メイド・イン・滋賀(甲賀・日野製薬)

甲賀日野の位置マップ
  • 地域/甲賀市、日野町 他
  • 主な製品/医療用医薬品、一般用医薬品、配置用家庭薬
  • 問い合わせ/滋賀県製薬工業協同組合 〒520-3433 滋賀県甲賀市甲賀町大原市場700 電話:0748-88-3105 ファックス:0748-88-3154

人々の健康を見守る滋賀のくすり

滋賀の薬の歴史は遙か古代にさかのぼる。

「あかねさす紫野(むらさきの)ゆきしめ野ゆき 野守(のもり)はみずや君が袖ふる」

額田王(ぬかたのおおきみ)が大海人皇子(おおあまのおうじ)におくった、有名なこの和歌は蒲生野(現在の東近江市)で行われた「くすりがり」の時、詠まれたものだといわれている。古代人は病気になったり、怪我をした時、苦しまぎれにその辺りにある草や木の皮などいろいろなものを食べ、長い間の経験から薬草の知識を積み上げていったと想像される。中世、織田信長は滋賀の最高峰で、薬草の産地である伊吹山の麓で薬草園を開いた。

戦国期、甲賀忍者たちは薬草を育て、常備薬や敵を眠らせる薬を作り、忍(しの)びと言われる者は全国でその薬を売って歩いて生計を立てていたと伝わっている。飲めば水代わりとなり、飢えをしのぐことができるという、すごい薬の処方が記録に残っているという。旧甲賀町史によると江戸末期に渡辺家が農閑期の副業として売薬を営んだのがきっかけで盛んになったとされている。

一方、日野町の薬の歴史は日野売薬の創始者、初代正野玄三にはじまる。玄三は母の病が京の名高い医師の診察で全快したことから、自身も医師を目指して勉学に励み、開業。より多くの人々を救いたいという思いから「万病感応丸」を開発し、日野商人が全国で売り歩いた。薬の評判が広がり、日野ではこの薬を製造する業者が増え、町内の村井・大窪という地区だけでも110軒の薬屋があったと記録されている。現在、正野家は当時の店舗と作業場の面影を色濃く残して、観光案内所と休憩所を兼ねた日野まちかど感応館として再活用されている。

明治末期には甲賀・日野地域で次々に会社が設立され、製造業者51戸、薬店110戸、行商をする者が400名余りにも増えた。昭和期には設備の近代化が進み、販路も国内ばかりでなく アジア諸国にまで広がり、滋賀県の家庭薬工業は富山、奈良と並んで三大配置薬県として発展した。

一方で、薬事法の公布、国の基準、環境保全対策といった製造の必須条件に年を数えるごとに対応してきた。

最近、よく耳にする「ジェネリック医薬品」。これは新薬の独占販売期間が終了した後に発売され、新薬と同じ効能・効果でありながら、新薬に比べて低価格な医療用医薬品をいう。産地では数社がこのジェネリック医薬品に取り組んでいるが、製造するための設備や体制の整備に相当の期間と費用がかかるため容易なことではない。

一方、市販薬においては、近年急増している大型ドラッグストアとの取引価格は厳しく、産地を取り巻く環境は穏やかではない。そうしたなか、「スイッチOTC薬」は、これまで医療用医薬品に限って使用されていた有効成分を市販薬にも配合したもので、より効き目が良い薬を薬局で購入できるようにした医薬品である。こちらも開発費と設備投資が必要でありハードルが高い分野であるが、市販薬の高付加価値化が可能であり、今後の取り組みが期待されている。

滋賀に製薬産業があることを知らなかった人もいるだろう。産地では知名度アップにも力を入れている。2010年には念願の「くすり資料館(仮称)」が建設される。歴史の紹介や資料の展示だけではなく、体験学習型と、美と健康のテーマ館にするプロジェクトで進行している。まずは地元から、甲賀・日野製薬はこれからも人々の健康を見守りつづけていく。

(取材:2007年12月)

日野まちかど感応館前
日野まちかど感応館
甲賀・日野製薬の集合写真

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KokaHinoMedicine
製造風景
忍術屋敷
甲賀流忍術屋敷
感応館内
日野まちかど感応館
キャッチコピー「母なる湖・琵琶湖。-あずかっているのは、滋賀県です。」