体験者の語り
長浜市西浅井町余(にしあざいちょうよ)
岡田源七・おかだげんしちさん(昭和18年生まれ)
水害の記憶と地域を守るための歩み
1、【昭和23年7月の大水害とその記憶】
私が5歳か6歳の頃、この地域で大きな水害がありました。当時、父がまだ元気で、今も水点標が建っている場所を指さして、「ここまで水が来たんや」と教えてくれたのを覚えています。私は幼くて詳しい記憶はありませんが、その水害は非常に大規模なものであったことは明らかです。水点標の高さを見て、皆が驚いていました。
洪水の際、堤防が決壊し、村の北側一帯がまるで海のように水に浸かりました。集福寺のあたりから流れてくる大川が余の方にカーブした先の堤防が切れたのです。北側には現在、JR西日本湖西保線区の近江塩津保線管理室(鉄道の事務所)がありますが、これはその後に建てられたもので、水害当時は存在していません。
今、川の堤防の内側にある土地の上に家が建っていますが、もともとは「元の大川」(河川改修工事前の川の流路)があった場所で、当時ここも海のように水没していました。堤防の一部が欠けていた箇所もありました。
地域にはお地蔵さんが二箇所あり、そのうち一箇所の近くには「ここまで水が来た」と示す水点標があります。この水点標は昭和23年の大水害の直後に建立されたものと思われます。私が物心ついた頃には既に建っていました。水点標が建っている場所は東岡とよばれる地域内の土地で、個人や市の所有地ではありません。かつては30軒ほどの家がありましたが、現在は20軒ほどに減りました。東岡の敷地で誰も手を触れられず、以来ずっとそこにあります。
もう一箇所のお地蔵さんの近くには、昔は大きな木が立っていました。その木と、地盤が高い方にある離れた一軒の家にロープを張り、そのロープにつかまって避難した光景が今でも記憶に残っています。現在はその木は切られてしまいましたが、その木材は鳥居を建てるのに使われました。
当時は細い農道を通って寺へ行っていましたが、その後圃場整備により道路も整えられました。また、新しい(現在の)大川の川の堤防の内側にある土地には家が建ち、水はけはある程度改善されましたが、それだけでは完全に水害を防ぐことはできませんでした。
昔は便所が外にあり汲み取り式だったため、大雨が降るとすぐに溢れてしまい、とても大変でした。
河川改修を行うまでは、毎年ではありませんが3〜5年に一度、床下浸水が起こることがありました。普通の雨では問題ありませんでしたが、昨今の線状降水帯のような異常な大雨が降ると大変だと思います。
最近、結構な大雨が降りましたが問題は起きていません。これは大川の河床を一段下げた効果が大きいと思います。また、約3年前に県が1回浚渫*をしてくれたことも効果があったかもしれません。ただし、浚渫の方法については曲がり角で土砂が溜まりやすいことから、私からその当時の自治会長に、県へ再度浚渫をやり直すよう度々お願いするよう言いました。そうしてやっと再施工してもらったという経緯があります。
私は消防団の団長をしていた時期もあり、大雨が降ると川や堤防の様子を何度も見に行きました。ものの10〜15分で30センチの増水が見られ、大水状態になっていました。ただ、堤防が決壊する時はもっと大量の水が出ていたに違いないと思います。
昭和23年の大水害からすでに70年が経過しましたが、それ以降は大規模な水害は見ていません。ただ中学校の建っている場所で堤防が決壊し、グラウンドが水没した小規模な水害はありました。このように、ちょっとした水害は時折発生しています。
過去には堤防ぎりぎりまで水が迫り、堤防が崩れかけて流れたり落ちそうになったこともありました。山へ行って竹を切り、川へ流して土砂留めをする作業に私は参加したこともあります。河川改修工事が行われて以来、このあたりは比較的安全になったと思っています。
*浚渫(しゅんせつ)
港湾や河川、湖沼などの水底に堆積した土砂やヘドロを除去する土木工事。
2.【自治会長(区長)としての河川改修への強い意志】
昭和の大水害以降、河川の整備はある程度進みましたが、それでも十分とは言えませんでした。私が40歳頃に区長(自治会長)を務めていた時、この地域の家々は少し大雨が降るとすぐに床下浸水していました。3~4年に一度は必ずといっていいほど、水に浸かる状況が続いていたのです。
そこで私は、土地の流出を防ぐために整備された東岡川の砂防河川(洪水や土砂災害を防ぐための川)の改修を強く県に要望しました。当初、県の職員からは「立ち退き交渉がまとまらなければ、工事は手前で打ち切る。」との説明がありました。しかし私は、「ここで工事を止めてしまっては意味がない。水害をなくすためには、この水を確実に排水しなければならない。大川へ流し切ることが不可欠だ。何としても最後までやり遂げてほしい。」と一歩も譲りませんでした。
3、【曳家による交渉と予算獲得の経緯】
河川を拡幅するためには、2軒ほどの家に立ち退きをお願いしなければなりませんでした。交渉は難航しましたが、私は両方の家を説得し、最終的に、母屋を駅前の方へ移動させたり、小屋を敷地内で曳家(ひきや)*により移動させることで合意を得ました。
*曳家(ひきや)
建物を解体せずにジャッキやコロを用いて、元の姿のまま別の場所へ水平移動・回転・昇降させる建築技術。
4、【技術的工夫と下水道工事の取り組み】
大川には堰堤がありますが、水を抜く際に大川側の地盤が高いため水の排水がスムーズにいきませんでした。そこで堰堤の一つを撤去し、川底を大幅に下げて、従来の一段の堰堤を二段に作り替えました。川底を下げて「落差」を設けることで、水位の高い大川へも水がスムーズに流れ込むようにしました。
東岡川の水は一年中枯れたことがありません。以前は水がすぐに溢れて堤防の下を通って住家まで水が入るため、ほとんど水を流さないようにしていました。落差工の設置は早くから申請していましたが、なかなか実現しませんでした。当時、地元が約1割の費用負担を求められており、県内の他地域では費用負担ができないとの理由で砂防工事を断念するところもありました。そこで私はその予算を活用できることを聞きつけ、砂防堰堤の改修を行うことができました。ちょうど良いタイミングでした。
落差工が完成してからは、水を流すことが可能になりました。砂防堰堤から東岡川と山裾へ水が分かれます。田んぼもあるため用水路には水が必要で、そちらに流しています。一度流すと水は流しっぱなしでも詰まりません。現在は山裾よりも東岡川の方に多くの水が流れています。谷のある部分は浅いため、ほとんど水がありません。
落差工は三面張り*で整備し、水の抵抗を減らして水がよく流れるようにしました。東岡川は坂になっていて急流です。毎年、東岡川に沿う林道の掃除を行いますが、堰堤にはあまり土砂が溜まっていません。川底にはゴロゴロした石が多く、その石を拾って自宅の庭に使う方もいます。昔からそのあたりは「イシグラ」と呼ばれていました。今は三面張りはほとんど行われませんが、この整備により、現在は多少の雨でも浸水の心配がなくなりました。
私の自宅周辺の東岡川も以前は小規模でしたが、河川改修で川底を大きく下げ、この水が大川に流れるようになったため、現在は水に浸かることはありません。堰堤を直して砂防を整備し、川底を下げて水が流れるようにしたのです。
河川改修に伴い、堰堤の川沿いは全面的に改修され、家の周りの水路にも蓋をして道路のように整備しました。これにより水の流れが良くなり、水たまりができなくなりました。
東岡川が大川とつながる部分では水が溜まりやすく、大川の水位が上がると排水が滞る問題がありました。しかし、大川の堰堤が二段に作り替えられたことで、多少の増水では問題が起きにくい構造になりました。この工事は非常に苦労しました。
40年前の河川改修の約10年後には、私は下水道工事の委員長を務めました(区長職は終わっていました)。当初、この地域は広域下水道計画から外されそうになりましたが、私は「余呉や西浅井を除外するのは、汚水の垂れ流しを許すことと同じだ。」と強く反対しました。
しかし、下水道工事の費用は当初1軒あたり約50万円で済む予定でしたが、物価上昇の影響で30〜40万円に下がった時期もあったものの、徐々に70〜80万円、最終的には100万円を超える可能性が出てきました。そこで町の条例が制定され、50万円を超える分は町が負担することになり、下水道計画を進めることができました。
各家庭の元の水路も改修し、水路の流れが良くなりました。特に、細く曲がりくねった水路を直線的にするための土地問題で住民の承諾を得るのに苦労しました。現在は水が流れるようになり、冬には雪流しにも利用できるほど改善されました。以前は水が流れませんでした。
*三面張り
川底と両側の土手の斜面の3面すべてにコンクリートなどの固い覆いをかける工法。水の流れが妨げられず排水効率が向上し、水害を軽減できる。
5、 【地名に刻まれた水の歴史】
昔、この辺りは水に恵まれた地域であったのではないかと私は考えています。私たちが知らない昔の時代には、琵琶湖の水面がこのあたりまで達していたのではないかと思われます。
この地域には「岸ノ浦(上)」「トロトロ」「横波」「池見」といった珍しい地名が今も残っています。
・岸ノ浦(上):名前に「岸」という字があることから、かつてはここまで海や湖の水が来ていたと考えられます。
・トロトロ:発電所の付近で、水がトロトロと流れ落ちる様子から名付けられたようです。
・横波(よこなみ):漢字に「波」が含まれていることから、かつて大きな水面が存在し、ここまで波が来ていたことを示しています。
・池見(いけみ):かつて深い沼地(湿地帯)であり、非常に深い田んぼでした。竹がどれだけでも入ってしまい、大きな機械も入れませんでした。面積は約五反(約1500平方メートル)ほどあったと言われています。
歴史を紐解くと、789年の大水(大洪水)により、「池見」にあった「香取(かとり)神社」が流され、現在の場所(塩津中)に移ったという言い伝えがあります。私が10代の頃までは余の総代さんが神社の管理をしていましたが、現在は塩津中の方々が管理しています。
6、【最後に ― 苦労を次世代へ語り継ぐ】
今の若い人たちは、この地域がかつて頻繁に浸水し、立ち退きや境界調整で多くの困難を乗り越えてきたことを知りません。現在の平穏な暮らしは、かつての必死の改修工事と地域の努力の上に成り立っています。
この地域には、水害の恐ろしさとそれを克服してきた歴史が地名や石碑として刻まれています。私が県や市と粘り強く交渉し実現した川や水路を、これからも大切に守り続けてほしい。それが私の切なる願いです。