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滋賀県立琵琶湖博物館第33回企画展示

展示内容該当位置

位置図
位置図

「川を描く、川をつくる~古地図で昔の堤をさぐる~」

展示内容
展示内容
展示の様子【第二章地図に描かれた川・パネル】
展示の様子【 堤防模型】
じゃかごもけい
展示の様子【蛇籠模型】

 

企画展「川を描く、川をつくる~古地図で昔の堤(つつみ)をさぐる~」

滋賀県立琵琶湖博物館では、令和7年(2025)に企画展示「川を描く、川をつくる~古地図で昔の堤をさぐる~」を開催しました。

今回企画展示のアーカイブを当ホームページで掲載することは、【過去の治水技術と現代の防災対策との連携強化】・【水害情報発信サイトの記録と記憶のデータベースの充実】・【歴史的視点からの防災意識の醸成】という点で重要な意義を持つと考えています。

■凡例

本アーカイブは、琵琶湖博物館第33回企画展示「川を描く、川をつくる-古地図で昔の堤をさぐる-」の展示解説書を参考にしています。引用箇所については本文中の掲載ページを明記しています。なお、実際の展示構成と一部異なるところがあります。

展示アーカイブ

今回の企画展示で取り上げるのは、川の「堤」です。「堤」は、昔の地図や絵図の中に残っています。琵琶湖周辺や淀川流域には、こんなにたくさんあるのかと驚くくらい、川や「堤」を描いたさまざまな地域の地図や絵図があります。当時の河川やその管理の現状を把握したり伝えたりするためにつくられたもので、当時の河川やその管理の現状を把握したり伝えたりするためにつくられたもので、当時、水害や土砂災害を防ぐことは大変重要なことだったのだろうと推察されます。

古地図だけでなく、地域に残された地形や石積みなどからも、かつての川の様子や災害防止のための取組が見えてきます。地元の方々の記憶に残る事柄も加えると、各地の水害や土砂災害への取り組みの全体像が浮かび上がってきます。

近年は、極端な大雨により各地で水害や土砂災害が起こっていますが、水や土砂の力を弱めたり向きを変えたりすることで被害を軽減するという考え方も、もう少し積極的に検討してもよいのかもしれません。かつての人々が取り組んできた知識、技術、経験を、これからの自然とのつきあい方にどのように活かしていくのかは、わたしたち自身にかかっているともいえそうです。(p3引用)

 

企画展の概要

1,会期 令和7年7月19日(土)~11月24日(月・祝)【128日間】

2,会場 滋賀県立琵琶湖博物館

 

第1章 プロローグ:川がつくった土地

【1-1川は水とともに土砂を運ぶ】

川の水は高いところから低いところへ流れていきます。そのとき、水は地表をけずり(侵食)、土砂を下流へと運んでいきます(運搬)。水の流れがゆるくなる場所に達し、土砂を運ぶ力が弱くなると、大きくて重い粒から順に土砂がたまっていきます(堆積)。一般的に、日本列島の河川は、山地の源流から河口まで短い距離を流れ下るものが多く、降水量も多いことから、上流からもたらされる土砂の量が多いといわれています。(p9引用)

【1-2川が平野をつくる】

川は非常に長い時間をかけて、上流部の山をけずり、その土砂を下流部へと運び続けてきました。激しい雨などによって洪水が起きると、川の流れる筋(河道)から大量の水があふれ、その時周りの土地に土砂が流れ出ます。こうした作用が繰り返されることで、川沿いには扇状地、氾濫原、三角州などの平野の土地がつくられてきました。(p11引用)

【1-3川の流れる場所は変わる】

かつて川の流路だった場所は「旧河道」と呼ばれ、蛇行した跡が現在も地表に残されていることがあります。「旧河道」は、低湿な土地の場合は水田、砂がちで水はけがよい土地では畑として使われました。(p13引用)

【1-4川の近くに堤防をつくる】

川に沿って連続した堤防をつくり、川の流れる場所をほぼ一定に固められるようになったのは、16世紀以降のことと考えられています。この展示で主に扱う17~19世紀(江戸時代から明治時代中期)には、川の洪水を防ぐ堤防や上流の土砂をとめる堰堤は、どちらも「堤」と呼ばれていました。地域の人々は川に設けられた堤など、土木施設の普請に大変な労力を費やしました。(p15引用)


第2章 地図に描かれた川

江戸時代は「村」を単位とし、農業を中心とした社会制度がつくられた時代でした。全国を統治した江戸幕府や各地を領有した藩など(幕藩領主)は、村々から年貢米を少しでも多く得るために、支配する地域の状況を詳細に把握し、川や堤を管理しました。また、支配者たちと村々は文書を交わすことで命令を受け取って実行したり、願い出やその許認可をおこないました(文書行政)。そのため河川管理についても、幕府や藩などが設けた担当の役所と、流域の村々の間で様々な文書や地図、土木施設の図面がつくられ、当時の川の様子が書き(描き)残されるようになりました。(p17引用)

【2-1 地図をつくって川を管理する】

17世紀になると、野山や川べり、海沿いなどで盛んに耕地が開かれ、村々の領域争いや水のうばい合いが全国的に数多く発生しました。争いの際に、当事者の主張や幕府・藩による裁判の判決を記す地図が多数つくられ、それらは、土地や水路などに関して定められた権利の証拠として村々で大切に保管されてきたのです。

江戸時代につくられた川を描く地図の大半は、水の流れをコントロールする施設や、川沿いの土地の災害や開発に関する情報を記していたといえそうです。(p19引用)

【2-2水害の様子を描いた地図】

宇治川の左岸、伏見の町の対岸にある山城国紀伊郡向島村(現京都市伏見区向島)でおきた天保7年(1836)と推定される水害の状況を描いた地図です1。黒い太い線は堤防(「御国役堤并道筋」)で、赤色の「切所」が破堤した部分を表しています。「切所」から土砂が流れ込んだ様子が記されています。土砂が積もった場所ごとにその厚さが書き込まれており、いずれもその厚さは約100m以上で、最も高い地点では230mにもおよんだようです(1尺=30センチメートル、1寸=3センチメートル)2

江戸時代、年貢を納めるのは村の義務でした。そのため、村の一部でも水田が洪水で流されたり土砂に埋もれたりすると、そのぶん収穫が減ることから、村は領主に被害の状況を報告しました。(p22,23引用)

【2-3河川の現状や普請の計画を描いた地図】

琵琶湖から流れ出る唯一の河川・瀬田川については、底にたまった土砂をさらえる計画を描いた地図がいくつも確認されています。瀬田川は支流や琵琶湖から流れ込んだ土砂がたまりやすく、湖からの流れが悪くなって水位が下がりにくくなり、洪水のときに湖岸の土地を浸水させてきました。そのため湖岸の村々から、瀬田川の川ざらえが何度も要望されました。その要望や計画は地図を写すことによって情報共有されたようです。なお、瀬田川ざらえは普請の費用や淀川の上流側と下流側の人々による対立などにより、江戸時代の約250回で5回の実施にとどまりました。

大津の町を流れる吾妻川の上流部分を描いた寛政12年(1800)の地図には、流れを横切るように、上流から流れてくる土砂を留めるための石垣などの土木施設が多数描かれています。土木施設のそばには番号が振られており、場所ごとに管理されたことがわかります。(p25引用)

絵図
「吾妻川土砂留普請所絵図」 寛政12年(1800), 滋賀県琵琶湖博物館蔵

 第3章 水と土砂を防ぐ

日本では、古くは平安京に河川堤防が設けられたことが知られ、鴨川の沿岸に都市を洪水から守る長大な堤防が築かれていました。16世紀頃には、戦国大名など多くの労働力を動員できる領主が主導して、自ら支配する領域の生産力を上げるため、大河川沿いに堤防を築かせました。堤防によって守られることは、支配を受ける住民にとっても利益になることでした。江戸時代の幕府や藩も同様の考え方を引き継ぎ、時代や地域によって差はありますが、各地で連続した堤防が川沿いに築かれていきました。耕地を守るために、地元の人々による堤防の維持管理の作業は大切な仕事となりました。(p27引用)

【3-1堤防のかたち】

高島郡北船木村(現高島市安曇川町北船木)は、安曇川が琵琶湖にそそぐ河口部に位置しています。集落の周りに堤防をめぐらした形は、まるで安曇川の洪水を両側に受け流すようです。このような下流側が閉じていない堤防を「尻無堤」と呼びます。ちなみに、下流側にも堤防をめぐらし、集落を完全に囲むものを「輪中堤」と呼びます。輪中堤は、低地を川が複雑に流れる木曽三川流域によくみられます。浅井郡内保村(現長浜市内保町)の図には、草野川右岸の黒い太い筋で描かれた堤防がところどころ切れたように描かれています。この不連続堤をよく見ると、下流側の堤防が上流側にある堤防の外側に張り出しています。そのため草野川の水が上流の堤防を越えても、下流の堤防の箇所から本流にもどるようになっています。洪水の流れをコントロールすることを意図した霞堤の例です。また、不連続堤には、洪水を一時的にあふれさせて遊水地にため、水の勢いを弱める意図のものもあります。(p29引用)

【3-2 川に沿って連続する堤防】

栗太郡草津村(現草津市草津)には、街道(東海道)や宿場町などの重要施設や耕地が広がっています。ここでもそばを流れる草津川の流路を固定するため、連続した堤防が築かれています。上流から土砂がたくさん流れこむ川の両側に堤防を築くと、堤防の間に土砂がたまって、川底が周囲の地面より高い「天井川」となりました。天井川となっていた草津川は当時「砂川」と呼ばれる状態でした。川底が高くなった天井川では、洪水が堤防を乗り越えないよう土を繰り返し盛り、堤防の高さがかさ上げされたため、さらに川底が高くなって、家の天井よりも上の高さまで達することがありました。そうしたかさ上げを繰り返した状況は、旧草津川の堤防の発掘調査からも明らかになっています。(p31引用)

【3-2コラム滋賀県の歴史公文書「普請書調査絵図」】

明治政府の指示を受けた滋賀県は、明治5年(1872年)頃から県内の用水普請に関する調査を実施しており、明治6年には村絵図「普請所調査絵図」が作製されることになりました。現在は滋賀県立公文書館3のデジタルアーカイブで公開され、インターネットを使ってだれでも検索し画像が見られます。普請所調査絵図の特徴は、個々の土木施設の状況が詳しく描かれているところにあります。(p32,33引用)

【3-3普請の仕組みと記録】

普請の計画や仕様は幕府や藩の役人が検討し、仕様書が作製され、村や近隣の土木業者がこれを請け負いました。実際に土木施設を維持管理し、普請を出願したのは、多くの場合、地元の村でした。費用や労働も村の持ち出しでおこなわれることが多く(自普請)、被害の状況がひどく村で費用がまかなえない場合、あるいは淀川流域や藩領内の軍事的・経済的に重要な堤防などでは、幕府や藩が直轄で工事したり、費用や材料などが幕府から補助されました(御普請)。(p35引用)

【3-4石や木や竹をつかって防ぐ】

洪水を防ぎ、堤防を守るために、人々は川岸に水制とよばれる水の勢いを弱めるための構造物を作りました。蛇籠という竹を編んだ細長いかごに川原の石をつめてつくられた水制があり、竹も石も近くの川原から手に入れていたと考えられます。礫の多い川では現地で材料を用意しやすいことから、全国各地で使われました。また、蛇籠のそばに黒い「*」印のように描かれているのは、木を組んでつくった「菱牛」という水制と推測されます。これも蛇籠と同じく、水の流れを弱める役割を果たしました。(p38,39引用)

【3-5川べりの林も利用する】

河畔林は、堤防や集落・耕地を洪水から守るだけでなく、竹や木を採って建築や蛇籠の材料、燃料などにも利用されました。日々の暮らしの資源を得る場所として、さらに伐採した跡に田畑を開くことができる場所として価値が見いだされた川原は、しばしば近隣の村落で争いの対象となりました。(p43引用)

【3-6現代の堤防】

川に沿って連続する長大な堤防が、時代を下るにつれ各地で整備されていきました。また、コンクリート護岸が導入された河川堤防はそれまでに比べて崩れにくく、洪水の勢いでこわれる危険をおさえてきました。そして、ダムは洪水の水量を調整し、下流をおそう洪水を減らすことにつながりました。それらの結果、水害が起きる回数は減り、地域の人々は土木施設を維持管理する手間や厳しい労働からも解放されました。しかし、それはまた、地域の人々が洪水への対策に意識を向け、過去の災害や河道が動くことを思い起こす機会が減ることにもつながりました。(p45引用)

【3-6コラム見直される過去の災害対応】

川沿いの洪水を受けやすい土地は現在でも宅地にせず水田や湿地のまま残す、洪水や土石流の発生に備えて地域で土のうや木製の板を設置し、水路の堰版を閉めるなど、人々の意識や水防活動のなかに災害対応が引き継がれている地域もあります。森林や土や石、水田・湿地など自然の要素を利用した災害対応は「Eco-DRR(Ecosystem-based Disaster Risk Reduction)」と呼ばれます。また、その考え方も含め、自然の要素を活用して整備される社会基盤を「グリーンインフラ」といいます。これらはコンクリートなどの素材や工学技術にもとづく現代の土木施設にとって代わるというよりも、むしろそれを補いつつ生態系に配慮した防災・減災の方法として、近年注目されています。このような災害対応のあり方を古地図や文書に記された歴史、あるいは現在も地域の人々の間で継承されている知識・記録や実践に求めて、自然・人文科学の様々な分野の研究者による共同調査が進められてきています。(p46,47引用)

絵図
「近江国栗太郡出庭村・中村・辻村大絵図」天保11年(1840)現栗東市辻・出庭、滋賀県立琵琶湖博物蔵
絵図
(左の図に加筆された)野洲川の堤防と蛇籠などの水制

 第4章 土砂と付き合う地域

人々は暮らしのなかで、燃料や肥料などを求めて山の木を採り、草を刈ってきました。その結果、地面が露出して土砂が流れ出やすい状況となります。木が少ない山は「草山」と呼ばれ、土砂が流れ出て草も生えない「はげ山」も地域によっては現れました。近江では田上山地や比良山地のはげ山が有名です。また、流れ出た土砂が堤防ではさまれた川にたまると、周囲の地面に比べて川底が高い「天井川」ができることがあります。天井川の数は、滋賀県が日本全国の都道府県のなかで最も多いといわれています。草山、はげ山や天井川は、人間の活動によってはじめてできる景観です。集落近くの山の草木を継続して活発に採取する活動は14世紀ごろから始まったといわれ、遅くとも17世紀には文書や地図などから、草山、はげ山や天井川が複数あったことが知られます4。人びとは暮らしのために木や草を採り続け、それにともなう土砂の害ともつきあってきました。(p49全文引用)

【4-1 瀬田川と田上・瀬田の山々】

主に花崗岩からなる瀬田丘陵や田上山地では、瀬田川やその支流に流れ込む土砂を留める試みが17世紀末頃から本格的におこなわれていました。幕府に命じられた近江の膳所藩や山城の淀藩の役人が、幕府にかわって山々を巡回し、村々がおこなう上流部の「土砂留め」(砂防工事・土砂流出対策)を監督しました。下流武士が務める「土砂留め奉行」の指示のもと、地元の村の負担で土砂をとめる堰堤の工事や植林がおこなわれ、ときには草木の採取や山での田畑の耕作も禁止されました5。(p51全文引用)

【4-2 比良山麓地域】

比良山麓地域(大津市の北部)も田上山地と同様に花崗岩を中心とした岩石でできた山で、洪水のときだけでなくふだんから土砂が川へ流出しやすい場所です。住民は現在まで川や水路にたまった土砂を取り除き、川から引く水に含まれる土砂が水路や水田に流れないよう、場所によっては沈砂池を設けてきました。また、獣害を防ぐ「シシ垣」や洪水や土砂流を防ぐ石積の堤を築いて、耕地や集落を守ってきました。(p53引用)

比良山麓地域が開発され、現在にいたるまで暮らしが続けられてきた理由には、谷筋や扇状地の湧水から得られる豊かな水、湖岸に堆積した土砂がつくる浜辺の土地、そして山の草木などの恵みがあったことが挙げられます。恵みのなかには、山から切り出して建物の基礎や鳥居、石灯籠などの素材に利用された花崗岩もふくまれます。もっとも、山の草木や石をとる活動は土壌の侵食を激しくし、土砂の害とつきあうことにもなりました。(p61引用)

【4-3 20世紀の砂防と治水】

明治時代(1868-1911)には大河川の流域の治山治水が国家的な課題となりました。明治18年(1882)に淀川で起きた大水害をきっかけにして、明治29年(1896)に河川法、同30年(1897)には砂防法と森林法が制定され、河川堤防の改修や砂防・治山のための工事の実施とその費用の補助について、政府が体系的におこなう制度がととのえられました。砂防や治山工事は20世紀以降も続き、数多くの堰堤が山の谷筋につくられてきました。電気・ガスが普及し生活のための草木を採ることがなくなって山の植生が回復した現在も、土砂流や土砂流出への対策として、堰堤の建設や植林が続けられています。(p63引用)

天井川が多い滋賀県では、天井川トンネルが数多くつくられてきました。しかし、水害をふせぐため、また自動車を通行しやすくするため、工事によって天井川は廃川が進んでいます。その過程で、天井川トンネルは解体され姿を消しつつあります。(p64引用)

絵図
「滋賀郡南比良村絵図」明治7年(1874)頃、滋賀県立公文書館蔵
写真

大沙川隧道、高さ4.6m、幅4.4mの天井川トンネル。明治17年(1884)完成。滋賀県内で最古。(島本多敬撮影)


 第5章 古い地図を研究する

過去の景観を描いた地図は、私たちが暮らす場所の歴史や過去の自然環境を知るためのヒントを与えてくれます。ただし、地図は人間が特定の目的で土地を表現したものであって、過去の景観がありのまま写し出されているわけではありません。地図をつくったきっかけ、地図の作者がいだいていた世界観やその場所について得ていた知識や情報、つくられた当時の社会通念などによって、何を記し、記さないのかも変わってきます。地図の歴史をひもとくことは、地図が表現する対象や表現のしかたの変化を知り、それがつくられた当時の社会にせまる第一歩です。

現在は資料をデジタルカメラで撮影し、その画像から地図の表現を分析することが一般的です。しかし、実物を観察することは、地図の素材や表現に使った道具、仕立て方や修正の経緯などを知るうえで、今もなお重要です。(p65引用)

【5-1 地図の歴史を知る】

日本では、8世紀に古代国家が土地の把握に関わる地図を活発につくらせています。現存する地図で年代が最も古いのは、天平7年(735)の原図を平安時代後期に写したという「弘福寺領讃岐国山田郡田図」です。8世紀当時の作としては、天平勝宝3年(751)一連の麻布に描かれた「近江国水沼村墾田地図」「近江国覇流村墾田地図」が最も古い部類の図です。15・16世紀(室町時代)頃には世界図から寺社の境内図、用水図、過去の土地を推定し復原した地図にいたるまで、各種の地図が出そろっています。そして、17・18世紀(江戸時代)には手描き図のほか出版図が登場し、つくられる数が非常に増えました。(p67引用)

【5-3 地図に描かれているものを調べる】

古い時代の地図から川や土地の歴史を考えるには、現地調査が欠かせません。共同研究では19世紀の地図に猿尾(水の流れをはねて向きを変えるためつくられた水制の一種で、石積みまたは土を盛ってつくられた小さな堤防のような土木施設)が描かれている場所を、ドローンを使って空中からレーザ測量し、現地を歩いて調査しました。猿尾が現存する地域では、昔をよく知る住民にお願いをして、猿尾はどこにある(あった)のか、いつごろから存在していたか、地域で維持管理の作業をしていたのか、といったことを聞き取りしました。記憶する人がいない古い時代の状況は、地図や文書の記述を調べて明らかにします。共同研究では、猿尾があった愛知川の過去から現在に至る変化と、愛知川沿いの村々が猿尾に期待した治水上の役割を調べています。古地図は、景観をさぐるこうした研究の重要な資料です。(p80,81引用)

愛知川猿尾
「愛知川筋並両側絵図」文化12年(1815)、滋賀県立図書館「近江デジタル歴史街道」より

地図を追って曲げることで、川の屈曲を再現できる。

この方法は、測量結果に基づいてつくられた江戸時代の川絵図などにみられる特徴である。

愛知川猿尾
東を上にした「愛知川筋並両側絵図」の拡大(東近江市建部北町・小田苅町付近)

緑色に塗られた「野」のなかに描かれた細長い石積の堤が「猿尾」。


 第6章 エピローグ:川をつくってきた地域の歴史を伝えるために

【6-1史資料を残す】

歴史を調べるために最も重要なことは、信頼できる証拠をさがし、その証拠をもとに過去の事実を確定することです。そのためにも、過去の事実を証明する地図、文書や道具などの史資料を保存することは、次の世代の人も歴史を調べ、歴史から学べるようにするうえで大切です。(p93引用)

【6-2景観とその記録を残す】

川や水路、地形や道は、その地域の自然や歴史が要因となってかたちづくられたもので、その地域の個性をつくりだすある種の論理が表れています。現在の景観を見て歩くことは、現在の地域をよく知るだけでなく、地域の自然と人々がともに積み重ねてきた歴史を再発見することでもあります。社会が変化していくなかで、自然や歴史がつくる地域の個性的な景観を残すこと、あるいは、変化・消滅する前に現在の景観を文字や写真で記憶することは、ますます重要になっています。(p95引用)

【6-3過去を知る人の話を残す】過去の水害経験や土木工事の様子を記憶している人の話を聞くことは、文字や写真・イラストに残らない労働や経験、景観の観察だけでは見えてこない事情などを明らかにするうえで重要です。そのような事実は、記憶する人がいなくなると、二度と知ることができなくなります。過去を知る人の話を聞き、可能な限りそれを書き残すこともまた、社会の変化が激しくなっていくなかで、これまで以上に大切になっています。(p97引用)

【6-4 歴史を踏まえて防災に取り組む 】

防災・減災やそれを踏まえた地域づくりを進めることは、今を生きるわたしたち一人ひとりの課題です。そのなかで、川を描いた古地図をはじめ、災害との向き合い方を考える証拠となる史資料、景観、経験者の記憶を将来にわたって残すことも、大切だと考えています。(p99引用)

また、滋賀県では現在大雨が降った場合の水害・土砂災害のリスクを滋賀県防災情報マップとして公表しています。過去の水害情報と併せてこれらの情報を活用することでより充実した防災活動につながると考えられます6

マップ

滋賀県防災危機管理局「滋賀県防災情報マップ」令和8年1月19日閲覧

 参考文献・URL:

1『伏見宇治川筋絵図(第三図)』京都産業大学図書館蔵「淀川水系河川絵図デジタルギャラリー」https://www.kyoto-su.ac.jp/wr-library/kichosyo/yodogawa.html

植村善博・鈴木康久・片山正彦(2020)「伏見宇治川筋絵図」(天保期)による宇治川の破堤と被害状況」『京都歴史災害研究』21,3-14。

3滋賀県立公文書館https://archives.pref.shiga.lg.jp/

4千葉徳爾(1991)『増補はげ山の研究』そしえて。

5水本邦彦(1987)「土砂留役人と農民」『近世の村社会と国家』東京大学出版会、221-273。

 水本邦彦(2022)『土砂留め奉行―河川災害から地域を守るー』吉川弘文館。

6滋賀県防災危機管理局「滋賀県防災情報マップ」https://shiga-bousai.jp/dmap/ 

 


伝承・言い伝え