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長浜市 明治28年の水害

水害履歴

位置図
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益田地区 明治28年の水害

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水害写真


体験者の語り

長浜市益田地区小笹美智子さん(昭和13年生まれ)

結婚後益田に嫁いでこられた。先々代が体験されたことを、先代の義母より聞いた話。

 

【地区の被害状況】

村中全部浸かってしまった。

ここはね、水が来てた。ここと安養寺(あんようじ)ってね、北にもう1つ益田と大きい村があるんです。まだ南郷の洗堰が十分じゃなかったもんやからね。琵琶湖が満水になってしまって、どんどん水が流れてくるし、もう流れるとこがないから流れてきた。水がもうここと、安養寺が浸かって水つきになった。

 

【先々代の水死】

私から言うたら先代のもう1つ前、おばあちゃん、おじいちゃんになる先々代がお医者さんで、その時に水害が起きた。

往診を頼まれて、船で迎えに来はって、ほいで船に乗って出はったんですけど、ここら辺ももうそうとう浸かりかけてたとこね、迎えに来はった。

とりあえず船に乗っていかはって、 次の村に早崎というところがあるんです。到着までに、迎えに来てくれはった人が竿をこいでたけど、その竿が深みにはまってしまって動かんようになった。拾おうと思って、水の中にはまったらしいんですよ。先々代はどうもならんと思って、助けようと思って。船の上からね、ほんで一緒にはまってしまって、それでもうその時水死だったと聞いてるんです。

その時、琵琶湖の水が ここ上流まで来て船で行って亡くなったと。急病でしょうね。来てくれって言われて、船で迎えにきはった。その時代は電話ってないから直接船で迎えに来はって、この船に乗って行かはったんやと思うんです。

 

【自宅の被害状況】

自宅は200年以上前から建っている。

ちょうど床の間が半分くらい浸かってしまった。

どこら辺までついたか。ちょうどね、床の間の真ん中のとこにね、筋がしゅっとついていた。それで、ここまで水がついた跡が残ってるとか言うてね、お母さんから。そやけど、塗ってもらったから消えてしまって。綺麗になってますもん。

一応、門も蔵もあらかたですけどね、直してもらいましたけど、もうみな洗われてしもうてね、もう 壁土がもってしもうて。もうその時は上の方にね。

上は土になってましてね(厨子・つし)*、結構広いらしくて、そこでね、女中さんなんかがね、お蚕(かいこ)さんを飼っていて、住めるようにはなってたみたい。この部屋の上、私は、上がったことないんですけどね。下のここからコトンとハシゴがかけられるようになってましてね、でも天井板を貼ってしまった。

*厨子(つし):部屋の天井が低く、屋根裏部屋。

うちの家は村の中で角っこにあり、ちょっと山になっている*。村の中で土の見えるところがうちだけだった、とお隣の人が言っていたと聞いている。相当ついた(浸かった)んだと思う。

*ちょっと山になっている:自宅庭の御堂がある場所。当時は今よりも高く、小山のようになっていたようだ。

門の中の壁、蔵の中の壁も壁土でもってしもうて*、竹、壁、下地がむき出しになってまして、タヌキでも出入りするんかって笑われてました。

*門の中の壁、蔵の中の壁も壁土でもってしもうて:水が浸かったところまで壁が落ち、竹が見えてしまった状態。壁の中にも水が入っている。

家屋の柱ジリはボコボコでね、なんとか石やなんかでね、つめ込んで直しといてはくれはる。

外側の柱は取り替えができた、二本はね。他のこの柱やらは水害にあった当時のそのまんま。ひどいもんでしたね。

(私が嫁いでくる前)

直しに来てくれはった時に主人が見せてもらいましたら、 家が傾いてくるし、もうどうしようかと思って。

(下の子を産んだ後)

大工さんが入りかけてくれはりまして、1年がかりでまあまあ直していただいた、でもまだ十分でなかった。子供が小さいうちはね、ボコボコした柱のところでね、おもちゃ持っていって遊んでいました。

(平成16年~18年)

ボコボコした柱を治してもらって(どうしても取り換えができない柱もある)、次に自宅の路地門を治してもらったが、門は最初開かなかったので、籠を一旦降ろして門を直してもらった。主人が関わってくれていたが大変だったと聞いている。

まだ、ほんでも、うちはこんだけの差があるだけでなんですけど、こんだけ初めから高かったからなんとか持ってるんかなと思って。普通はもうこのくらいね、この入ったとこのお部屋と、座敷のね。

 

明治28年(1895年)水害以降の台風の被害状況】

瀬田の洗堰(瀬田川洗堰)*が通るようになってからはつくことはない。

 *瀬田の洗堰(瀬田川洗堰):洗堰(あらいぜき)とは、堤防の一部を切り下げて、増水時に川の外へ水を逃がす仕組みを持つ堰のこと。明治38年「南郷洗堰」として完成し、昭和36年に「瀬田川洗堰」となった。

●昭和34年(1959年)「伊勢湾台風」

 (結婚前:本人周辺状況)

 もう怖かったです。2階の窓からね、裏通りの、塀が倒れるの見てたんです。ほんで怖いと思ってね、その日は。ちょうど電話局(現在のNTT)に勤めてました。で、もう交換の方(電話取次業務)は大変やったらしいです。私はちょうど休みの日で免れたんですよね。忙しい、もう大変やった言うてね、聞いてます。

 

 (結婚前:益田周辺の状況、主人から聞いた話)

 お向かいさんがね、まだやっぱヨシ屋根やったらしくて。風がきつかったんですね、風がすごかってね。ほんで、来てくれ、ちょっと来てくれっちゅって頼まれたさかいに行ったんです。その、ヨシが抜けてまうさかいに、抑えたいさかいっちゅって。 そしたら、直してる最中に、ヨシ屋根ではなく、隣の家が鉄板屋根やったらしくて、これが外れて、ピーっと飛んで来たんですって。こんなとこにいたら首ちぎれてしまう。よそのことかまっている場合ではない、うちのこともなんとかせなあかんからわしはもう帰る言うて、帰ってきたってね、主人は言うてました。

 ここらへんはもうほとんどヨシ屋根でしたね。でも私が嫁いで行った時に、1軒がね、瓦葺きの屋根に家を建て替えはってからもうほとんどね、皆さん建て替えはりましたよ。

 

●結婚後大きな台風はない。台風が来ると、もう 下がボコボコでしたもんで、縁側へ出られなんだです。それでまたいでもしょうがない、この敷居も主人が外側からつけるからちょっと中から持っておけって言ったから持ってた、そんな状態でした。

 

【後世へ】

●明治28年の大洪水から

我が子には、主人からもちょこちょこ喋って伝えている。ここまで水位があった、大変な思いであったんやということを。そやけど、どんなものやったかなんて、そこまでは、若い人は生活の形態が違いますからね。瀬田の洗堰があればこういうことはなかったんでしょうけどな。

●現在の浸水被害想定マップから

水害のちょっとしたのは、つくかもしれない、0.5から1メーター未満ではちょっとつきそうやなあいう感じはあります。ここは琵琶湖に近いですしね。

安養寺、隣の北の村はやっぱ深いですよ。川幅もね、広いし深いですわ。益田の川はちょっと出んことには、近くにはないが、それほど心配するほどでもない。避難場所に小学校(長浜市立びわ北小学校)がありますからね。でも、琵琶湖の水が満杯になれば危ないと思っている。


御堂があるご自宅の庭。当時は今よりも高く、小山のようになっていた。灯籠は浸からなかった。

撮影:滋賀県(令和6年)


伝承・言い伝え