旧八日市市内の道路寸断
写真:滋賀県所蔵
【昭和34年伊勢湾台風葛巻の概要】
伊勢湾台風の襲来時、そのひと月前の台風7号の影響による、日野川左岸霞堤(上原)の 決壊部分が仮復旧であったため、日野川の水位が上昇すると同時に越水し始め、葛巻が浸水した。これまでの過去2回の水害と比べると、一番浸水が深い。
体験者の語り(昭和17年生まれ)
伊勢湾台風の時は、水害を2へん目、3へん目と体験していたから、物をどけたり上げたりするのは、多少はしっかりとできたけどね。
体験者の語り(昭和2年生まれ)
昭和28年台風13号のときに切れた霞堤”上原”を、一旦直してもらったけど、昭和34年8月の台風7号の時に、同じ場所がもう一回切れた。
それで、ひと月後の34年の伊勢湾台風の9月23日の時には、台風7号で切れた場所は,、まだ仮復旧でした。
仮復旧であるため、堤防は無いのと同じような状態で、日野川の水位が上がると同時に、葛巻が浸水してきた。
昭和34年の伊勢湾台風の時は、時間的な余裕が無かった。日野川の水が上がったと同時に浸くんですから、水位がますます上がる。経験した水害の中で一番被害が大きかったです。
体験者の語り(昭和6年生まれ)
伊勢湾の時は、私は消防だったから出てた。夜中だったのに星空が出てるしよ。「どうなってん。これは台風の目や」ちゅうて話して。
体験者の語り(昭和5年生まれ)
昭和34年の伊勢湾台風の時、ウチの家には牛がおったんです。牛が逃げたらあかんと思って、家の床まであげた。そうしている間に、水は浸いてくるしやな、水の藻やら草やらがダ~っと入ってくるし。その時は何もどうも出来ひんし見てたんやけど、牛はジ~っとしていました。
その水害後は、ミソもクソも一緒くたんなんや。汚い。現在もまだ、ウチの前の家には、水が浸いた跡が残ってる。
体験者の語り(昭和14年生まれ)
台風の時は、水が浸くのにそんなに時間がなかったのと、夜やったしな、牛を預けに行くという時間も無かった。まず、米を台に上げる、牛も上げて繋いだりと、そんな準備をしていました。
でも、前(昭和34年台風7号の水害)の水位よりか、上がってきたさかいに、台に置いていた米がグ~と浮いてヒックリかえった記憶がありますわ。
体験者の語り(昭和13年生まれ)
伊勢湾台風の時は、28年の時に比べて、もう60cmほど、ウチの家で高く浸いたな。
【昭和34年伊勢湾台風時の状況】
ひと月前に襲ってきた台風7号によって、愛知川の御幸橋上流が決壊し、愛知川町や八日市市域で多くの家屋に浸水被害が出た。その傷跡が消えないうちに襲ってきた伊勢湾台風によって、愛知川は4か所で決壊し、再び、旧愛知川町や旧八日市市、水茎干拓地などで被害が拡大した。
体験者の語り
雨やら風やらが強うて、常時ここらは警戒態勢に入ってました。
その当時、私消防団に入ってまして、水がどんどん増えて、上流の方では木を流して水を押さえるようなことを、4・50人出てやってはりました。
その後どんどんどんどん水が増えてきて、「これはもう危ない。もうやめとこう。」言うてみんな引き上げた。
以後、消防団だけが堤防の警戒に行ってたんやけど、風と雨が強く、堤防はちょっと高いとこやから体が飛ばされてしまうで、四つんばいで警戒しておりました。
その当時、昔の人が堤防が揺れるっていうてたとを聞いて、そんなに堤防って揺れんねやろうかと思ってましたが、実際、四つんばいになってたら堤防がぐっと動きよる。それにはびっくりしましたわ。
それから、水はどんどん増えてくるし、もう堤防いっぱいまで来て、堤防がバサーバサーっと流失するわけや。もう、これは危険やと引き上げました。
その後10分程したら、水がガーっと引いた。何で引いたんかというと、上流の2箇所で決壊した。それで水がずーっと引いて、それでまあ、難を逃れたんじゃけどな。危機一髪いうとこまで行きました。
台風の時は、南東の風やろ。風が吹いてきたら、水をこっち(左岸側)に寄せてきよんねん。ほんで、どんどんどんどんこっちの水かさが上がりよんねん。そやから、堤防の上を水が流れたった。
泥水が流れてきたら、ほんまに水の上は真っ白なんやわ、泡でな。それは、恐ろしいわ。もう、水の音もゴーいうて、大きい木がどんどん流れてきたんや。もうそれで、集落だけは何としてでも守らなあかんと、みな必死でした。
ほんで、昔から、愛知川のずっと上流から、堤防を切っといて水が遊水地へ流れるようにしといて、しばらくしたらまた愛知川に戻っていく「霞堤(かすみてい)」いうシステムになってる。上から、順番に水をちょっとずつ押さえていくいうことやな。
そやから、あっちの堤防こっちの堤防ゆうて、少しずつ切れてます。で、ここらは、幾重にも藪があって、藪の中に堤防がある。
壊れた春日橋
提供:妹町自治会
体験者の語り 男性6名(昭和6・8・25~27年生) 聞き取り日:平成26年8月8日
【この調査は、立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】
東近江市の旧愛東町区域は、愛知川の右岸に位置し、鈴鹿山系を水源とする愛知川および加領川等の中小河川の氾濫によって形成された扇状地が広がり、県内有数の農業地域である。
妹は、愛知川右岸の河岸段丘の高台と低地の2地域に分かれており、高台の集落は「上の段」低地側は「下の段」と呼ばれている。かつては、「下の段」のみが居住地区だった。1756年の洪水をきっかけに「下の段」から「上の段」へ移住が始まった。
伊勢湾台風のひと月前の8月13日から14日にかけてきた台風7号により、愛知川や周辺の河川は氾濫し、堤防が決壊。旧愛東町区域は広く家屋の浸水被害を受けていた。
その傷口も消えないうちの9月16日、伊勢湾台風はやってきた。
愛知川の破堤はしてないが、溜め池の水があふれ(野水)、国道307号を川のように水が流れた。一面が浸水し、現「道の駅あいとうマーガレットステーション」周辺でも浸水があった。
昭和2年に架けられた春日橋が被害を受けた。
住民の方たちの体験から、昭和13年の水害・昭和28年台風13号・昭和34年伊勢湾台風・昭和36年第2室戸台風・昭和40年台風24号の水害をまとめてあります。
近隣の上山(かみやま)町の被災の様子
提供:妹町自治会
体験者の語り
語り者:県民A、県民B
【この調査は、琵琶湖博物館と協働で行いました。】
1. 伊勢湾台風とその影響
当時の雨は、今のような降り方ではなく殴りつけるような、横殴りの激しい雨でした。当時、私は消防団に所属しており、2時間おきに川の水位を確認しに行っていました。横殴りの雨だった、そんだけ風が強かったのです。台風が来る前に、ラジオや役場からの連絡で事前に「面戸(めんど)」をはめる準備をしました。ライフライン(電気・水道)が途絶えることはなく、避難もしませんでした。(県民A)
和田集落の堤防は伊勢湾台風でも壊れませんでしたが、村内の水路が溢れ、道が一時的に川と化した箇所もありました。特にお地蔵さん付近は、村の中で最も低いため水が溜まりやすかったのです。また、山の一部が崩れる土砂災害も発生しましたが、地盤が高い家が多かったため、家屋への大規模な浸水被害は免れました。
その頃、今の堤防の下や工場のあたりは、ずっと竹藪が広がっていました。堤防の幅も今よりずっと狭かったのです。川には「内堤防」と「外堤防」がありました。内堤防は小さく、藪の中に川がありました。外堤防から流れた水が集落のほうへくると困るので、内堤防がこの地域にはあります。ダムができてから水の量が調整されるようになったので心配しなくてよくなりました。昔は堤防から愛知川を見ていても、雨が降って一面に流れてくると怖い思いをしていました。降っただけで水かさがじきに上がりますので。川の流れが急なので永源寺の方で伐採された木がたくさん流れてきていました。和田は山が崩れなければ水がつくこともないですが、伊勢湾台風での土砂崩れをきっかけに、町が動いてくれはって砂防工事をしてくれました。昔はいつくずれるかわかりませんでした。この台風をきっかけに、山の斜面の砂防工事が進められました。これにより、現在では山も整備されています。集落は田んぼよりも土地が高く、村に水が入ってくることはあまりありませんが、山が崩れて排水路に水が流れ込んできたことは数回ありました。山に近いから集落の地盤は高いですが、山沿いに集落があるため、土砂災害の危険性の方が高いかもしれません。
うちの村の消防は字に4人いました。今は愛知川の川の水を見に行くことはありません。昔は川の様子を見に行く必要があったので、消防の数が4人というわけです。ダムができる前は、一面にダーッと水が流れて波打つくらいで怖かったです。ダムができてからは、愛知川の水に対しては特に意識しなくなりました。水の流れも穏やかです。ここらは、簗瀬(やなぜ)から神郷(じんごう)あたりまで内堤防があり、また愛知川も二段堤防になっているので集落は守られています。集落の田んぼが低かったり、竹藪があると水が堰き止められて一時的にそこにたまり、集落まで来ることはありません。昔から色々考えられています。戦前は、今の畑があったところ、簗瀬あたりは一面が桑畑でした。水害対策の一環だったと思います。
周辺地域では、昔から「切れたら奥村か神郷か」と言われているように、低地の集落が先に被害を受ける傾向がありました。近くの大同川からの被害は和田にはありませんでしたが、川が集落の中を通る河曲(かまがり)や、すぐそばを通る長勝寺(ちょうしょうじ)といった低地の集落の人たちは、土地も低いので怖かったと思います。昔自転車から長勝寺のお寺辺りを見ると、水につかっていることがありました。
2. 水害対策の知恵:面戸と竹藪
和田地区には、増水時に集落への水の流入を防ぐために二箇所「面戸(めんど)」をはめていました。増水時、堤防の切れ目にある2か所に厚い板をはめて水の流入を防いでいました。昔の道は今のように立派ではなく、リアカーや人がようやく通れる2メートル幅ほどの細い道でしたが、雨がひどくなると消防団と自治会が協力して、近くの倉庫から4~5枚の厚い板を運び出し、この面戸を設置しに行っていたのです。今のような広い道ではなく狭かったです。道の広さは1間(約182cm)ちょっとくらいだったと思います。道の両側に面戸をはめる石門がありました。面戸の板は4~5枚くらいで、以前は集落の倉庫に入れていました。面戸は伊勢湾台風以降はめていないと思います。ジェーン台風(昭和25年)の時もしていません。何かあったらはめようという話だけで、実際はめにいってないと思います。私がはめにいったのが最後だったと思います(県民A)。
また、堤防周辺に広がる竹藪も水害対策に重要な役割を果たしていました。この竹藪は、増水時の水の勢いを和らげる役割や、強い風や雪を防ぐ防風林としての役割も果たしていました。しかし、現在は竹藪がなくなって工場や砂利置き場になったため、冬場などは北風が直接吹き付け、砂埃が飛んでくるようになりました。墓地ではない方の道にある面戸は、道を拡幅する前までありました。墓地の方の面戸はなくなり、今は更地になっています。道の方面戸があったところは、以前は両サイドに竹藪があって、雪も防げていました。今でも針金の竹留めだけが残っています。お墓のところは地盤が低いので、昔は雨が降るとたまに墓が浮いていました。
3. その他の台風被害
1990年(平成2年)の台風19号では、愛知川八幡橋(やわたばし)が決壊して、種町が水がついて日本電子硝子工場の駐車場はひどいもんでした。仕事へ行く時、土手を通っていたのですが、車が二台、三台積んでありました。ヘリコプターが来ていました。会社についてから、何かひどいことが起こったと聞きました。あの時お一人駐車場で亡くなられたと聞いています。決壊さえしなければ問題なかったのではないかと今は思っています。ダム(永源寺ダム:農業用利水ダム)ができていたけれど、上手く水量が調節できなかったからだという話もありました。(県民B)
4. 愛知川の記憶:砂利取りと競馬
昔の愛知川では砂利採取が盛んに行われていました。当時の河原は今よりもはるかに広く、桑の木や背の低い松林がたくさん生い茂っていました。愛知川の右岸は長野、左岸は簗瀬でしたが、簗瀬の方が深く、砂利を採取する場所によって川底の深さも異なっていたといいます。
砂利の運搬には馬車が使われ、その荷台には竹を敷き、その上に砂利を積むといった工夫がされていました。また、採取後の河原では「河原普請(かわらぶしん)」と呼ばれる作業が行われていました。これは、蛇籠(じゃかご)を組んだり石を運んだりする県からの日当仕事でした。竹で蛇籠を編む先輩を見たことはありますが、私(県民A)自身は経験していません。この仕事は村の人々によって行われ、農業の閑散期に、普段の百姓仕事の合間に行われていたようです。この作業が最後に行われたのは、戦前から終戦後の昭和22年か23年頃までだったと記憶しています(県民A)。
さらに、60~70年ほど前には愛知川の土手で競馬が行われていました。懸賞金が出され、村全体で賑わう一大行事でした。愛知川の土手を馬が走っていて、競馬が行われていた記憶があります。年に一回くらいで、2年くらいされていました。私(県民B)が小学校に行くか行かないかくらいの時に、一回見たことがあります(県民B)。今は行われていません。簗瀬の竹藪に馬をつないで、墓の横くらいからスタートして、和田を出たところくらいがゴールでした。お宮さんの鐘を持ってきて、出発する時にその鐘を鳴らしていました。各村が懸賞を出していました。外堤防との間の河原を馬が走っていて、「馬駆け(うまかけ)ばんばん」と言っていました。馬は、本当の競馬用の細い足の馬ではなく、太い足の馬を使っていました。おそらく砂利を運んでいた馬車馬の馬だと思います。昔はたくさん飼っていました。奥村や河曲、大同川の淵でも飼っておられる人がいましたが、和田にはいませんでした。昔、河原に降りる足場板が6枚ほどもありましたが、今は処分してありません。8~10cmくらいの分厚さで長い板でした。ずれないように針金でくくってあって、河原普請や村の行事に使っていました。
また、愛知川は子どもたちの遊び場でもありました。冬には和田山に雪が積もると、自分たちで竹を切り出し、先を炙って曲げてソリ(竹スキー)を作りました。これを持って木のミカン箱に乗って山の斜面を滑り降りるのが冬の楽しみでした。今は愛知川に行くこともありませんが、昔愛知川に蛇籠(じゃかご)があった時はその周りは水がついて深さもあったので魚がいて、簗瀬付近の水たまりで夏には魚を捕ったりしました。家で炒った空豆をタオルに包んで持っていき、愛知川で泳ぎ、疲れた時に食べるのが最高のおやつでした。また、川沿いにあった桑の木の実(どどめ)を食べ、口の周りを真っ黒にして遊んだことも懐かしい思い出です。
5. 現在の防災と未来への懸念
和田地区では、現在も防災への取り組みを続けています。今でも年に3~4回、在所の溝掃除(河川清掃)をしています。また、毎年8月末には地区全体で防災訓練が行われ、安否確認や消火栓の使い方も確認しています。細かい訓練をしなくても、この村は40軒ほどの小さな集落なので、隣近所誰がいて何人いるかお互いに把握しています。この繋がりの深さが、災害時における最大の強みとなっていますが、だんだん人が減ってきているので将来のことを考えると心配です。
現在の和田地区では、防災の意識や知識もあり、また現在はダムや河川改修が進み、以前ほど水害を心配することはなくなりました。誰も愛知川が決壊するとは考えていません。今は問題ありませんが、最近のゲリラ豪雨や集中豪雨で、集落にある川も急に氾濫する可能性はぬぐえません。その際排水できるのかどうかということに不安があります。