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甲賀市 昭和28年8月多羅尾豪雨その3

水害履歴

位置図
位置図

信楽町多羅尾 昭和28年8月多羅尾豪雨

位置図
位置図
水害写真

倒壊した家

提供:信楽町多羅尾


当時多羅尾豪雨体験者夫婦(多羅尾村民)の語り

《女性(当時16歳)》

【当時の状況】

・私は昭和28年3月に中学校を卒業していて、その年の8月15日に多羅尾豪雨があった。

・災害当時はちょうどお盆の時期で、その日は大戸川で村の家庭ごとに送り火が行われていた。その時間帯は、雨は降っていなかった。

・送り火から帰ってきて、夜中に一気に雨がばあーと降ってきた。(400ミリ以上の大雨)雷、稲光で地面がズンズンと揺すられる感じで凄かった。私たちの平和な村を一瞬にしてめちゃくちゃにしてしまった。

・当時、茶屋出橋(多羅尾の中心地から大戸川の下流側)の近くに自宅があり、お菓子の製造販売をしていた。毎日父・母・弟と一緒に作っていた。この時は商品が水に浸からないよう2階へあげていた。

・稲光だけで作業ができるくらい明るかった。

・夜中まで商品をあげる作業をしていたところ、消防の方が 「もう逃げなあかん、だいぶ濁水がきてますよ」と呼びに来た。そこで父が「もうそれストップせえ。」と作業をストップさせた。

・家の前は道路があってすぐその前が大戸川である。

・天と地が上下に繋がっているくらい雨の降り方がきつかった。

・当時は懐中電灯もなく、ロウソクも当然使えない。

・避難する時、夜中であったが稲光がすごいので暗くなかった。

・新しい傘をさして、妹2人(10才、12才違い)と共に坂の上にある近所の家まで逃げた。近所の家は道路より20メートル以上高いところにある。

・逃げるとき、豪雨の影響で足元は木やらなんやらが散らばっていた。そんなん嘘やと言われるけど、近所の家に着くと新品の傘も破れた。

・その家の戸をドンドンと叩いた。家の人が起きてきてびっくりされていた。(その家は敷地が高いので今まで水害被害がなく安心していた。)

・そこから自分の家を見ると、2階床面あたりまで浸かっていた。父母がまだ来ておらず「はよ来たらいいのに」と心配だったがその後ようやく合流できた。

・その家の畑の端のほうから自分の家を見ているとどんどんどんどんと水が増えているし、「どうしたらええんやろう」と思ったけど「どうもしようがない」と親が言っていた。

・材木と萱葺きの屋根が流れてきて「家に当たらんといて」と拝んでいたが、ふと顔を上げると家は流れてしまっていた。

・近くの高香山(たかこやま)がドーンと大きな音をたてて崩れた。

・高香山の広場は村の子供が集まり、運動会をしていた場所であった。

・高香山が崩れはじめて、山の下にあった友達の家がだんだんと土砂とともに流れてきた。

・その近くに2軒の家があったが床上浸水してきて、敷地が少し高い場所にある家に避難された。

・高香山の下に一段敷地が高い家があったのでそこに逃げている人がいたけど、山が崩れて全員亡くなられた。

・信じられないと思うが、木が立ったままで、山ぜんぶが目の前に動いてくる感じ。

・今は木が生えているけど近辺の谷はみんな崩れた。

・多羅尾小学校で働いていた方は生後75日目の子を抱いて近所の家に逃げた。

・水かさが増してくる様子を見ていると、家に向かって川面が窄(すぼ)んでいる形がまるで琵琶湖みたいだったのを覚えている。

【災害被害の状況と生活】

・「家がない」と泣いていると父から「もう泣くな、家がないくらいなんや、6つの命が残った」と叱られた。

・翌朝、母と二人で外の様子を見に行った。(家跡は流されて何もなかった。)

・1kmくらい先に行くとゴミがたまっているところがあり、何か白く光っているものがあった。その年の3月にもらった信楽中学校の卒業証書だった。それを見たとき、はじめて本当に家が無くなってしまったことを実感した。

・2、3日後に、父が大戸川の下流の様子を見に行くと、お菓子を作るために使っていた大きな台を見つけた。部品が取れたりしていたが、嬉しくて親戚に頼んで持って帰った。

・あくる日と次の日、私と母は地面ばかり見て探していて、崩れた山から足が1本出ているのを見つけた。後から分かったが、それは前日まで一緒に遊んでいた一歳下の子のものだった。(そこの家族は3人程亡くなっている。)

・うちの家は全部流れてしまったため、家の整理もできない。何もすることがなかったので辺りを歩いて回っていた。

・避難している家で過ごしている間は、一家全員で食事をよばれた。(ご近所なので日頃から親しくしていた。)

・避難している家で3日ほどお世話になり、その後は母の実家でずっと過ごした。

・川の上流のほうに亡くなられた44名を祀っているところがある。(個人のお墓は別にある。)

【再建】

・父は熊本出身。両親を早くに亡くしてから京都に住んでいた。信楽に来て、このあたりでは運転する人がいないということで、トラックの免許を取って運転手をしていた。

・父は家族全員を集めて「これだけの災害やから国も県もほっとかへん。助けに来てくれる」と言い、住居と貸家を建てた。

・家の基礎が出来ていたところだったが、翌月の9月25日に台風13号が来てまた豪雨で全部流されてしまった。それでも父は耐えて 、同じ場所にもう一度建てた。12月末には棟上げをして、お正月に店を再開した。

・今は売ってしまったが当時再建した家は今も残っている。

 

裏山の山崩れで土砂が入ってきた家

撮影:県民

流れてきた材木や倒木などが散乱

撮影:県民

高香山の山崩れ

撮影:県民

河原になった農地と山崩れ

撮影:県民

山崩れ箇所

撮影:県民

実家の前は主要な道路ですぐ前が大戸川

撮影:滋賀県(令和4年)

実家は豪雨で流されたが、その年に再建した家

撮影:滋賀県(令和4年)

当時避難した高い位置にある家

撮影:滋賀県(令和4年)

≪男性(当時18歳)≫

【当時の状況】

・私の家は谷と谷の先になっている「おさき」という場所にあった。

・昔おやじに聞いたら、家の上側に代官所の城跡(代官屋敷跡)と牢屋敷(処刑場)があった場所だったそうだ。

・私の家はそんな場所にあったので安心していたけど、家の際まで泥水やら立ったままの木がどっと動いてきた。

・多羅尾豪雨の時はどっちを見ても左右の谷から山が動いて迫ってくるので、前の家から「助けてくれ」という声があったけど行こうにも行けなかった。

・近くの家に、はよ逃げよと父が呼びにいったがそこのお母さんが家に戻ってしまった。戻った途端、泥水と土砂が流れてきて亡くなってしまった。

・夜中で寝たところだったので寝間着から着替える間もなく、そのまま山に逃げた人なんかは寝間着が破れてしまったと聞いた。

・近くにあった本家は大きい家で重みがあったので、水流で中だけずぼっと抜けてしまって柱だけ残った。

【助けあい】

・父親は色んな役をしていて責任を感じていたので、役場(公民館)や農協で災害後も色々と手伝いをしていた。

・自宅を避難所としていたので、父がみんなを呼んで避難させていた。中は人でいっぱいになっていた。

・自宅に帰ったら避難者がいっぱいでびっくりしたが、「こりゃかなわん」とも言えんし、「よう来てくれた」という気持ちだった。逆にそんだけの人が来てくれたら助けなあかんと思った。「避難しに来てくれる人がいてありがたい。助けなあかん。」と思った。

・災害があってから10日間は、毎日流された人を探しに行っていた。家には一旦帰るだけで、また探しに外に出ていた。帰っても胸がいっぱいでご飯が食べられない状態だった。

・多羅尾小学校講堂で亡くなられた44名の合同葬儀をした。暑いのでいつまでも置いておけなかった。

・棺桶のかわりに茶櫃(ちゃびつ)に入れられた遺体もあった。

・その後、子どもを亡くされた人から突然家に電話がかかってきた。(遺体を見つけたことを)覚えていたようで、「あの時茶櫃(ちゃびつ)に入れて祈ってくれたなあ」と、助けてもらったことを覚えてくれていたんだと思った。

【復旧・復興】

・仮設などは当時なかった。再建するにも時間がかかった。

・復興は長くかかった。

・1階の天井くらいまでたまった田んぼの甘土(あまつち)をだすのに毎日スコップで堀り上げていた。

・復旧作業する人々が増えたこともあり貸家は何軒もできた。

・当時の川は今と違い細くて狭く、まだ家まで距離があった。今では幅が拡がっているので距離が近くなっているように思える。

峠の道が土砂崩れ

撮影:県民

河川の氾濫で道がわからない

撮影:県民

山崩れで道路が寸断

撮影:県民

河川の氾濫

撮影:県民

当時多くの隣人が避難された場所

撮影:滋賀県(令和4年)

旧代官所敷地の一部(高い位置にある)

撮影:滋賀県(令和4年)

多羅尾代官所の跡

撮影:滋賀県(令和4年)

多羅尾代官所老屋敷の跡

撮影:滋賀県(令和4年)

【夫婦が後世に伝えていきたいこと】

・「助け合い」が大事である。

・家族で同居しているあいだは年寄りのすることを見てやらなあかん。年寄りの声を半分でも聞いておくべき。お互いに辛抱してでも助け合って過ごすことが必要。

・孫にもよく言っているが、お礼を言うことは大事だと思っている。

・お盆の行事、送り火などは今もやっているが近所づきあいはやはり薄れている。

・独居の高齢者が多い。お葬式も昔は助け合いで隣近所から大勢の人が集まったが、今はなくなって簡易になっている。

・通勤時にバイク事故にあった(ダンプの下敷きになった。)とき、当時救急車がなく、親戚の同級生が聞きつけ、かわりに運んでもらったことがある。

・近くの家では今も床の間にその時浸かった水位がわかるよう目印を消さずに残されている。他の家のところもここまで水が来たということの目印を残している。

・この昭和28年の多羅尾水害後は水害や土砂災害は起こっていないが、若い人にこの災害を語って伝えて行く必要がある。

【村の将来について】

・多羅尾の人はだいぶ村を出て行っている。歌っていた多羅尾村歌の歌詞には『♪~村人あげて1200人の~♪』とあるが、今では人口350人程になってしまった。

・多羅尾小学校の児童は、現在9人である。

・自宅にある工房で村の子供たちに味噌作りやこんにゃく作りなどを教えている。

・今は息子が継いでいるが、こんにゃくいもを3年間かけて栽培し、こんにゃくを作っている。

・人生こんなに長い間生きてるとおもしろい話や子供のころの話ができる。

・この村で民宿をやっているが、都会から来た人が、静かな村で星を眺めたり、川遊びしたりして自然そのものを楽しんでいる。何もない村だけど自然が良いのだと思った。

テレビ番組の取材で芸能人が来て、ここの自然とこんにゃく作りの撮影があって、村の魅力を放送してもらった。

道路復旧作業の人々

撮影:県民

村民総出による復旧作業(女性も活躍した)

撮影:県民

各地からの応援部隊

撮影:県民

被災物の焼却

撮影:県民


絵図