【毎年の備え】
風水害等の災害に備え、毎年大網(三つぐり)15mを11本作り、水防倉庫に保管している。
【霞堤の開発】
キャノン長浜工場の土地は、かつて姉川の霞堤であった。洪水時には、下流から濁水が逆流してきていた。霞堤の上流部から、四の町・五の町・六の町・という小字名が付いている。
十一の町と十二の町は、水が引いたら泥が30cmくらい溜まる場所で収穫が不能になり、用排水路も泥が溜るなど、被害が出ていた。逆流の翌年にブルドーザーで、その溜まったヘドロを堤防の方へ寄せて対策するけれども、その部分がもう畑にしか使えない。1回の台風で、30cmくらいのヘドロが田んぼに溜まっていたそうだ。
場所:長浜市大井町と国友町の境
【大井の横堤】
隣村、旧虎姫町の大井地先にある横堤は、洪水の時、川の水を一時的に氾濫させる遊水地にあたる。
この遊水地は、長浜市と旧虎姫町との境で、姉川の中でも一番狭まっているところ。そのため、遊水地のようなスペースを確保しておかないと、村の護りとして十分でないことを、大井の先人はよく心得ていた。
長浜市側に国友の墓地がある。
【堤防の自然林】
昔、河川内の堤防沿いに、榛(はり)の木などが自生していた。自生していた木は、割り木や燃料用材として利用されつつも、堤防が決壊した場合の一番の防御線になっていた。
洪水の時に一番怖いのは流木。流木の破壊力が、橋を壊し、家も壊してゆくため、流れてくる流木をそこで食い止める知恵として、この堤防沿いに自然林のように、榛の木がたくさんあった。
【堤防が決壊するときの、河川の特徴】
姉川の水位が減って中洲が見えてくると、水の勢いや流れが変わってくる。ちょうど1つの流れが、堤防にぶつかるようなかんじで、堤防が崩れてくる。
【北返し】
台風の風よりも、台風が過ぎ去った後の、北返しの風のほうが恐ろしいという伝承がある。実際に、伊勢湾台風のときは、北返しの方が強かったそうだ。
出典:『広報くにとも』国友地域学 平成10年6月発行 提供:吉田一郎氏
出典:『広報くにとも』国友地域学 平成10年6月発行 提供:吉田一郎氏
出典:『広報くにとも』国友地域学 平成10年6月発行 提供:吉田一郎氏
出典:『広報くにとも』国友地域学 平成10年6月発行 提供:吉田一郎氏
場所:長浜市国友町
【水防倉庫】
国友地先(姉川左岸)に、水防倉庫がある。
場所:長浜市今町
【水防倉庫】
当時、水防倉庫は、現在の今町会館前に設置されていたが、昭和54年に、会館建設のため現在の場所に移転した。
しかしそこは、洪水が一時的に溜まる霞堤の中にあり、一番先に水が溢れる。いざという時には、水防が間に合わないとのこと。
【防災訓練】
若い世代に、三つ叉工法などの水防工法を実習して、教えてやらないといけない。自治会の防災訓練は7月に実施されるが、大半の者は見学しているだけ。
場所:長浜市今町 提供:長浜市
【水防の服装】
当時、三つ叉を組む服装は、ズボンの紐をはずすと後ろが割れる“はんももひき(水圧がかからない作業着)”を着用し、足の半分あたりまでの草履(通称:トンボ草履)を履いていた。トンボ草履とはんももひきは、水防活動だけに使っているのではなくて、農作業の時や力仕事など、日常生活でも使われていた。
【寺の大鐘】
寺の大鐘が鳴る音が聞こえると、それは近隣の集落から水防などの応援を要請する合図とされている。と同時に、女性たちは炊き出しの準備を行う。今町は、出来る限り大鐘を鳴らさないように、地元だけで対応してきた。
【堤防決壊の見分け方】
堤防が切れるかどうかの見分け方は、堤防の裏側を見ると分かると今町では言われている。
堤防の土が水を吸い、堤防が飽和状態となる。堤防の裏へ水が出始めると、堤防が切れると言われている。
場所:長浜市国友町 百太郎井
【百太郎井】
姉川の水嵩が増えると、現在でも百太郎井から堤内に水が染み出るところがある。百太郎井は要注意の場所。
【堤防の特徴】
姉川右岸の堤防が切れそうになったことは、この辺ではあまりない。明治の洪水の時も、左岸側が切れた。左岸側の堤防が低いので、どうしてもそっちへ洪水が流れていく。
【夕日】
気象庁が台風の進路を公表していたとしても、「来るか来ないかは自分で判断せえよ」と教わった。
台風が来るか来ないかは、3~4日前に西の空へ太陽が沈むとき、お日様が入る前に雲焼けで判断する。西の空が真っ赤に焼けると台風が襲来すると言われている。伊勢湾台風の時も、3~4日前に西の空が真っ赤に雲焼けとなったそうだ。
【夕虹】
西の空に虹が吹いたら、必ず天気になる。これが東に吹けば、明日間違いなく雨となるそうだ。
【お月さん】
お月さんに傘がかぶったら、3日後くらいに雨になる。
【今村橋講】
お金を積み立て、村人の共同作業で板橋を架ける資金に、あるいは村人への金融のために「今村橋講」と言われている金融制度があった。明治時代の初めの帳面に記録されているが、知る人はほどんどいない。
【記憶の薄れ】
当時、一所懸命集落の為に水防を頑張った人たちは、もう亡くなってます。
私らがおらなんだら、もう誰もその時の状況を詳しく知る者は、いないだろうな。
【預かり物】
水害になると大切な荷物を預かってくれるお宅が、地盤の高いところにあった。
(預かり物の保管方法:一番下に燃料の柴を敷き、その上に畳を置き、その上に建具を置いて、預かった物は最上部に置く。)
【蛙が小便しても水が浸く】
下田にある田んぼは、よく冠水する。「蛙が小便しても水が浸く」「水の浸きがせ」と言うぐらい月ヶ瀬はよく水害の被害を受けていた。
【堤防見廻り】
雨が降り、河川の水位が上昇してくると、字の役員・消防団員が堤防の弱い箇所を巡回し、堤防が危険だと判断した場合、お寺の鐘を乱打する。
【ナガシ】
鐘が鳴ると必ず、一軒につき男性一名が、堤防の弱い所へ出動。水防工法の「ナガシ」を行い、堤防強化のため大きな杭を打ち、急場を凌ぐ。
【差し苗】
水害により稲や穂が全滅すると、水害に遭っていない字から“差し苗”をもらい、少しでも米が穫れるような対策を採っていた。
【降りだまりの水】
6月の終わりか7月の始めの梅雨末期に降る雨は、“降りだまりの水”と呼ばれ、水温が高く、何日も溜まっているため、稲も野菜も全部腐ってしまう。
稲は、いっぺん腐ると、苗を補充することは出来ないため、その年は1つも収穫できない。
提供:三谷治氏
【水災見舞申受控】
明治28年の水害の際に、個人宅の水害見舞いを記録した「水災見舞申受控」が残されている。明治28年の水害により、食料はほぼ全滅。醤油や大根漬け、そうめん、白米、小鮎等のお見舞いが記録されている。
【田んぼの復旧】
水害により田んぼが冠水し泥をかぶると、翌年田植えが出来ない。溜まった泥を田んぼの一角に集めて畑にし、田んぼを元通りにさせるという方法がある。
【畑の復旧】
堤外地の畑が冠水すると、畑の土は機能を失う。畑の機能を戻すために、溜まった泥を埋め、新しい土と入れ替える。
【酢の鐘】
ふれあい広場前に、危険を知らせる鐘がある。水害などで集落が浸水状態になりそうな時、避難や危険を促すために鐘を鳴らす。
【預かり物】
浸水しそうな時、地盤が高い場所にある家に、大切な荷物を預けている家があった。
【妙蓮寺】
水害時、妙蓮寺に避難したことも。
姉川堤防大井地先
洪水になる前に板をはめこみ、水を堰き止める
【切り通し】
姉川大井地先の堤防には、通行のために堤防を切り落とした「切り通し」と呼ばれる場所がある。
河川の洪水時、堤外地の公園を通っている水路が逆水し、堤外地の畑に溢れそうになると、水が完全に乗る前に水防小屋から板を出し”切り通し”に堰止めをする。
“切り通し”に板をはめる判断は区長がする。
今でも、少しでも雨が降ると、集会場に自治会長が寝泊まりをし、川の水嵩を確認している。
【横堤】
「横堤」と呼ばれる横向きの堤防がある。
「横堤」は、姉川に対して直角に設置されている堤防で、大水の際には、一時的に水を堤外地に溜める(遊水地)という機能を持っている。
【危険信号】
堤防の下から濁り水が潜ってきたら、危険信号。
【北返し】
北返しという北風が吹く。この風による雨と風には、要注意。
【ナガシ】
小堤防が砕けそうなところで、小堤防を守るために行う工法の1つ。木を流す。区長判断で行う。
【底樋】
姉川の伏流水を、村の中に引くための水源(元池)を、“底樋”と言う。堤外地の底に水路(配管)を通し、水を引いている。現在でも、底樋から集落内に水が流れてきている、常水である。
うなぎ井(ゆ)
【うなぎ井】
南大井は、姉川左岸から田用水を引いている。その場所を“うなぎ井”と呼んでいる。名前の由来は、2つあり、「姉川が鰻みたいにグネグネと蛇行しているから」もしくは、「周辺に鰻がたくさん生息していたから」ではないかと言われている。
【舟が救出に】
明治の水害の時、中野の中野山の矢合神社まで舟を漕いでもらい、避難。明治の水害を教訓に、舟を常備している家がある。
【避難場所】
伊勢湾台風の時、三川の元三大師へ避難された人がいた。
撮影・提供:大村柾一氏
【鯰原の冠水時期】
中水…6月20日
半夏…7月2日
土用…7月23日
鯰原周辺が、年に3回ほど冠水し、約1メートル50センチぐらいの深さになる。
【水防活動の応援】
高時川唐国地先の堤防が危険な状態となった時、唐国から水防活動の応援を頼まれ、水防活動に出動。ナゲシ(水防工法の一つ)を行った。
高時川の堤防へ立って民家を見たら、堤防の方が、民家の屋根の上より高い。
【お米の貯蔵】
翌年にお米が収穫できない可能性があるので、お米を半年分ほど余分に確保する。
【地盤を高く】
家の建て替えの時には、家の地盤を高くしている。
【上矢越(カミヤゴシ)での堤防決壊】
上矢越(小字)という場所に田んぼがあって、田んぼのすぐそばに蛇行していた田川があった。上矢越周辺で堤防が決壊した時があって、田んぼへダーと水が流れてきた。その水で田んぼに迷惑がかかるから、土嚢を作って、3重にも4重にも積んだことがあった。
何回もそういうことがあった。だから堤防に70cmぐらいの高さの竹を生やしたりして、護岸をしていた。
水があたるところは、下からえぐれてきよる。その場所は、しょっちゅう水が突き当たってえぐれてきよるわけ。そして、大雨が降ると決壊する。
だからこの辺りの百姓たちは、自分で米屋に行って俵を買うてきて、60キロ程度の土嚢を作る。そして3段ほど積む。
回りくねってた川というのは、どうしてもそうiうところはあった。水害常発地帯でしたね、その辺は。
護岸が崩れる度に、その周辺に田んぼを持つ人たちが田んぼに被害が及んではいけないと、護岸復旧の応援に来てくれた。私らも応援に行ったことがある。
【菜種油】
地先の堤防が危ないと思ったら、対岸に菜種油を流し対岸の堤防を切れやすくすると聞いたことがある。
【よく浸かる場所】
・馬橋から大寺の区間
・鯰原
・踏切を越えたところ(線路と月ヶ瀬までの間)
・山と北陸線に挟まれて、その間の田川から満水するということで始終水が浸きよったんです
【水防倉庫】
昔、中野には水防小屋があり、杭や俵などが置かれていた。
【井あがり】
毎年4月1・2・3日と4月24・25日は、「井あがり」と呼ばれる川掃除が行われる。
【お米の蓄え】
水害に備えるために、お米を1年2~3ヶ月分ほど蓄えていた。
【中野の水防活動】
高時川唐国地先(左岸)の堤防が危険な状態だった時、“ナガシ”をかけて、土手の崩壊を止めた経験がある。
唐国から中野に、水防活動の応援に20名収集してほしいという要請がかかってきた。
向こうへ行く時には、カッパを着てるんやけど、雨がひどくて、ものすごく痛かったわ。向こうへ着いた時には、カッパを着てる意味がなかった。「長靴を絶対に履いてきてはダメだ。地下足袋を履いてこい」ということで、地下足袋を履いて行った。
唐国の堤防に行ったら、2回ぐらい、堤防が欠けた。
その時に、堤外地にあるケヤキを伐ろうとしたら、唐国の人が「これは私物やから伐ったらあかん」と言わはったけど、「何を言っているんや。家が流れてまうのに、木の1本や2本伐ったかて、どこが悪いんや。自分ところの家が今にも流されようというのに、私物も何もあるかい。」「伐れい。」ちゅうて。
喧嘩ごしになりながらも、石やらを俵に詰めて木にかけて、みんなで流すわけや。針金に止めて1本を流す。2本目を流したら、もう土手は欠けなくなった。
その時に、仕事をしたのは中野だけやった。 他所の在所も応援に来たんやけど、間に合わへんかった。
中野の人は、持ち前の団結力があるのと、山へ仕事に行っているというのがあるわな。その時分は、全部焚き物を自分で山から伐ってきて、割木をつくったんや。そういうことで、慣れてるんやわ。
それでやっと水勢が変わって、「もう大丈夫やろう」と言っていた。雨もちょっと止んできたし。
で「引き上げてくれ」ということで、ちょっと唐国のお寺に寄って、口直しでも一杯呑んで帰ってくれと。ほて、唐国のお寺に行った。
【明治の避難先】
明治の水害では、浅井町内保まで、お年寄りは舟で避難した。
【酢へ応援】
「姉川堤防が決壊の恐れがある」と、酢村区長から田村区民の人々に有線放送で応援を頼まれ、水防の応援に行った。
【唐国へ応援】
昭和50年8月23日台風6号の時、唐国の高時川河川敷(左岸)に、水防活動の応援に出動。
【水と食べ物の備え】
田村は4つの字の中では一番低く、いつまでも水が溜まっている。そのため先祖から「水が浸いたら、飲み水と食べ物が必要だから、寒水を壺に入れて2階に上げることを、忘れないように」「塩と梅干しを上げておきなさい」と伝承されている。
【盥(たらい)で避難】
明治28年と29年の洪水時、3階建て藁葺き合掌造りの家が2階まで浸水。3階のツシの窓からたらいに乗り、三川(字)まで避難された方がいる。
【ナゲシ】
高時川・唐国地先の堤防には弱い箇所があり、大雨により河川が増水すると、役員と消防団員が見廻りに行く。
堤防が危険状態になると、寺の鐘を乱打し、男女を問わず総出で、堤防に投げ枝等の水防活動を行う。
【蟻の穴から城崩す】
「蟻の穴から城崩す」という、ことわざが唐国にはある。河川の洪水時に堤防から鉄砲水が噴き出すことで、堤防の弱い部分が発覚する。
堤防に小さな穴があったら、洪水の時には大きな穴となり、堤防が崩れてしまうという意味。
【井掘祭】
唐国には「井掘祭」という祭がある。現在は形だけとなってしまったが、川掃除を行い、水神さんに御神酒を備え、水に感謝する。
【川掘】
“鯉の井”から流れる川の掃除が、年に2回ある。川掃除のことを「川掘」と呼んでいる。
【女性の活躍】
河川の洪水時、河川敷で水防活動をしている役員や消防団のために、婦人会が、握り飯やたくあん等の炊き出しを行っていた。
場所:虎姫公民館
【明治時代の水害の痕跡】
五村信念寺に明治時代の水点の跡が残っており、現在は、虎姫公民館に記念碑がある。
【明治の避難】
明治の水害時に、五村から宮部に避難した人がいた。
【伊勢湾台風の助け合い】
五村から酢村地先へ、水防の応援に行った。
【水防の応援】
姉川・大井地先の堤防が危険状態にあった時、五村から自主的に、大井地先の堤防へ水防の応援に行った。大井地先では、上流の木造橋が流失し、旧大井橋に引っかかったため、徐々に水嵩が増し、旧大井橋の上から手が洗えるほどになっていた。大井地先にある「切り通し」に板を噛まし、土のうを積んだ結果、大井と五村の浸水は免れた。
【4ヶ字の会合】
年に1度、4つの字(月ヶ瀬・唐国・田・酢)で会合を持ち、意思疎通を図っている。
【水引神社】
大雨のたびに大きな氾濫に見舞われ、困り果てた旧虎姫村で、水路を変更する難工事の田川カルバート(田川と姉川の立体交差)の完成を祈願して、唐国町に建立した神社。4つの字(月ヶ瀬・唐国・田・酢)で守っている。
【裏もみ】
降った雨が田川へ流れ、カルバートが満水し逆水することを、「裏もみ」という。「裏もみ」により田畑が冠水する。
【堤防の芯を粘土でつくる】
堤防の芯を、粘土でつくる。粘土は、水気があると粘りが出やすい。水気が染み出てきたら、よけいに粘りがでて、壊れにくくなる。
【半鐘の役割】
「これは危ない」と気づいたら、寺の半鐘を叩いて、危険を地域住民に知らせる。
大きい釣鐘ではなく、半鐘を使った。半鐘は小さいから、「ガンガン」早く叩けるから。
【みんなで守る】
川の水が増え、水が溢れる危険が迫ってきたとき、「がーん、がーん」と半鐘をならす。鐘の音を聞いたら、自分のところにある俵(たわら)とか縄とかムシロを持って、集まる。「わしが行ってやらなあかん」という気持ちを、みんなは普段から持っていた。
【天井川】
高時川は天井川なので水害への意識が高く、普段でもよく川の様子を見に行っている。
【水防活動】
勤めに出ていた人も、帰宅可能な人は帰ってきて水防活動に加わった。
高時川堤防 (撮影:流域治水政策室)
【注視箇所】
高時川の落合橋上流右岸側の堤防ブロックに、赤い線が引かれており、集落の人が、台風や大雨の時に見に行き、危険を判断する基準にしている。
高時川堤防に立つ看板 (撮影:流域治水政策室)
【看板】
高時川の錦織橋上流の右岸側に、昭和50年台風6号と平成18年の大雨の際に「ここまで水が来た」という看板が立てられている。
【避難】
水防に参加している人は、堤防を守るのに必死で、避難は考えていなかった。