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高島市 昭和28年9月台風13号その1

水害履歴

位置図
位置図
災害写真

決壊した安曇川からの洪水に襲われた、朽木市場の大惨状

場所:朽木市場集落 提供:高島市教育委員会

朽木市場1 昭和28年9月台風13号

位置図
位置図
水害写真

流れてきた丸太。家に突き刺さっているように見える

提供:県民

道路に堆積している泥やごみを、背負子で運ぶ婦人会の方々

堤供:高島市教育委員会


【朽木村市場(現高島市朽木市場)の昭和28年台風13号の水害状況】

  • 朽木谷と呼ばれる、広い旧朽木村域のほとんどが山地。豪雪地帯だが、古くから谷筋に、北陸と京都を結ぶ街道が開かれている。
  • 市場では、降り続いた台風13号の大雨のため、北川が山神橋付近で越水し、安曇川が「切れと」で決壊して、洪水が双方から、集落に流れ込んだ。
  • 安曇川の洪水は、高台にある朽木小学校への盛土の道路に阻まれていったん止まり、そこに溜まったが、道路が持ちこたえられなくなって崩落したため、集落に流れ込んだ。
  • 洪水はさらに、行く手にあった人家で再び遮られてダム化し、集落全体が床上1mほども浸水した。
  • 水の勢いに、3軒の人家が流失したので、ダム化が決壊し、集落の水は引いて、さらに先に流れた。
  • 安曇川は、朽木村市場より下流の、青柳村二ツ矢(現安曇川町青柳)や本庄村川島(現安曇川町川島)でも、決壊している。
  • 市場周辺でも、北川の山神橋が崩れ、安曇川の船橋が落橋し、さらに荒川橋も落橋したので車も通れず、孤立状態となって、徒歩でしか入れなくなった。
  • そんな中、近隣集落から大勢の人が、毎日市場へ、食糧を背負い、災害復旧の手助けに通ってくれた。

体験者の語り 男性 80歳(昭和11年生まれ) 聞き取り日: 平成28年10月25日

 当時私は17歳で、中学を卒業して、百姓や山の仕事の手伝いをしていた。まだ消防団にも入ってなかった。けど、父が戦死してたので、中学生でも、部落の普請(ふしん:労役)やらに出て来いといわれ、行ったりしていた。

 役場が住まいの隣で、昭和28年の災害のあと、手伝いに来いと言われて職員になった。

【一筋がものすごく太い豪雨】

 昭和28年台風13号のときは、9月23日頃から雨が降りだした。雨やので仕事はできず、家にいた。9月25日が雨の一番のピークやった。昼過ぎ頃、堤防が切れるかもわからんので、総普請(全戸出役)で堤防の水防に出て来いということで、父がおらんから行った。

 いつもよう切れる「切れと」へ行って、杭を打って、堤防補強したりしてた。

 3時頃かな、その頃ものすごい大雨で、一筋がものすごく太い豪雨で、堤防の道より川の波の方が高いぐらいで、これはもうあかん、堤防どころではない、帰って家族を避難させなあかんいうことで、みな帰った。

 避難するときは、9月やから夕方になったらもう薄暗い。

 うちに、農耕用の牛を飼ってたけど、それを避難させるのに大変やった。牛は、雨がきついし怖がって動かへんのや。年寄のおばあと母親と3人で、牛の尻を叩きもって、学校の方の高台へ連れて行った。

 うちの家族は、祖母と母親と、弟と妹の5人家族やった。弟妹はまだ小さいし、牛も連れて大変やった。ここらの近所の人も、学校へ避難した。たいがい、着の身着のままで避難してた。そんな大きな災害と思わへんかったし。その時は安曇川はまだ、決壊してなかった。

 それまでも、昭和25年にジェーン台風やらいろいろあったんやけど、それは、家のへんにひたひたと水がくるぐらいやさかいに、今度もそれぐらいで済むやろ思とったが、この時は大災害になってしまった。

【安曇川決壊】

 学校へ避難しても、何時頃か、もう時間もわからへんぐらいや。市場は大騒動で、そこらもう、家無いん違うかいうぐらい、大騒ぎやった。

 山神橋付近の川原にあった家は、北川の水位が上がって水が盛り越して、冠水のような状態で水害に遭ってしまった。

 そして、安曇川が決壊した。その洪水が、前方にあった小学校への取付け道路が堰になって、いったん止まった。

 ところが、取付け道路の石積みが持ちこたえられなくなって崩れてしまった。それで、そこにダム化して溜まってた水が、山沿いの農地を一気にガーッと進み、集落の方へ押し寄せた。

 その水は、集落の端の家で流れを遮られて、再び、ここでダムのように水が溜まってしまったので、集落内が床上で1m以上も冠水した。

 けどそのうち、その水の当たる人家が耐えられなくなって、集落端の3戸が流れたさかいに、うちの前の通りもさーっと水が引いた。3軒流失して、ダム化したところが決壊したので、集落に溜まっていた水が、さーっと引いた。

【写真の説明と 取付け道路崩落の原因】

・この子どもが座ってるあたりでも、田の面から3~4m以上の高さがある。

 取付け道路は、わりあい急な坂道やった。その当時は歩くだけで、自動車は通らないから。道筋は今の道とだいたい同じ。

 道は、子どもの座ってるところぐらいから上は、階段になっていて、そこから学校へ上がって行った。この小屋は、自転車置き場。遠いところの子どもらは、ここに自転車を置いて、歩いて階段を上がって学校へ行った。石積みは、今も階段横に少し残っている。

 今の新しい道は、車も通れるように、階段の横につけた。崩れた道は、写真の子どもがいるところからはきゅっと急な坂で下がり、下の道まではなだらかやった。田んぼから、そのなだらかな道までの高さは、1mそこそこあったので、水が溜まった。

・安曇川の堤防は盛れてて、田の面から1~1.5mぐらいはあったので、堤防が決壊したときの洪水は、小学校への取付け道路と山で囲まれて、湖ができ、ダム化した。しかし、取付け道路の石積みに洪水がどんどん当たり、あまり丈夫でない石積みは持ちこたえられなくて、崩れた。

崩落した学校への取付け道路

提供:県民


 もう一つの崩れた要因は、上流からたくさん大きな木材が流れてきて、それが石積みを叩いたから。コンクリートみたいに頑丈やない、ただ石を積んだだけみたいなもんやから。

【明るくなって見て、唖然とした】

 一面水やった。家の裏にはごっつい丸太がどーんときてたし、役場の事務所も水に浸かってた。家も、床上1mぐらいまで水がきてて、仏壇の仏具やらが何もないぐらい、みな流失してた。家は完全に水に浸かってた。

 それで、家を建て替えるときは、ここらみな、1mほどかさ上げした。

役場前の道路。家の中から掻き出された土砂や、壊れた家財道具などが道いっぱいに積まれている

提供:県民


 写真もあるけど、水がちょっとずつ引いていったら、家は壊れて中は泥だらけで、道やらあちこちに、流れてきた木や家財道具やらが、堆積してた。役場前の道路から、慶宝寺の参道からすべてのすきまが、流木や板切れやらで、埋もれてた。もう、どうしようもない。

【朽木の土用切り】

 堆積物には、流木が多かった。

 当時、林業中心の朽木では、「土用切り」と言って、夏の土用の頃に木を切って、切った長い木を枝やら払ってそのまま寝かして、乾燥させていた。その後に数mに切ったりしていた。流れてきた長い木はその、切ったままの木材やと思う。

 夏に切って乾燥させておいて、単木流しいうて、1本ずつ安曇川に流した。夏は川に水がないので、秋口になって水があがって来たときに流す。この頃はそういうことをやってたと思う。

 山のあちこちに木材の集積場があって、10mとか20mぐらいの木を寝かせてあった。そして、短く切って置いてあった溜まり場の木も流れてるさかい、流れてきた木も、長いのや短いのやらいろいろあった。

 この時は、対岸の彦根とかの人は、流れてきたかなりの木材を集積しはったみたい。昔は、災害があって自分とこに流れてきたのは、もらってよかったから。

 それと、昔は橋が、木で作った板橋やったから、それが流れていった先から連絡してくれはって、木之本やら長浜やら彦根やらに取りに行かはった。橋の板に、集落の名前を書いてあったから。

【やっぱり、避難はせなあかん】

 集落ではだいたい避難したんやけど、避難しなかった人が2人だけいた。

 1人は、慶宝寺参道沿いの家の人。もう、水が来たので、角にあった桜の木につかまって助かった。ずっとつかまってて、水が引いたから、やれやれ助かったいうことです。

慶宝寺参道と、人がつかまった桜の木

提供:県民


 もう1人は、役場横の農協の向かいの家の人で、「そんなもん、いつもといっしょで大したことない。」いうて高をくくってはった。そしたら、水がどんどんきて。 

 そこは、もともと、家がちょっと低かった。それに平屋で。

 それでも、屋根伝いに隣まで行って、農協へ助けを呼んだ。

 農協は建物も大きいし、前の道ももっと狭かったんで、綱を投げてもらって、その綱伝いに大洪水の中、流されそうになりながら農協へ逃げたらしい。1m以上浸水してるしね。農協は大きいし、3人ほど当直がいたから。

 その時分は、農協には当直がいた。当時から農協は銀行みたいな機能があって、お金もあったし機械もあったんで、その守りをしてなあかんから、当直は逃げてない。 

 あとで「もうちょっと待ってたら水が引くのに、なんでそんな危ないことしたんや。」いうて、みんなに笑われてましたけど。

 2人とも、「申し訳ない。やっぱり、避難はせなあかん。」いうてました。

【切れと】

 終戦後の復興で山の木を乱伐したさかい、朽木は、谷という谷が全部荒れてきた。

 安曇川の水位は、昭和の初めごろは、河床が低いから、集落の方から見て、堤防の上に木流しの竿が見えるていうことはなかったけど、この水害が起こった当時は河床が上がっていて、川底と道と変わらんぐらいまで、上流からの砂利が溜まってた。 

 そやから、今も50mmぐらいの雨が降ったら、堤防を見に回るのが、市場区の消防や役員の役割です。

 その時切れたところは、いつも切れるところ。安曇川の流れがいつも同じ場所に当たり、何度も切れるので「切れと」と呼ばれている。

 市場と隣の岩瀬との境目やけど、市場区で設置した大神宮いうお宮さんを昔から守ってます。毎年9月1日防災の日に、祈祷してもらってる。

【たくさんの人が、毎日歩いて通ってくれはった】

 ありがたかったのは、親類縁者だけでなく、近隣の集落の人がたくさん来てくれはったこと。今の災害ボランティアゆうのか、遠いとこからも、毎日、歩いて来てくれはったんですよ。1週間以上もね。

 遠かっても毎日通ってもらわな、市場の中で泊まってもらうとこがないんですよ、大惨状で。道はあちこちで崩落してるし、荒川橋は流れてたしね。

崩れた山道を歩いて市場に入る救援の人々

提供:県民


 安曇川の宮ノ越橋の近くが決壊して、荒川橋が落橋したので、車や馬車が県道を通れんようになった。それで、荒川橋手前の朽木長尾が中継点になって、人も荷物もそこで降ろし、そこから、荷物を肩に担いで、荒川橋を通らんでもいい細い山道(旧道)を歩き、高岩橋(関電の堰のあるところ)を通って市場へ来てくれた。 

 山道で大変な中やのに、10kg20kgの荷物を背負って歩いて来てくれた。写真でみても、背負ってはる荷物は、けっこうな大きさです。荷物は、食糧、お米。

 市場へ入る橋の山神(さんじん)橋は、市場側のたもとが崩れて落ちたが、板を置いたりして、なんとか歩いて渡れたと思う。

 北川も水が盛り越してたけど、低い方の山神橋に近いところが溢れたので、市場の北側は、水没してない。

 (注:新聞報道等によると、完全孤立の朽木村へ救援第1陣として、9月27日早朝、今津町から21人、饗庭村から37人の青年団員が救援米などを担いで出発。安曇川はまだ濁流が渦を巻いていて、道らしい道など全くない中、下流の広瀬村(現安曇川町)からは、約16kmの道のりを強行突破して、正午頃やっと朽木村市場に入る。 

 市場内はまだ30cmほども水が残り、役場等を除き、どの家も崩壊して泥にまみれ、手の付けられない荒れよう。救援米の、1人おにぎり一つの炊き出しにも、歓声が湧いたという。)

市場へ入る北川の山神橋が落橋

安曇川にかかる、コンクリートの立派な荒川橋が落橋

写真:県資料


 稲刈り前やったから、米は全くだめ。集落内でも、30cm以上土砂が入ってしまってるし。

 田んぼは、お米をつくれるようになるまで、3年ぐらいかかった。今は重機で泥もすーっと取れるけど、当時は泥を人が運んで取り除いたり、わざわざトロッコの線路をを引いて、河原までトロッコで出してと、もう大変や。 

 畳は全部ほかす。床下には土がいっぱい入ってるし、床板を全部上げて中の土を出さんことにはあかん。それがまた、日が経ってくると臭い。何ともいえん臭いや。 

 市場は孤立状態で、車が通れんので、周辺の集落から、救援物資を担いで歩いて持って来てくれた。

 市場だけでなく、朽木中の周辺集落の人が、何日も来てくれた。宮前坊や野尻は、農地は水没してたけど、人家まで影響はなかったので来てくれた。

 朽木もやけど、安曇川沿川集落は、いくつも堤防が決壊して大変やった。 

 幸い、朽木は死者がいなかったけど、他では亡くなったと聞いている。

【災害後、朽木村職員に】

 この災害の後、私は役場に来いといわれて、職員になりました。もう、谷という谷は全部歩いた。

 みなで復旧の手伝いをし、うちの母親なんかも、砂防用のコンクリート運びをしてました。今は1袋20kgのセメントやけど、当時は30kgです。30kg入りの袋を背負って、1~2kmの山道を上がってました。工事のために、人夫で運ぶわけや。ケーブルも張れへんような山の中やから、大変や。それが仕事でした。今は、仮設道路やとか造ってるけど、当時は細い道を造って、歩いて運んでね。朽木だけではないと思うけど。 

 復旧の時は、自衛隊やらの手助けはなかった。ある程度は地域の人がした。土地改良やらもあったけど。 

 なんせ、重機ね、ブルドーザーてない時代ですからね。トロッコの線路をわざわざ敷いて、河原まで土を運ぶぐらいやから。

 「切れと」の仮復旧工事も、とりあえず住民で、仮の仮の工事をした。 

 写真でもわかるように、堤防が決壊して集落へ入り続ける水の流れを変えるため、流れのきついところに、杭を打っている。こんな長い決壊個所を工事するのは大変やので、流心のところだけを処置して、水を跳ねたというわけやね。

「切れと」の仮設の水制工

提供:県民

 竹を網代(あじろ)に編んで、土のうを積み、杭を打つ。昔はシートがないから、竹で編んだ。水を止める蛇かごも、みな竹の蛇かごやから、竹蛇かごを編む人は、貴重な人でした。 

 当時、堤防に竹藪もあったけど、今は全くない。

 昔は、川岸には全部竹藪があった。この頃、安曇川もみな、竹を切ってしまってる。手入れができんで、竹がどんどん川の中へ入ってしまい、流れる断面がなくなってしまうから。 

 昔のように、ちゃんと手入れして、タケノコも取ったりすると、堤防の中に根を張って侵食防止にいいんやけど。 

【水害は、逃げる時間はあるんやから】

 小さい川は、災害に遭うのは何回かぐらいやろし、昔は、自分とこに土砂がきても、自分らでがやがやとしとかはったと思うんやけど、役場に入ってしたことは、元を止めなあかんということで、砂防もきばってやってもらった。 

 大した水やないやんて言われるけれど、なんぼ強固な堤防でも、針の穴から大災害が起こるて言われるぐらいやさかい、気を付けて早めに手を打つことやね。 

 安曇川はおかげさんで、今は静かです。

 まあ、パトロールして、危ないなと思たら早めに逃げることやね。水害やったら、まだ逃げる時間があるんやから。

 地震やったら、バーンときて終わりやけど、雨の時は、時間がある。市場は、裏は急傾斜というぐらいの山で、上の方は、小さな谷がかなりある。山から安曇川に直接流れてくる谷や。そやから、土石流やらあるけど、そこに至るまでの時間があるんやから。 

 まして最近は情報がたくさんあるんやから、水害で死亡事故て、起こさんようにせな。預金通帳がなくても、お金は出せる時代やし、早よ逃げることです。最近は小さな谷や川で被災してはる人が多いさかいね。土砂災害でも、自分が気をつけんと。

 市場では、避難訓練は、1年に1回、水害と地震を交互にやってる。

朽木市場2 昭和28年9月台風13号

場所:高島市朽木市場

提供:高島市教育委員会


体験者の語り 座談会

【昭和28年台風13号 水害の概要】

A :子ども時分から、昭和24年、ジェーン台風と洪水の被害を受けてきましたが、昭和28年台風13号の被害が一番大変だった。夕方の4時過ぎぐらいに市場の人たちが、堤防に杭を打ち竹流しをして、水防をやっとったんですけど、「これは、もうダメだ」と思って自宅に帰って。「全員避難せよ。牛とかも高台にあげなさい」ちゅうて、牛を高台へ避難させて、物を家の高いところ(ツシ)に上げました。

 役場からは避難のサイレンが鳴り、全員、高台にある朽木小学校へ避難した。

 決壊したのは、だいたい夕方5時ぐらいです。堤防が決壊した場所は、昔から何回も堤防が切れている場所(通称:切戸堤防)。

 堤防が決壊してから、7時ぐらいだったと思うんですけど、押し寄せた洪水は、小学校へ上がるための取付坂道でいったん溜まり、ダム化した。けれど、その道路も水圧に耐えきれんで、決壊してしもた。そして水が一気に「ド~」っと、集落に流れてきたんです。 そして、その先に人家が5軒ほど並んでいたんですが、その人家でまた水が堰止めされた。その後、3軒ほど人家が流れて、堰止めが崩れて水位がまた下がった。

 それと同時に、北川の水が盛り越してきて、集落には両方から水がきた。

 安曇川と北川の合流地より1.2キロ下流に、発電所用の止水ゲートが今もあります。その時分、本来なら、ゲートが5~6m上がって、水を安曇川下流へ流すはずが、故障して上げることができず、さらにダム化して。そして、そこからの逆流水と、北川からの水が越してきたので、全面的に市場の集落は水に浸いてしまった。

【水害のひとつの要因】

C :発電所用の止水ゲートに材木が引っかかって、ゲートが傾いた。普通だったら、そんなことにはならないけど。

質問:その流木は、朽木の木ですか?安曇川は上流から材木を筏で流していたんですよね?

C :最後の筏流しは昭和28年だったと思います。

質問:その、材木や筏は、大水の時に、どうやって避難させていたんですか?

B :そんなん、避難させようがないさけ、琵琶湖まで流れ出ました。

A :それで、こんな言い方は失礼ですけど、彦根とかのあっちの対岸の方は、木材などが風に流されていって、ものすごく喜んだと聞いています。 きれいな材木やから、拾って使える。

 この洪水の一番の要因は、終戦後の復興に山の木を伐って家を建てて、山が禿山になって、保水力がなくなった。雨が降ったら、土砂が谷に流れて。それで、昭和28年代の河床は、今よりも3mぐらい高かったです。

B :河床が高かったことと、堤防自体がコンクリートではなかったこと。砂を盛り上げただけの堤防だから、えぐれていくしね。

【水害後の作業と生活】

質問:家が浸水した後の処理というのは、溜まったモノをかき出したりしたと思うんですが、だいたいこの作業は何日間されていたんですか?

A :だいたい一週間ぐらいかかりましたな。その家によって違いますけどね。畳は洗えないし、床板は外して土砂を取りださなあかんし。

質問:畳は捨てなあかんと思いますけど、それはどこに?

A :家の前の道路へ一旦出しました。あとの処分は、応援に来てくれた人が処分してくれたと思います。自分たちで処分した記憶はないです。

質問:家が浸水すると、焚物は濡れてしまいますよね。焚物は、他の集落の方から頂いたりしたんですか?

B :このあたりの人は、薪を燃やしたりする知恵があって、雪の中でも雨の中でも上手に燃やしますわ。

質問:それは薪が濡れていてもですか?

B :中にはよく燃えるヤツがあるんやわ。松とか。

C :松の芯のところは油があって。よく松明に使われていました。

質問:そしたら、すぐにご飯とかは炊けていたということですか?

A :他のところで炊いてもらったりとか。

B :それは昔から、そうゆう知恵はあったはずやと思います。そうじゃないと、山の中で生活はできないと思うから。

質問:水は、井戸ですか?

C :中学校にある河岸段丘の途中から水が湧いていて、それを昔は竹で(今はビニールパイプ)各家庭に引いてあったんやね。それは今でも引いてるし。

質問:水源に土砂が入ると、当面、水が使えないと思うんですけど。

C :湧水はきれい、湧いているわけやから。竹の管が飛んでしまうとダメやけど。

【昔からの言い伝えを大事にして、災害に対処する】

B :昔の人は、自然災害とか対処するのに強かったと思います。昭和28年だけじゃない、戦前からも昔から水害があったから。それは慣れているさけ。でも、今の人たちは全然あかんわ。

質問:ある位置で堤防が切れるだろうと予想出来るし、だいたいの被害を想像できるからですか?

B :ある程度、こうなった場合どこに逃げるとか。私らの集落でも逃げた人はいますよ。安曇川の本流じゃない、支流の谷川が溢れてきて。「危ないぞ」ということで、お寺に逃げたんや。逃げた人たちは、どの集落でもいると思う。

A :荒川でも避難した人たちはいます。人家に影響する災害としては、昭和28年の水害が最も大きかったです。

B :奥地の方はね、田んぼとかが被害にあっても、家はあんがい大丈夫なところに、建てるから。

C :そこが歴史を学ぶところで大事なところ。例えば、阪神淡路大震災の時に、西宮市内の新幹線高架が落ちた場所は、弥生時代から近世までの旧河道の所に落ちている。旧河道をならして都市化したために、人々の記憶から薄れているわけや。だけど地盤というのは、いつまでも軟弱で、やられてしまいます。過去の歴史を学ぶことによって、新しい都市計画の中に生かしていかなければならん、とよく話をします。

 九州のある地区では土石流によって家が流されたことがある。その時も、その土地の古老は「昔からあそこには家を建てたらあかん」と伝承していました。その場所に、開発業者が新たに開発をして案の定被害が出てしまったと。やっぱり、土地の古老の話を真摯に受け止めて、それを活かそう。調査の成果をまちづくりに活かして、歴史を学んで温故知新と言うけれど、具体的に言うとそういうことや。

 昔の人は知恵で知っていて伝承しているわけ。こういう場所には、住んではいけない、住んでいいと、昔の人は伝承してきているはずや。今はそれが途切れてしまっているから、危機的な状況になる。科学的な地質調査だけでは、あかんと思う。

A :この辺りは、江戸時代からしょっちゅう水害にあっていた。で、水を治めてもらうちゅうことで、ここに小さな祠を祀っとるんです。この祠は市場が管理をしています。この祠を大神宮と言っています。洪水が起こらないようにと、水を治める神様です。

 今も10月にお祭りをします。市場区の行事の一つです。

 海のモノと山のモノと里のモノを供える。そして、必ず供えればいけないものは赤飯です。

朽木大野 昭和28年9月台風13号

位置図
位置図
水害写真
水害写真無し

体験者の語り 昭和6年生まれの方

【台風の日】

 台風の日は、私は魚を捕りに行っとったわけ。安曇川の水がどんどん増えてくる時じゃないとあかんねん。大きな台風に限って、堤防が危ないところで、よく鮎が捕れるんやわ。堤防がえぐれてくるやろ。そこに鮎が固まるんやな。ちょっと渦がまいとるところに、鮎がいる。危ないところに行かなかったら捕れん。ニゴリヅクリちゅうやつやな。時期がすんだら捕れない。

 でも、絶えず、上流の方で決壊しないか気にしながら、ぎりぎりまで捕ってるわけや。上流で決壊したら堤防に取り残されるわけやな、孤立する。

 ワシが覚えているのは、早く鮎を捕りに行かなあかんのと、堤防から早く逃げろと言われたこと。大野の人家は大丈夫だけど、田んぼは冠水して。

【決壊した次の日】

 うちは、家は被害はなかった。田んぼは被害にあったけど。岩瀬の辺りで決壊して、水が市場の方へ流れていったわけや。

 堤防が決壊した翌日、「川の水を止めろ」ちゅうことで、家に置いてある杭とコモを持って動員されたわけや。堤防で杭を打ってたら、まだ水が流れてた。

 修復活動をしていたら、ヘリが飛んできた。 アメリカのヘリコプターと言ってたっけ。アメリカ人は、奥地で孤立している集落の方へ、荷物を積んで行きはったわ。

 動員の連絡方法は、戦争中から確立されとったリレーでやっとった。市場から岩瀬、そして大野へと自転車で連絡を伝えとったわけや。 私は、泥まみれの市場の中をウロウロ歩いた。

朽木野尻 昭和28年9月台風13号

位置図
位置図
水害写真
水害写真無し

体験者の語り 朽木野尻の男女9人による 聞き取り日:平成27年10月2日

【この調査は立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】

 高島市の東部に位置する朽木野尻地区は、安曇川と北川との合流点付近に位置する山と川に挟まれた地区である。

 地区の中心を県道23号線が横断しており、住居の多くは、県道23号線よりも山側に構えている。野尻地区東部の安曇川下流は蛇行し、川幅が急激に狭くなっている箇所があり、増水時にその部分で流れが詰まり、安曇川が溢れ、地区が浸水するという被害を受けてきている。

 過去に昭和28年・昭和38年・昭和40年・平成16年・平成25年に地区が浸水しており、このうち、昭和28年・昭和38年・平成25年には、県道23号線を越えて山側の住居まで被害が及んだ。

 住民の方たちの体験から、地域の特性と昭和28年の水害・昭和38年の水害・昭和40年の水害・平成16年の水害・平成25年の水害をまとめてあります。

参考(滋賀県災害誌より各水害の概要)

【昭和28年 台風13号】

 安曇川が下流の二ツ矢(ふたつや:現安曇川町青柳)で決壊

 朽木村は400mm以上の豪雨に見舞われ、橋梁はほとんど流失し、道路は寸断、通信は途絶、全く孤立化して、一時は安否も気遣われた。

【昭和38年 5月6月の長雨と台風2・3号】

 4月から5月いっぱい、さらに6月半ばまで天気は悪く、5月の降水量・降雨日数などは彦根気象台開設以来の記録となった。

【昭和40年9月 台風23・24号】

 9月9日以来、秋雨前線による雨が続くなか、10日に台風23号が・17日に24号が立て続けにやってきた。台風24号は、この年の最も大きい台風で、各河川はこれまでの増水した水量に加え、さらに急速に増水し、9月17日23時頃には各地で堤防の決壊が起こった。そのため、家屋の全半壊をはじめ、田畑の流失・冠水などによる水害被害・農作物被害が甚大なものになった。

【平成16年台風23号】

 この年は、梅雨前線や台風の影響で集中豪雨が頻発に起こった。台風の上陸数は、10月末までに記録を更新し10個となった。

 特に、大型で強い台風23号は広い範囲で大雨をもたらし、浸水害が発生した。

【平成25年台風18号】

 強風域半径500kmを越える大型の台風18号は、滋賀県で過去に経験したことのない暴風雨をもたらし、滋賀県・京都府・福井県に初の特別警報(平成25年8月30日から運用)が発令された。

 このため、県内各地で記録的な大雨となり、高島市鴨川と草津市金勝(こんぜ)川の堤防が決壊したのをはじめ、多くの河川が氾濫し、人家や田畑等広い範囲で浸水して甚大な被害をもたらした。

 9月15~16日の総雨量は、大津市葛川(かつらがわ)で635mmを記録している。

新旭町新庄 昭和28年9月台風13号

位置図
位置図
水害写真
水害写真無し

体験者の語り 女性 (大正9年7月生まれ)

 男の人は3人。(主人、じいちゃん、京都から来た人)

 堤が切れたので子どもを連れて逃げた。1人は背中に、1人は手を引いて。駅(新儀駅)のあたりは高かったので、一晩、そこにいた。

 逃げる時は一生懸命だから、雨が降っていたかどうかは覚えていない。

 近くの人はお寺へ避難。中学に避難するならば、直線で1.5km位。北の森の方へ行った人もいた。

 あくる日、自衛隊が車で迎えに来てくれた。まだ水があったので、ぐるっとまわって自宅に帰った。

 自宅は高い所にあった。畳の所ぐらいまで来た。畳は夕涼み用の縁台の上にあげた。

 当時、「わかえびす」という名の酒を作っていた。帰ったら、酒はなんともなっていなかった。

 現在は、道路が1m上がり、自宅は低くなった。

 琵琶湖の水が溢れたということは、家族から何度か聞いた。

安曇川町田中 沖田地区 昭和28年9月台風13号

位置図
位置図
水害写真
水害写真無し

体験者の語り

【八田川の水害】

 天井川である八田川の水害の特徴は、現在よりも3分の1ほど河床が狭かったことから、堤防が決壊すると、水ばかりではなく土砂の流出の被害が多かったという。また、昔から、堤防決壊まではいかなくても、勢いよく流れてきた水や流木等が両岸の堤防を削るため、何度も堤防がズリ、土砂が流れてくることがしばしば発生していた。

 昭和28年台風13号の影響により、八田川の伏原地先(左岸)が決壊。

 堤防決壊前、沖田の人々は総出で、朝から堤防を警戒し見廻りを行っていた。八田川の水が次第に上昇してきたため、竹や生木を川に流す「竹流し工法」を行い、堤防を守っていた。

 水位が上昇すると、「水落し」と呼ばれている場所から、水が落水田されてはいたが、次第に堤防がズレだした。

 と同時に、左岸側が「べ、べ、べ、べ、べ」と地割れし始め、夜には、沖田の下流に位置する伏原地先(八田川左岸)が破堤し、伏原集落に土砂が流れ込んだ。伏原の住民は危険を察知し、前もって避難されていた。

 堤防決壊後、沖田の人々が伏原の様子を見たら、住宅は土砂で埋まっており、集落内では鶏などが飛び跳ねていた。幸いにして、人身は無事であった。

 水害後、沖田の人々は、「堤防は必死で守らないといけない」と思い、昭和30年には、水害に備えて水防倉庫が設置された。


伝承・言い伝え