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甲賀市 昭和28年8月多羅尾豪雨その1

水害履歴

位置図
位置図

信楽町多羅尾 昭和28年8月多羅尾豪雨

位置図
位置図
水害写真

倒壊した家

提供:信楽町多羅尾


昭和28年8月多羅尾豪雨

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」 (平成元年3月発行)より転載

(写真提供:信楽町多羅尾)

 昭和28年8月、寒冷前線が停滞し、各地で豪雨となった。このため滋賀県南部でも、14日夜から15日朝にかけて雷を伴う大豪雨となった。

 甲賀郡南東部の山間部一帯は、多羅尾村(当時)を中心として300mmを超す雷雨混じりの豪雨となり、特に15日0時頃から3時頃までが最も強く、時間雨量は水口で53mm、大原では60mmを記録し、大戸川・杣川・信楽川・野洲川が増水氾濫した。

 多羅尾村では15日夜明け頃、河川が急速に増水し、随所に「山津波」(土砂崩れ)が起こり、立木もろとも岩石土砂が崩壊して、家屋や田畑を埋没させ、あるいは濁流が押し流し、道路は寸断。谷間はそのまま大川となって、一瞬のうちに死者44名、全半壊流失戸数が全村の3割という甚大な被害をもたらした。

 多羅尾村被害状況

 人的被害 死者44名 負傷者9名

 家屋倒壊 全壊40戸 半壊6戸

 家屋浸水 床上6戸 床下43戸

 村長は、信楽警察署にこの惨状を報告、救助を求めるよう消防団に指示。電話が不通のため、消防団の選抜者が、道なきため山を登り川を渡り、隣村の小川にたどり着くのに3時間も要した。

 正午頃になって大体の被害状況が判明し、いまさらながら、被害の甚大さに驚く。午後より、村民総出で行方不明者の捜索と、埋没死者の収容に全力集中。一段高いところにあり、被害はなかった小学校講堂に次々と運び込まれる遺体に、悲惨この上なし。ローソクの火のもとに、不安な一夜を明かす。

翌16日、村長より告示が出された。

村民各位に告ぐ

 自然の猛威は、ついにわが村を襲った。一瞬にして44名の尊い人命を失い、耕地もほとんど無くした。わが村にとっては未曽有の出来事である。しかしながら、今気を落としてはならない。再起し得るか否かの境目だ。発奮興起すべき時である。

 昨夜は県庁地方事務所、国警(警察)、日赤、甲賀病院をはじめ、隣接町村の各機関・団体は、道なき道を踏み分け夜を徹して来村せられ、救護の手を差し延べられている。我々はその御厚意に深く感謝し、この難関を切り抜けようではないか。

 村民の皆様、この際、この時、自ら立ち得るものは、他に頼らずに自ら立とう。まず家を失い、親を子を失った人に心から手を差し延べよう。そして、全村協力一致して、我が村の再建に勇往邁進しようではありませんか。

8月16日 村長 多羅尾光道』

倒壊した家屋・押し寄せた流木

張り出された村長告知 「村民各位に告ぐ」


 この告示がどれほど村民の力となったことか。その後の毎日は戦場の如く。

 隣接町村から消防団が続々とかけつけて下さり、救援米その他の物資を、徒歩によって村内に運んでこられ、暖かい手がさしのべられる。

8月17日

 ようやく我に返った村民は、災害対策本部の指示に従い、行方不明者の捜索・埋没犠牲者の発掘・道路河川橋梁の応急復旧工事・残存水稲の確認等農業関係の手伝い奉仕に出、全村一丸となって復旧に邁進した。

 しかし、収穫を目前にした米がほぼ流出埋没し、食糧もなし。当時は機械力がなくほとんど人力に頼らねばならず、土木工事は重労働で充分働けないのではないかと心配されたが、県下に一握米運動が展開され、多くの救援米が寄せられて、村民の復旧への意欲が盛り上げられた。

 また、食糧・衣類・身の回り品・見舞金等のお見舞いのほか、復旧作業の応援等で県内各地から、延べ3556名が奉仕作業に来て下さった。

 8月26日にようやく電燈がつき、ブルドーザーの威力で、県道の応急修理が整い、近隣までトラックが通れるようになって、徒歩での物資運搬の苦労より少し逃れられる。

 災害犠牲者44柱全員を発見することができた9月18日、合同葬儀が行われた。

小学校講堂での合同葬儀。棺桶が足らず、茶箱で代用

写真提供:琵琶湖博物館

【ひと月後の昭和28年9月、再び襲った台風13号】

 大水害からひと月、復興へ大きく進み始めた矢先の9月25日、今度は、台風13号が本土に上陸。暴風雨特報が入り、全村民避難態勢を取る。 

 風速15m、雨量140mmの雨台風で、応急復旧した村内の道路の大半が、またしても流出してしまった。 

 それでも、9月28日、全村民が出動し、村内道路の補修を行った。

 村長は再び、告示を出す。

『 村民に告ぐ 村長 多羅尾 光道

台風13号に襲われて

 大自然の災害を被ってから1か月半。ようやく応急措置もできあがり、ますます本格的な復興の計画に入ろうとする矢先に台風に襲われ、我々の努力は再び水に流されてしまった。

憂きことの なおこの上につもれかし

限りある身の 力試さむ

 我々はこの時こそ底力を出すべき秋だ、このくらいのことで、気をくじかれ力を落とすような我々人間でないと信じる。大いにがんばろう。責任のない人たちの言動に迷わされたり、おだてられたりしている時ではない。また、人をののしったり人をおとしいれようとするようなことは、この際この秋最も慎むべきことで、絶対にこれを排除する。 

 我々は我々のために心を尽くし、力を合わせて進まなくてはならぬ。何とかなるだろうなんて甘い考えを捨ててかからねばならない。これまで、救援に来て下さった村々はみな今度の水害で同様の災害を被られた。お気の毒にたえない。もう、救援をお願いするところではない。我々は、我々の手でやり遂げなければならない。 

 頑張ろう、働こう、そして建設へ復興へと力強く邁進しよう。』

体験者の語り 女性 79歳(昭和12年3月生) 聞き取り日:平成28年9月7日

【うちは大水のたびに浸かるとこ】

 昭和28年、私は16歳。和裁やらを習いながら、おじいさんおばあさんと、田んぼの手伝いをしていた。

 田んぼまで、歩いて1時間ほどかかった。

 多羅尾は山あいの集落やから、坂になってる。うちは大戸川のそばにあって、茅葺き屋根で平屋。一番下やから、水が出るたびに毎回浸かった。

 その頃、川幅は1mぐらいで、ふだんは飛んで遊べるぐらいやった。そやから、大雨が降ったらすぐ水が溢れて、家が浸かるねん。川に、今みたいに堤防があるわけやなし、ただの草地やからすぐ溢れる。

 そやから、大雨が降ったら、「また降ってきた」ゆうて恐れてた。当時、わらぞうりやら履いてたでしょう。雨降ったら玄関にあるぞうりが浸かって、流れてしまうねん。そやから、物をみんな上へ上げてた。小さいときから何回そんな目に遭うたかわからへん。道よりは、ちょっと上やったんやけどね。

【昭和28年8月14日の豪雨】

 夕方から、「降る・鳴る・光る」で、ほんまにどうなるのかと思た。今あちこちで水害が起こってるけど、あの時の私らといっしょやと思てる。

 その時は家族だけで、兄弟は5人で、1番下が3才。父と母と、おじいさんおばあさんの9人家族。おじいさんとおばあさんは、田んぼまで1時間かかるので、田んぼのそばに野小屋を建てて、ふだんはそこで暮らしてはったんやけど、お盆やから帰ってはった。他にも、お盆やから、家を離れて働いてた人が、みな帰ってはった。

 夕方、雨やったけど、帰って来てた友達と出会って、元気でがんばってるいうて話してたんやけど、それが最後で、その友達は流されてしまいはった。

 夜、雨がどんどんひどうなってきたので、うちはいつも浸かるから、おばあさんがこれは畳上げなあかんて言わはった。お盆やし畳上げてたら恰好悪いですやん。けど、水が増してこっちへきてるから、早よ上げなあかんいうて、みんなで急いで上げたんです。手届かへんとこまで、みんなで畳を積んだ。床几(しょうぎ)ゆうて、外で夕涼みするときに座ってた椅子があったんやけど、その上に積んだ。

 妹やら小さい子は、早めから母と避難させてた。

 もう、どうなるのかと思うぐらい、夕方から「降る・鳴る・光る」が続いてた。消防も出てきはったけど、家の前の大戸川の氾濫で浸水してて、道あらへんやん。大水が浸いてきて歩けへん。

 お盆やし、ご先祖を川へ迎えに行く日やってんけど、行かれへんかった。もうどんどん降って降って、雷も光って昼か夜かわからへんぐらい。もう恐ろしいほど降るのが朝まで続いた。

【とっさに持って逃げたんは、『水盤』】

 うちはお豆腐屋さんをしてて、壁一面窓ガラスでしてん。当時、あんまり窓ガラスの家てなかったんやけど、ガラスが割れるからいうて、おばあさんやらが窓ガラスを押さえてはった。

 もうひどい雨で、浸水してきた水はちょっとずつ増えてきて、私らは畳上げた床の上で、一睡もでけへんかった。

 そしたら、大きな材木が流れてきて、うちの家の床の間の壁をドーンと突き破ったんです。そして、水がどっと増えてきた。

 うちは平屋で、2階はないねん。上には茅(カヤ)とかを置いてある物置みたいなんがあって、その下敷きになったらかなんから、もう、急いで逃げた。裏の土手を上がって、隣の高い家へ。

 その家、親戚ですねん。裏は土手があって、石垣もあって高かったから、そこはいつも浸からへんかった。で、そこへ逃げた。もう、必死で逃げた。長靴履いたけど、土手に上がりしなに片方流されてしもてたん覚えてる。

 そやのに、その時とっさに私が持ってたんは、『水盤』。なんでそんなもん持ってたんかわからへん。その時、お花習ってたんですよ。その日も習いに行かなあかんかったのに行かへんかったからか、水盤だけ持って逃げてるねん。もうなんであんなもん持って逃げてんやろ。もっと大事な物あったのに。

 多羅尾には、高島にある材木会社の材木置き場があって、直径7~80cmもある大きい切った木をいっぱい、積んではったんや。上の方のバスの終点のとこに広い広場があって、そこにいっぱい積んであった。 あの頃、多羅尾はいい材木があって、それで家を建ててはった。うちの前に製材所もあった。

 その積んであった大きい材木が、大雨で崩れて、もう、全部流されてきたんよ。ほんで、うちの家の床の間の壁をドーンと破ったんです。もう大洪水になって。

 その材木積んである広場の前の家の人は、もう一家全滅でした。崩れた材木がその家に当たって、家が壊れて流されて。そこからうちまでだいぶあるんやけど流されてきて、うちのあたりで「助けて」言うてはったけど、とてもやないけど助けられへん。

流れてきた材木や、根こそぎの倒木などに覆われる

提供:多羅尾自治会


【山がこっちに向かって落ちてくる】

 ほんで、うちの前、川向こうに高香山(たかこやま:527m)いう山があって、そこに立派なおうちがあったんですよ。私の恩師の家です。家族は7~8人いはったわ。そこは川よりだいぶ高いので大丈夫やと思って、うちの隣りの家の人は、そこへ避難してはった。おばあさんと子どもと3人が。

 そしたら、明くる15日の朝方、その高香山が、ずり落ちてきたんです。私らは、水に流されることばっかりに気を取られてたけど、目の前の山がずり落ちてきて。

 もう、ゴオーて、すごい音がして山がこっち向かって落ちてくるねん。思い出しても生きた心地せえへん。

 それでその立派な家は、全滅。

 で、その山の土砂が川に落ちて、よけい川の水かさが増して。もう、川が満水してるのに、まだその水がこっち側へ押し寄せてきて、思い出してもこわい。いやになる。

 もう、いろんなもんがみんな流れてきた。

 夕方出会った友だちも流されてきはって。「助けて、助けて」言わはるんやけど、とてもやないが行けへんかった。そこもみな流されはって一家全滅。家は向こう岸で、そこに見えてんねんけど行かれへん。死にに帰ってきはったようなもんや。

 1人の人は、神山(こうやま)過ぎて、江田まで流されていきはったらしい。

 もうものすごう水がきてるし、自分らが逃げるのに精いっぱい。

 うちの家、後から見に行ったら、水は天井近くまで浸いてて痕があった。傾いて崩壊してて家らしい家やなかったけど、「よかった、流されへんかって。傾いてるぐらいかまへん。」て思た。

 うちの家族は、2軒向こうの立派な家へ避難して、そのままみな居さしてもろた。ほんまに、感謝しても感謝しきれへんぐらい。離れの家に、家族9人泊めてくれはった。2階も下も空いてるさかい使い言うてくれはって、その日からそこに泊まらせてもらった。その家は石垣での上で、当時は見上げるほど高かった。そこに3か月ぐらい住ませてもうた。

 その時、うちにお米の入った缶が2つあって、それは流されてなかった。中のお米は洪水で浸かって、臭くてご飯にならへんぐらいやったけど、隣の避難先の人は、そのお米を一緒に食べてくれはった。浸かったお米を、もったいないから食べなあかんいうて。子どもながらに、悪うてかなんかった。

 ほて、うちはお豆腐屋をしてて、その道具やら流されてしまったんやけど、それが、神山の今のうちの家あたりにも流れてきてたて、嫁いできたとき、ここのお父さんが言うてはりました。

【道なき山道を、歩いて大勢救助に来てくれた】

 あくる日、機動隊(注:今の自衛隊)が来てくれはったとき、一面浸かってるから道がないんですよ。で、父がうちの上げてあった畳を敷いて、歩かせてあげはった。畳の上歩いてもらわんと来られへん。ものすごう大勢来てくれはった。

 流木やら泥やらに埋まった家を機動隊が掘りかけはったら、クックックックて言うたんですよ。あ、誰か生きてはるて喜んだら、鶏がワーッて飛び上がって、びっくりした。大きな鶏小屋に飼ってはったんですよ。

 うちの奥の家は一家全滅で、お母さんが赤ちゃん抱いたまま、埋もれてはった。

 うちよりもっと上の方にあった家も、つぶれた。その家のおかあさんはおなか大きかって、もう生まれ月やから早めに避難させてはったんやけど、お父さんは間にあわへんかった、茅葺き屋根の妻の上の方に「水」言う字が書いてるとこが(小間コマ)あるでしょう。つぶれた家のそこから顔だけ出してはったらしい。家がつぶれてるから出られへんのですよ。

 で、生まれてくる子に、男でも女でも自分の名前を1字取って、名前を付けてほしいいうて、亡くなりはったそうや。かわいそうやったわ、この話聞いて。

 その斜め隣の家は全滅。もう、いっぱい死なはった。44人やもん。

 ほんで、多羅尾小学校に遺体をみんな集めはんねんけど、多いので入れる棺桶がないから、お茶を保存する大きい茶箱に入れはった。

 多羅尾の奥に、童仙房(どうせんぼう:京都府相楽郡南山城村童仙房牛場)いうとこがあるんやけど、そこの人も流されはった。

 なんせ、ここの地形が、童仙房から多羅尾から神山向いて繋がってて、とにかく水が出て溢れて。ゴォーゴォーって流れてきました。もう、茫然と見てるしかなかった。本当に、茫然と見てて、こんなん生きていけるんかなと思た。

 そのあと、やっぱり水害のことよう聞きに来はったんよ。もう、思い出すのいやや言うたわ。言いかけても、泣けてきて言えへんかった。

 けど、何年かしてこの時の体験を、多羅尾の青年団の弁論大会で発表したり甲賀高校で発表したわ。多羅尾の村が70%まで、土砂と洪水に覆われたって書いたん覚えてるわ。44名の人が流されたり埋もれたりして亡くなったこととか言いましたわ。そんな記憶があります。

大戸川沿いにある、骨組みだけになった農協の茶工場

集められた流木


 忘れられへんのは、私は兄2人で長女でしたんで、ミシンが欲しい欲しい言うてたんです。それを父が、水害の前の日に買うてくれはった。縁側に置いといて、まだ、開けてなかった。それも浸かってしもて。あれがくやしいて、今でも思い出すわ。

 お盆になったら買うたるわいうて、お金ないのに父が買うてくれはったんやけど、開ける間もなかった。それも売ってる人が、山を越えた隣になる三重県の島ヶ原いう山から、歩いて持ってきはったんですよ。
 そんなこと思い出したらくやしいわ。

【おねえちゃん、生きてなあかんで】

 父は当時、区長をやってて、家ほったらかしで水害で亡くなった人のとことか行ってはった。

 タンスは開けたけど、砂ばっかり。おじいさんの袴やら出してみたら、畳んだあいだに砂がいっぱいで、使い物にならへんだ。

 知った人もたくさん亡くなってる。亡くなったんは、若い人も多かった。何でかいうたら、おじいさんおばあさんを先に避難させて、自分ら若い者が動け動けで、家を守ってたから。そやから、おばあさんらばっかりが残らはった。残った子どもらも、お父さんやお母さんが亡くなって、淋しい思いでいてはった。私の恩師も死なはった。もう、なんでこんなことが起こったんか考えられへんかったわ。

 もう、茫然としてて、生きていけるんかな、どうして生きていこうかと思った。

 甲南の日赤婦人会の人が、片付けの応援に来てくれはって、このへん掃除してくれてはるときに

 「おねえちゃん、生きてなあかんで。死んだらあかんで。」

て何べんも言わはって。その言葉で泣かされた。生きていけるんかなあと思て。今でも思い出す。

道が寸断されているため、各地から歩いて支援に訪れた人々

役場に、災害対策本部が設置された


 すぐ上の兄は、ここにいててもあかんいうて、自衛隊に行きました。水害に遭うたことを思い出して、がんばろうて。

 その自衛隊に、広島で原爆に遭うた人がいてはったらしいわ。その人らは家がないのに、わしは帰る家があるさかい、幸せやいうてた。

 父は、衣類の配給にも行ってはった。「あっぱっぱ」ゆうて、ワンピースやね。それもらってきてくれはった時は、うれしかった。着るもんもないしね。とにかく、明日着るもんが何にもあらへん。

 父がもらってきてくれたのを、こんなん着られへんいうたら、気まま言うなって怒られた。それは座布団を作ったりした。冬が来るさかい。

 家のものはみな浸かってたから、手つけられへん。

 上に井戸水があって、その水がきれいやから、袴やら一生懸命洗ったわ。水害後そこから水道を取ってもらって、その水のおかげで、私ら生きさしてもらいました。うちの井戸は水に浸かってしもて、飲めへんかったから。

 お豆腐屋の道具も、百姓用の牛も流した。

 そやけど、うちの家は屋根は落ちてたけど、幸いにも親戚の人らが直しに来てくれはって、どこの家よりも早よ入れた。父の兄弟は、京都と奈良県で、大工さんと左官屋さんをしてはったんや。ほんで、急いで直してくれはった。孤立してたから、三重県の島が原いうとこ、ここも水害に遭ったんやけど、そこから歩いてきてくれはった。

 末っ子の3歳の妹が明くる日かな、知らん間に外へ出ていって、泥やらが積もってぬかるんでたから、小さいので胸まで埋まってしまったんやけど、ちょうどそこへ校長先生が通りがかって、助けてくれはった。

 校長先生は、子どもらが死んだりしてるから、確認しに歩いてはったんや。

 妹は、校長先生のおかげで生きてるいうてますねん。

【被害の箇所】

 右岸側は、山がずり落ちたとこもあるけど、わりと大丈夫やった。

 左岸側は、上流の会所橋の山手側の材木置場の木が崩れ流れて、川沿いの家を直撃していった。

 そして、向かい側に迫ってる高香山(たかこやま527m)がずり落ちて、横から川の水をワーッと押し上げたから、対岸のうちの家なんかも、高いとこまで水が押し寄せた。流れてきてた材木やらいろんなものが家やらに当たって、家が倒れた。

 で、私らは浸水してくるし、宵のうちから一睡もでけへんかったけど、それまで水害に遭うたことのない家の人は、ぐっすり寝てはる。用心せんと寝てはるし、寝てて急に襲われたら、一瞬やし助からへん。

 そうやって、寝てて死なはった人いっぱいいはる。

 高いとこの人は、朝起きて、何が起こったかわからへんかった言うてはった。ラジオは入らへんし、電気は停電してるし、いったいどうなったんかと思てはった。

【ひと月後、9月の台風13号】

 ひと月ぐらいしたら、また台風がきた。

 その9月の台風13号の時は、あんがいどうもなかった。水は出なくて風が強かったんや。そやからあんまり記憶ない。村全体がちょっと直ってきてるのにまたと思たけど、水は出なかった。
風が強かったから、8月の豪雨で崩壊しかけてた家がボロボロになった。せっかく残ってた家も、飛んでしもた。ほんまに多羅尾って何が起こるんやろ思た。

【災害後の生活】

 復旧には、高島とか伊香郡(現:長浜市)とか遠いとこからもたくさん来てくれはった。泊まりがけで長い間来てくれてはったので、その人らと結婚した人もいるわ。

 友だちも、女中さんにいかはった。働かなあかんし。

 上の兄はその頃22歳ぐらいで、馬を飼って、馬車引きの仕事をして儲けてはった。山の土砂止め(砂防堰堤 )やら、あちこち復旧工事をしてはるやろ。その時石垣を造るので、石を運んだら収入がいいねん。で、馬で石を運ぶ役をしてはった。みんな、復興の手伝いをして生計をたててた。

 私は体験してるから、今も台風が来ると、ああやこうやいうてしまう。主人は、そんなやかましい言わんでもて言いはるけど、また水害かなあと思てしまう。こんな小さい川でも、水が増してきたらどうなるかわからへん。

復旧活動に励む国警機動隊や応援の近隣の消防団や、各種団体の人々。

女性も砂運び


体験者の語り 当時信楽警察署長の語り

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」(平成元年3月発行)より転載

(写真提供:信楽町多羅尾)

【信楽警察署管内の被害状況】

 昭和28年8月14日、午後から降り始めた雨は、次第に相当な雨量になり、15日午前3時15分頃、当直員から電話で異常な降雨状況であるとの報告を受け、直ちに出署。

 署の前を流れる信楽川の水量は、すでに橋桁いっぱいまできており、刻々と水かさを増していた。さらに雨は、いまだ経験したことのない降り方で、事態の容易ならざることを直感した。

 直ちに情報収集・非常召集を発令した。その約20分足らずの間に、役場前の木橋は水に洗われ、その10分後には流失。

 豪雨は、午前5時を過ぎる頃までますます激しさを加え、間断なく降りしきり、長野・江田・神山は1.5m~2.0m以上の床上浸水となり、家屋・橋梁の流失も続出しつつあった。

 各駐在所よりの被害報告は家屋の流失・倒壊、浸水、道路堤防の決壊、山崩れ等々、被害の甚大さを予想するのに充分だった。警電局電とも不通で、市外との連絡は完全に断たれてしまった。

 広範囲に同時災害を受けてるものと思われ、焦燥不安やるかたなし。殊に信楽―多羅尾間は早くから電話が不通で、多羅尾地区の被害状況は、一報だに入手できてなかった。

 8月15日午前6時半頃、多羅尾の被害調査のため、若くて健脚な署員を選抜し、徒歩で山の尾根沿いに派遣した。

 これとは別に午後1時半頃、多羅尾村よりの徒歩連絡員が3人、村長直々の被害状況連絡と、救護要請書を持って到着。

 その様相を見るなり、多羅尾地区の被害の容易ならざることが見取られた。疲労困ぱいの度合いは、見てられない状況であった。

 連絡員より前夜からの状況を逐一報告を受けたが、豪雨による地滑りの被害発生は当日午前4時から5時前後と推定され、死者・所在不明・倒壊家屋も相当あり、管内での被害は多羅尾地区が一番大きく、犠牲者はおそらく最大のものであることは、予想するに十分であった。

 署においては、さらに詳細な多羅尾地区の惨状把握の必要があり、即時、情報収集に慣れたものを派遣。逐次、徒歩連絡により報告を指示したが、連絡には、片道3時間ないし4時間を要した。

多羅尾上空。白く見えるのは、土砂崩れの痕や、土砂が堆積した谷

提供:琵琶湖博物館

 県よりの救護班の信楽署到着は、15日夜半であったと記憶する。医師3名・看護婦2名と、取材のため3名の新聞記者が同行。貴生川からは、徒歩によるしかなく、いずれも照明具・リュックサック携帯のいでたちである。

 おにぎりの非常食で腹ごしらえのあと、暗闇の危険な道を、女の足で多羅尾まで、雄々しく出発してくれたその心意気に、ただ敬服と感謝の念でいっぱいであった。

 重大事故発生の場合、所轄署長としては現場に張り付き、指揮に当たることが当然であったが、被害は管内全域にわたり、席の空白は許されなかった。

 多羅尾には、ようやく8月16日、赴くことができた。 隣の小川地区までは、かろうじて自動車によることができたが、以降は道なき道を徒歩である。

 周辺の青田は濁水に洗われ、泥沼と化し、道路は欠損・埋没、橋梁は流失して、渓谷の杉やヒノキの大木は無残なまでに倒れて白肌を見せ、谷は崩壊した土砂が堆積して、道路も谷も見境がつかず、溢れた濁水は川となり、さながら、流れる川を渡る思いであった。

 部落に立ち入れば、倒壊家屋の続出で、その上に大木が倒れ、その下に埋没した人や牛の発掘作業が進められていたが、人手と機材の不足はいかんともしがたく、遅々としてはかどり難い状況にあった。

倒壊した家屋

散乱する流木


 埋没した人や牛の発掘作業が進められていたが、人手と機材の不足はいかんともしがたく、遅々としてはかどり難い状況にあった。

 早速、応急復旧対策の準備にあたったのであるが、災害発生後より、多羅尾村長はじめ、近郷消防団や地元民各位の力により、発掘作業が進められていた。

 食料補給については、県の要請により、米軍ヘリコプターに出動派遣。

 勅旨の大戸川に、ワイヤ・クレーン・ウインチを設置して川を渡す輸送に成功し、食料不足による不安が除去された。

 当時の信楽署管内の被害概況は、

● 雨量 400ミリ以上、

● 死者44名、負傷者242人、羅災世帯数 1118戸、羅災者総数 5720人

● 流失全壊家屋 109棟 半壊家屋 268棟 床上浸水家屋 488棟 床下浸水家屋 483棟

●堤防決壊135ヵ所 道路損壊 71ヵ所 橋梁流失 69ヵ所 山崩れ 799ヵ所 田畑埋没流失6325h

次々と起こった裏山の崩れ

崩落した国鉄信楽線(現:信楽高原鐡道)

提供:琵琶湖博物館


 小さな地域で、いかに被害が甚大であったか。わずか数時間の降雨で、このような大災害が起こり得るとは、誰が想像し得ただろうか。

 天災は、いつどこでいかなる時に、いかなる場で起こるとも、予測することができない。しかし、今後住宅の建築についても、また山林の植林計画の重要性等についても、十分認識考慮されるべき問題ではなかろうか。

体験者の語り 男性 当時18歳

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」 (平成元年3月発行)より転載

(写真提供:信楽町多羅尾)

『父は土砂に埋まり、声がしなくなった』

 暑い毎日が続き、祖母・父母・兄弟の6人家族でお盆を迎えた。

 8月14日午後から雨となり、夕方から夜中になるにつれ、雷が鳴り、大粒の雨となった。夜中には傘もさせないくらい、バケツの水をあけたような雷雨となった。家族で「強く降るなあ」と家の周りを見て回っていた。

 家は山手にあるので、水には大丈夫と安心していたが、庭の中に大水が、下駄や靴が流れるほど入ってきた。家族は必死になって排水したが、どうすることもできなかった。

 15日の午前3時か4時頃だった。ドーンと恐ろしい音とともに一瞬のうちに家が倒れた。今まで一緒に話していた家族は、土砂まじりの水や、倒れた家の下敷きとなり、ばらばらに分かれてしまった。自分らの家だけがなぜこんなことになったのかと思った。

 大声で叫んでも声はかすかに聞こえるだけだった。助けようと思っても身動きできない。母と妹の声がしない。父だけが「がんばれ、がんばれ」と言っていた。

 土砂まじりの泥水が、だんだん体を締め付けるように押し寄せてくる。父は苦しそうにうめき声をあげた。自分も息をするのが精いっぱいである。動くことができない。父は土砂に埋まり、声がしなくなった。

 朝になり、倒れた家の中に、消防団の人が入って助けに来てくれた。木を切ると、バリッと体に重みが加わったが、だんだん息をするのが楽になってきた。助けてもらったと思った時に、意識がなくなった。

 消防の人たちが、顔をたたき、手をつねり、やってくれたらしい。気が付いたときは、体を半分出してくれていた。倒れた家から、12時頃出してもらった。道を歩くにも、膝が動かず、のたって隣の家にいれてもらったが、父母の姿が見えず、家はなく、田畑は土砂の山。着るもの、食べるもの、何一つなくなってしまった。

 高香(たかこ)山のふもとの川原を見に行った。家が流れ、また水が入り、がらがらになっていた。

 将来のことを思うと、川の水も多いので、飛び込んで死のうかと思ったが、消防団の人に助けられて、生き抜く力が湧いてきた。

倒壊した家屋から埋もれた人を探す

散乱する流木


 小学校の講堂で、部落の人が作ってくれた握り飯をもらって、食べた。

 倒れた家では、父母妹の命がわからない。

 15日夕方になって、3mもの土砂の下敷きとなり、3人とも遺体で出た。

 16日、救援隊の旗を持ち、他地区からたくさんの人が手伝いに来て下さった。学校の講堂には、災害遺体が次々と並べられ、その一人となった父、母のことを思うと、淋しくて何もできなかった。

 集会所の一部屋を借り、祖母・妹・自分との3人だけの生活になり、部落の皆さんのお世話になり出した。災害物資により、茶碗1こ・箸1膳、皿1枚をいただき、復旧に努めた。

 満18歳、父母と別れ、まず第一に家をと思い、12月に小さな家を建てた。人並みになるのには大変だったけれども、昭和水害に遭ったことにより根性ができ、今では一人前の男としてやってきた。

 まだまだいろいろなことがあるが、思い出すと涙が出るばかり。

 今後このような災害が2度と起こらないよう、部落一致して事前に防げるように努めたい。

体験者の語り 男性 当時 国家地方警察巡査

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」(平成元年3月発行)より転載 

(写真提供:信楽町多羅尾)

『倒壊家屋から脱出』

 昭和28年8月15日、帰省していた私は、大災害に遭遇。生家の倒壊にあったが、九死に一生を得た。

 当時、国家地方警察巡査で、甲賀地区警察署貴生川派出所に勤務していた。

 8月14日より帰省。同級生が集まり、楽しい夜だった。

 15日午前1時頃、帰宅の途についたが、外は真っ暗闇で雨も相当激しく降っていた。幼いころから歩きなれた道なのに、一寸先もわからず、抜き足差し足で闇の中を一歩一歩進んでいた。見ると、大戸川では、あと30cmぐらいまで増水していた。

 やっとの思いで家にたどり着き、そのままぐっすり寝込んでしまった。その夜は、両親や兄家族ら9人だった。

 午前4時頃、家族の悲鳴に夢うつつで気づいたとき、吊るしてあった蚊帳が顔を覆っていた。停電で家の中は真っ暗で、何が起きたのかわからない。早く逃げろという父や兄の声、昼間を思わせる稲光が照らし、雨戸や障子が外れているのが見える。家の前には竹や樹木が見え、家が倒れたことに気付いた。稲光で見えた隙間から、祖母を背負って半壊した屋根伝いに裏山に這い上がり、高台の茶畑に避難した。

 茶畑にたどり着いた瞬間、ドドーッという地響きの音とともに押し寄せる土砂に、我が家はもろくも押しつぶされてしまった。夜も明け、周囲を見渡せることができたので、時刻は4時20分頃かと思われる。
 ドドーン、ズンズンと地鳴りと地響きがして、あちらの山肌こちらの山肌が崩れ落ちる、山崩れの連鎖反応が続いた。高台の茶畑から村を見下ろしていると、稲穂たなびく田園は黄河となって、樹木や倒れた家屋が濁流に押し流され、あちこちから悲鳴が聞こえ、大地の表面が移動しているかの様相であった。まさしく地獄絵を見た思いだった。家は失ったけれど、家族全員無事だったことを喜びあった。

倒壊した家屋

河原になった農地


 しかし、高地の多羅尾ですらこの惨状であり、下流の神山・小川・長野地区は、大災害で全滅しているのではないか、自分の任地の貴生川町も、大変な状況になっているのではなかろうか、こうしてはいられない一刻も早く任地に戻ろう。

 バケツをひっくり返したように降り続いた大雨もようやく小雨となり、山崩れも小康状態になったので、そのまま山を下り、肌着のままだったので途中の知人宅で服や靴を借りて、役場へ行った。

 役場では、亡くなられた人や行方不明の悲しい知らせが、続々と寄せられていた。

 情報連絡手段が途絶えていたため、水口町に戻るからには、新しい正確な情報を届けようと、役場でまとめられた情報を持って、午前9時半頃出発した。

 行く手の道路は寸断され、川筋は変わり、土砂崩れで思うように進めなかったが、午後2時頃、ようやく信楽地区警察署に到着。多羅尾村の惨状や死傷者の概数、全半壊家屋の概要など報告した。この情報が対応に大いに役立ったとのこと。

 その後、任地の甲賀地区警察署に急いだが、国鉄信楽線は不通、道路の損壊箇所も多くなっていた。

 私の任地の貴生川町も、豪雨によって河川は増水し、堤防の決壊・橋の流失・道路の損壊・家屋の浸水等、近年まれにみる災害発生であったが、人命にかかわる被害の発生がなかったのは、幸いだった。

 私は、上司の計らいで、翌8月16日から多羅尾に帰省し、床下に土砂が流れ込んだ駐在所でお世話になって、捜索等警察活動のお世話をさせていただいた。

 連日、犠牲となられた方の発見で深い悲しみに打ちひしがれつつも、また連日、各方面から救援物資や食糧を背負ってきてくださった多くの方の様子等、今もはっきり頭に浮かんできます。

各地から救援物資を歩いて運ぶ人々

開設された救護所


絵図