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甲賀市 昭和28年8月多羅尾豪雨その2

水害履歴

位置図
位置図

信楽町多羅尾 昭和28年8月多羅尾豪雨

位置図
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水害写真

倒壊した家

提供:信楽町多羅尾


昭和28年8月多羅尾豪雨

体験者の語り  女性

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」 (平成元年3月発行)より転載

(写真提供:信楽町多羅尾)

『子どもの名前が思い出せない』

 8月14日、夜11時頃より雨は激しくなり、停電してしまった。仕方なく床につく。

 雨の音、雷の音が激しく続く。蚊帳の中で、不安な気持ちで雨の止むのを待つが、なおいっそう、激しくなるばかり。雷は、途中から火山のように吹き上げているように感じられた。途切れることなく降る雨の音。雷の閃光は真昼を思わせるようである。

 2時頃、2階から長女と妹が恐ろしさのあまり下りてきて、蚊帳の中でひとかたまりになった。沈黙が続く。ゴーとすごい音がして、ズズーンと地響きが起こる。恐ろしさのあまり、声が出ない。世間から取り残されたひとかたまりの家族のような、感じがする。

 またしても、すごい音がして、地響きが続く。動悸が激しく打つ。体がガタガタ震えて、一歩動くのも恐ろしい。ただ神仏に祈るのみ。勝手口の方で大きな地響きがしたとたん、家が揺らぐ。

 「裏山が崩れて、炊事場を埋めたのではないか」と主人は裏の山を見に行った。「早く出よう」と、主人は必死な表情。緊張した私は、足がガタガタ震えて、容易に立つことができない。着替える余裕はない。

 子どもたちを促して庭に下りようとしたが、庭は水で、履物は浮いている。着の身着のままで、素足で8ヶ月の末っ子を抱いて、主人と妹が3才4才の子どもの手を取って、とりあえず表に出る。

 閃光で、四方ははっきり見ることができた。提灯と傘を持って出たものの、濡れてばらばらになってしまった。

 一瞬、どきんとした。確かに、隣の家は倒れている。倒れたような音は聞こえなかったのに・・・。どうしてあげることもできない。

 誰かが「ねえちゃん、えらいことになったわ」と言われた。私は、ただびっくりして、声も出ない。

 主人は「おそらく、この谷だけがこんな被害を受けたのだから、子供連れでどうにもならない。役場で鐘を叩いてもらうから」と先に行った。

 着ているものはびしょぬれで、脱いで絞って、また着る。帯で濡れねずみになっている子どもを背負っていると、奥の間のタンスがズルズルと出てきた。必死になって「早う、早う」と叫ぶ。

 近所の方は、「家族全員全滅だ」と、右往左往されるばかり。早く表に出ないと危ないと出たとたん、奥の方から、谷幅いっぱいになって、水が押し寄せ、一瞬にして子供たちをなめた。

 無我夢中で一歩二歩足を進める。道も溝も一つの川になって、流れも急で、溝の深いところにはまった子どもを引き上げて、死に武者になって、やっとのことで学校へたどりついた。子どもたちは、寒さと恐ろしさで顔色はなく、震えあがっている。

 学校のおばさんは、子どもたちに着替えを貸して下さった。うれしくありがたく、ただ、涙がほおを流れるのみ。倒れた隣のことが心配でならない。誰かが、蚊帳を歯でかみ切って屋根に出て、1人ずつ引き上げられたと言っているのを聞いて、ほっとした瞬間、何が何だか分からなくなって、我に返った時は、部屋に休ませてもらっていた。

 被害に遭われた方も、たくさんおられた。学校から見下ろすと、眼下は大海原で、家屋や木材、想像もつかない物が波打って流れていた。今さらながら、自然の恐ろしさを痛感した。

 すっかり気力をなくした私は、子どもの名前も忘れてしまい、どうしても思い出すことができず、ただ、茫然と時を過ごした。

 こんなことではだめだと、気を取戻し、牛のことを忘れていたので、家に帰ってみようと思った。子どもたちを待たせておいて、不安な気持ちで足を運んだ。

 ここは大丈夫と足を置くと入り込み、また、ここは大丈夫と足を置くと、また入り込み、生きた心地がせず、やっとの思いで家に戻ってみると、建具ははずれ、床板はばらばらになり、家は揺れ、柱はプチプチ音をたてていた。不気味な思いで裏の方を見ると、牛小屋は土砂で埋没していた。牛はかわいそうに、我々の犠牲になってくれたのだ。冥福を祈りながら、もし年寄りがいれば、牛を助けに来て、自分が埋まったかわからないと痛感した。

 我に返って、あわててタンスの引き出しを開けようとしても、気が気でないのかうまく開けられず。震える手足、心臓の動悸を鎮めながら、手に持てるだけ持ってみた。

 何か後ろから追いかけてくるような気がして、どうして学校に着いたかわからない。持ったものは、おおかた途中で落としてしまったのか、少ししかなかった。

 持ってきたものは、絽の袴・絽の羽織・父のズボンで、後で大笑いしたが、その時は鬼の首でも取ったような気持ちだったのかもしれない。

 子どもの名前が思い出せず、日赤の救護班の方が来てくださって、診察を受けたのだが、まだ子どもの名前が思い出せず、看護婦さんは、気でも狂ったのかと心配してくださった。

 半月ほど経って、やっと思い出すことができた。

 経験したことのない方にはお分かりになれないと思う、苦しい、悲しい、情けない、衣食住のない生活が始まった。  

河原となった農地

倒壊した家屋の除去作業


体験者の語り 女性 中学3年生

「多羅尾村報」(昭和28年10月発行)より転載

『忘れ得ぬあの一瞬』 

 「ピカッ」と光った。

 確かに障子の破れ口を通し、雨戸を通じて、私をめがけて光ってくるように思った。

 「ゴロゴロッ」と地を響かせながら大きな雷が鳴り続いている。

 夜中に目が覚めたときには、このような現状であった。兄も姉も母もみな眠りにふけっている。なぜ、自分だけ目が覚めたのか。神が私に大豪雨であることを知らせてくださったのか。しかし、なんだか恐ろしい。じっとまぶたを合わすのですが、どうしても眠ることはできない。

 しばらくすると、誰か戸口をたたく音がする。何かしら私たちに知らせてくださるようであるが、何を言っておられるのか、雨と風と雷のために、はっきりと聞こえない。

 外の声は近所の人で、「早く早く逃げないと流されてしまう。命だけは助からねば…」のように言って下さる。皆が飛び起きると、庭は川である。裏の方から入った水は、家のすきまから流れ出ている。

 父と兄は、庭の排水をよくするため一生懸命である。

 戸口が開いて外を眺めても、音ばかりで何も見えない。「ピカッ」と光ったその明るさで見ると、なんとひどい大雨だろう。1度2度3度と見るごとに、あまりの無残さに目を見張る。向かいの家は、もう軒下まで水がきて屋根だけである。

 どこからか、「助けて!」「助けて!」と女の声・男の声がかすかに私の耳に入ってくる。それは、救いを求める声である。「この雨では、この水では助けようったって、しかたがないなあ」等話してる声も聞こえてくる。もう、立っても座ってもいられない気持ちになった。なぜ早く救ってやれないのだろうと心はあせる。

 私も外へ出ようと思うが、恐怖につつまれて一歩も出られない。この恐怖を打ち破ろうとしてもだめです。外の様子を見ると、急に力が抜けるのです。

 「ピカッ」と光る恐ろしさとともに、家の前40m近く、白いものが波打たせながら近づいてくる。あと30m、20mと私たちをめがけて来襲してくるものは、確かに水だ。早く避難しないと命が危ない。神から授かった尊い命だけは...と思って、逃げ支度をする。外に出たが歩く道ひとつない。川の中を歩いているのと同じです。道か川かわからないところを足で探りつつ、やっと小学校までたどり着いた。少し気が落ち着いた。

 私は、この大水を見て、自然の恐ろしさが身に染みた。15日からあとしばらくは、もうこの世に生きる価値がないと思った。もうだめだだめだと何度心の中でつぶやいたかしれない。しかし、他の人々に励まされ、「負けるものか」「負けるものか」という強い心が起こってきた。

 今後、自然との戦いに、絶対に負けてはならない。力強く立ち上がって、より立派で平和な村を建設するのだと私は考えた。

 村の各所に、「迷わず力強く再建を」「復興へ、汗だ力だ、村づくり」等いろいろな標語が張り出されている。

 1カ月を過ぎたこの頃は、村の人々は、他の協力を得て復興作業に努力してくださっている。

 私たちもこの村の人々と同様に、復興建設に邁進しよう。

体験者の語り  女性

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」(平成元年3月発行)より転載 

(写真提供:信楽町多羅尾)

『残ったのは屋根と柱だけ』

 8月14日の夕方、平穏で水害が起こることを誰が予測できたでしょう。

14日、夜11時半頃

 激しい雷雨で家族を起こします。不気味な予感がしたので、万一にと思って身支度をしてタンスの引き出しなどを高いところにあげました。

15日 午前1時頃

 突然、ものすごい雷雨。

 うどんを垂らしたような太い雨が降ってきました。雨のため、傘が破れたくらいです。雷鳴が地面を這っています。

 私たちは経験がないため、まだ水害になることを予測しなかったのです。「昔から、多羅尾は流れたことはない」と冗談を言っていたのです。

 当時飼っていた牛が、震えだしました。動物も、なにか恐ろしいことが起こると感じたのかもしれません。

15日 午前2時頃

 狭い河川は、増水して川上から材木やドラム缶、くずれた石垣などが流れてくるので、ゴロゴロ音がします。いよいよ恐ろしくなって、危険を感じます。床下浸水し始めたのは、この頃でした。

16日 午前3時過ぎ

 バケツの水をあけたような豪雨で、にわかに床上浸水、直ちに避難しました。

 着の身着のまま、素足で裏山をよじ登りました。

 山の地面は古綿のように柔らかく、雷鳴のため昼のように明るく、命からがら隣の家へ避難させてもらいました。ずぶぬれと恐ろしさのため悪寒がし、家族の者の顔色は真っ青でした。下着までも借りられないので、雨の水を絞って、また身につけました。

15日 午前4時半頃

 鉄砲水で、大量の土砂と水に、大きな木が根っこつきで、立って流れてきました。我が家の小屋はすでに流失し、住屋も軒下まで水に浸かり、今にも流れそうでした。川上から草ぶきの屋根だけが2軒、3軒とこの谷間を流れてくるさまは、言い表すことのできない状況でした。

15日 午前5時頃

 雨が少し小降りになりました。近くですごい山崩れが起こり、ズシンズシンと音がします。高香山(たかこやま)の中腹より崩れた土砂が、竹やぶに乗って、そのまま大きな家を家族もろとも飲み込んでしまったのです。

 それと反対に、半ばあきらめていた我が家の流失を免れたのもこの竹やぶでした。川上から流れてくる民家の屋根や材木などを、堅い竹藪の根っこが堤防の役目を果たしてくれたのです。

堆積物の除去や、倒壊した家屋の中に人がいないか確認作業に励む人たち

倒壊家屋の中を捜索


15日 夕方
 ようやく水かさが減ったので、我が家へ戻ってきました。残ったのは屋根と柱だけで、家財道具・衣類・食糧など間に合うものは全然なく、途方に暮れたことは、今も忘れられません。

体験者の語り  小学6年生ぐらい

「多羅尾村報」(昭和28年10月発行)より転載

『家は石垣の上にあった』

 家の石垣の中間まで水が上がってきた。その前の様子は、寝ていたから分からない。

 家は石垣の上にあったので大丈夫だった。水がひいていくのが分かった。

 どこからか、死体をさがしに行ったり、土葬があった所では墓が流されたため、なおしていると聞いた。

 小さな洪水の時はうれしかった。大きな魚(特にコイ)が取れるから。本流の汚れた水と、森や山から来るきれいな水があると、魚はきれいな方へ行く。男の子はみんな魚とりをした。とても捕りやすかった。大きな魚も捕れた。

 洪水の時(後)は、1人で行った。各人自分の場所があり、そこで、取っていた。ラケット状の網でとった。なるべく大きなのを用意して大きな魚をとりたかった。


当時多羅尾村民の体験者語り 女性Aさん(当時中学生)女性Bさん(当時中学生)

【多羅尾豪雨の状況】

Aさん:豪雨前日の8月14日夜11時頃から雨が降り出した。

Aさん:その頃は夕立ち程度に思っていた。

Aさん:15日夜中の3時頃になるとバケツの水をぶっちゃけたように降り出した。

離れの部屋にいたら親が呼びにきたので助かった。

寝ていた離れの部屋が流され、親が危険をキャッチしてくれて本当に感謝している。

それから1か月くらい、被害にあわなかった知人の家でお世話になった。

Bさん:私の家は大丈夫だった。敷地が高かったので浸水はまぬがれた。

Aさん:地鳴りが凄かった。

Bさん:雨が凄くてガラスのように見えた。

伐採してあった木が近くの谷に溜まっていた。よく見るとその木は根が無いので、伐採してあったのが流されて来て溜まったと思う。

Bさん:浸水はあったが、ほとんどが山崩れの被害だった。

Bさん:谷筋の山が崩れて、家屋倒壊し、たくさんの人が埋まって亡くなった。

Bさん:1箇所で9人、7人と複数亡くなっている。

Bさん:谷に住んでいた子供の兄弟が危険を感じて逃げたが、逃げた先で山崩れに遭い亡くなった。

Bさん:川で流されたのは1人だけで、それが神山まで流された子供であった。

Aさん:被害は、役場(現公民館)や小学校(現在と同じ場所)のある地域に集中していて、上流や下流の被害はこの地域より少なかった。

Aさん:お盆で帰ってきた人が多くいたが、帰って来ていない中、親元は山崩れで家が倒壊して家族が亡くなられた。その人は難をまぬがれたが、一人ぼっちになってしまった。

Bさん:激しい雨のため濁水は一気に流れ出て川の氾濫になった。大戸川筋では3人亡くなった。

Aさん:谷になっているところは、山が崩れて亡くなった人が多かった。(山津波に逃げ出す暇もなく)

Bさん:橋に材木が引っ掛かり、濁水が溜まってあちこち浸水したが、橋が流されたら材木も下流に流されて、スーと水が引いて行った。

Bさん:多羅尾代官屋敷のあたりは、高台でまったく被害は無かった。

Bさん:小学校も敷地が高いので浸水はしなかった。

Bさん:役場は腰くらいまで浸水した。

Bさん:当時多羅尾では14日の夜中にお盆のお見送りで川にお参りに行く。

Bさん:父と叔父が初盆の家にお参りに行っていたが、夜半雨が強くなり帰り道である谷が危険になったため山の背を通って明け方に帰ってきた。帰る途中、後ろを振り返ると通った道が崩れてなくなっていたと言っていた。

父は県の造林の仕事をしていたので、山のことが良く分かっていたから無事に帰って来られた。

Bさん:はげ山も多かったが、木が生えていても土がサラサラ(花崗岩砂質)で水が一気に流れやすかったのだと思う。

Bさん:山が崩れて土煙が上がるのが見えて収まると、家がぺっちゃんこになっていたのを見た。

Aさん:京都の宇治田原・南山城地域の方も大変な雨が降ったと思う。近くの山の童仙房(どうせんぼう)に炭焼き小屋があり親類の人が雨で動けなくなり一晩そこで野宿したと言っていた。

Bさん:牛も流されていった。

Bさん:一番被害の大きい地域に住んでいたのに助かった。Aさんの家は特に危なかった。

Bさん:水害の時は中学生で、怖かったのでよく覚えている。

【被災後】

Bさん:朝になり様子が気になって自宅周辺を見に行ったら、大人の人に怒られた。(亡くなった人が多く酷い惨状であったので)

自宅の前は濁水が溜まり,湖のようになっていた。

Aさん:同級生が亡くなって、(ご遺体が)出てきたのを見たら顔がはれ上がっていた。

家族で亡くなった人もいた。母親が赤ちゃんを抱えてお乳をあげている姿で見つかったりしていて多くの人の涙を誘った。

Bさん:従妹が亡くなり、顔もお腹も膨れ上がっていたのを見た。

Bさん:家の前に救援物資がたくさん届いて、家族ごとに分けて配った。

救援物資の中に、マカロニが入っていたが、英語で書かれていて食べ方が分からずそのままかじったが、今のものと違って固くて大きな塊だった。

今思えば、中学生だったので辞書を引けばよかったが考えつかなかった。

Bさん:当時はまだ「おくどさん(かまどのこと)」が多かった。

自宅のおくどさんは被害がなく大丈夫で、被害の無かった家のものも使って煮炊きしてみんなで食べた。

裏山の山崩れによる家屋倒壊
倒壊した家屋

裏山の山崩れによる家屋倒壊

提供:県民

裏山の山崩れによる家屋倒壊

提供:県民

山崩れで家屋倒壊
山から流された木材

山崩れによる家屋倒壊

提供:県民

山から流された木材

提供:県民

 

【多羅尾の思い出】

Aさん:その当時は皆農業で、牛も飼ったりしていた。

Aさん:童仙房(どうせんぼう)の炭焼き小屋から、父が三重の島ケ原の辺りまで炭を売りに行っていた。

母は炭を葭(よし)で炭を束ねるものを作っていた。

自分も炭焼き小屋から炭を担いだり、牛の世話をしたりして手伝いをした。

Bさん:縄を撚(よ)る機械があったと思う。

Aさん:私の所も機械があった。縄を撚(よ)って炭を束ねていた。

Bさん:3軒ほどで醤油を作っていた。また味噌も作っていた。

子供心に醤油が美味しいと思ったが、今はもう造っていない。

Aさん:味噌は今でも多羅尾の人に作ってもらっている。美味しいので子供も喜ぶ。

Bさん:小学校の校庭が狭かったので、近くの高香山で運動会をした。

オルガンなども持って上がった。

Aさん:校庭に昔は防空壕があった。

Aさん:高香山の上は、松の木があり大きな石が置いてあって、良いところだった。

Bさん:家の前が川だったので、魚はたいしていなかったがよく水遊びをした。

Aさん:山に囲まれているので、山の中を駆け回って遊んだ。

キイチゴ(バラ科キイチゴ属)を採ったり木の実を採ったり、イタドリ(タデ科山野草)などもたくさん生えていた。

多羅尾は寒くてヨモギは生えないので、春になると三重の島ケ原までヨモギを取りに行った。行くときは下りなので40分位で行けたが帰りは上りで大変だった。

Bさん:当時の胃薬(漢方薬)に入っているゲンノショウコ(フウロソウ科山野草)センブリ(リンドウ科山野草)などもあった。当時、祖母は胃腸が悪かったので、センブリを干して煎じて飲んでいた。

Aさん:多羅尾は三重に抜ける山道が八本あって、大阪の堺から徳川家康が伊賀越えをする時に身代わり地蔵さんを使って助けたといわれている。

徳川家から広い領地をもらって管轄していたので歴史があり有名な土地でもある。

全国にある多羅尾氏の名前は、多羅尾代官の血筋と関係があるらしい。

Bさん:多羅尾豪雨水害の後、校長先生が「五木の子守歌」を講堂で歌ってくれたのが心に染みてよく覚えている。

今でも覚えていて、♪おども盆ぎり盆ぎり盆から先ゃおらんど盆が早よ来りゃ早よもどる~♪~と校長の歌声が哀愁があり、今でも私はその時(多羅尾豪雨災害)のことを思って歌う。

Bさん:Aさん:多羅尾音頭や村歌も良く歌った。(お二人が歌って披露してくれた。)

(村歌)♪1200人の村人~♪/(音頭)♪残るげざんの八重桜~さあさあ良いとこ江州多羅尾~一度来てみてくだしゃんせ~♪

【幾多の教訓を生かして後世に伝えたいこと】

Bさん:どうにか今まで生かされている。

Bさん:お墓は山の上(浄顕寺)にあるが、亡くなった44名のお墓は、各家のお墓とは別に少し高いところにある。高台で村が見下ろせるような場所で村民を見守ってくれている。

Aさん:水害の碑もありお寺に祀っている。

Bさん:今の小学校は時計塔もあり立派であるが小学生が減り、近い先は老人ホームになる。

Aさん:同級生も亡くなっているので、(元気であった)数年前までお参りしていた。

Bさん:小さい時に豪雨を経験して、今の九州など各地の豪雨被害を見ると心が痛む。また心配もする。

Bさん:最近思うのは、多羅尾豪雨の時は、今でいう「線状降水帯」ができていたのではないかと思う。

Aさん:今住んでいる江田の自宅は1m嵩上げしているので、最近では浸水したことはないが、当時の多羅尾水害では床上まで浸水したと聞いている。

Aさん:200年前もこのような集中豪雨があったと伝わっている。

Aさん:最近は温暖化なのか、ひどい水害があちこちで起きているので、この話を知ってもらい役に立てて欲しいと思う。

役場の板塀に張り出された村長の告示他の掲示
小学校講堂での合同葬儀

役場の板塀に張り出された村長の告示他の掲示

提供:県民

小学校講堂での合同葬儀

提供:琵琶湖博物館

現在の多羅尾小学校
現在の多羅尾橋

現在の多羅尾小学校

撮影:滋賀県

現在の多羅尾橋

撮影:滋賀県

現在の茶出橋 橋の前は大戸川
現在の大戸川と歩道橋

現在の茶出橋 橋の前は大戸川

撮影:滋賀県

現在の大戸川と歩道橋

撮影:滋賀県

多羅尾豪雨で犠牲になった共同墓所
水難の碑

多羅尾豪雨で犠牲になった共同墓所

撮影:滋賀県

水難の碑

撮影:滋賀県


当時多羅尾豪雨の体験者 

当時信楽町(江田)町民の語り(手紙を転記)男性(当時22歳)

昭和28年8月14日11時(23時)頃から雨が降り出して15日4時頃からすごい雨が降ってきたのでこれでは危険と思い長野の警察署へ自転車で届けにいった。

警察の方も前の川の水が道路にまで近づいて来ているのを見てびっくりされた。

自転車で江田に帰る途中にかね宇の川(信楽川の水位)が石垣まで来ていた。

家に帰り一階の水が床の間の柱の上の方まで来ていたので二階に家族6人が避難した。その後公民館に移り公民館で20日間位生活した。

16日午前神山の橋の方に多羅尾から子供が流されて来た。また牛も流れて来た。

 

当時多羅尾村村民の語り(手紙を転記)女性(当時中学生)

昭和28年8月15日3時頃からバケツにぶっちゃけるほどの雨が降り4時頃母が今日はいつもの雨ではないと私と姉が寝ていた離れに起こしに来てくれた。

母屋に移って三十分位したらすごく大きなゴーッという音がしたので玄関に出たら私達が寝ていた座敷がぺっちゃんこにつぶれ無残なかたちとなっていた。

母屋に移ってから雷がひどく地鳴り、地面をたたくような感じすなわち山々全体が山津波(土砂崩れ)が発生したように思った。

父は三時頃から親せきの家に行って畳などを水に浸からないようにあげに手伝いにいっていた。

父は娘二人を死なせてしまったと思い腰をぬかしたが母親は危険をサッチ(察知)して子を守った。今も親に感謝している。

 


絵図