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長浜市 明治28年の水害

水害履歴

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余呉町小原地区 明治28年の水害

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水害写真


体験者の語り

長浜市余呉町小原(おはら)地区・太々野㓛さん(昭和11年生まれ)

【明治から大正にかけての大きな水害】

田戸(たど)から川合(かわい)までの間は、川の岸壁になっているんです。川幅が狭く急流なので、このあたりは特に大きな水害が出た場所なんですよ。私たちが生まれるまでは、明治から大正にかけて大きな水害が頻繁にありました。特に明治28年と29年の水害はひどかったそうです。川に井(ゆ)というものを作って水をせき止めて、川から1〜2m高いところにある田んぼに井(ゆ)溝から水を通します。井(ゆ)溝は、岩の部分はノミで堀り込み、へこんだ部分には赤土を入れて田まで水を流す溝をつくりました。田んぼに水を入れる前に、水を一時的にせき止める「川止め」をつくって、田んぼが水浸しにならないようにしていました。井(ゆ)のすぐ近くには井(ゆ)をつくるための木を切る村共同の山があり、そこは常に腕ほどの太さの木がたくさん生えていました。そうした場所のことを「井(ゆ)の山」と呼んでいました。切った木の長さを3mほどに揃えて束にし、逆さにしたり横にしたりしてきっちり並べて井(ゆ)をつくり、そうして田んぼを守っていたんです。ところが、明治28年の水害で4箇所あった井(ゆ)は全て流されてしまい、それ以降復旧できませんでした。
 

 

【今から25年前くらいの大水害(平成2年台風19号)】

私たちが小原にいた頃、尾羽梨(おばなし)では辺りのブナの木を切ってフジ蔓(つる)でくくって水をせき止め、木をせき止めた水に浮かべて置いていました。この頃は製紙工場からたくさんの木の需要がありました。ある程度貯まったらフジ蔓を切って下流まで丸太を流して運ぶのですが、これは「鉄砲」という木の運搬方法でした。道が整備されていない地域だったので、川で運ぶのが効率的でした。ところが、木が大量に積んである時に大水害が起こってしまい、大量の丸太が一度に流れたものだから、小原周辺の橋の脚部分に当たり、橋もすべて流されてしまいました。古い橋や丸太は川合集落の方に流されて、そのまま琵琶湖にも流れ出ました。その後、小原の下の方に40m以上の長さの杉の巨木で橋を2、3本かけました。橋には「小原」と名前を彫り、フジ蔓で止めて、流れても下流に行かない様にしました。今もその場所へいくと、所々にこの頃の橋がかかっていた道の跡が残っています。

 

【洞寿院(とうじゅいん)の水害の石碑】

私の父から聞いた話です。明治28年の水害の後に建てられました。森本兵二郎*さんという、四国出身の滋賀県警察の警部です。その人がこの辺りの水害の惨状を目の当たりにしました。丹生川(にゅうがわ、現在の高時川の上流にあたる)を下って、中河内(なかのかわち)というところに行って、中河内から山を越えて川を渡って針川(はりかわ)へ降りてきたんです。道が無くて、この高い山を降りてきました。この辺りはまだ川が小さいので、この川を渡って横切ろうとしたら流されてしまったんです。尾羽梨(おばなし)と鷲見(わしみ)の間にある古呂立(ころだち)という所で亡くなりました。鷲見と尾羽梨の間くらいの所に、この方のための石碑を建てましたが、現在は石碑はありません。菅並で葬式をしました。遺体はどうだったか知らないけれど、洞寿院の中に位牌があるんです。黒い漆塗りの位牌が中に納められていますよ。昔はこの辺りは村だったので丹生村(にゅうむら)。位牌の裏には葬式をした時の村長の名前、「丹生村長三国伊助(にゅうそんちょうみくにいすけ)」と書いてあります。明治28年の水害から2、3年後に、洞寿院の外に2メートルくらいの水害を慰霊する石碑を建てました。

*森本兵二郎

森本警部の殉職

洞寿院境内に、明治28年7月29日の出水の際に滋賀県より派遣され、濁流に流されて殉職した森本兵二郎警部の碑がある。伊香郡長、木之本警察署、丹生村長、他有志によって明治31年8月に建立された石碑に記された内容は以下の通りである。【明治28年の7月は長雨が続き、29日には湖北の諸川で氾濫が発生した。高時川上流の丹生の村々では、最も被害が激しかった。山は崩れ、家は流され、稲も倒れ、橋梁も壊れて往来もできず、丹生村北部は孤立し、人々は不安にさいなまれた。県は森本警部らを急遽、現地に派遣した。警部は惨状を聞き、早く人を救いたいと思い、急いで部下を率いて救援に向かった。途路は災害のため寸断されていて、幾度も危険を冒しながら進み、途中の村々を慰め安心させながら、ようやく鷲見村にたどり着いた。鷲見あたりは、村中に土砂が流れ込み、民家のほとんどは埋没していた。警部は部下や作業員を指揮し、救援活動に尽力した。8月2日、警部は降り続く雨の中、勇気をふりしぼって出発し、険しい崖をこえ、濁流の川を渡るなど困難をこえて奥へ進んだ。尾羽梨村、針川(はりかわ)村に至り、献身的に救護活動にあたって、村民たちは安らぎを得た。その帰路、警部は増水した川で流れてくる石につまずいて溺れ、同行者の必死の救助もかなわず逝去された。この死を聞く者は、警部の勇気ある行動に感謝し、その殉職に心を痛めない者はいない。ああ、その死は、非業の死なのかそうでないのか…村民は森本警部を思慕し続けて石碑を建て、彼の功績を後世まで伝えたいと願った。私がその概要を記した。君の名は兵二郎、森本はその氏である。徳島県の士族である。】(現代語訳については、佐々木悦也氏、水田紀久氏にご協力をいただきました)

 

【籠作りと小原*】

小原で800年ほど前に籠を作っていました*。昔嵯峨天皇に白い子が生まれて。全身白くて、眼の玉も頭も何もかも白い。京都から菅山寺(かんざんじ)に隔離したんだそうです。噂が広まったので、小原まで連れてきました。小原に御所を建てて住んでいたけれど、今はもう荒れ地で、御所跡は900年近く経ちます。この方が籠作りを始めたんです。生活の道具として、山へ行って物を採ったりするのに使ったり、子どもを入れて育てるような大きな籠から、このような小さな籠まで色々な種類がある籠です。江戸時代に作って売っていたんです。年貢を納めるにも小原には田んぼがなかったので、籠を売ったお金で銀や金で税金を納めていたようです。小原の村は他の村とあまり交流せず、自分達だけで生活できるようにと。家を増やすこともなくこの村で生活していたそうです。高時川沿いには他に集落がありますが、付き合いはあっても籠の作り方はあまり教えませんでした。でも器用な人は真似て、鷲見、奥川並(おくかわなみ)でも作って売りにいっていたし、田戸(たど)でも自分たちで使う分くらいは作っていたようです。昔は小原ではどの家でも籠をつくって、何人かの人はつくった籠を集めて売りに出ました。岐阜や高島市でも蚕の桑の葉を集めるのに大きな籠が必要でしたから、売りにいっていました。

*籠作りと小原

 素材はイタヤカエデやモミジといった木籠。百年以上前の籠も現役で使うことができる。用途は様々で大きさや形の違いによって色々な呼び名がある。小銭をいれておく「ぜにかご」、ハギレを入れておく「つぎかご」、茶摘みや桑の葉摘みに使われた「つぼかご」など。現在小原かごの作り手は太々野さんと荒井恵梨子さん、他にも様々な人が習って継承されようとしている。(出典:『自然と神々と暮らした人びとの民具小原かご』)

*小原で800年ほど前に籠を作っていました

【白子王子の話】今から800年ほど前、都からある高貴な方が、世を避けて小原の山中に入ってこられた。丹生川辺りの空き地を見つけると、そこに家を建てて住まわれた。髪の毛もまつげも真白で体の色も白い皇子。手先の器用な皇子は山からモミジの木を見つけだし、木を薄く剥いで木籠を作ることを考え、小原の人達にも篭を作る事を教えた。これが、小原の人達に伝えられてきた籠のはじまりだそうだ。短い生涯をこの地で終えられた。高貴な方なので皇子の遺骸は菅山寺に運ばれ、菅山寺のお坊さんにより丁重に葬られた。地元の口伝では、鎌倉時代、土御門天皇の中宮であった陰明門院のお子さまが白子皇子だと伝えられています。陰明門院もこの地で58歳の生涯を終えられたそうです。今も菅山寺の境内には、白子皇子と陰明門院のものと伝わる墓が残されています。(出典:『自然と神々と暮らした人びとの民具小原かご』)

 

【籠作りと太々野さん】

籠作りは小さい頃に習ったけどすぐ戦争になりました。昭和16年12月から戦争が始まりました。私はまだ小学生でしたがこの時分には籠の作り方を覚えていました。戦争が始まってからは芋を作ったり、山のものを採ったりして、それからずっと50年ほど籠作りは止まっていました。小原にいて、会社勤めをしていたのですが、会社を辞めて定年になってからダム問題*が出てきました。ダムができるというから移住したけれど、ダム建設は中止になってしまった。この時点でダムの関係者の人達から「籠を作ったらどうやろう。」という話が出てきて、平成21年頃かな。(丹生ダム建設の流域調査で小原かごの存在が掘り起こされました)

昨年までウッディパル余呉で冬だけ小原籠の作り方を教えていました。平成20年「小原籠を復活させる会」というのを作りました。初めは地元の人が来ていたのですが、あとは県外から、遠いところは岐阜県、奈良県、兵庫県、京都府とか、みんなそういうところの人ばかり来ていました。今年は文化賞を県からもらいました。最近では、外国のノルウェーの人がやってきて、名刺代わりにバターナイフに名前を書いて置いていってくれました。武蔵野美術大学や琵琶湖博物館の人も来ます。月に数回行っている籠のサークル活動には、14、15人の人が集まっています。アメリカからも籠を学びに来る人もいます。

*ダム問題

丹生ダム建設予定位置、高時川上流(姉川河口から約30キロメートル、長浜市余呉町)で建設が進められていた。昭和43年に建設省(現国土交通省)が予備調査を開始し、昭和55年実施計画調査に着手された。ダム建設による廃村となった地域は、奥川並,尾羽梨,針川は昭和46年までに自主離村し、半明(はんみょう),鷲見,田戸,小原は平成8年に集団移転が完了した。平成26年「ダムは有利ではない」と国土交通省は結論づけたため、平成28年丹生ダム建設の中止が決定された。出典先「独立法人水資源機構丹生事務所ホームページ」

 

【籠作りと荒井恵梨子さん】

大学を卒業して、地元に住んでいる地域おこし協力隊の女性が籠づくりをやるようになって、弟子になったんです。東京の文化財研究所の人と一緒に、籠づくりの工程をビデオに撮ったりして、籠を広め出したんですよ。2023年には、書籍「自然と神々と暮らした人びとの民具小原かご」を出版しました。

 

【太々野さんの子どもの頃の思い出と小原】

私の親父は鷲見から小原に来ました。鷲見に木下重吉という人がいました。川歩きが上手な人でした。昔は橋が無かったので、水がきていてもずっと歩いて川を渡って行きます。川の下を歩いて行って、上がる、これが昔、川を渡る方法。泳いだら流されるのでみんなこうやって歩いていました*。足を取られたら流されてしまうので、親世代はみんなそういうことをやっていましたが私はやっていません。

私が小さい頃には、洞寿院にある石碑とは別に古呂立の所に石碑がありました。大きな石で、川の石に細いものに書いてあったんです。今はどこにあるのか探したがわかりません。

川の近くには上丹生からずっと、橋を渡らずに来られる細い道ばかりが昔はありました。良い道でした。私達は山の中を2時間以上かけて丹生小学校へ行きました。みんな草履を履いて行くのですよ、靴が無いので。冬の仕事に草鞋を40足も50足も一人あたり作りました。学校に行く時は腰に1足下げて行って、途中で切れたら脱いで捨てて、また歩きます。

冬、雪は4メートル、5メートル積もっても学校は通っていましたね。小原には学校で寄宿があるんです。小原から奥に住んでる5年生、6年生は小原へ通ったんです。冬の当期分校というのがあって、4年生までは各字にあったんです。5年、6年だけこの小原へ来て、寄宿舎に泊まって。小原の上に広い場所があって。学校の体育の時間は、竹のスキーを履いていたんですよ、その時代。竹を割って3本組んで、ここに足を乗せるところを作って。スキーを作りました。体育の時間はスキーでここを滑っていたんですよ。野球も、グローブも無かったし。ボールは山菜のゼンマイの綿を糸を巻いて、こんな玉にしてました。毛布を手の形に切って詰めてグローブって言ってました。戦時中は英語を使うなということで「ストライク」って言ったらダメなんです。「よし」とかって言います。「ストライク」と外国語を使ったら怒られました。

*こうやって歩いていました

昔は、今のようにインフラ整備が進んでおらず、橋を架ける技術や資金が不足していたため、地域の人々は川を歩いたり渡り方を工夫していました。川を渡る際、流れが強く深い場所ではなく、川の流れを避けるために浅瀬を選んで渡ります。足元に注意し、川底が岩や砂でそれほど滑りにくく、流れが穏やかな区画を選びます。泳ぐと流される危険があるため、足で地面を踏んで移動します。流れが急になる場所や雨後は特に危険で、洪水の際には渡るのが困難でした。人々は水量や流速を見極めるための知識を持ち、川を渡るのに最も適した条件を熟知し、村人同士で助け合いながら生活していました。

【集団移転後と小原での暮らし】

私は小原で生まれて小原にずっといました、約25年前ここ今市(いまいち)へ来るまでは。みんなが集団でここへ来たわけではありません。工業団地として整備したけれど、工業を募集してもありませんでした。抽選してこの場所はどことどこって決まりました。ここから三軒ほど向こうは鷲見、田戸。今はもう半分以上変わってしまって、今は3、4人しかいません。生き残っている者も年を取って、足が悪いとか体調がすぐれません。ここには、あまり店が無いので生協が自動車で売りに来ています。

ここの雪は、小原に比べたらしれています。小原は豪雪です。11月は「やまこ」といって山を閉める時期なんです。11月9日はいつも山を閉める前のお祝いの日なんです。その時期に山から下りてこないと雪に捕まるということです。それから3月まで雪が降ったのでね、ずっと孤立です、6ヶ月間。除雪ブルドーザーもないし、道は開けてくれないし、孤立状態ですね、小原から奥は。店も無いし。自分たちのものは自分たちでもうみんな確保しないといけない。山菜関係のものも貯蔵する。貯蔵といっても冷蔵庫も何もないし。小原には昭和36年に電気が入ったんです。それまでは電気がなかったんです。ガスも水道も無い。妻は田戸から来ましたが、結婚した頃は石油ランプを使って明かりをつけていました。石油がないと、松の木の赤い芯を取ってきて、それを割って火をつけていました。よく燃えます。

今でも小原へは週に1回ぐらい行きます。私は足が悪いのですが、用事も無いのにああいう山の形をしているところに行くと心が落ち着きます。人間の心理で不思議なもので、家があった所は更地になって何も無いからこそ行きたいと思うんです。

 

【高時川源流の森と文化を継承する会(平成25年発足)と小原】

「高時川源流の森と文化を継承する会」を作って、村を整備し始めました。その時に、拠点として昔の村の跡に、昔あった茅葺きかやぶきの小屋を一軒建てました。みんなに喜んでもらえて、大学の教授・野本寛一さんにも面白いって言ってもらいました。窯で火を炊いて持ってきて、ここで餅つきをしたりしました。村の人はあまり来ないのですがよその人(大学の先生)が多かったんだけど、 文化継承というのを作っていたのかなと思います。その小屋は雪で潰れてしまったけれど。

 

【太々野さんと小原村の自然、神仏信仰】

湖北の民俗で「だんじゅく(大将軍)」というものがあります。興味があり調べています。滋賀県湖北には、観音さん、だんじゅく、神社、たくさん集まっています。小原には、道端ではなく山や林の中に、神様や仏様ができる前のものがあります。神様は弥生時代、古墳の所にあるでしょう。仏様が出てきたのはもっと後で、最澄、空海が中国に倣いに行った後、700、800年代辺りで天女羽衣伝説ができた頃です。天女羽衣伝説のあった所には伊香具神社があります。伊香具神社は仏教も両方祀っていたけれど明治の時代に分離しました。この辺りには高野神社、坂口の神社がありますが、渡来人がここへ来て金を採掘し、それを加工して移動させたり利用する技術を持っていたので、釣り鐘を作る技術、鉱石を焼いて鉄を取る技術を教えました。生活に必要な道具を作る技術があったみたいです。昔、神社の石垣のところまで琵琶湖の水が来てたんです水が引いたのは、涌出山(ゆるぎやま)を削ったからです。*(→この地点については、ページ下部の掲載されている地図をご参照ください)参照水が向こうに流れず水が無くなって唐川という地名になりました。賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルの両側は今でも沼になっています。

小原で危険を感じることは山の自然、雨と風が一緒になる時ですね。木を揺さぶって雨が降ったら抜けてくるんですよ。雪の時も風がなくて、1m泡雪が降って。瞬間的に風が吹く時があるんです。その時に雪崩、災害が起きるんです。泡雪になると大災害になるんです。それを恐れて、大雪の中を歩いていて、もうどうすることもできないので、その時にうちらの方の信仰で、知死期(ちしご)*と旧暦の日を合わせると、何時頃に大災害が起きるか分かるんですよ。

山にいるとテレビもラジオもありません。空の色を見て台風、雪が降るのもわかります。雲さだめ、という日があってこの日にどういう雲が出たら今年の冬は大雪だとか、こういうのが毎年あるんです。今日はもう天気になると朝から分かっていました。小原にいて山にいると、あの山から霞が出た時は雨が降るとか、こうしたら天気になるとか、発見や馬券と一緒で当たらないこともあるけれど昔はやはりそういうものなんです。

*知死期(ちしご)

陰陽道で人の死期を占う「知死期」のことで、特定の時刻や時期を指す言葉。また、近世の俗信では、人が死ぬとされる時刻を指す。

 

【太々野さんの思い】

水害が起こると、一番先に年寄りのじいさんが、やはり水が出たところ、田んぼを見に行きたいんですよ。見に行って、災害に遭うんです。気をつけて行ったんだろうけど、若い者は田んぼには行かない。水がどうなったか、水の恐ろしさというのはやはり分からない。水の流れというのはね、歩くのよりちょっと早いぐらいの速さで流れる。自動車だとずっと先に着いてしまう。

一度こういうことがありました。ここで水が出ていると、自動車道ができてから、私たちのところへ自動車の人が「洪水が出たから気をつけろ。」って、先に知らせに来てくれるんですよ。びわ町の人が「ここだけ雨が降って、こちらに水害がある。」というのは電話で伝えてもらったら一番よく分かると思いますよ。水は遅いんですよ。歩くよりちょっと早いぐらいで、車よりも。私たちはここに物を投げつけて、流して、歩いてついて行きましたからね。水の流れはちょっと早いぐらいですね、歩くのより。そういう雨が降って、ひどい雨が降った時に、車で伝えようと思ったら伝えられる。電話でもびわ町の方から雨が降っていないか連絡が来たことが何度もありますよ。

最近は土木が整備してくれているから水量がだいぶ減ってきました。心配なのは、これくらいの竹が竹藪になっていて、あれを切ると、堤防が切れると思います。この辺りの川の横の竹を全部切ってしまったことです。ほったらかしにするのがよくない。竹は根を張るので、川の方まで竹やぶが入ってきます。堤防だけ残して、川の方に出た分だけを綺麗にこう切ると堤防が弱くなると思うんです。ブルドーザーで起こして高時川から下を全部こう両側竹を切ってしまった。水が出た時に切れると思う。昔は水害を防ぐために川沿いに竹を植えたりしていました。竹の根っこがしっかりしているから堤防が強くなるんです。しかし、最近はその竹をほったらかしにしているから伸びすぎて川の流れを邪魔することがある。このことを県の人に相談したら、「いや、県道が水の流れに障害を作ってるのかもしれない。」とおっしゃる。

昔から木を、竹を植えていますよね。どこでもこうやって歩いていて、「竹がたくさんあるな」と思うと川があります。木流しとかを使って水量を止めるとかよくありますね。あれは天井川になっていくので、砂がこちらから流れて、あちらが上がってくるからですが。少々取ったって水が出たらまた元に戻ってしまうのでね。杉を植えるとね、根が張ってないんですよ。成長が早いっていうので、戦後にバンバン植えましたね。植えた時には1本1万円になるって言って植えましたね。1000本植えるといくら、苗を作って植えました。よく言われていることですが、杉の木を植えたので災害が起きるんですよ。手入れがいきとどいていない杉林は、大雨や台風などの際に土砂災害を起こしやすい。強風により杉が倒れると電線が切断され、大規模な停電が起こるんです。

出典一覧

 

ウェブサイト情報

・独立行政法人水資源機構 丹生事務所 「丹生ダムの経過」

(参照URL: https://www.water.go.jp/kansai/niu/html/hajime/pro02.html

図書情報:

・荒井恵梨子著、『自然と神々と暮らした人びとの民具 小原かご』、農美舎(noubisya)、2023年、96ページ。


丹生村周辺図
【伊香具神社と湧出山、唐川の位置図】 現在の伊香具神社の石垣は新しく作り直されています。
全体地図、江北図書館所蔵
伊香郡周辺図、江北図書館所蔵
小原周辺図、江北図書館所蔵
大正4年丹生村地図、出典「丹生村志」江北図書館所蔵
大正4年小原地区、出典「丹生村志」江北図書館所蔵

小原かご(出典『自然と神々と暮らした人びとの民具小原かご』)
小原かご~小さなかご~(出典『自然と神々と暮らした人びとの民具小原かご』)

洞寿院の水害の石碑、撮影:滋賀県
洞寿院の水害の石碑、撮影:滋賀県
洞寿院の水害の石碑、撮影:滋賀県
洞寿院の水害の石碑、撮影:滋賀県
高時川と妙理川の合流地点、明治28年水害被害の場所、撮影:滋賀県

伝承・言い伝え