体験者の語り
長浜市小谷丁野町(おだにようのちょう)
香水敏夫・かすいとしおさん(昭和9年生まれ)、荒木重幸・あらきしげゆきさん(昭和27年生まれ)
香水さんは静岡県で生まれましたが、戦争の影響で滋賀県へ疎開し、その後も滋賀に住んでおられます。会社を退職された後、地元の古文書や歴史資料を丹念に調査し、約7~8年の歳月をかけて郷土誌『しが湖北 丁野誌 璨(さん)』にまとめられました。香水さんから丁野地区の歴史的な水害の記録、荒木さんから地区の自主防災組織の活動について語っていただきました。
丁野地区の歴史的な水害の記録
1.【明治28年洪水時の気象、河川の状況】
『滋賀県災害誌』では、「7月1日以降晴天の日が少なく、降雨が続きました。16日から19日にかけて大雨が降り、24日早朝からは風雨となり、25日昼前頃におさまったかに見えましたが、26日夕刻から再び雨が降り始め、月末まで続きました。特に7月30日は雷雨を伴った激しい豪雨となり、道路が河のような状態となりました。木之本観測所の記録によれば、7月28日99mm、29日197mm、計296mmで、7月1日~31日の合計雨量は504mmに達しました。その後も8月6日まで連日大雨が降り、7日になってようやく晴れました。」「東浅井群虎姫村は、田川の河水停滞により、姉川・高時川の水逆流し、全村の家屋殆ど水中に没し、住民は、天井あるいは屋上に難を避けて頻りに救いを求めた」と記されています。
また、同年8月6日付『日出新聞』では、「全郡の大部は海の如くなり橋梁は僅か高時川加村橋の一橋を残すのみにて悉く流失し金ヶ崎鐵道線路中小たに村大字丁野川毛の地先なる線路八町餘(よ)を押し流し軌道は一町餘も西の方へ飛び」と報じています。
そして『東浅井郡志』では、「湖北三郡に暴風雨あり。-中略-諸川漲溢し、橋梁を流失し、堤防を決壊し、家屋の浸水・人畜の死傷ん等あり。其三条天聴(てんちょう)に達し、超えて8月16日、辱(かたじけな)くも天皇皇后両陛下より、金五百円を下賜せられたり。」と記されています。(『しが湖北丁野誌 璨』)
私たちの祖父母がこの災害に直面したと思われ、災害の甚大さを伝えている記録です。
2.【明治28年洪水時の丁野地域の被害】
明治28年の洪水では、丁野の村全体が浸水しました。私の母親は、「家の2階から田舟で出入りしていた」と語っていました。昔の家屋は床が低かったため、床下だけでなく床上まで浸水してしまいました。この被害は丁野だけでなく、あたり一面にも及びました。
災害の原因は、まず山田川の堤防が「竹間(たけま)」辺りで決壊したことにあります。さらに髙時川も堤防が切れてしまいました。伝承では、ある人が髙時川の異常を感じて現場を見に行ったところ、堤防が決壊したため近くの榛(はん)の木に登って救助を待ったと伝えられます。
当時の浸水の印が、今でもある家に残っているそうです。堤防は一度決壊すると補修されますが、同じ場所が繰り返し切れることが多いとされています。特に「竹間」の決壊地点付近にはかつて八日市集落があったと考えられていますが、度重なる水害のため、いつのころからか現在のところ(湖北町八日市)へ移動したと推測されます。現在、丁野集落と二俣集落は隣接していますが、もともと二俣集落は山田川のすぐ南にある日吉神社の近くにあったのではないかといわれています。
この水害の後、当時の浸水の高さを示す標柱が建てられ「明治二十八年七月二十九日大洪水水点標」と刻まれています。なお、区画整備に伴い標柱が移転されたため、現在の標柱の高さは正確ではありません。
3.【明治28年以前の水害と地域の状況】
3-1【開かずの箱】
公民館に保管されていた「開かずの箱」を開函したところ、貴重な歴史の史資料が発見されました。その中の一つに、「脇坂の因縁」と題する古記録(文書番号105)があります。脇坂とは、丁野地域の小谷山ふもとにある集落名です。
-古記録の原文
「脇坂といふは往古は1ケ村にて、御高百石余もこれ在り家数も拾四五軒ありて、今に屋敷地は残り候。文禄慶長の頃迄は、志摩国鳥羽城主九鬼大隅守様領地也。然るに文禄四年に山水はせ出候て家流れ人死して半ケ八迄亡所となりし、其後丁野村へ引越して今は枝郷となる。依って脇坂村といふ名も失へり、井伊掃部頭様の御免状には枝郷脇坂とある。是は小堀遠江守様の領地の時、右の通り御引き渡しに相見え申し候。委しくは小堀様の御記録にありと聞き伝へ申し候」
-脇坂村の歴史と衰退
脇坂という所は、昔は一つの独立した村で、石高(収穫量)も百石余りあり、家の数も14、15軒あって、今でも屋敷跡が残っています。文禄年間(1592年~1596年)から慶長年間(1596年~1615年)頃までは、志摩国鳥羽城主の九鬼大隅守(くき おおすみのかみ)様の領地でした。
ところが、文禄4年(1595年)に山からの洪水が発生して、家が流され死者も出て、村は半分か八分が壊滅的な被害を受け、荒れ果ててしまいました。その後、人々は丁野村へ引っ越して、今は、枝郷(本村から分かれた小規模な集落)になっています。そのため、「脇坂村」という名前も失われましたが、明治22年4月1日には、脇坂と丁野が正式に合併して丁野村となっています。
-古記録に見る行政的変遷
井伊掃部頭(いい かもんのかみ)様の御免状(公的な文書)には、「枝郷脇坂」と記されています。これは、ここがかつて小堀遠江守(こぼり とおとうみのかみ)様の領地だった時に、前述のとおり(独立した村ではなく枝郷として)引き継がれたものと見受けられます。詳しいことは、小堀様の記録に残っていると伝え聞いております。
このように、「開かずの箱」から発見された古記録は、丁野地域における自然災害と村落の変遷、および領地統治の歴史的転換を物語る貴重な記録なのです。
*掲載されている現代語訳は、情報提供を目的として滋賀県流域政策局が作成したものです。より分かりやすい文章とするため、生成AIを活用しており、専門的な解釈には一定の限界がある点をご留意のうえ、参考資料としてご活用ください。
3-2【脇坂の道と歴史~住民に聞いた話】
国道365号線から五社大明神社跡へ向かう道は、初期小谷城の大手道です。その両側には武士の家がずっと並んでいたのです。つまり、この本通りは一般の百姓は通れず、日常通行できたのは武士か商人だけでした。百姓は小谷山へ行く別の道があり、そこしか通れなかったのです。
時代を遡ると、1523年から1525年頃に浅井亮政(あざい すけまさ)が、小谷山の頂上に築城しました。その当時の状況がおそらくこのようなもので、長い間語り継がれてきました。かつて脇坂集落には70~80軒の家屋があったとも伝承されています。
3-3【脇坂の石垣と古墳群の歴史】
脇坂道には昔の石垣が残っており、欠けていた部分は私たちが補修しました。古墳時代の中期から後期にかけての古墳が、脇坂道の南側山麓に42基、北側山麓に11基、合わせて53基も存在していました。
県が行った古墳調査の資料によると、旧東浅井郡の中でこれほど多くの古墳が一か所に集まっていた場所は他にありません。点在はしていても、53基が一か所にあったのは非常に珍しいことです。すべての家が古墳を築いたわけではなく、一定の地位と財力を持った人たちだけが築造できたと考えられます。
つまり、53基の古墳があったということは、その周辺にはより多くの家があったことを意味します。近くには五社大明神社跡があり、谷川のそばには一番屋敷、二番屋敷、三番屋敷といった屋敷番号(いずれも番地の単位で、約30坪ほどの面積)が、明治初期の地籍図に記されています。古墳を作れるような家はより広い屋敷を持ち、古墳を築けなかった家はより小さい屋敷に住んでいたことがうかがえます。
3-4【髙時川と山田川の変遷と周辺の水環境】
髙時川と山田川は、ずっと昔には現在とは異なる場所を流れていたときがありました。特に髙時川は氾濫により流路が変わってしまい、湖北町速水にはかつての土手の跡が今も残っています。髙時川が丁野の地域に近づいていた頃、船着き場が設けられ、そこから米などを運んでいたという話が伝わっています。氾濫は頻繁に起こっていたと考えられますが、詳しい記録はあまり残っていません。
髙時川の周辺は水が出やすい湿地で、小谷山のふもとから本覚寺あたりまでは、地面を掘ると鉄気水がにじみます。これに対してその西側からは、透明できれいな水が見られます。これは髙時川の伏流水でしょう。子どもの頃、私たちは髙時川へ水浴びに行き、帰りにはそのきれいな水を飲んでいました。
丁野山(岡山ともいいます。丁野山城は小谷城の支城です)の近くに深田(ふけのた)という場所があり、そこは山に囲まれて山やその地に降った雨が溜まり逃げ場がありません。そのため沼地となります。その北側は中深(なかぶけ)と呼ばれ、同様に沼地帯です。
4.【昭和22年・昭和23年の水害とその後の対策】
香水さんが丁野へ疎開してきたのは昭和20年で、改築前の自宅が建ったのは昭和22年、脇坂でのことでした。その頃、大雨が降り、村のある方が「小谷山の谷が滝のようになっていた」と話していました。山の中には急流の谷川があり、脇坂谷の谷水が激しく流れたために、その様子が滝のように見えたのでしょう。かつて脇坂谷の谷水は飲料水としても使われていました。その話は今でも語り草になっています。
香水さんはその頃、脇坂谷の谷水が溢れて家の中にまで入って来たので、「えらいこっちゃ」と言いながら、小谷村役場へ走って知らせに行ったそうです。
高時川では昭和30年~48年度の中小河川改修事業により整備を進めてられてきました。脇坂でも土砂災害対策として砂防堰堤が整備されました。近年では大規模な洪水被害は減少していますが、気候変動等の影響により、全国的に集中豪雨の被害が増加傾向を示していることから、洪水発生時の避難体制の強化など地域防災力の向上対策が必要とされています。
資料情報
・『しが湖北丁野誌 璨』、p342-343、丁野区誌編纂委員会、2005年出版
・「江陽浅井群(郡)小谷山古城図」 彦根藩井伊家文書32261 彦根城博物館蔵
・「紙本著色小谷城跡絵図」 小谷城址保勝会所蔵
・『滋賀県災害誌第一部』、pp22-23、昭和41年3月発行
『江陽浅井郡小谷山古城図』(彦根城博物館所蔵)山田川付け替え工事前の山田川が描かれている絵図である(絵図中央下方を左(北)から右(南)へ流れる川)。本図は天正19(1591)年9月吉日に作成されたものである。
『紙本著色小谷城跡絵図』(小谷城址保勝会所蔵)山田川付け替え工事後の新山田川が描かれている絵図である(絵図左を東(上)から西(下)に流れる川)。本図は江戸時代に作成された地図で(作成年不明)、明治時代に着色したものである。
丁野地区の自主防災組織の活動
【小谷丁野町自主防災組織の歩みと活動理念】
小谷丁野町の自主防災組織は、約30年前から組織化され活動していましたが、本部役員が一年ごとに変わるため、組織としての機能や防災への取り組みが系統的・計画的に図られていたとはいいがたく、組織が形骸化していたことは否めない事実です。
ところが、2011年の東日本大震災は、私たちの日常を大きく揺さぶる出来事でした。このことから、私たちは多くのことを学びました。
一つ目に、災害は他人事としてではなく明日は我が身として捉え普段の対策の大切さ
二つ目に、日常的に接する災害の情報から、危険性を理解し防災の必要性を感じる大切さ
三つ目に、災害の発生原因を探り、自分の身に当てはめることの大切さ
四つ目に、災害から教訓を得たら、すぐに対策に取り組む大切さ
五つ目に、正しく怖がることの大切さ
この学びから、今までの防災組織や活動内容を省察し、組織的・系統的に機能する自主防災組織を新たに立ち上げました。これが現在の「小谷丁野町自主防災組織」です。
防災組織が機能化し地域の皆さんの命を守る組織であるには、本部役員等が一年で代わるのではなく、将来を見据えた確固たる組織であること。そして、系統的に一歩一歩前進し計画・実践・反省を繰り返して歩んでいく組織であることが大切だと考えて組織化しました。これらは、活動の横軸の理念です。それらを支える活動の柱となる縦軸の理念を三点構築しました。以下がその構想図です。
◎応用問題に対応できるには、基本的なことをしつこくやる
防災訓練を計画すると、様々な場面や展開を思い訓練内容が迷走してしまうことが多々あります。例えば、「夜の訓練をしなければ」「土日以外の訓練も大事だ」「橋が壊れた時の訓練も必要だ」等々の発言がされます。これらの活動は応用問題と捉えています。応用問題は基礎が身に付いていなければこなせません。やったしとても空振りで何も身に付きません。基本的なことをしっかりと身に付けることが先決で、このことに徹すべきだと考えています。身に付くまで何度でもやり直し、繰り返すことこそが応用問題に対応する力になると確信し実践を積み重ねています。
◎あわてるな、やりすぎるな、頑張りすぎるな
上記の理念とも関連しますが、多くのことを求めず、わずかな一歩の歩みを大切にし、長期の展望を持って今後100年も200年も防災組織や活動が続いていくことを住民が共有することが大切だと考えています。
◎「結の精神」を基幹として、近助、互近助の行動
「結(ゆい)」は、古来より田植えや屋根の葺き替えなど一人では困難な作業を集団で行う互助扶助の精神で繋がった制度的慣行です。小谷丁野町も古くからこの精神で繋がった作業や近所付き合いがあり、今も、地域の活動や作業、日常生活の中でも見られます。地域社会の基盤を支える重要な価値観であり、今も大切にしていくべき考え方だと捉え、特に、災害時での助け合いには必要不可欠な精神として、この受け継がれてきた「結の精神」を生かした活動を進めています。
【小谷丁野町自主防災組織の活動内容】
1.自主防災組織総会
自治会員が自主防災組織の目的、理念、活動内容や備品等を共有し、同じ方向に向いていることが重要な指標となります。その場が自主防災組織総会です。本総会は、自治会の通常総会内で枠をとって開いています。従って参加者は、自治会員全員となります。
第一号議案 小谷丁野町自主防災組織規約について
第二号議案 小谷丁野町自主防災組織防災計画について
第三号議案 令和〇年度小谷丁野町自主防災組織事業について
第四号議案 令和◎年度小谷丁野町自主防災組織(案)について
第五号議案 令和◎年度小谷丁野町自主防災組織事業計画(案)について
その他 小谷丁野町自治会 避難計画 ~水害・風害・雪害~ について
2.地震での避難訓練を基盤に、水害・風害・雪害での訓練も
自然災害は地震だけではなく水害・風害や雪害等いつでも起こる可能性があります。そこで、地震を想定した防災訓練が、全ての災害に対応できる基本的な訓練と位置づけ、どんな場合も第一に自主防災組織委員を招集して災害対策
本部を設置すること。そして、長浜市と連携を図りながら気象情報・地区内災害状況等を収集し避難の手配にかかることを、住民に周知しています。
3.計画・実践・反省(PDC)の繰り返し
昨年度の反省を基に、自主防災組織役員会で基本的な計画を立ち上げ、自主防災組織委員会を避難訓練までに2回開催し周知を図っています。そして、訓練後すぐに自主防災組織委員会を開催し、消防本部職員の方も参加いただいて、総括反省をしています。この中での反省点をふまえ次にどうするのかの具体的内容も検討します。「もう一度来年やり直そう」という声や、「これはやりすぎではないですか」「急がないほうがいいのでは」といった声は、理念に結びついて心躍ります。
4.防災資機材の保管管理と点検
防災にかかわる資機材は膨大で、どこに何がいくつあるのかを的確に把握しておく必要があります。そこで、保管箇所ごとに「防災資機材一覧表」を作成し、保管箇所の出入り口にも、その一覧表を掲示しています。そして、最も大切なことは、災害時に資機材は機能するのかということです。ハンドマイク、トランシーバー 発電機は起動するのか、救急セットはそろっているか、備蓄米、備蓄水は古くないか等々、点検しておく必要があります。そのため、毎年、避難訓練一週間前に役員 で全ての資機材を点検すると同時に「防災資機材一覧表」も更新しています。
5.日頃の啓発活動
◎「わが家の避難メモ」・・・家族で話し合って、家族の避難場所の確認をする。学校や職場での避難先を確認する。家族、親戚、知人の連絡先を確認する。
◎「非常用持ち出しリスト」・・・非常時に持ち出せるようリストにそって揃えておくよう啓発をする。
6.避難訓練の延期中止のルール化
「避難訓練は、雨等により簡単に中止すれば、その年の訓練は一度もなくなり、今までの積み上げが停滞してしまう感じがする」という意見により、延期や中止を段階的に決定しルール化しようという気運が高まり、以下のようなルールができています。
◎避難訓練当日、午前7時00分、自治会館において、自治会長、副自治会長、自主防災本部長、副本部長、事務局の者がその状況を鑑み、
1,避難所を変更しての避難訓練にする(第一避難所を第二避難所に)
2,自治会館への避難訓練にする
3,時間を変更して避難訓練をする
4,避難状況集計訓練のみ行う
5,延期する
6,中止する
のいずれかでの対応について協議し決定する。
7.「向こう三軒両隣」での互助扶助体制
大規模災害時、消防や警察などの「公助」はすぐには来られません。過去の大震災では、倒壊した建物から救出された人の約8割が、家族や近隣住民による「自力・共助」で助かったというデータがあります。向こう三軒両隣、つまり半径10メートル以内の人間関係が、生死を分ける境界線になると言われています。
小谷丁野町には、先に述べた「結の精神」が根付き「お隣さん」との繋がりは強いものがあります。小谷丁野町では約130戸を10戸~20戸の組に10組に分けられて自治が形成されています。
そこで、その10戸~20戸の一組をさらに5~6戸の小さな組に分けて、それらを「向こう三軒両隣」と呼んで繋がりをさらに高めています。「いつもはこの時間に電気がついているのに」「今日は車があるのに姿が見えない」。そんな小さな違和感に気づけるのは、日頃から挨拶を交わしている隣近所の人だけです。特にお年寄りや体が不自由な方が住む世帯を把握しておくことは、地域全体の犠牲者をゼロにするための第一歩です。
「向こう三軒両隣」の体制は、避難訓練最初の避難確認には欠かせないもの で、この時点で犠牲者が出るか出ないかが決まるといっても過言ではありません。
災害が起きたその瞬間、助けてくれるのは遠くの親戚でも、到着に時間がかかる消防隊でもありません。向かいと隣に住んでいる「お隣さん」なのです。「向こう三軒両隣」をいつも意識し声かけ合い、注意し合うそんなコミュニティー体制は防災の基盤です。その意識を一層高めるために「むこう三軒両隣」のロゴマークを作成し、自治会や自主防災防災組織等から発行される文書等に掲載し、高揚を図っています。
【今後の課題と自主防災組織の持続発展に向けて】
小谷丁野町では大きな災害もあまりなく、防災意識がやや希薄化し、それに加えて、コミュニティーの変化から自主防災活動を含め、地域の活動に参加しない住民が少なからずおられ周知啓発や参加の勧奨が課題となっています。また、組織の持続問題についてまわるのが人材育成です。しかし、ここ小谷丁野町には、先人から脈々と培われてきた誇るべき土徳と薫習の中において、とりわけ「結の精神」は、これからも延々と受け継いでいくことが、先人への感謝の念とここに生きる者としての最低限の作法(モラル)だと考えています。この思いがあればきっといい人材も育ち、自主防災組織も持続発展していくものと確信し、今年も一歩一歩積み重ねています。また、防災は私達が生きていく上での前提そのものです。だからこそ、真面目に真正面から防災をとらえ実践していれば、きっと人として大切な倫理、道徳、規範といったものが心に響き人は動いてくれると確信しています。