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甲賀市 昭和28年8月多羅尾豪雨その4

水害履歴

位置図
位置図

信楽町多羅尾 昭和28年8月多羅尾豪雨

位置図
位置図
水害写真

倒壊した家

提供:信楽町多羅尾

信楽町牧 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図

【地区の状況】

 8月14日夜半から15日朝5時ころまで、信楽町多羅尾を中心に山間部一帯は、300ミリを越す雷雨をまじえた豪雨となり、牧付近では、西山橋下流30ⅿあたりの西山川と、その先250ⅿほどの大戸川左岸が決壊し、一帯の田んぼが広範囲に冠水。近辺集落も床下・床上浸水した。

 この調査は、関西大学景観研究室と協働で行いました。

体験者の語り 男性(昭和9年12月生まれ)聞き取り日:令和元年9月11日

 僕は18歳やった。

 そのころは大雨に関する情報もなかったので、事前に警戒することは困難だった。

 うちは床上20cmほど浸水したが、隣の家は浸水しなかった。

 15日の朝7時頃、自宅から外の様子を見ていると、西山川の堤防が決壊し、そこから一気に水が流れ出てきた。その時、崩れた堤防そのものが流されたり、多羅尾方面からきたと思われる材木や牛、畳が流されていた。わずか1、2分ほどで流域一面が海のような状態になり、まるで映画を見ているようであった。

家が浸水したため,雨が降っている間はどうすることもできなかった。しかし,浸水から米俵だけは守ろうと,みなで10俵(約600キログラム)の米俵を、家の中の高所へ避難させた。

その後雨が止んでから、床上浸水した自宅から隣の浸水してない家に避難した。

 この豪雨と、ひと月後の9月にも続けて大きな台風がきて、甚大な被害を体験したので、うちではその後、隣と同じような高さに約1mかさ上げした。

 被害の詳細や箇所は、水害マップをご覧ください。

信楽町長野 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図長野

 

昭和288月の多羅尾水害 体験者の語り

男性(当時中学1年生)聞き取り日:令和3年12月7日

【前触れ】

・8月14日の夜は近くの映画館に映画を見に行っていた。

・その時長野はまだ雨は降っていなかった。(後で聞いたがその時多羅尾村は降っていたらしい。)

・雨も振っていないので前触れは全然なかった。

【その時何が】

・夜中に半鐘が鳴ったので、火事かと思い起きて外を見たが火の手はなく、2階からふっと下を見ると家の前の信楽川からチョロチョロと水が道路に溢れてきた。しばらくすると雨が降って来て、水が一気にぐぐっと川の水が溢れて道路も川もあらへん状態であった。

・集中豪雨になり橋も流れた。堤防も決壊した。

・次の日に知ったことだが、多羅尾村はあんなに死者が出るほど大変だったのは知らんかった。

・今の滋賀銀行のある場所は、元町役場だった。

・家の前に元町役場があり近くに消防器具庫があり消防ポンプ・ホースがあった。昔のポンプ方式でホースを繋いでいくタイプであった。エンジンは付いていたが、今みたいな消防車ではない。消防団員は当時ここで整列していた。

・半鐘は今の滋賀銀行(旧町役場)の近くにあった。

・信楽川から水が浸水してきて1階の店の商品を台に上げていると、どんどん水が入ってきて一気に水位が高くなったので、危険を感じて途中で両親と逃げた。

・裏側の隣家は土地が高いので、そちらにとりあえず避難をした。

・裏の隣家は浸水せず、夜中なので家人は水がきているのを知らなかった。

・浸水した水が引いた後で家の中を確認すると、床の間の壁の床から1mくらいのところに浸水した水筋が入っていた。

・布団を敷いたまま逃げたが、畳が浮いたようでふしぎに布団は濡れていなかった。

・当時中学1年生でしたが逃げた時は膝上のあたりくらいまで水が来たと思う。

・この辺は一番低くちょっとした敷地の高低差でも水が流れてくる。

・ここらへんの橋はほとんど流された。

・大戸川旭橋の山手の方向は浸水していないと思う。

・私の家から信楽駅は丸見えだった。(川沿いで見通しが良く、また家も少なかった。)

・信楽駅は浸水していない。

・私の家の前は桜並木で奇麗であったが皆流れて行った。

・現在の松尾町、材木町のあたりで信楽川が越水し、一帯が浸水した。

・現在の新町付近の商店街は後方から浸水して、商品が流された。

・近くに呉服屋さんがあって、反物も流されていたのを見た。

・大戸川と信楽川の合流地にあった陶器の工房は、全部流された。

・この「水害の歴史」(琵琶湖博物館提供)写真は、大戸川旭橋手前から信楽駅方面を撮影したもので見たことがなかったが。信楽駅の建物と「丸辰」という陶器屋が写っている。

・豪雨だった多羅尾村から大戸川へ水が一気に流れて来て大戸川旭橋の橋桁に流木などが引っ掛かり、先に大戸川が決壊したことで信楽川が流れなくなった。

・濁流が信楽川の上流に向かって逆流して来た。

大戸川に架かっている信楽鉄道の近くの鉄橋が2箇所も壊れた。

・ほかの場所もたくさん越水したが、雨が止むと低いほうへ水は引いていった。

・法務局も私の家の近くにあった。浸水した影響で重要な書類が無くなり番地がわからなくなったらしい。

・当地域は山が風化している地帯である。

・当時は「はげ山」が多く雨に弱い地域だったが、今は川が改修されて水の流れも変わっている。昔に比べて断面も幅も広くなっているのでこんなに大きな水害はもうないと思う。

・消防団などの手伝いは分からないが、皆自分のことで精いっぱいだったと思う。

・当時は今ふうのボランティアの制度はなかったが、被害が少なかった甲賀郡内(石部、水口あたり)の人が、手伝いに来てくれた。

・多羅尾水害から一月後の9月13号台風があったが、その被害の復興はまだまだであった。

【備え】

・自宅の土地は現在よりも、1.5m位低かった。

・新築するときに嵩上したが、道路は上げられないので店の駐車場は傾斜になっている。

・川の水が少し上がってくるとちょっとした雨でも水が溢れてくるので注意が必要。

・家の中の敷地に溝を切って水を流せるようにした。

・もし避難することになっても川が渡れなくなる。市の避難場所は川向こうなので行けない。川と反対の高いほうへ逃げるしかない。

・市の避難場所はないが、そちらのほうは寺と保育園があり、そこなら山手なので大丈夫ではないか。

大戸川旭橋が流失
現在の大戸川旭橋

大戸川旭橋が流失、前方が「丸辰」陶器屋

提供:琵琶湖博物館

現在の大戸川旭橋

前方が今の「丸辰」陶器屋

信楽駅近辺浸水状況跡

提供:琵琶湖博物館

大戸川と信楽川の合流点、大戸川旭橋が流失

提供:琵琶湖博物館

河岸沿い民家の状況、建物倒壊

提供:琵琶湖博物館

呉服屋他の水害の後始末する人々

提供:琵琶湖博物館

昭和28年の水害で活躍した消防団員の体験者語り

甲賀市信楽町長野区いい顔づくり推進委員会

「紫香楽アルバム」2008第4集(戦中・戦後を生きた女性たち地域を支えた青年団・消防団)(平成20年発行)より転載と要約および一部追記

当日の未明、この雨の降り方はちょっと違うなぁ...。ひょっとしたら半鐘が鳴るかもしれんなぁ...と。

それで二階から雨足を見ていた。すると間もなく半鐘が鳴り出した。すぐに半被(消防の)を着て家を飛び出した。

すると家の前の坂道まで水が出ていて、仕方なしに裏道から消防の器具庫に直行した。あたりは真っ暗闇。しばらくして夜が明けると一面の海—海としか言いようがない。そしてその中にポツンと一軒家が見えている。助けに行こうとしたが、胸のあたりまで泥水。(後で聞くと住人は非難していた)その日は何とも動くこともできん。

あくる日、街中は柴やらゴモク(いろいろなゴミが集まった物)でひどいありさま。まずそれから取り除いた、それから信楽線鉄橋の橋脚に流木やらゴモクが引っかかって街中の水が抜けないようになっていたのでソレを取り除いた。そんな調子で消防隊員は毎日、毎日片づけにかりだされた、仕事どころか、ウチの畳も水に浸かって片づけやなあかんのやけど、それどころやあらへん。毎日、毎日、町内の片づけやった。

 

 

 

水口町三本柳 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図

体験者の語り 地元の方21名による 聞き取り日:平成27年9月26日

【この調査は、立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】

【三本柳地区の状況】

 甲賀市水口町三本柳地区は、杣(そま)川左岸に位置し、信楽道、伊勢新街道、杣街道などの旧街道が交錯する交通の要所として形成された地区。杣川の渡し場にもなっていたため、宿場町としての機能も果たしていた。

 しかし、三本柳地区は杣川の渡し場としての特性上、河川のすぐそばに立地しており、それに加えて、杣川に流入する滑(なめり)川・里川・城(じょう)川の四つの河川に囲まれた地形になっていることから、大雨の時にはそれぞれの河川の増水、氾濫により被害を受けてきた。

 昭和28年には、杣川の決壊や旧里川の越水により、地区のほぼ全域が床下浸水、一部床上浸水した。同様に、昭和34年の伊勢湾台風の時や昭和40年にも地区内で床下・床上浸水した。平成に入ってからも、全国初の特別警報が発令された平成25年台風18号の時に、杣川から旧里川へ逆流して溢れた水が地区内に流れ込み数件の家が浸水した。また、城川は決壊寸前にまで増水した。

 住民の方たちの体験から、地域の特性・昭和28年の水害・昭和34年伊勢湾台風と昭和40年の水害・平成25 年台風18号の水害をマップにまとめてあります。

参考(「滋賀県災害誌」より各水害の概要)

昭和28年8月多羅尾豪雨・台風13号の水害】

8月14日~15日にかけて、多羅尾地域を中心にした甲賀郡(当時)南東部の山間部一帯で、300mmを超す雷雨を交えた豪雨となり、河川は急速に増水し随所で土砂災害も起こり、多羅尾村(当時)では、全半壊流失戸数が全村の4割という大惨事に見舞われた。

 杣川も急速に増水し、危険水位1mを越えて3mに達し、堤防の決壊や橋が流失し、建物や田畑に大きな被害をもたらした。
その復旧作業が動き始めた1か月後の9月25日、台風13号が襲来し、再び随所で河川が氾濫、決壊した。

【昭和34年伊勢湾台風】

 9月25日夜間、台風の眼が彦根地方を通過したため、暴風雨が続き、河川の堤防決壊による洪水で、浸水地域が広がった。

【昭和40年9月 台風23・24号】

 9月9日以来、秋雨前線による雨が続くなか、10日に台風23号が・17日に24号が立て続けにやってきた。台風24号は、この年の最も大きい台風で、各河川はこれまでの増水した水量に加え、さらに急速に増水し、9月17日23時頃には各地で堤防の決壊が起こった。そのため、家屋の全半壊をはじめ、田畑の流失・冠水などによる水害被害・農作物被害が甚大なものになった。

【平成25年台風18号】

 強風域半径500kmを越える大型の台風18号は、滋賀県で過去に経験したことのない暴風雨をもたらし、滋賀県・京都府・福井県に初の特別警報(平成25年8月30日から運用)が発令された。

 このため、県内各地で記録的な大雨となり、高島市鴨川と草津市金勝(こんぜ)川の堤防が決壊したのをはじめ、多くの河川が氾濫し、人家や田畑等広い範囲で浸水して甚大な被害をもたらした。

 9月15~16日の総雨量は、大津市葛川(かつらがわ)で635mmを記録している。

甲南町野尻・寺庄 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図
水害写真

川沿いの家。右側の庭の基礎が崩れ、植えてた木が流失。

(提供:杉山正男氏)


体験者の語り

「甲南町20世紀のあゆみ」より転載

【被害の状況】

 昭和28年8月14日から15日にかけて甲賀郡(当時)には大量の雨が降った。中でも信楽町の多羅尾地区では、2日間に300mm以上という集中豪雨となった。

 杣川上流でも、夜半から降りだした雨が豪雨となり、普段60cmぐらいだった杣川の水位が危険水位とされる1mをはるかに超える、3mにも達した。
これにより、竣工後、日の浅い金太(かねた)橋や野田橋は流失した。木造の橋は、洪水のたびに流失し、それを下流の湖岸近くまで拾いに行くのは大変な作業だった。

体験者の語り  男性 80歳(昭和6年生まれ)・女性 81歳(昭和5年生まれ)

 家は、野尻。杣川千歳橋の野尻側のたもとで、川のすぐ横にあった。杣川が、ちょうど家の辺りで大きく蛇行しているため、家の部分に、水がきつくあたる。

 昭和28年の多羅尾豪雨の時は、川の横に家があるため、水の音がすごかった。そら、きついきつい。水の音って恐ろしいですよ。川幅いっぱいになって流れてきた時は、そりゃあ、はたにおられへんわ。恐くていてられん。この家流れるかもしれへんなっていうてました。橋げたから川面まで5mぐらいあるやろなあ、それがいっぱいになるんやから。それが一気に流れてきて、流木やら流れてきて橋げたに当たるし。ようけ流れてました。

 川の水は茶色で、赤土が混じっていた。水の勢いは強いし、木や本棚やらいろんなもんが流れて来た。そりゃあ、すごい音してくるんやもん、そら恐いですわ。家にいられませんわ。わたしら離れやさかいに、横の母屋に逃げてた。

 離れの横の側面(川に直接面している部分)が水で大きくえぐられて流失し、上の庭の木が流失した。

 杣川のこのあたりの堤防は右岸側が低いので、左岸側のうちの方では、川の水は、千歳橋より上に来ることはなかった。しかし、向かい側右岸の寺庄の方では、川が増水すると、水に浸かりやすい。

 うちの家付近に当たった水は、はねて対岸の寺庄の方に流れ、向こうが床上浸水した。溢れた水は、千歳橋からも寺庄地域の方に流れる。橋を伝って集落に水が流れこんだ

 千歳橋は石の橋だったので、流れ落ちなかったが、千歳橋の下流の金太(かねた)橋は木橋で、流失した。水害のあと、千歳橋のあたりを見物に来る人がたくさんいた。

 私は、そのころ逓信(ていしん)所に勤めてたんですよ、今のNTTやね。汽車で大津に通ってました。

 この水害のとき、汽車が止まったんです。どこで止まったかというと、貴生川の、信楽線が杣川を横断してるとこ。

 そして、大津瀬田川沿いにある関ノ津郵便局が床上浸水した。

 そこに電話交換機があって、それが水に浸かって電話が不通になって、私は復旧に飛んでいった。電話に関する機械を二階にあげたりして。電話の復旧には、1週間かそこらかかってたと思う。

 このあたりに明治時代からの洗堰があって、そこに大雨やから水かさが増してしまって、水が引かない。それで、そのあたりが浸水した。

 昔の洗堰やから、閉めたり開けたりするのに時間がかかる。木を1本1本人の力ではめたり取ったりしてたから。(注:堰の開閉は複数の橋脚に角材を横に人力ではめる方法を採っており、全開から全閉までの作業に24時間以上かかった) そやから、大雨が降ったさかいいうて、一気に解放でけへん。それに、あんまりようけ解放すると、今度は、下流の大阪の方がもたへん。淀川の下流と滋賀県の負担の関係やろけど、いろいろ問題があるというのは、そういうことや。

 水というもんは、雨止んでからの方が、へたすると恐いんですよ。

 そこで雨が降ってなくても、どこで止まってるかわからへんし、一気に流れてくるし、気をつけなあかん。雨が止んださかいいうて、絶対に川のはたに行ったらあかん。

 それはね、流木やらが引っ掛かって、水がせき止められてダムみたいになりますやん。それが何かの拍子に壊れると、一気に来る。降ってる時よりもその後の方が気つけなあかん。雨が降った後の方が、水害の危険が大きいいうことです。そのため、雨が止んでも、川には近づかないこと。

 そして、最近の水害は、一気に水がくる。田んぼやったら水が溜まってから、その後にゆっくり流れてくるけど、今、全部水路やろ。コンクリートで固めてあるから一気に来るわな、低いとこに。それが川に集中しよるんやさかい、思わぬ水がくる。

【子どもの頃の水害体験 野尻】

 川下の方に、杣川と浅野川が合流するところがあって、杣川の水が増水すると、浅野川からの水が流れんようなって、氾濫してました。あたりに浸水してしまう。田畑やったので、人の被害はないけど。

【子どもの頃の水害体験 寺庄】

 子どものころは寺庄に住んでた。うちのほうでは、集落よりも高いところにある田んぼから水が溢れて集落の方に流れてくる。大雨が降ると、田畑から流れてくる水によって床下浸水になったことがある。

 溢れた水は川の方に向かって流れるため、裏手の田畑の方からきた。うちも床下に水が入りかけたことがある。そやから、家に入らんよう、田畑の方、川に向かって背中の方の家の横に、土のうを積んでいた。

 川から溢れる水だけでなく、山や田畑から流れてくる水にも注意していた。

 避難するときはお寺の横の寺庄公民館へ。合図等はなく、個々の判断で避難した。

 杣川右岸の千歳橋下流、千歳橋に続く道路は水害の危険が高い。住宅地の部分に土のうを積んだ。

信楽町柞原 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図
水害写真
nophoto

体験者の語り

甲賀市信楽町柞原・上田康之さん(昭和22年生まれ)

多羅尾豪雨、その後の度重なる水害経験、ご自宅の嵩上げと復旧の歴史、そして現代における治水対策と地域住民の意識の変化を語られています。

 

1. 多羅尾豪雨発生当時の状況と記憶(当時6歳、小学校1年生)

時期と規模:

お盆の頃、8月14日から15日にかけて発生した75年ぶりの大水害でした。当時はテレビもなく、古いラジオを聞くような時代でした。

雨と雷が非常に激しかったことを鮮明に記憶しています。

 

浸水状況:

当時の自宅(平屋)は床上30cmほどの浸水被害を受けました。相当な水だったと記憶しています。

自宅前の信楽川が氾濫し、信楽川と寺谷川の間にある田んぼが水に浸かりました。現在の国道307付近まで一面が濁流に飲み込まれました。精米所周辺は茶色い水で覆われ、海のように見えました。

家屋の屋敷自体が道路よりも低く、路面と1階床面の高さが同じくらいだったため、水が溜まりやすかったです。

水が引いた後で聞いた話ですが、多羅尾地域は特に被害がひどく、家が流されたり、亡くなった方が信楽駅付近で見つかるほどの甚大な被害だったようです。地元の小原小学校の先生も犠牲になられ、お葬式が学校の講堂で執り行われた記憶もあります。

 

当時の様子:

風はほとんどなく、雨がひどく、雷が光るたびに一面が茶色い海のように見えました。

ご自宅の離れにある中2階(天窓付き)に梯子(はしご)で避難し、夜間、激しい雷が鳴り、稲光がするたびに、山の麓から集落の端までが「一面の茶色い海」になっている様子が屋根裏の天窓から見えました。家の下を水が激しく流れる音が聞こえていました。

当時飼っていた牛は、雨がひどくなる前の14日昼頃に、多くを飼育していた近所のお宅に預けに行き無事でした。

小規模な土砂崩れはあったものの、大きな被害には至りませんでした。自宅のすぐ裏でも山崩れが発生しました。(後にその場所を埋め立てて新しい家を建てられました。)

当時は現在の国道307号線のバイパスやセブン-イレブンなどの建物は一切なく、小原小学校へは非常に細い道を通っていました。現在のソーラーパネルがある場所は「赤い山」と呼ばれた山で、ササユリが咲いており、よく採りに行ったり見に行っていました。

 

2. 水害後の復旧と「嵩上げ」工事の歴史

度重なる浸水被害:

多羅尾豪雨以降も、昭和31年、32年にはよく雨が降り、度々浸水被害が発生していました。昭和31年には、役場にあった消防のドラム缶が流れてきて庭の上を転がっていた記憶があります。

 

自宅の上げ(昭和32年〜33年頃):

度重なる水害を受け、父親が「これでは大変だ」と、屋敷の「嵩上げ(かさあげ)」を決意しました。

工事内容: 氾濫した信楽川から流出し、周辺の田んぼに厚く堆積していた砂(山から流れてきたもの)を再利用しました。当時はユンボやダンプカーなどの重機がなかったため、川に仮設の橋を架け、家族総出でリアカーを引いて砂を屋敷まで運び込みんだ記憶があります。杉山でどれだけ山が崩れたかのかはわかりませんが、それだけ上流から砂が流れてきたのだということです。

規模と効果: 地面を約60cm高くし、その周囲をコンクリートの壁で囲みました。現在でも地面を掘れば当時の砂が出てくるほど、大量の土砂を人力で入れました。この嵩上げにより、家の中まで浸水することはなくなりました。

意識の変化: 以前は「隣の家が嵩上げして高くなったからそこへ避難する」といったこともありましたが、自宅の嵩上げ後は、「もう家の中までは来ないだろう」と判断し、切迫した「避難」から「家の中で過ごす」「安全な場所からの監視」へと行動が変わりました。

 

自宅の建て替え(昭和45年)と周辺地域の嵩上げ:

昭和45年に自宅を建て替えました。信楽の役場付近や周辺の家も同時期に嵩上げや2階建てへの建て替えが進みました。それまでは隣家や役場、駐在所もよく浸かっていましたが、互いに避難し合う必要がなくなりました。

 

3. その後の水害経験と治水対策の進展

昭和40年頃の水害:

ドラム缶が流されるような水害があり、自宅裏の水路が越水しやすかったため、自分の母親を連れて隣の平屋に避難し、その後車で公民館(柞原会館)へ避難した記憶があります。

自宅は嵩上げした後でしたので、家の中までは水が入ってこなかったですが、庭の上をドラム缶が流れて転がっていました。

当時は消防団員が徒歩で各戸を回り、「そろそろ避難した方がいい」と直接声をかけてくれました。

信楽の長野から雲井で決壊すると、ここら辺の水が一気にさっと引きました。「どこかで川が切れたな」ということです。水が一気に引くことはありませんから。最近は護岸がしっかりしているため水が一気に引くことはありません。

 

平成25年台風18号(上田氏66歳時):

自宅への浸水はなかったものの、自宅前の信楽川の護岸がえぐられ、市道幅員の半分が流されなくなりました。ブロックを積んで、車がつっこまないようにガードレールを取り付けてくれました。電柱(その頃は木製でした)が倒れるなどの被害も発生しました。復旧の際、当初は削れた斜面を土と芝で修復する計画でしたが、「数年おきに直すことになる」と懸念を伝え、最終的に斜面にコンクリートを巻いて固める強固な工事が行われました。新しい電柱も立て直されました。

最近では家の前まで水が来ることは少なくなり、以前のように道路が冠水するほどではありません。また、家の中まで水は入ってはこないが、嵩上げしたあたりまでは水が来ました。

 

令和4年(2022年)の雨:

信楽川は堤防ぎりぎりまで水位が上昇しましたが、越水には至りませんでした。

 

治水対策の進展:

昔は山が崩れやすく、川に砂が溜まってヨシが生い茂り、氾濫を招きやすかったのですが、現在は護岸工事がしっかり行われ、山が崩れる箇所も減ってきたため、以前ほど急激に砂が溜まることはなくなったと感じています。

信楽川の護岸が強化され(石積みからブロック積みへ)、川幅の拡張や定期的な浚渫(しゅんせつ)やヨシ刈りが行われたことで、水の流れがスムーズになり、水が引くのが早くなりました。

土砂が溜まりにくくなりましたが、予算の都合上、大規模な浚渫は被害が出てから行われる傾向にあります。

自宅近く(国道307号線と奥出川右岸との交差付近)には1m角ほどの太い排水路(コンクリート製のボックスカルバート)が道路の下を通っており、これが田んぼに溜まった水を効率的に川へ流す役割を担っていると思っています。

昔は川が子供たちの遊び場で、夏休みには川を堰き止めて「手作りプール」を作って水浴びを楽しんでいましたが、現在は「監視対象」としての側面が強まっています。

 

4. 現代の監視体制と地域住民の意識

監視体制の充実:

自宅周辺の道路にはカメラが設置され(危険個所監視カメラ:甲賀市設置)、増水時の様子を感知したり迅速な情報把握が可能になりました。個人がスマホで写真や動画を撮って状況を確認することもできます。

防災行政無線(有線放送)も、災害時に避難指示などを住民に伝える役割を担っていますが、この頃はあまり放送を聞くことは少ないです。

 

消防団と地域の協力:

昔は消防団員が徒歩で一軒一軒注意を促していましたが、現在は消防車での巡回が主となっています。団員の高齢化や減少が課題ではあるものの、地域を見守る活動は続いています。

地域の消防自警団は水がひどくなると消防車でよく巡回してくれます。また、近くに消防の器具庫がありますが、いつも夏になると、水がひどくなりそうになると巡回してくれます。それを見ると、「これからひどくなるなあ。」と思っています。最近は団員数が少なくなってきていることを懸念しています。

消防団の活動や河川の浚渫により、昔ほどの不安はなくなりましたが、自宅前の道が冠水するかどうかと夜のゲリラ豪雨には不安を感じています。

地域の区の役員も気にかけてくれているので「自分たちの地域を自分たちで監視する」という意識が根付いており、重要なことだと思っています。

 

住宅環境の変化と避難行動:

多くの家が「嵩上げ工事」によって地面を高くしたり、2階建てに建て替えたりしたため、必ずしも外へ避難する必要がなくなりました。自宅も2階建てになったため、万一の際には2階へ避難することも可能です。

家の中が浸水する心配が減ったことで、避難判断の基準も変わってきています。現在では雨が降っても2階から落ち着いて様子を確認できるようになり、安心感につながっています。

 

今後の意識:

今でも、雷が光る中で茶色い水が溢れていた光景が鮮明に記憶に残っています。「自分たちで身を守っていかないといけない」と考えており、自宅前の道路が冠水するかどうかを注視したり、消防団の活動状況や河川カメラでの増水状況を確認するなど、自主的な情報収集を行っています。


説明写真
説明写真

画像
信楽川の両岸護岸のうち、柞原橋の上流約5mの箇所
排水路
国道307号線と奥出川右岸との交差付近

絵図