吐かせるところがないと、いつもそこがグダグダになってしまうから、排水するように川が付いている。私の字の中は、十文字に三尺ぐらいの排水するための川が流れている。
排水の川をみてみると、滝のように流れがある。
普通は、堤防でも水が来ないと分からないですよね。増水すると、穴が空いているとか普段分からないところが、分かってくる。本当に滝みたいにジャラジャラと出てくるのが怖いです。
昔から「蟻の穴から城くずす」と言って、小さい穴でも水が流れかけると大きい穴になって、城が崩れてしまうという、ことわざがあった。
あと、炊き出しもあったね。みんな時間も忘れて作業せなあかんから。みなさん、たくわんを漬けてるので、たくわんをおかずにして、握り飯で。婦人会の人たちがお宮さんに寄って、消防団などの人たちのために、作りました。
体験者の語り(大正15年生まれ)
姉川の堤防の決壊の恐れがあるので、一人でも多く水防活動の応援に来てほしいと、酢村の区長から田の区民の人々に、、放送(有線)で応援を頼まれました。私は酢の姉川河川敷(左岸)へ走りました。
酢の姉川河川敷では、姉川の上流から丸太が流れてきて、姉川橋で止まったことで、橋脚が危険な状態となりました。
そうすると、勇敢な男性が、ふんどしで川へ飛び込み、丸太にロープを括りつけ、堤防まで引きずって来てくださって。
姉川橋の決壊は免れましたが、水流はどんどんと強くなり、国道8号線は姉川橋から高時川までの区間、道路が浸水し深くなっていくようだったので、通行止めになりました。
また、稲の束も流されたため、非常に困りました。
五村の製材所の七尺の板が、北陸線の上を西へ200m、酢村の神社まで舞い上がり、神社の高い木に当たり、神社の東側へ何枚も落ちました。恐慌な風でした。