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甲賀市 昭和28年8月多羅尾豪雨

水害履歴

位置図
位置図

信楽町多羅尾 昭和28年8月多羅尾豪雨

位置図
位置図
水害写真

倒壊した家

提供:信楽町多羅尾


昭和28年8月多羅尾豪雨

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」 (平成元年3月発行)より転載

(写真提供:信楽町多羅尾)

 昭和28年8月、寒冷前線が停滞し、各地で豪雨となった。このため滋賀県南部でも、14日夜から15日朝にかけて雷を伴う大豪雨となった。

 甲賀郡南東部の山間部一帯は、多羅尾村(当時)を中心として300mmを超す雷雨混じりの豪雨となり、特に15日0時頃から3時頃までが最も強く、時間雨量は水口で53mm、大原では60mmを記録し、大戸川・杣川・信楽川・野洲川が増水氾濫した。

 多羅尾村では15日夜明け頃、河川が急速に増水し、随所に「山津波」(土砂崩れ)が起こり、立木もろとも岩石土砂が崩壊して、家屋や田畑を埋没させ、あるいは濁流が押し流し、道路は寸断。谷間はそのまま大川となって、一瞬のうちに死者44名、全半壊流失戸数が全村の3割という甚大な被害をもたらした。

 多羅尾村被害状況

 人的被害 死者44名 負傷者9名

 家屋倒壊 全壊40戸 半壊6戸

 家屋浸水 床上6戸 床下43戸

 村長は、信楽警察署にこの惨状を報告、救助を求めるよう消防団に指示。電話が不通のため、消防団の選抜者が、道なきため山を登り川を渡り、隣村の小川にたどり着くのに3時間も要した。

 正午頃になって大体の被害状況が判明し、いまさらながら、被害の甚大さに驚く。午後より、村民総出で行方不明者の捜索と、埋没死者の収容に全力集中。一段高いところにあり、被害はなかった小学校講堂に次々と運び込まれる遺体に、悲惨この上なし。ローソクの火のもとに、不安な一夜を明かす。

翌16日、村長より告示が出された。

村民各位に告ぐ

 自然の猛威は、ついにわが村を襲った。一瞬にして44名の尊い人命を失い、耕地もほとんど無くした。わが村にとっては未曽有の出来事である。しかしながら、今気を落としてはならない。再起し得るか否かの境目だ。発奮興起すべき時である。

 昨夜は県庁地方事務所、国警(警察)、日赤、甲賀病院をはじめ、隣接町村の各機関・団体は、道なき道を踏み分け夜を徹して来村せられ、救護の手を差し延べられている。我々はその御厚意に深く感謝し、この難関を切り抜けようではないか。

 村民の皆様、この際、この時、自ら立ち得るものは、他に頼らずに自ら立とう。まず家を失い、親を子を失った人に心から手を差し延べよう。そして、全村協力一致して、我が村の再建に勇往邁進しようではありませんか。

8月16日 村長 多羅尾光道』

倒壊した家屋・押し寄せた流木

張り出された村長告知 「村民各位に告ぐ」


 この告示がどれほど村民の力となったことか。その後の毎日は戦場の如く。

 隣接町村から消防団が続々とかけつけて下さり、救援米その他の物資を、徒歩によって村内に運んでこられ、暖かい手がさしのべられる。

8月17日

 ようやく我に返った村民は、災害対策本部の指示に従い、行方不明者の捜索・埋没犠牲者の発掘・道路河川橋梁の応急復旧工事・残存水稲の確認等農業関係の手伝い奉仕に出、全村一丸となって復旧に邁進した。

 しかし、収穫を目前にした米がほぼ流出埋没し、食糧もなし。当時は機械力がなくほとんど人力に頼らねばならず、土木工事は重労働で充分働けないのではないかと心配されたが、県下に一握米運動が展開され、多くの救援米が寄せられて、村民の復旧への意欲が盛り上げられた。

 また、食糧・衣類・身の回り品・見舞金等のお見舞いのほか、復旧作業の応援等で県内各地から、延べ3556名が奉仕作業に来て下さった。

 8月26日にようやく電燈がつき、ブルドーザーの威力で、県道の応急修理が整い、近隣までトラックが通れるようになって、徒歩での物資運搬の苦労より少し逃れられる。

 災害犠牲者44柱全員を発見することができた9月18日、合同葬儀が行われた。

小学校講堂での合同葬儀。棺桶が足らず、茶箱で代用

写真提供:琵琶湖博物館

【ひと月後の昭和28年9月、再び襲った台風13号】

 大水害からひと月、復興へ大きく進み始めた矢先の9月25日、今度は、台風13号が本土に上陸。暴風雨特報が入り、全村民避難態勢を取る。 

 風速15m、雨量140mmの雨台風で、応急復旧した村内の道路の大半が、またしても流出してしまった。 

 それでも、9月28日、全村民が出動し、村内道路の補修を行った。

 村長は再び、告示を出す。

『 村民に告ぐ 村長 多羅尾 光道

台風13号に襲われて

 大自然の災害を被ってから1か月半。ようやく応急措置もできあがり、ますます本格的な復興の計画に入ろうとする矢先に台風に襲われ、我々の努力は再び水に流されてしまった。

憂きことの なおこの上につもれかし

限りある身の 力試さむ

 我々はこの時こそ底力を出すべき秋だ、このくらいのことで、気をくじかれ力を落とすような我々人間でないと信じる。大いにがんばろう。責任のない人たちの言動に迷わされたり、おだてられたりしている時ではない。また、人をののしったり人をおとしいれようとするようなことは、この際この秋最も慎むべきことで、絶対にこれを排除する。 

 我々は我々のために心を尽くし、力を合わせて進まなくてはならぬ。何とかなるだろうなんて甘い考えを捨ててかからねばならない。これまで、救援に来て下さった村々はみな今度の水害で同様の災害を被られた。お気の毒にたえない。もう、救援をお願いするところではない。我々は、我々の手でやり遂げなければならない。 

 頑張ろう、働こう、そして建設へ復興へと力強く邁進しよう。』

体験者の語り 女性 79歳(昭和12年3月生) 聞き取り日:平成28年9月7日

【うちは大水のたびに浸かるとこ】

 昭和28年、私は16歳。和裁やらを習いながら、おじいさんおばあさんと、田んぼの手伝いをしていた。

 田んぼまで、歩いて1時間ほどかかった。

 多羅尾は山あいの集落やから、坂になってる。うちは大戸川のそばにあって、茅葺き屋根で平屋。一番下やから、水が出るたびに毎回浸かった。

 その頃、川幅は1mぐらいで、ふだんは飛んで遊べるぐらいやった。そやから、大雨が降ったらすぐ水が溢れて、家が浸かるねん。川に、今みたいに堤防があるわけやなし、ただの草地やからすぐ溢れる。

 そやから、大雨が降ったら、「また降ってきた」ゆうて恐れてた。当時、わらぞうりやら履いてたでしょう。雨降ったら玄関にあるぞうりが浸かって、流れてしまうねん。そやから、物をみんな上へ上げてた。小さいときから何回そんな目に遭うたかわからへん。道よりは、ちょっと上やったんやけどね。

【昭和28年8月14日の豪雨】

 夕方から、「降る・鳴る・光る」で、ほんまにどうなるのかと思た。今あちこちで水害が起こってるけど、あの時の私らといっしょやと思てる。

 その時は家族だけで、兄弟は5人で、1番下が3才。父と母と、おじいさんおばあさんの9人家族。おじいさんとおばあさんは、田んぼまで1時間かかるので、田んぼのそばに野小屋を建てて、ふだんはそこで暮らしてはったんやけど、お盆やから帰ってはった。他にも、お盆やから、家を離れて働いてた人が、みな帰ってはった。

 夕方、雨やったけど、帰って来てた友達と出会って、元気でがんばってるいうて話してたんやけど、それが最後で、その友達は流されてしまいはった。

 夜、雨がどんどんひどうなってきたので、うちはいつも浸かるから、おばあさんがこれは畳上げなあかんて言わはった。お盆やし畳上げてたら恰好悪いですやん。けど、水が増してこっちへきてるから、早よ上げなあかんいうて、みんなで急いで上げたんです。手届かへんとこまで、みんなで畳を積んだ。床几(しょうぎ)ゆうて、外で夕涼みするときに座ってた椅子があったんやけど、その上に積んだ。

 妹やら小さい子は、早めから母と避難させてた。

 もう、どうなるのかと思うぐらい、夕方から「降る・鳴る・光る」が続いてた。消防も出てきはったけど、家の前の大戸川の氾濫で浸水してて、道あらへんやん。大水が浸いてきて歩けへん。

 お盆やし、ご先祖を川へ迎えに行く日やってんけど、行かれへんかった。もうどんどん降って降って、雷も光って昼か夜かわからへんぐらい。もう恐ろしいほど降るのが朝まで続いた。

【とっさに持って逃げたんは、『水盤』】

 うちはお豆腐屋さんをしてて、壁一面窓ガラスでしてん。当時、あんまり窓ガラスの家てなかったんやけど、ガラスが割れるからいうて、おばあさんやらが窓ガラスを押さえてはった。

 もうひどい雨で、浸水してきた水はちょっとずつ増えてきて、私らは畳上げた床の上で、一睡もでけへんかった。

 そしたら、大きな材木が流れてきて、うちの家の床の間の壁をドーンと突き破ったんです。そして、水がどっと増えてきた。

 うちは平屋で、2階はないねん。上には茅(カヤ)とかを置いてある物置みたいなんがあって、その下敷きになったらかなんから、もう、急いで逃げた。裏の土手を上がって、隣の高い家へ。

 その家、親戚ですねん。裏は土手があって、石垣もあって高かったから、そこはいつも浸からへんかった。で、そこへ逃げた。もう、必死で逃げた。長靴履いたけど、土手に上がりしなに片方流されてしもてたん覚えてる。

 そやのに、その時とっさに私が持ってたんは、『水盤』。なんでそんなもん持ってたんかわからへん。その時、お花習ってたんですよ。その日も習いに行かなあかんかったのに行かへんかったからか、水盤だけ持って逃げてるねん。もうなんであんなもん持って逃げてんやろ。もっと大事な物あったのに。

 多羅尾には、高島にある材木会社の材木置き場があって、直径7~80cmもある大きい切った木をいっぱい、積んではったんや。上の方のバスの終点のとこに広い広場があって、そこにいっぱい積んであった。 あの頃、多羅尾はいい材木があって、それで家を建ててはった。うちの前に製材所もあった。

 その積んであった大きい材木が、大雨で崩れて、もう、全部流されてきたんよ。ほんで、うちの家の床の間の壁をドーンと破ったんです。もう大洪水になって。

 その材木積んである広場の前の家の人は、もう一家全滅でした。崩れた材木がその家に当たって、家が壊れて流されて。そこからうちまでだいぶあるんやけど流されてきて、うちのあたりで「助けて」言うてはったけど、とてもやないけど助けられへん。

流れてきた材木や、根こそぎの倒木などに覆われる

提供:多羅尾自治会


【山がこっちに向かって落ちてくる】

 ほんで、うちの前、川向こうに高香山(たかこやま:527m)いう山があって、そこに立派なおうちがあったんですよ。私の恩師の家です。家族は7~8人いはったわ。そこは川よりだいぶ高いので大丈夫やと思って、うちの隣りの家の人は、そこへ避難してはった。おばあさんと子どもと3人が。

 そしたら、明くる15日の朝方、その高香山が、ずり落ちてきたんです。私らは、水に流されることばっかりに気を取られてたけど、目の前の山がずり落ちてきて。

 もう、ゴオーて、すごい音がして山がこっち向かって落ちてくるねん。思い出しても生きた心地せえへん。

 それでその立派な家は、全滅。

 で、その山の土砂が川に落ちて、よけい川の水かさが増して。もう、川が満水してるのに、まだその水がこっち側へ押し寄せてきて、思い出してもこわい。いやになる。

 もう、いろんなもんがみんな流れてきた。

 夕方出会った友だちも流されてきはって。「助けて、助けて」言わはるんやけど、とてもやないが行けへんかった。そこもみな流されはって一家全滅。家は向こう岸で、そこに見えてんねんけど行かれへん。死にに帰ってきはったようなもんや。

 1人の人は、神山(こうやま)過ぎて、江田まで流されていきはったらしい。

 もうものすごう水がきてるし、自分らが逃げるのに精いっぱい。

 うちの家、後から見に行ったら、水は天井近くまで浸いてて痕があった。傾いて崩壊してて家らしい家やなかったけど、「よかった、流されへんかって。傾いてるぐらいかまへん。」て思た。

 うちの家族は、2軒向こうの立派な家へ避難して、そのままみな居さしてもろた。ほんまに、感謝しても感謝しきれへんぐらい。離れの家に、家族9人泊めてくれはった。2階も下も空いてるさかい使い言うてくれはって、その日からそこに泊まらせてもらった。その家は石垣での上で、当時は見上げるほど高かった。そこに3か月ぐらい住ませてもうた。

 その時、うちにお米の入った缶が2つあって、それは流されてなかった。中のお米は洪水で浸かって、臭くてご飯にならへんぐらいやったけど、隣の避難先の人は、そのお米を一緒に食べてくれはった。浸かったお米を、もったいないから食べなあかんいうて。子どもながらに、悪うてかなんかった。

 ほて、うちはお豆腐屋をしてて、その道具やら流されてしまったんやけど、それが、神山の今のうちの家あたりにも流れてきてたて、嫁いできたとき、ここのお父さんが言うてはりました。

【道なき山道を、歩いて大勢救助に来てくれた】

 あくる日、機動隊(注:今の自衛隊)が来てくれはったとき、一面浸かってるから道がないんですよ。で、父がうちの上げてあった畳を敷いて、歩かせてあげはった。畳の上歩いてもらわんと来られへん。ものすごう大勢来てくれはった。

 流木やら泥やらに埋まった家を機動隊が掘りかけはったら、クックックックて言うたんですよ。あ、誰か生きてはるて喜んだら、鶏がワーッて飛び上がって、びっくりした。大きな鶏小屋に飼ってはったんですよ。

 うちの奥の家は一家全滅で、お母さんが赤ちゃん抱いたまま、埋もれてはった。

 うちよりもっと上の方にあった家も、つぶれた。その家のおかあさんはおなか大きかって、もう生まれ月やから早めに避難させてはったんやけど、お父さんは間にあわへんかった、茅葺き屋根の妻の上の方に「水」言う字が書いてるとこが(小間コマ)あるでしょう。つぶれた家のそこから顔だけ出してはったらしい。家がつぶれてるから出られへんのですよ。

 で、生まれてくる子に、男でも女でも自分の名前を1字取って、名前を付けてほしいいうて、亡くなりはったそうや。かわいそうやったわ、この話聞いて。

 その斜め隣の家は全滅。もう、いっぱい死なはった。44人やもん。

 ほんで、多羅尾小学校に遺体をみんな集めはんねんけど、多いので入れる棺桶がないから、お茶を保存する大きい茶箱に入れはった。

 多羅尾の奥に、童仙房(どうせんぼう:京都府相楽郡南山城村童仙房牛場)いうとこがあるんやけど、そこの人も流されはった。

 なんせ、ここの地形が、童仙房から多羅尾から神山向いて繋がってて、とにかく水が出て溢れて。ゴォーゴォーって流れてきました。もう、茫然と見てるしかなかった。本当に、茫然と見てて、こんなん生きていけるんかなと思た。

 そのあと、やっぱり水害のことよう聞きに来はったんよ。もう、思い出すのいやや言うたわ。言いかけても、泣けてきて言えへんかった。

 けど、何年かしてこの時の体験を、多羅尾の青年団の弁論大会で発表したり甲賀高校で発表したわ。多羅尾の村が70%まで、土砂と洪水に覆われたって書いたん覚えてるわ。44名の人が流されたり埋もれたりして亡くなったこととか言いましたわ。そんな記憶があります。

大戸川沿いにある、骨組みだけになった農協の茶工場

集められた流木


 忘れられへんのは、私は兄2人で長女でしたんで、ミシンが欲しい欲しい言うてたんです。それを父が、水害の前の日に買うてくれはった。縁側に置いといて、まだ、開けてなかった。それも浸かってしもて。あれがくやしいて、今でも思い出すわ。

 お盆になったら買うたるわいうて、お金ないのに父が買うてくれはったんやけど、開ける間もなかった。それも売ってる人が、山を越えた隣になる三重県の島ヶ原いう山から、歩いて持ってきはったんですよ。
 そんなこと思い出したらくやしいわ。

【おねえちゃん、生きてなあかんで】

 父は当時、区長をやってて、家ほったらかしで水害で亡くなった人のとことか行ってはった。

 タンスは開けたけど、砂ばっかり。おじいさんの袴やら出してみたら、畳んだあいだに砂がいっぱいで、使い物にならへんだ。

 知った人もたくさん亡くなってる。亡くなったんは、若い人も多かった。何でかいうたら、おじいさんおばあさんを先に避難させて、自分ら若い者が動け動けで、家を守ってたから。そやから、おばあさんらばっかりが残らはった。残った子どもらも、お父さんやお母さんが亡くなって、淋しい思いでいてはった。私の恩師も死なはった。もう、なんでこんなことが起こったんか考えられへんかったわ。

 もう、茫然としてて、生きていけるんかな、どうして生きていこうかと思った。

 甲南の日赤婦人会の人が、片付けの応援に来てくれはって、このへん掃除してくれてはるときに

 「おねえちゃん、生きてなあかんで。死んだらあかんで。」

て何べんも言わはって。その言葉で泣かされた。生きていけるんかなあと思て。今でも思い出す。

道が寸断されているため、各地から歩いて支援に訪れた人々

役場に、災害対策本部が設置された


 すぐ上の兄は、ここにいててもあかんいうて、自衛隊に行きました。水害に遭うたことを思い出して、がんばろうて。

 その自衛隊に、広島で原爆に遭うた人がいてはったらしいわ。その人らは家がないのに、わしは帰る家があるさかい、幸せやいうてた。

 父は、衣類の配給にも行ってはった。「あっぱっぱ」ゆうて、ワンピースやね。それもらってきてくれはった時は、うれしかった。着るもんもないしね。とにかく、明日着るもんが何にもあらへん。

 父がもらってきてくれたのを、こんなん着られへんいうたら、気まま言うなって怒られた。それは座布団を作ったりした。冬が来るさかい。

 家のものはみな浸かってたから、手つけられへん。

 上に井戸水があって、その水がきれいやから、袴やら一生懸命洗ったわ。水害後そこから水道を取ってもらって、その水のおかげで、私ら生きさしてもらいました。うちの井戸は水に浸かってしもて、飲めへんかったから。

 お豆腐屋の道具も、百姓用の牛も流した。

 そやけど、うちの家は屋根は落ちてたけど、幸いにも親戚の人らが直しに来てくれはって、どこの家よりも早よ入れた。父の兄弟は、京都と奈良県で、大工さんと左官屋さんをしてはったんや。ほんで、急いで直してくれはった。孤立してたから、三重県の島が原いうとこ、ここも水害に遭ったんやけど、そこから歩いてきてくれはった。

 末っ子の3歳の妹が明くる日かな、知らん間に外へ出ていって、泥やらが積もってぬかるんでたから、小さいので胸まで埋まってしまったんやけど、ちょうどそこへ校長先生が通りがかって、助けてくれはった。

 校長先生は、子どもらが死んだりしてるから、確認しに歩いてはったんや。

 妹は、校長先生のおかげで生きてるいうてますねん。

【被害の箇所】

 右岸側は、山がずり落ちたとこもあるけど、わりと大丈夫やった。

 左岸側は、上流の会所橋の山手側の材木置場の木が崩れ流れて、川沿いの家を直撃していった。

 そして、向かい側に迫ってる高香山(たかこやま527m)がずり落ちて、横から川の水をワーッと押し上げたから、対岸のうちの家なんかも、高いとこまで水が押し寄せた。流れてきてた材木やらいろんなものが家やらに当たって、家が倒れた。

 で、私らは浸水してくるし、宵のうちから一睡もでけへんかったけど、それまで水害に遭うたことのない家の人は、ぐっすり寝てはる。用心せんと寝てはるし、寝てて急に襲われたら、一瞬やし助からへん。

 そうやって、寝てて死なはった人いっぱいいはる。

 高いとこの人は、朝起きて、何が起こったかわからへんかった言うてはった。ラジオは入らへんし、電気は停電してるし、いったいどうなったんかと思てはった。

【ひと月後、9月の台風13号】

 ひと月ぐらいしたら、また台風がきた。

 その9月の台風13号の時は、あんがいどうもなかった。水は出なくて風が強かったんや。そやからあんまり記憶ない。村全体がちょっと直ってきてるのにまたと思たけど、水は出なかった。
風が強かったから、8月の豪雨で崩壊しかけてた家がボロボロになった。せっかく残ってた家も、飛んでしもた。ほんまに多羅尾って何が起こるんやろ思た。

【災害後の生活】

 復旧には、高島とか伊香郡(現:長浜市)とか遠いとこからもたくさん来てくれはった。泊まりがけで長い間来てくれてはったので、その人らと結婚した人もいるわ。

 友だちも、女中さんにいかはった。働かなあかんし。

 上の兄はその頃22歳ぐらいで、馬を飼って、馬車引きの仕事をして儲けてはった。山の土砂止め(砂防堰堤 )やら、あちこち復旧工事をしてはるやろ。その時石垣を造るので、石を運んだら収入がいいねん。で、馬で石を運ぶ役をしてはった。みんな、復興の手伝いをして生計をたててた。

 私は体験してるから、今も台風が来ると、ああやこうやいうてしまう。主人は、そんなやかましい言わんでもて言いはるけど、また水害かなあと思てしまう。こんな小さい川でも、水が増してきたらどうなるかわからへん。

復旧活動に励む国警機動隊や応援の近隣の消防団や、各種団体の人々。

女性も砂運び


体験者の語り 当時信楽警察署長の語り

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」(平成元年3月発行)より転載

(写真提供:信楽町多羅尾)

【信楽警察署管内の被害状況】

 昭和28年8月14日、午後から降り始めた雨は、次第に相当な雨量になり、15日午前3時15分頃、当直員から電話で異常な降雨状況であるとの報告を受け、直ちに出署。

 署の前を流れる信楽川の水量は、すでに橋桁いっぱいまできており、刻々と水かさを増していた。さらに雨は、いまだ経験したことのない降り方で、事態の容易ならざることを直感した。

 直ちに情報収集・非常召集を発令した。その約20分足らずの間に、役場前の木橋は水に洗われ、その10分後には流失。

 豪雨は、午前5時を過ぎる頃までますます激しさを加え、間断なく降りしきり、長野・江田・神山は1.5m~2.0m以上の床上浸水となり、家屋・橋梁の流失も続出しつつあった。

 各駐在所よりの被害報告は家屋の流失・倒壊、浸水、道路堤防の決壊、山崩れ等々、被害の甚大さを予想するのに充分だった。警電局電とも不通で、市外との連絡は完全に断たれてしまった。

 広範囲に同時災害を受けてるものと思われ、焦燥不安やるかたなし。殊に信楽―多羅尾間は早くから電話が不通で、多羅尾地区の被害状況は、一報だに入手できてなかった。

 8月15日午前6時半頃、多羅尾の被害調査のため、若くて健脚な署員を選抜し、徒歩で山の尾根沿いに派遣した。

 これとは別に午後1時半頃、多羅尾村よりの徒歩連絡員が3人、村長直々の被害状況連絡と、救護要請書を持って到着。

 その様相を見るなり、多羅尾地区の被害の容易ならざることが見取られた。疲労困ぱいの度合いは、見てられない状況であった。

 連絡員より前夜からの状況を逐一報告を受けたが、豪雨による地滑りの被害発生は当日午前4時から5時前後と推定され、死者・所在不明・倒壊家屋も相当あり、管内での被害は多羅尾地区が一番大きく、犠牲者はおそらく最大のものであることは、予想するに十分であった。

 署においては、さらに詳細な多羅尾地区の惨状把握の必要があり、即時、情報収集に慣れたものを派遣。逐次、徒歩連絡により報告を指示したが、連絡には、片道3時間ないし4時間を要した。

多羅尾上空。白く見えるのは、土砂崩れの痕や、土砂が堆積した谷

提供:琵琶湖博物館

 県よりの救護班の信楽署到着は、15日夜半であったと記憶する。医師3名・看護婦2名と、取材のため3名の新聞記者が同行。貴生川からは、徒歩によるしかなく、いずれも照明具・リュックサック携帯のいでたちである。

 おにぎりの非常食で腹ごしらえのあと、暗闇の危険な道を、女の足で多羅尾まで、雄々しく出発してくれたその心意気に、ただ敬服と感謝の念でいっぱいであった。

 重大事故発生の場合、所轄署長としては現場に張り付き、指揮に当たることが当然であったが、被害は管内全域にわたり、席の空白は許されなかった。

 多羅尾には、ようやく8月16日、赴くことができた。 隣の小川地区までは、かろうじて自動車によることができたが、以降は道なき道を徒歩である。

 周辺の青田は濁水に洗われ、泥沼と化し、道路は欠損・埋没、橋梁は流失して、渓谷の杉やヒノキの大木は無残なまでに倒れて白肌を見せ、谷は崩壊した土砂が堆積して、道路も谷も見境がつかず、溢れた濁水は川となり、さながら、流れる川を渡る思いであった。

 部落に立ち入れば、倒壊家屋の続出で、その上に大木が倒れ、その下に埋没した人や牛の発掘作業が進められていたが、人手と機材の不足はいかんともしがたく、遅々としてはかどり難い状況にあった。

倒壊した家屋

散乱する流木


 埋没した人や牛の発掘作業が進められていたが、人手と機材の不足はいかんともしがたく、遅々としてはかどり難い状況にあった。

 早速、応急復旧対策の準備にあたったのであるが、災害発生後より、多羅尾村長はじめ、近郷消防団や地元民各位の力により、発掘作業が進められていた。

 食料補給については、県の要請により、米軍ヘリコプターに出動派遣。

 勅旨の大戸川に、ワイヤ・クレーン・ウインチを設置して川を渡す輸送に成功し、食料不足による不安が除去された。

 当時の信楽署管内の被害概況は、

● 雨量 400ミリ以上、

● 死者44名、負傷者242人、羅災世帯数 1118戸、羅災者総数 5720人

● 流失全壊家屋 109棟 半壊家屋 268棟 床上浸水家屋 488棟 床下浸水家屋 483棟

●堤防決壊135ヵ所 道路損壊 71ヵ所 橋梁流失 69ヵ所 山崩れ 799ヵ所 田畑埋没流失6325h

次々と起こった裏山の崩れ

崩落した国鉄信楽線(現:信楽高原鐡道)

提供:琵琶湖博物館


 小さな地域で、いかに被害が甚大であったか。わずか数時間の降雨で、このような大災害が起こり得るとは、誰が想像し得ただろうか。

 天災は、いつどこでいかなる時に、いかなる場で起こるとも、予測することができない。しかし、今後住宅の建築についても、また山林の植林計画の重要性等についても、十分認識考慮されるべき問題ではなかろうか。

体験者の語り 男性 当時18歳

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」 (平成元年3月発行)より転載

(写真提供:信楽町多羅尾)

『父は土砂に埋まり、声がしなくなった』

 暑い毎日が続き、祖母・父母・兄弟の6人家族でお盆を迎えた。

 8月14日午後から雨となり、夕方から夜中になるにつれ、雷が鳴り、大粒の雨となった。夜中には傘もさせないくらい、バケツの水をあけたような雷雨となった。家族で「強く降るなあ」と家の周りを見て回っていた。

 家は山手にあるので、水には大丈夫と安心していたが、庭の中に大水が、下駄や靴が流れるほど入ってきた。家族は必死になって排水したが、どうすることもできなかった。

 15日の午前3時か4時頃だった。ドーンと恐ろしい音とともに一瞬のうちに家が倒れた。今まで一緒に話していた家族は、土砂まじりの水や、倒れた家の下敷きとなり、ばらばらに分かれてしまった。自分らの家だけがなぜこんなことになったのかと思った。

 大声で叫んでも声はかすかに聞こえるだけだった。助けようと思っても身動きできない。母と妹の声がしない。父だけが「がんばれ、がんばれ」と言っていた。

 土砂まじりの泥水が、だんだん体を締め付けるように押し寄せてくる。父は苦しそうにうめき声をあげた。自分も息をするのが精いっぱいである。動くことができない。父は土砂に埋まり、声がしなくなった。

 朝になり、倒れた家の中に、消防団の人が入って助けに来てくれた。木を切ると、バリッと体に重みが加わったが、だんだん息をするのが楽になってきた。助けてもらったと思った時に、意識がなくなった。

 消防の人たちが、顔をたたき、手をつねり、やってくれたらしい。気が付いたときは、体を半分出してくれていた。倒れた家から、12時頃出してもらった。道を歩くにも、膝が動かず、のたって隣の家にいれてもらったが、父母の姿が見えず、家はなく、田畑は土砂の山。着るもの、食べるもの、何一つなくなってしまった。

 高香(たかこ)山のふもとの川原を見に行った。家が流れ、また水が入り、がらがらになっていた。

 将来のことを思うと、川の水も多いので、飛び込んで死のうかと思ったが、消防団の人に助けられて、生き抜く力が湧いてきた。

倒壊した家屋から埋もれた人を探す

散乱する流木


 小学校の講堂で、部落の人が作ってくれた握り飯をもらって、食べた。

 倒れた家では、父母妹の命がわからない。

 15日夕方になって、3mもの土砂の下敷きとなり、3人とも遺体で出た。

 16日、救援隊の旗を持ち、他地区からたくさんの人が手伝いに来て下さった。学校の講堂には、災害遺体が次々と並べられ、その一人となった父、母のことを思うと、淋しくて何もできなかった。

 集会所の一部屋を借り、祖母・妹・自分との3人だけの生活になり、部落の皆さんのお世話になり出した。災害物資により、茶碗1こ・箸1膳、皿1枚をいただき、復旧に努めた。

 満18歳、父母と別れ、まず第一に家をと思い、12月に小さな家を建てた。人並みになるのには大変だったけれども、昭和水害に遭ったことにより根性ができ、今では一人前の男としてやってきた。

 まだまだいろいろなことがあるが、思い出すと涙が出るばかり。

 今後このような災害が2度と起こらないよう、部落一致して事前に防げるように努めたい。

体験者の語り 男性 当時 国家地方警察巡査

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」(平成元年3月発行)より転載 

(写真提供:信楽町多羅尾)

『倒壊家屋から脱出』

 昭和28年8月15日、帰省していた私は、大災害に遭遇。生家の倒壊にあったが、九死に一生を得た。

 当時、国家地方警察巡査で、甲賀地区警察署貴生川派出所に勤務していた。

 8月14日より帰省。同級生が集まり、楽しい夜だった。

 15日午前1時頃、帰宅の途についたが、外は真っ暗闇で雨も相当激しく降っていた。幼いころから歩きなれた道なのに、一寸先もわからず、抜き足差し足で闇の中を一歩一歩進んでいた。見ると、大戸川では、あと30cmぐらいまで増水していた。

 やっとの思いで家にたどり着き、そのままぐっすり寝込んでしまった。その夜は、両親や兄家族ら9人だった。

 午前4時頃、家族の悲鳴に夢うつつで気づいたとき、吊るしてあった蚊帳が顔を覆っていた。停電で家の中は真っ暗で、何が起きたのかわからない。早く逃げろという父や兄の声、昼間を思わせる稲光が照らし、雨戸や障子が外れているのが見える。家の前には竹や樹木が見え、家が倒れたことに気付いた。稲光で見えた隙間から、祖母を背負って半壊した屋根伝いに裏山に這い上がり、高台の茶畑に避難した。

 茶畑にたどり着いた瞬間、ドドーッという地響きの音とともに押し寄せる土砂に、我が家はもろくも押しつぶされてしまった。夜も明け、周囲を見渡せることができたので、時刻は4時20分頃かと思われる。
 ドドーン、ズンズンと地鳴りと地響きがして、あちらの山肌こちらの山肌が崩れ落ちる、山崩れの連鎖反応が続いた。高台の茶畑から村を見下ろしていると、稲穂たなびく田園は黄河となって、樹木や倒れた家屋が濁流に押し流され、あちこちから悲鳴が聞こえ、大地の表面が移動しているかの様相であった。まさしく地獄絵を見た思いだった。家は失ったけれど、家族全員無事だったことを喜びあった。

倒壊した家屋

河原になった農地


 しかし、高地の多羅尾ですらこの惨状であり、下流の神山・小川・長野地区は、大災害で全滅しているのではないか、自分の任地の貴生川町も、大変な状況になっているのではなかろうか、こうしてはいられない一刻も早く任地に戻ろう。

 バケツをひっくり返したように降り続いた大雨もようやく小雨となり、山崩れも小康状態になったので、そのまま山を下り、肌着のままだったので途中の知人宅で服や靴を借りて、役場へ行った。

 役場では、亡くなられた人や行方不明の悲しい知らせが、続々と寄せられていた。

 情報連絡手段が途絶えていたため、水口町に戻るからには、新しい正確な情報を届けようと、役場でまとめられた情報を持って、午前9時半頃出発した。

 行く手の道路は寸断され、川筋は変わり、土砂崩れで思うように進めなかったが、午後2時頃、ようやく信楽地区警察署に到着。多羅尾村の惨状や死傷者の概数、全半壊家屋の概要など報告した。この情報が対応に大いに役立ったとのこと。

 その後、任地の甲賀地区警察署に急いだが、国鉄信楽線は不通、道路の損壊箇所も多くなっていた。

 私の任地の貴生川町も、豪雨によって河川は増水し、堤防の決壊・橋の流失・道路の損壊・家屋の浸水等、近年まれにみる災害発生であったが、人命にかかわる被害の発生がなかったのは、幸いだった。

 私は、上司の計らいで、翌8月16日から多羅尾に帰省し、床下に土砂が流れ込んだ駐在所でお世話になって、捜索等警察活動のお世話をさせていただいた。

 連日、犠牲となられた方の発見で深い悲しみに打ちひしがれつつも、また連日、各方面から救援物資や食糧を背負ってきてくださった多くの方の様子等、今もはっきり頭に浮かんできます。

各地から救援物資を歩いて運ぶ人々

開設された救護所


体験者の語り  女性

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」 (平成元年3月発行)より転載

(写真提供:信楽町多羅尾)

『子どもの名前が思い出せない』

 8月14日、夜11時頃より雨は激しくなり、停電してしまった。仕方なく床につく。

 雨の音、雷の音が激しく続く。蚊帳の中で、不安な気持ちで雨の止むのを待つが、なおいっそう、激しくなるばかり。雷は、途中から火山のように吹き上げているように感じられた。途切れることなく降る雨の音。雷の閃光は真昼を思わせるようである。

 2時頃、2階から長女と妹が恐ろしさのあまり下りてきて、蚊帳の中でひとかたまりになった。沈黙が続く。ゴーとすごい音がして、ズズーンと地響きが起こる。恐ろしさのあまり、声が出ない。世間から取り残されたひとかたまりの家族のような、感じがする。

 またしても、すごい音がして、地響きが続く。動悸が激しく打つ。体がガタガタ震えて、一歩動くのも恐ろしい。ただ神仏に祈るのみ。勝手口の方で大きな地響きがしたとたん、家が揺らぐ。

 「裏山が崩れて、炊事場を埋めたのではないか」と主人は裏の山を見に行った。「早く出よう」と、主人は必死な表情。緊張した私は、足がガタガタ震えて、容易に立つことができない。着替える余裕はない。

 子どもたちを促して庭に下りようとしたが、庭は水で、履物は浮いている。着の身着のままで、素足で8ヶ月の末っ子を抱いて、主人と妹が3才4才の子どもの手を取って、とりあえず表に出る。

 閃光で、四方ははっきり見ることができた。提灯と傘を持って出たものの、濡れてばらばらになってしまった。

 一瞬、どきんとした。確かに、隣の家は倒れている。倒れたような音は聞こえなかったのに・・・。どうしてあげることもできない。

 誰かが「ねえちゃん、えらいことになったわ」と言われた。私は、ただびっくりして、声も出ない。

 主人は「おそらく、この谷だけがこんな被害を受けたのだから、子供連れでどうにもならない。役場で鐘を叩いてもらうから」と先に行った。

 着ているものはびしょぬれで、脱いで絞って、また着る。帯で濡れねずみになっている子どもを背負っていると、奥の間のタンスがズルズルと出てきた。必死になって「早う、早う」と叫ぶ。

 近所の方は、「家族全員全滅だ」と、右往左往されるばかり。早く表に出ないと危ないと出たとたん、奥の方から、谷幅いっぱいになって、水が押し寄せ、一瞬にして子供たちをなめた。

 無我夢中で一歩二歩足を進める。道も溝も一つの川になって、流れも急で、溝の深いところにはまった子どもを引き上げて、死に武者になって、やっとのことで学校へたどりついた。子どもたちは、寒さと恐ろしさで顔色はなく、震えあがっている。

 学校のおばさんは、子どもたちに着替えを貸して下さった。うれしくありがたく、ただ、涙がほおを流れるのみ。倒れた隣のことが心配でならない。誰かが、蚊帳を歯でかみ切って屋根に出て、1人ずつ引き上げられたと言っているのを聞いて、ほっとした瞬間、何が何だか分からなくなって、我に返った時は、部屋に休ませてもらっていた。

 被害に遭われた方も、たくさんおられた。学校から見下ろすと、眼下は大海原で、家屋や木材、想像もつかない物が波打って流れていた。今さらながら、自然の恐ろしさを痛感した。

 すっかり気力をなくした私は、子どもの名前も忘れてしまい、どうしても思い出すことができず、ただ、茫然と時を過ごした。

 こんなことではだめだと、気を取戻し、牛のことを忘れていたので、家に帰ってみようと思った。子どもたちを待たせておいて、不安な気持ちで足を運んだ。

 ここは大丈夫と足を置くと入り込み、また、ここは大丈夫と足を置くと、また入り込み、生きた心地がせず、やっとの思いで家に戻ってみると、建具ははずれ、床板はばらばらになり、家は揺れ、柱はプチプチ音をたてていた。不気味な思いで裏の方を見ると、牛小屋は土砂で埋没していた。牛はかわいそうに、我々の犠牲になってくれたのだ。冥福を祈りながら、もし年寄りがいれば、牛を助けに来て、自分が埋まったかわからないと痛感した。

 我に返って、あわててタンスの引き出しを開けようとしても、気が気でないのかうまく開けられず。震える手足、心臓の動悸を鎮めながら、手に持てるだけ持ってみた。

 何か後ろから追いかけてくるような気がして、どうして学校に着いたかわからない。持ったものは、おおかた途中で落としてしまったのか、少ししかなかった。

 持ってきたものは、絽の袴・絽の羽織・父のズボンで、後で大笑いしたが、その時は鬼の首でも取ったような気持ちだったのかもしれない。

 子どもの名前が思い出せず、日赤の救護班の方が来てくださって、診察を受けたのだが、まだ子どもの名前が思い出せず、看護婦さんは、気でも狂ったのかと心配してくださった。

 半月ほど経って、やっと思い出すことができた。

 経験したことのない方にはお分かりになれないと思う、苦しい、悲しい、情けない、衣食住のない生活が始まった。  

河原となった農地

倒壊した家屋の除去作業


体験者の語り 女性 中学3年生

「多羅尾村報」(昭和28年10月発行)より転載

『忘れ得ぬあの一瞬』 

 「ピカッ」と光った。

 確かに障子の破れ口を通し、雨戸を通じて、私をめがけて光ってくるように思った。

 「ゴロゴロッ」と地を響かせながら大きな雷が鳴り続いている。

 夜中に目が覚めたときには、このような現状であった。兄も姉も母もみな眠りにふけっている。なぜ、自分だけ目が覚めたのか。神が私に大豪雨であることを知らせてくださったのか。しかし、なんだか恐ろしい。じっとまぶたを合わすのですが、どうしても眠ることはできない。

 しばらくすると、誰か戸口をたたく音がする。何かしら私たちに知らせてくださるようであるが、何を言っておられるのか、雨と風と雷のために、はっきりと聞こえない。

 外の声は近所の人で、「早く早く逃げないと流されてしまう。命だけは助からねば…」のように言って下さる。皆が飛び起きると、庭は川である。裏の方から入った水は、家のすきまから流れ出ている。

 父と兄は、庭の排水をよくするため一生懸命である。

 戸口が開いて外を眺めても、音ばかりで何も見えない。「ピカッ」と光ったその明るさで見ると、なんとひどい大雨だろう。1度2度3度と見るごとに、あまりの無残さに目を見張る。向かいの家は、もう軒下まで水がきて屋根だけである。

 どこからか、「助けて!」「助けて!」と女の声・男の声がかすかに私の耳に入ってくる。それは、救いを求める声である。「この雨では、この水では助けようったって、しかたがないなあ」等話してる声も聞こえてくる。もう、立っても座ってもいられない気持ちになった。なぜ早く救ってやれないのだろうと心はあせる。

 私も外へ出ようと思うが、恐怖につつまれて一歩も出られない。この恐怖を打ち破ろうとしてもだめです。外の様子を見ると、急に力が抜けるのです。

 「ピカッ」と光る恐ろしさとともに、家の前40m近く、白いものが波打たせながら近づいてくる。あと30m、20mと私たちをめがけて来襲してくるものは、確かに水だ。早く避難しないと命が危ない。神から授かった尊い命だけは...と思って、逃げ支度をする。外に出たが歩く道ひとつない。川の中を歩いているのと同じです。道か川かわからないところを足で探りつつ、やっと小学校までたどり着いた。少し気が落ち着いた。

 私は、この大水を見て、自然の恐ろしさが身に染みた。15日からあとしばらくは、もうこの世に生きる価値がないと思った。もうだめだだめだと何度心の中でつぶやいたかしれない。しかし、他の人々に励まされ、「負けるものか」「負けるものか」という強い心が起こってきた。

 今後、自然との戦いに、絶対に負けてはならない。力強く立ち上がって、より立派で平和な村を建設するのだと私は考えた。

 村の各所に、「迷わず力強く再建を」「復興へ、汗だ力だ、村づくり」等いろいろな標語が張り出されている。

 1カ月を過ぎたこの頃は、村の人々は、他の協力を得て復興作業に努力してくださっている。

 私たちもこの村の人々と同様に、復興建設に邁進しよう。

体験者の語り  女性

信楽町多羅尾区編纂 「多羅尾村昭和大水害誌」(平成元年3月発行)より転載 

(写真提供:信楽町多羅尾)

『残ったのは屋根と柱だけ』

 8月14日の夕方、平穏で水害が起こることを誰が予測できたでしょう。

14日、夜11時半頃

 激しい雷雨で家族を起こします。不気味な予感がしたので、万一にと思って身支度をしてタンスの引き出しなどを高いところにあげました。

15日 午前1時頃

 突然、ものすごい雷雨。

 うどんを垂らしたような太い雨が降ってきました。雨のため、傘が破れたくらいです。雷鳴が地面を這っています。

 私たちは経験がないため、まだ水害になることを予測しなかったのです。「昔から、多羅尾は流れたことはない」と冗談を言っていたのです。

 当時飼っていた牛が、震えだしました。動物も、なにか恐ろしいことが起こると感じたのかもしれません。

15日 午前2時頃

 狭い河川は、増水して川上から材木やドラム缶、くずれた石垣などが流れてくるので、ゴロゴロ音がします。いよいよ恐ろしくなって、危険を感じます。床下浸水し始めたのは、この頃でした。

16日 午前3時過ぎ

 バケツの水をあけたような豪雨で、にわかに床上浸水、直ちに避難しました。

 着の身着のまま、素足で裏山をよじ登りました。

 山の地面は古綿のように柔らかく、雷鳴のため昼のように明るく、命からがら隣の家へ避難させてもらいました。ずぶぬれと恐ろしさのため悪寒がし、家族の者の顔色は真っ青でした。下着までも借りられないので、雨の水を絞って、また身につけました。

15日 午前4時半頃

 鉄砲水で、大量の土砂と水に、大きな木が根っこつきで、立って流れてきました。我が家の小屋はすでに流失し、住屋も軒下まで水に浸かり、今にも流れそうでした。川上から草ぶきの屋根だけが2軒、3軒とこの谷間を流れてくるさまは、言い表すことのできない状況でした。

15日 午前5時頃

 雨が少し小降りになりました。近くですごい山崩れが起こり、ズシンズシンと音がします。高香山(たかこやま)の中腹より崩れた土砂が、竹やぶに乗って、そのまま大きな家を家族もろとも飲み込んでしまったのです。

 それと反対に、半ばあきらめていた我が家の流失を免れたのもこの竹やぶでした。川上から流れてくる民家の屋根や材木などを、堅い竹藪の根っこが堤防の役目を果たしてくれたのです。

堆積物の除去や、倒壊した家屋の中に人がいないか確認作業に励む人たち

倒壊家屋の中を捜索


15日 夕方
 ようやく水かさが減ったので、我が家へ戻ってきました。残ったのは屋根と柱だけで、家財道具・衣類・食糧など間に合うものは全然なく、途方に暮れたことは、今も忘れられません。

体験者の語り  小学6年生ぐらい

「多羅尾村報」(昭和28年10月発行)より転載

『家は石垣の上にあった』

 家の石垣の中間まで水が上がってきた。その前の様子は、寝ていたから分からない。

 家は石垣の上にあったので大丈夫だった。水がひいていくのが分かった。

 どこからか、死体をさがしに行ったり、土葬があった所では墓が流されたため、なおしていると聞いた。

 小さな洪水の時はうれしかった。大きな魚(特にコイ)が取れるから。本流の汚れた水と、森や山から来るきれいな水があると、魚はきれいな方へ行く。男の子はみんな魚とりをした。とても捕りやすかった。大きな魚も捕れた。

 洪水の時(後)は、1人で行った。各人自分の場所があり、そこで、取っていた。ラケット状の網でとった。なるべく大きなのを用意して大きな魚をとりたかった。


当時多羅尾村民の体験者語り 女性Aさん(当時中学生)女性Bさん(当時中学生)

【多羅尾豪雨の状況】

Aさん:豪雨前日の8月14日夜11時頃から雨が降り出した。

Aさん:その頃は夕立ち程度に思っていた。

Aさん:15日夜中の3時頃になるとバケツの水をぶっちゃけたように降り出した。

離れの部屋にいたら親が呼びにきたので助かった。

寝ていた離れの部屋が流され、親が危険をキャッチしてくれて本当に感謝している。

それから1か月くらい、被害にあわなかった知人の家でお世話になった。

Bさん:私の家は大丈夫だった。敷地が高かったので浸水はまぬがれた。

Aさん:地鳴りが凄かった。

Bさん:雨が凄くてガラスのように見えた。

伐採してあった木が近くの谷に溜まっていた。よく見るとその木は根が無いので、伐採してあったのが流されて来て溜まったと思う。

Bさん:浸水はあったが、ほとんどが山崩れの被害だった。

Bさん:谷筋の山が崩れて、家屋倒壊し、たくさんの人が埋まって亡くなった。

Bさん:1箇所で9人、7人と複数亡くなっている。

Bさん:谷に住んでいた子供の兄弟が危険を感じて逃げたが、逃げた先で山崩れに遭い亡くなった。

Bさん:川で流されたのは1人だけで、それが神山まで流された子供であった。

Aさん:被害は、役場(現公民館)や小学校(現在と同じ場所)のある地域に集中していて、上流や下流の被害はこの地域より少なかった。

Aさん:お盆で帰ってきた人が多くいたが、帰って来ていない中、親元は山崩れで家が倒壊して家族が亡くなられた。その人は難をまぬがれたが、一人ぼっちになってしまった。

Bさん:激しい雨のため濁水は一気に流れ出て川の氾濫になった。大戸川筋では3人亡くなった。

Aさん:谷になっているところは、山が崩れて亡くなった人が多かった。(山津波に逃げ出す暇もなく)

Bさん:橋に材木が引っ掛かり、濁水が溜まってあちこち浸水したが、橋が流されたら材木も下流に流されて、スーと水が引いて行った。

Bさん:多羅尾代官屋敷のあたりは、高台でまったく被害は無かった。

Bさん:小学校も敷地が高いので浸水はしなかった。

Bさん:役場は腰くらいまで浸水した。

Bさん:当時多羅尾では14日の夜中にお盆のお見送りで川にお参りに行く。

Bさん:父と叔父が初盆の家にお参りに行っていたが、夜半雨が強くなり帰り道である谷が危険になったため山の背を通って明け方に帰ってきた。帰る途中、後ろを振り返ると通った道が崩れてなくなっていたと言っていた。

父は県の造林の仕事をしていたので、山のことが良く分かっていたから無事に帰って来られた。

Bさん:はげ山も多かったが、木が生えていても土がサラサラ(花崗岩砂質)で水が一気に流れやすかったのだと思う。

Bさん:山が崩れて土煙が上がるのが見えて収まると、家がぺっちゃんこになっていたのを見た。

Aさん:京都の宇治田原・南山城地域の方も大変な雨が降ったと思う。近くの山の童仙房(どうせんぼう)に炭焼き小屋があり親類の人が雨で動けなくなり一晩そこで野宿したと言っていた。

Bさん:牛も流されていった。

Bさん:一番被害の大きい地域に住んでいたのに助かった。Aさんの家は特に危なかった。

Bさん:水害の時は中学生で、怖かったのでよく覚えている。

【被災後】

Bさん:朝になり様子が気になって自宅周辺を見に行ったら、大人の人に怒られた。(亡くなった人が多く酷い惨状であったので)

自宅の前は濁水が溜まり,湖のようになっていた。

Aさん:同級生が亡くなって、(ご遺体が)出てきたのを見たら顔がはれ上がっていた。

家族で亡くなった人もいた。母親が赤ちゃんを抱えてお乳をあげている姿で見つかったりしていて多くの人の涙を誘った。

Bさん:従妹が亡くなり、顔もお腹も膨れ上がっていたのを見た。

Bさん:家の前に救援物資がたくさん届いて、家族ごとに分けて配った。

救援物資の中に、マカロニが入っていたが、英語で書かれていて食べ方が分からずそのままかじったが、今のものと違って固くて大きな塊だった。

今思えば、中学生だったので辞書を引けばよかったが考えつかなかった。

Bさん:当時はまだ「おくどさん(かまどのこと)」が多かった。

自宅のおくどさんは被害がなく大丈夫で、被害の無かった家のものも使って煮炊きしてみんなで食べた。

裏山の山崩れによる家屋倒壊
倒壊した家屋

裏山の山崩れによる家屋倒壊

提供:県民

裏山の山崩れによる家屋倒壊

提供:県民

山崩れで家屋倒壊
山から流された木材

山崩れによる家屋倒壊

提供:県民

山から流された木材

提供:県民

 

【多羅尾の思い出】

Aさん:その当時は皆農業で、牛も飼ったりしていた。

Aさん:童仙房(どうせんぼう)の炭焼き小屋から、父が三重の島ケ原の辺りまで炭を売りに行っていた。

母は炭を葭(よし)で炭を束ねるものを作っていた。

自分も炭焼き小屋から炭を担いだり、牛の世話をしたりして手伝いをした。

Bさん:縄を撚(よ)る機械があったと思う。

Aさん:私の所も機械があった。縄を撚(よ)って炭を束ねていた。

Bさん:3軒ほどで醤油を作っていた。また味噌も作っていた。

子供心に醤油が美味しいと思ったが、今はもう造っていない。

Aさん:味噌は今でも多羅尾の人に作ってもらっている。美味しいので子供も喜ぶ。

Bさん:小学校の校庭が狭かったので、近くの高香山で運動会をした。

オルガンなども持って上がった。

Aさん:校庭に昔は防空壕があった。

Aさん:高香山の上は、松の木があり大きな石が置いてあって、良いところだった。

Bさん:家の前が川だったので、魚はたいしていなかったがよく水遊びをした。

Aさん:山に囲まれているので、山の中を駆け回って遊んだ。

キイチゴ(バラ科キイチゴ属)を採ったり木の実を採ったり、イタドリ(タデ科山野草)などもたくさん生えていた。

多羅尾は寒くてヨモギは生えないので、春になると三重の島ケ原までヨモギを取りに行った。行くときは下りなので40分位で行けたが帰りは上りで大変だった。

Bさん:当時の胃薬(漢方薬)に入っているゲンノショウコ(フウロソウ科山野草)センブリ(リンドウ科山野草)などもあった。当時、祖母は胃腸が悪かったので、センブリを干して煎じて飲んでいた。

Aさん:多羅尾は三重に抜ける山道が八本あって、大阪の堺から徳川家康が伊賀越えをする時に身代わり地蔵さんを使って助けたといわれている。

徳川家から広い領地をもらって管轄していたので歴史があり有名な土地でもある。

全国にある多羅尾氏の名前は、多羅尾代官の血筋と関係があるらしい。

Bさん:多羅尾豪雨水害の後、校長先生が「五木の子守歌」を講堂で歌ってくれたのが心に染みてよく覚えている。

今でも覚えていて、♪おども盆ぎり盆ぎり盆から先ゃおらんど盆が早よ来りゃ早よもどる~♪~と校長の歌声が哀愁があり、今でも私はその時(多羅尾豪雨災害)のことを思って歌う。

Bさん:Aさん:多羅尾音頭や村歌も良く歌った。(お二人が歌って披露してくれた。)

(村歌)♪1200人の村人~♪/(音頭)♪残るげざんの八重桜~さあさあ良いとこ江州多羅尾~一度来てみてくだしゃんせ~♪

【幾多の教訓を生かして後世に伝えたいこと】

Bさん:どうにか今まで生かされている。

Bさん:お墓は山の上(浄顕寺)にあるが、亡くなった44名のお墓は、各家のお墓とは別に少し高いところにある。高台で村が見下ろせるような場所で村民を見守ってくれている。

Aさん:水害の碑もありお寺に祀っている。

Bさん:今の小学校は時計塔もあり立派であるが小学生が減り、近い先は老人ホームになる。

Aさん:同級生も亡くなっているので、(元気であった)数年前までお参りしていた。

Bさん:小さい時に豪雨を経験して、今の九州など各地の豪雨被害を見ると心が痛む。また心配もする。

Bさん:最近思うのは、多羅尾豪雨の時は、今でいう「線状降水帯」ができていたのではないかと思う。

Aさん:今住んでいる江田の自宅は1m嵩上げしているので、最近では浸水したことはないが、当時の多羅尾水害では床上まで浸水したと聞いている。

Aさん:200年前もこのような集中豪雨があったと伝わっている。

Aさん:最近は温暖化なのか、ひどい水害があちこちで起きているので、この話を知ってもらい役に立てて欲しいと思う。

役場の板塀に張り出された村長の告示他の掲示
小学校講堂での合同葬儀

役場の板塀に張り出された村長の告示他の掲示

提供:県民

小学校講堂での合同葬儀

提供:琵琶湖博物館

現在の多羅尾小学校
現在の多羅尾橋

現在の多羅尾小学校

撮影:滋賀県

現在の多羅尾橋

撮影:滋賀県

現在の茶出橋 橋の前は大戸川
現在の大戸川と歩道橋

現在の茶出橋 橋の前は大戸川

撮影:滋賀県

現在の大戸川と歩道橋

撮影:滋賀県

多羅尾豪雨で犠牲になった共同墓所
水難の碑

多羅尾豪雨で犠牲になった共同墓所

撮影:滋賀県

水難の碑

撮影:滋賀県


当時多羅尾豪雨の体験者 

当時信楽町(江田)町民の語り(手紙を転記)男性(当時22歳)

昭和28年8月14日11時(23時)頃から雨が降り出して15日4時頃からすごい雨が降ってきたのでこれでは危険と思い長野の警察署へ自転車で届けにいった。

警察の方も前の川の水が道路にまで近づいて来ているのを見てびっくりされた。

自転車で江田に帰る途中にかね宇の川(信楽川の水位)が石垣まで来ていた。

家に帰り一階の水が床の間の柱の上の方まで来ていたので二階に家族6人が避難した。その後公民館に移り公民館で20日間位生活した。

16日午前神山の橋の方に多羅尾から子供が流されて来た。また牛も流れて来た。

 

当時多羅尾村村民の語り(手紙を転記)女性(当時中学生)

昭和28年8月15日3時頃からバケツにぶっちゃけるほどの雨が降り4時頃母が今日はいつもの雨ではないと私と姉が寝ていた離れに起こしに来てくれた。

母屋に移って三十分位したらすごく大きなゴーッという音がしたので玄関に出たら私達が寝ていた座敷がぺっちゃんこにつぶれ無残なかたちとなっていた。

母屋に移ってから雷がひどく地鳴り、地面をたたくような感じすなわち山々全体が山津波(土砂崩れ)が発生したように思った。

父は三時頃から親せきの家に行って畳などを水に浸からないようにあげに手伝いにいっていた。

父は娘二人を死なせてしまったと思い腰をぬかしたが母親は危険をサッチ(察知)して子を守った。今も親に感謝している。

 

信楽町牧 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図

【地区の状況】

 8月14日夜半から15日朝5時ころまで、信楽町多羅尾を中心に山間部一帯は、300ミリを越す雷雨をまじえた豪雨となり、牧付近では、西山橋下流30ⅿあたりの西山川と、その先250ⅿほどの大戸川左岸が決壊し、一帯の田んぼが広範囲に冠水。近辺集落も床下・床上浸水した。

 この調査は、関西大学景観研究室と協働で行いました。

体験者の語り 男性(昭和9年12月生まれ)聞き取り日:令和元年9月11日

 僕は18歳やった。

 そのころは大雨に関する情報もなかったので、事前に警戒することは困難だった。

 うちは床上20cmほど浸水したが、隣の家は浸水しなかった。

 15日の朝7時頃、自宅から外の様子を見ていると、西山川の堤防が決壊し、そこから一気に水が流れ出てきた。その時、崩れた堤防そのものが流されたり、多羅尾方面からきたと思われる材木や牛、畳が流されていた。わずか1、2分ほどで流域一面が海のような状態になり、まるで映画を見ているようであった。

家が浸水したため,雨が降っている間はどうすることもできなかった。しかし,浸水から米俵だけは守ろうと,みなで10俵(約600キログラム)の米俵を、家の中の高所へ避難させた。

その後雨が止んでから、床上浸水した自宅から隣の浸水してない家に避難した。

 この豪雨と、ひと月後の9月にも続けて大きな台風がきて、甚大な被害を体験したので、うちではその後、隣と同じような高さに約1mかさ上げした。

 被害の詳細や箇所は、水害マップをご覧ください。

信楽町長野 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図長野

 

昭和288月の多羅尾水害 体験者の語り

男性(当時中学1年生)聞き取り日:令和3年12月7日

【前触れ】

・8月14日の夜は近くの映画館に映画を見に行っていた。

・その時長野はまだ雨は降っていなかった。(後で聞いたがその時多羅尾村は降っていたらしい。)

・雨も振っていないので前触れは全然なかった。

【その時何が】

・夜中に半鐘が鳴ったので、火事かと思い起きて外を見たが火の手はなく、2階からふっと下を見ると家の前の信楽川からチョロチョロと水が道路に溢れてきた。しばらくすると雨が降って来て、水が一気にぐぐっと川の水が溢れて道路も川もあらへん状態であった。

・集中豪雨になり橋も流れた。堤防も決壊した。

・次の日に知ったことだが、多羅尾村はあんなに死者が出るほど大変だったのは知らんかった。

・今の滋賀銀行のある場所は、元町役場だった。

・家の前に元町役場があり近くに消防器具庫があり消防ポンプ・ホースがあった。昔のポンプ方式でホースを繋いでいくタイプであった。エンジンは付いていたが、今みたいな消防車ではない。消防団員は当時ここで整列していた。

・半鐘は今の滋賀銀行(旧町役場)の近くにあった。

・信楽川から水が浸水してきて1階の店の商品を台に上げていると、どんどん水が入ってきて一気に水位が高くなったので、危険を感じて途中で両親と逃げた。

・裏側の隣家は土地が高いので、そちらにとりあえず避難をした。

・裏の隣家は浸水せず、夜中なので家人は水がきているのを知らなかった。

・浸水した水が引いた後で家の中を確認すると、床の間の壁の床から1mくらいのところに浸水した水筋が入っていた。

・布団を敷いたまま逃げたが、畳が浮いたようでふしぎに布団は濡れていなかった。

・当時中学1年生でしたが逃げた時は膝上のあたりくらいまで水が来たと思う。

・この辺は一番低くちょっとした敷地の高低差でも水が流れてくる。

・ここらへんの橋はほとんど流された。

・大戸川旭橋の山手の方向は浸水していないと思う。

・私の家から信楽駅は丸見えだった。(川沿いで見通しが良く、また家も少なかった。)

・信楽駅は浸水していない。

・私の家の前は桜並木で奇麗であったが皆流れて行った。

・現在の松尾町、材木町のあたりで信楽川が越水し、一帯が浸水した。

・現在の新町付近の商店街は後方から浸水して、商品が流された。

・近くに呉服屋さんがあって、反物も流されていたのを見た。

・大戸川と信楽川の合流地にあった陶器の工房は、全部流された。

・この「水害の歴史」(琵琶湖博物館提供)写真は、大戸川旭橋手前から信楽駅方面を撮影したもので見たことがなかったが。信楽駅の建物と「丸辰」という陶器屋が写っている。

・豪雨だった多羅尾村から大戸川へ水が一気に流れて来て大戸川旭橋の橋桁に流木などが引っ掛かり、先に大戸川が決壊したことで信楽川が流れなくなった。

・濁流が信楽川の上流に向かって逆流して来た。

大戸川に架かっている信楽鉄道の近くの鉄橋が2箇所も壊れた。

・ほかの場所もたくさん越水したが、雨が止むと低いほうへ水は引いていった。

・法務局も私の家の近くにあった。浸水した影響で重要な書類が無くなり番地がわからなくなったらしい。

・当地域は山が風化している地帯である。

・当時は「はげ山」が多く雨に弱い地域だったが、今は川が改修されて水の流れも変わっている。昔に比べて断面も幅も広くなっているのでこんなに大きな水害はもうないと思う。

・消防団などの手伝いは分からないが、皆自分のことで精いっぱいだったと思う。

・当時は今ふうのボランティアの制度はなかったが、被害が少なかった甲賀郡内(石部、水口あたり)の人が、手伝いに来てくれた。

・多羅尾水害から一月後の9月13号台風があったが、その被害の復興はまだまだであった。

【備え】

・自宅の土地は現在よりも、1.5m位低かった。

・新築するときに嵩上したが、道路は上げられないので店の駐車場は傾斜になっている。

・川の水が少し上がってくるとちょっとした雨でも水が溢れてくるので注意が必要。

・家の中の敷地に溝を切って水を流せるようにした。

・もし避難することになっても川が渡れなくなる。市の避難場所は川向こうなので行けない。川と反対の高いほうへ逃げるしかない。

・市の避難場所はないが、そちらのほうは寺と保育園があり、そこなら山手なので大丈夫ではないか。

大戸川旭橋が流失
現在の大戸川旭橋

大戸川旭橋が流失、前方が「丸辰」陶器屋

提供:琵琶湖博物館

現在の大戸川旭橋

前方が今の「丸辰」陶器屋

信楽駅近辺浸水状況跡

提供:琵琶湖博物館

大戸川と信楽川の合流点、大戸川旭橋が流失

提供:琵琶湖博物館

河岸沿い民家の状況、建物倒壊

提供:琵琶湖博物館

呉服屋他の水害の後始末する人々

提供:琵琶湖博物館

昭和28年の水害で活躍した消防団員の体験者語り

甲賀市信楽町長野区いい顔づくり推進委員会

「紫香楽アルバム」2008第4集(戦中・戦後を生きた女性たち地域を支えた青年団・消防団)(平成20年発行)より転載と要約および一部追記

当日の未明、この雨の降り方はちょっと違うなぁ...。ひょっとしたら半鐘が鳴るかもしれんなぁ...と。

それで二階から雨足を見ていた。すると間もなく半鐘が鳴り出した。すぐに半被(消防の)を着て家を飛び出した。

すると家の前の坂道まで水が出ていて、仕方なしに裏道から消防の器具庫に直行した。あたりは真っ暗闇。しばらくして夜が明けると一面の海—海としか言いようがない。そしてその中にポツンと一軒家が見えている。助けに行こうとしたが、胸のあたりまで泥水。(後で聞くと住人は非難していた)その日は何とも動くこともできん。

あくる日、街中は柴やらゴモク(いろいろなゴミが集まった物)でひどいありさま。まずそれから取り除いた、それから信楽線鉄橋の橋脚に流木やらゴモクが引っかかって街中の水が抜けないようになっていたのでソレを取り除いた。そんな調子で消防隊員は毎日、毎日片づけにかりだされた、仕事どころか、ウチの畳も水に浸かって片づけやなあかんのやけど、それどころやあらへん。毎日、毎日、町内の片づけやった。

 

 

 

水口町三本柳 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図

体験者の語り 地元の方21名による 聞き取り日:平成27年9月26日

【この調査は、立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】

【三本柳地区の状況】

 甲賀市水口町三本柳地区は、杣(そま)川左岸に位置し、信楽道、伊勢新街道、杣街道などの旧街道が交錯する交通の要所として形成された地区。杣川の渡し場にもなっていたため、宿場町としての機能も果たしていた。

 しかし、三本柳地区は杣川の渡し場としての特性上、河川のすぐそばに立地しており、それに加えて、杣川に流入する滑(なめり)川・里川・城(じょう)川の四つの河川に囲まれた地形になっていることから、大雨の時にはそれぞれの河川の増水、氾濫により被害を受けてきた。

 昭和28年には、杣川の決壊や旧里川の越水により、地区のほぼ全域が床下浸水、一部床上浸水した。同様に、昭和34年の伊勢湾台風の時や昭和40年にも地区内で床下・床上浸水した。平成に入ってからも、全国初の特別警報が発令された平成25年台風18号の時に、杣川から旧里川へ逆流して溢れた水が地区内に流れ込み数件の家が浸水した。また、城川は決壊寸前にまで増水した。

 住民の方たちの体験から、地域の特性・昭和28年の水害・昭和34年伊勢湾台風と昭和40年の水害・平成25 年台風18号の水害をマップにまとめてあります。

参考(「滋賀県災害誌」より各水害の概要)

昭和28年8月多羅尾豪雨・台風13号の水害】

8月14日~15日にかけて、多羅尾地域を中心にした甲賀郡(当時)南東部の山間部一帯で、300mmを超す雷雨を交えた豪雨となり、河川は急速に増水し随所で土砂災害も起こり、多羅尾村(当時)では、全半壊流失戸数が全村の4割という大惨事に見舞われた。

 杣川も急速に増水し、危険水位1mを越えて3mに達し、堤防の決壊や橋が流失し、建物や田畑に大きな被害をもたらした。
その復旧作業が動き始めた1か月後の9月25日、台風13号が襲来し、再び随所で河川が氾濫、決壊した。

【昭和34年伊勢湾台風】

 9月25日夜間、台風の眼が彦根地方を通過したため、暴風雨が続き、河川の堤防決壊による洪水で、浸水地域が広がった。

【昭和40年9月 台風23・24号】

 9月9日以来、秋雨前線による雨が続くなか、10日に台風23号が・17日に24号が立て続けにやってきた。台風24号は、この年の最も大きい台風で、各河川はこれまでの増水した水量に加え、さらに急速に増水し、9月17日23時頃には各地で堤防の決壊が起こった。そのため、家屋の全半壊をはじめ、田畑の流失・冠水などによる水害被害・農作物被害が甚大なものになった。

【平成25年台風18号】

 強風域半径500kmを越える大型の台風18号は、滋賀県で過去に経験したことのない暴風雨をもたらし、滋賀県・京都府・福井県に初の特別警報(平成25年8月30日から運用)が発令された。

 このため、県内各地で記録的な大雨となり、高島市鴨川と草津市金勝(こんぜ)川の堤防が決壊したのをはじめ、多くの河川が氾濫し、人家や田畑等広い範囲で浸水して甚大な被害をもたらした。

 9月15~16日の総雨量は、大津市葛川(かつらがわ)で635mmを記録している。

甲南町野尻・寺庄 昭和28年多羅尾豪雨

位置図
位置図
水害写真

川沿いの家。右側の庭の基礎が崩れ、植えてた木が流失。

(提供:杉山正男氏)


体験者の語り

「甲南町20世紀のあゆみ」より転載

【被害の状況】

 昭和28年8月14日から15日にかけて甲賀郡(当時)には大量の雨が降った。中でも信楽町の多羅尾地区では、2日間に300mm以上という集中豪雨となった。

 杣川上流でも、夜半から降りだした雨が豪雨となり、普段60cmぐらいだった杣川の水位が危険水位とされる1mをはるかに超える、3mにも達した。
これにより、竣工後、日の浅い金太(かねた)橋や野田橋は流失した。木造の橋は、洪水のたびに流失し、それを下流の湖岸近くまで拾いに行くのは大変な作業だった。

体験者の語り  男性 80歳(昭和6年生まれ)・女性 81歳(昭和5年生まれ)

 家は、野尻。杣川千歳橋の野尻側のたもとで、川のすぐ横にあった。杣川が、ちょうど家の辺りで大きく蛇行しているため、家の部分に、水がきつくあたる。

 昭和28年の多羅尾豪雨の時は、川の横に家があるため、水の音がすごかった。そら、きついきつい。水の音って恐ろしいですよ。川幅いっぱいになって流れてきた時は、そりゃあ、はたにおられへんわ。恐くていてられん。この家流れるかもしれへんなっていうてました。橋げたから川面まで5mぐらいあるやろなあ、それがいっぱいになるんやから。それが一気に流れてきて、流木やら流れてきて橋げたに当たるし。ようけ流れてました。

 川の水は茶色で、赤土が混じっていた。水の勢いは強いし、木や本棚やらいろんなもんが流れて来た。そりゃあ、すごい音してくるんやもん、そら恐いですわ。家にいられませんわ。わたしら離れやさかいに、横の母屋に逃げてた。

 離れの横の側面(川に直接面している部分)が水で大きくえぐられて流失し、上の庭の木が流失した。

 杣川のこのあたりの堤防は右岸側が低いので、左岸側のうちの方では、川の水は、千歳橋より上に来ることはなかった。しかし、向かい側右岸の寺庄の方では、川が増水すると、水に浸かりやすい。

 うちの家付近に当たった水は、はねて対岸の寺庄の方に流れ、向こうが床上浸水した。溢れた水は、千歳橋からも寺庄地域の方に流れる。橋を伝って集落に水が流れこんだ

 千歳橋は石の橋だったので、流れ落ちなかったが、千歳橋の下流の金太(かねた)橋は木橋で、流失した。水害のあと、千歳橋のあたりを見物に来る人がたくさんいた。

 私は、そのころ逓信(ていしん)所に勤めてたんですよ、今のNTTやね。汽車で大津に通ってました。

 この水害のとき、汽車が止まったんです。どこで止まったかというと、貴生川の、信楽線が杣川を横断してるとこ。

 そして、大津瀬田川沿いにある関ノ津郵便局が床上浸水した。

 そこに電話交換機があって、それが水に浸かって電話が不通になって、私は復旧に飛んでいった。電話に関する機械を二階にあげたりして。電話の復旧には、1週間かそこらかかってたと思う。

 このあたりに明治時代からの洗堰があって、そこに大雨やから水かさが増してしまって、水が引かない。それで、そのあたりが浸水した。

 昔の洗堰やから、閉めたり開けたりするのに時間がかかる。木を1本1本人の力ではめたり取ったりしてたから。(注:堰の開閉は複数の橋脚に角材を横に人力ではめる方法を採っており、全開から全閉までの作業に24時間以上かかった) そやから、大雨が降ったさかいいうて、一気に解放でけへん。それに、あんまりようけ解放すると、今度は、下流の大阪の方がもたへん。淀川の下流と滋賀県の負担の関係やろけど、いろいろ問題があるというのは、そういうことや。

 水というもんは、雨止んでからの方が、へたすると恐いんですよ。

 そこで雨が降ってなくても、どこで止まってるかわからへんし、一気に流れてくるし、気をつけなあかん。雨が止んださかいいうて、絶対に川のはたに行ったらあかん。

 それはね、流木やらが引っ掛かって、水がせき止められてダムみたいになりますやん。それが何かの拍子に壊れると、一気に来る。降ってる時よりもその後の方が気つけなあかん。雨が降った後の方が、水害の危険が大きいいうことです。そのため、雨が止んでも、川には近づかないこと。

 そして、最近の水害は、一気に水がくる。田んぼやったら水が溜まってから、その後にゆっくり流れてくるけど、今、全部水路やろ。コンクリートで固めてあるから一気に来るわな、低いとこに。それが川に集中しよるんやさかい、思わぬ水がくる。

【子どもの頃の水害体験 野尻】

 川下の方に、杣川と浅野川が合流するところがあって、杣川の水が増水すると、浅野川からの水が流れんようなって、氾濫してました。あたりに浸水してしまう。田畑やったので、人の被害はないけど。

【子どもの頃の水害体験 寺庄】

 子どものころは寺庄に住んでた。うちのほうでは、集落よりも高いところにある田んぼから水が溢れて集落の方に流れてくる。大雨が降ると、田畑から流れてくる水によって床下浸水になったことがある。

 溢れた水は川の方に向かって流れるため、裏手の田畑の方からきた。うちも床下に水が入りかけたことがある。そやから、家に入らんよう、田畑の方、川に向かって背中の方の家の横に、土のうを積んでいた。

 川から溢れる水だけでなく、山や田畑から流れてくる水にも注意していた。

 避難するときはお寺の横の寺庄公民館へ。合図等はなく、個々の判断で避難した。

 杣川右岸の千歳橋下流、千歳橋に続く道路は水害の危険が高い。住宅地の部分に土のうを積んだ。


伝承・言い伝え