文字サイズ

水害情報発信サイト-水害の記録と記憶-
トップHOME水害履歴マップ伝承・言い伝え一覧市町別水害一覧

高島市 平成25年9月台風18号

水害履歴

位置図
位置図
水害写真

鴨川 宮野地先決壊

平成25年9月16日

県防災ヘリより、鴨川破堤箇所を撮影

撮影:9月16日11時50分頃 (南鴨方面より)

鴨川決壊箇所

平成25年9月18日

県防災ヘリより、鴨川破堤箇所を撮影

(野田方面より)

安曇川町常磐木 十八川区1 平成25年9月台風18号

位置図
位置図
水害写真

洪水の迫る安曇川常安橋

撮影:9月16日早朝 提供:十八川区


体験者の語り 男性 64歳 (昭和26年6月生) 聞き取り日 平成28年2月10日

 十八川区では、区独自で、水害や地震・火事の時の行動を示した「防災の定」を制定している。

 ここは過去に何度も水害に遭っている地域だが、平成25年台風18号の時に、「避難勧告」が出ても、どうすればいいのか、全く分からなかった。

【「防災の定」を作ったきっかけ】

 ここは水の出る在所なんで、僕らは子どもの時から、台風のたんびに、お寺のお堂へ逃げたり安曇川中学校の体育館へ逃げたりしてた。

 僕が小学校のころは牛を飼っていたんやけど、おやじが土のう積みやらに出るので、子どもが牛を連れて逃げた。 翌日になると、台風一過で晴天ですわな。夕べは何やったんやろいうかんじで帰るという経験をしてる。

 それでここの在所の人は、水害に対しては意識が強くて、平成25年の台風18号の時も、90%を超える避難率やった。

 実際、災害に遭うてみないとわからないこともあったので、以後同じような災害に遭ったときのために、区で「防災の定」を作った。

 本にはいろいろ書いてあるけど、膨大過ぎてわかりにくい。初発の行動をどうするかということに絞っていったら、こういうものになった。 

 「防災の定」は、各戸の一番見えるところに貼ってもらってる。1度災害に遭ってるので、これは絶対必要と思ってもらえてる。

提供:十八川区

 昭和28年には、川下の二ツ矢が流れてるし、上流の赤岩というところが決壊して、うちの在所で床上浸水になったこともある。(注:昭和24年7月 へスター台風来襲時) 十八川区は、過去にそういう水害があるとこなんや。

 そもそも、このあたりには霞堤(かすみてい)と呼ばれる堤防がある。

 安曇川の堤防に切れ目があって、川の水が増水すると、その水を逃がすため、そこから水が上流へと浸水する。その水を堤防の外へ誘導するための堤防で、集落を水の被害から守っている。逃がした水を溜めるところは、ふだんは田んぼになっていて、武田信玄の時代に最初に造られた。

 十八川区は、洪水を受け入れながら生活しており、本堤防が切れるのを防がなければならない地区なので、洪水のことを考えないでは生きていけない。

 昭和30年代に安曇川の川幅を広くして、現在の堤防に改修しはったので、それからは水害がなく、避難することもなくなった。

【台風18号時の実態と対応】

 平成25年台風18号のときは、十八川区にも「避難勧告」が発令された。

 9月16日、夜中3時35分に、市の防災対策本部から区長へ電話が入った。『安曇川ふれあいセンターへ避難せよ』という内容。役員が集まり、こんな夜中に危険ではと悩んだ。

 『避難勧告』とは何か、どういう対応をすればいいのか。知識がなかったので、とりあえず安曇川を見に行こうと、役員皆で常安橋へ行った。

 すると、常安橋は水で揺れていて、水位も高く、流れも早くて怖い。その場で役員総意で、全区民の避難を決断した。

洪水で揺れる 常安橋

提供:十八川区 撮影:平成25年9月16日

通常の常安橋 量水標が見える

撮影:滋賀県 平成25年9月


 役員が手分けして、組長を起こして知らせ、全区民に避難指示を完遂できた。

 しかし、体が不自由で動けない人や、車のない人等の、避難支援の必要が出てきた。

 それで、どこの家に、どういう困難な状況があるのかを洗い出し、役員がピストン輸送で避難所へ送ることにした。ちょうど数日前に、区長と防災リーダー等で、要支援者の資料作成をしていたので、手早くできた。

 避難場所は「安曇川ふれあいセンター」という公民館。そこは、赤岩が切れたときに水が流れていく先にあって、検討が必要なんやけど。

【わかってきた検討を要すること】

 足腰の不自由な大柄な男の人には、3人4人でかからんと、とてもやないが補助できない。人数がいる。

 何べん行っても反応のない家もあった。3回も4回も行ってるのに会えない。 翌日になって、危険を察知して、前日に他の集落の子どもの家へ避難してはったことが わかった。

 様子がわからんから、こんな緊急で危ないときに、人のいないところに3回も4回も行ってるんや。

 避難したくないという人もいて、われわれが見た安曇川の状況を言うて、緊急さを理解してもらった。

 問題は、寝たきりの人。何かあったら救急車を呼ぶからと言わはるけど、救急車は当然うちの在所だけやないし、よそに行ってたら、終いや。それに、そんな水が出るときに、救急車も動けない。

 市の保健婦さんも、そこを訪問して、救急車で対応してといわれたけど、そんなことできっこないと思いながら、保健婦さんを見送った。 それも経験しないとわからなかった。

 判断に困ったのは、寝たきりの人を動かして、もし何かあったら、どうするのかということ。

 仮に、出水しなくて、避難させたことによって命を縮めるということがあったら、その責任も出てくる。その見極めをするのが、区としても、最重要の課題やとわかった。

 対象の家は平屋だったので、もし水が出たら、天井を破ってその人を天井裏に上げようと判断して、解決できた。その判断に至るまでが、役員としては非常に苦しかった。  

 5時に、水位が3.74mに上がった。消防団が巡回して大音量で避難勧告してくれたので、避難するのが嫌だという人に効果があった。

 ちょうど秋の刈り取り時で、その米が小屋に置いてある。ある農家は、それが水浸しになったらかなん。なんぞの時は泳いで逃げるから心配せんといてと、なかなか逃げてもらえなんだ。

 そやけど、消防が回ってくれたので、これは尋常でないと、逃げてもらえた。その間もずっと大雨が降っていた。

 役員は、その間も安曇川の水位の上昇状況の監視に、大雨の中、何回も常安橋へ行ってたけど、あんな危ない状況やのに、1回も警察にも消防にも、市の職員に出会わんのや。常安橋も、通行止めにせな危ないんやけど、誰も配置されてない。

【自分らがやらな、自分らの命は守れん】

 午前6時に、安曇川の水位が4.03mに上がった。

 鴨川決壊の情報が入り、市の人が誰も来ない理由が、初めてわかった。みんなそっちにかかってはったんや。

 ということは、我々も、市や消防がみんなやってくれると、期待してたらあかん。ここ以上のことが起きたら、当然そっちへ回るし、市の職員はそんなに多くないので、これに安曇川の決壊が加わったら、それこそ悲劇的な結果になる。ともかく自分らがやらな、自分らの命は守れんと実感した。

 ちょうどこのころ、気象庁が『大雨特別警報』を発令した。『大雨特別警報』っていったい何や。

 それでも避難を嫌がる人がいたが、役員として、「あほ言うてな」と、とにかく避難させる責任があると決断して、説得を続けた。

【走りながら考えてやった】

 区として、避難場所での状況を把握しないといけないので、役員を、草の根ハウスで待機する者と避難所へ行く者とに分けて、人員確認をしてもらった。

 避難時に在所が空っぽになると、泥棒が入ることも心配やから、役員が保安の巡回をしていた。

 避難所では、うちの在所だけやなしに、二ツ矢や青柳の人やら、複数の区の住民が混在していた。避難スペースも、1階のホールや2階の和室といろいろで、ごちゃごちゃする中で、区民の把握をすることが非常に困難だった。

 安曇川の水位は、午前7時、4.12mまで上がった。

 堤防パトロールでは、十八川区としては一番危ないと思っている上流の赤岩付近で、もう少しで越水するという状況を見てきた。避難してる方々にその状況を伝えて、避難状況を理解してもらった。

 午前8時頃、安全なところにあるお弁当屋さんに、朝ごはんのおにぎりを275名分発注した。

 水位は3.96mに下がってきた。

 聞くところによると、川下の川島の堤防が、あちこちでずり落ちていたらしい。もうあと30分か1時間、大雨の状態が続いてたら、昭和28年の台風13号で決壊したのと同じ状況(注:安曇川堤防が、旧青柳村二ツ矢や旧本庄村川島他2か所で決壊し、広範囲で洪水による甚大な被害が発生)が起こってたやろう。

 ぎりぎりのところで止まってよかった。 あの時、市の職員はみんな鴨川にかかってたので、安曇川の川島地先も決壊してたら、もう大変なことになってた。

 午前10時頃、3.52mに水位が下がり状況が好転したので、早帰りは自己責任だと通告をして、帰りたい人には帰ってもらった。雨はだいぶ小降りになってた。

 午後3時頃、常安橋の水位も2.31mで、「避難解除」になり、水害弱者の帰宅支援ということで、車で送っていった。

 これが、当日の実態と対応です。

【台風後に実施したをアンケートから 「特別調査報告書」をまとめる】

 予期してなかったので、区民も、どのように避難したらいいのか全くわからず、場当たり的になってしまった。

 それで後日、当日の実態の調査をし、特別調査報告書」にまとめた。勉強できたことはたくさんある。

 避難連絡入手法は、組長等の訪問や電話連絡が多く、 毎年1度やってる地震時の避難訓練の経験が生きた。

 1. 避難行動では、連絡直後に行動が69%。

 すぐに行動できなかった理由としては、「事情がある」。

 例えば、小屋にある収穫した米 の方が大事やとか、家族の一部を残して避難できないとか。

 緊急事態ということが理解できていない。

 2. 避難時に持参したものは、貴重品とかが多いが、おやつは持って出たけど、通帳や大事なものはみんな忘れてたという人もいた。やはり混乱してたんでしょうね。

 3. おにぎりの配給に関しては、ありがたかったという人が90%、

【問題点と今後の取り組み】

 1. 昼夜の人員の違いによる避難体制の構築。

 この家には誰がいるとわかってても、夜と昼では、いる人が違う。そのきめ細かさが必要。

 2. 地震と水害の対策は同じではない。

 地震の時は、人員確認が必要なので、いったん区内の近い所に集まってもらい、次に区で把握する。

 水害の時は、ともかく、早よ逃げんならん。

 3. 体の不自由な人は、すぐ逃げるという動きがとれないので、 一次避難場所をまず区で設け、市の避難勧告 を受けたら、区としては二次避難場所の、市の避難場所へ送る。それで、一次避難場所を、「草の根ハウス」に設置することにした。

 そして、避難勧告に先立って、当区に危険が察知された段階で、区の対策本部を立ち上げる

 市に任せきりで、市が避難勧告をしてから動くんやなくて、われわれが、データ放送で安曇川の水位を見ながら、 区の対策本部を立ち上げることも決定した。

【避難体制と避難マニュアル】

 区民に周知するために、

1.「防災の定め」(避難マニュアル)を策定。

 逃げろと言われても、どう逃げたらいいのかわからないので、避難行動に対しては、最低限の決まりが必要。

 そして、今までの地震の避難訓練に加えて、策定した「防災の定」に基づく水害避難訓練を実施。

2. 自主防災組織の見直しを行う。

 地域防災リーダーに、ふだん家にいるということで、高齢者もなっていたが、自分の体を避難させるのに大変な人がリーダーでは意味がないので、若手に入替えていく。

3. 水防用保管施設を、切り通しのそばに建てる。

 霞堤の近くに水防板や土のうの保管庫を整備し、水防訓練をする必要がある。

4. 区の水防重点地点を明確化し、情報を共有する。

 水が出たときはこの場所を見に行くという、昔の者が知ってる水防のポイントを、若い人にも伝えていく。

 これまでに切れたことのある、堤防の赤岩や甚八前などの現場で、区民の水防観察会を行う。

5. 要支援者の情報の共有化を図り、当該者の避難に悔いを残さない対応ができるよう、体制を構築する。

 見守りネットワークを、 日常的につながりを持つ体制にすると、いざというときに生きてくる。

【十八川区で独自に定めた水害避難規定】

★台風の接近や大雨の時

 ・防災無線の音量を最大に

 ・テレビラジオ等で情報を得る

★心の緊急スイッチを入れる

 ・水害危険地帯を自覚

 ・安全の思い込みをなくす

 ・区や市などの指示に従う

【十八川区の独自の避難情報】

安曇川常安橋のところの

■水位1.5mのとき

 ・県が設定した「氾濫注意水位」。

 ・市はその水位などにより『避難準備情報』を発表。

 ・区では、水害弱者は一次避難場所に避難の準備をしてもらう。

■水位2.35 mのとき

 ・県が設定した「避難判断水位」。

 ・市はその水位などにより『避難勧告』(全住民避難開始)を発表。

 ・十八川区では、区の自主防災組織本部を立ち上げる。まだ『避難勧告』はせず、水害弱者を、一次避難場所の「草の根ハウス」に避難させる。

■水位2.54m

 ・県が設定した「氾濫危険水位」。

 ・市ではその水位などにより『避難指示』(全住民の避難完了)を発表。

■常安橋の水位2.85mのとき

 ・区での「避難判断水位」『避難勧告』(全区民避難開始)

 県の「避難判断水位」2.35mとは、50cmの差があるが、県の「避難判断水位」の基準とは、このあたりで一番低い土地である河川敷の安曇川スポーツセンターの地面に水が迫ってきた時で、常安橋の水位が2.35m。

 けれど十八川区にとっては、常安橋付近の堤防までの水位はまだ1mほどあるから、2.35mで避難してると、空振りが多いことになる。

 それで、区として絶対逃げんとあかんという基準を割り出した。それが、『2.85m』。

 こういう在所ごとの基準は、それぞれの区に必要やと思う。

 ○参考:「県の水位決定の見解」

 避難判断等の水位は、安曇川の、この橋の水位でこの区間の避難判断、こっちの橋の水位でこの区間の避難判断となっている。

 例えば常安橋で3mだと、川下の本庄橋では、水位計はついてないけれど4mぐらいになっているので、下流の南船木では、《常安橋で3mであれば、南船木は4mぐらいで危ない》という判断。  県と市では、現時点では、常安橋の水位が『2.54m』で、十八川区の避難が完了するを設定している。

 (なお、上記文中の水位は、平成28年度に、変更されました。 県の「避難判断水位」《2.35m》は、《1.9m》に 県の「氾濫危険水位」《2.54m》は、2.30m》となっています。)

水に浮く 安曇川スポーツセンター

平成25年9月撮影 提供:十八川区


【自分たちで対応できる力を高めよう】

 1ヵ所でも甚大な被害が発生すると、市として通常の警戒体制が取れないことを、今回実感したので、市任せにせず、自分たちで対応できる力を高めておかないと、区と区民を守れないと痛感した。 

 参考になるのは、東日本大震災の大津波で一人の死者も出さなかった、岩手県下閉伊(しもへい)郡普代村の話と、岩手県釜石市の「100回空振りでも、101回目も逃げてね」という中学生のことばや『津波てんでんこ』。

岩手県下閉伊(しもへい)郡普代村の話・岩手県釜石市の中学生のことば・『津波てんでんこ』にリンク

 そういう体験から、平成27年度に水害避難訓練と、防災ハイキングを実施した。 

 水害避難訓練は、平成27年10月18日、かつて防災方法として行われていた、県道の切り通しで洪水をせき止めて集落に水が入り込まないようにする、堰板をはめ込む訓練を実施。

 堰板をはめ込むのは、62年ぶりだった。

 「平成27年度水害避難訓練の様子と写真」にリンク 

 防災ハイキングは、平成27年11月16日実施。 

 常安橋より上流の赤岩で堤防が決壊した今までの経験や、水の流れを知る。赤岩がポイント。

【正しく恐れることが、十八川区に住む作法】

 十八川区は水が出るから怖いというのでなく、どういう水の出方をするか、どこが危ないか、どこがどうなった時に逃げなあかんのかという、脅しではなく正しく恐れることが、十八川区に住む作法やと思うので、これを皆に伝えていきたい。

安曇川町常磐木 十八川区2 平成25年9月台風18号

十八川区で紹介している、東日本大震災の津波で、1人も死者をださなかった

 岩手県下閉伊(しもへい)郡普代村の話と岩手県釜石市の中学生のことば・『津波てんでんこ』

★【岩手県下閉伊(しもへい)郡普代村のこと】

 三陸海岸に面した岩手県下閉伊(しもへい)郡の普代村では、東日本大震災の大津波で、一人の死者も出さなかった。

 昭和45年に巨大防潮堤が、昭和59年に巨大水門が、建造された。当時の和村幸得村長は、40年村長を続けてきた人で、昭和8年の三陸大津波で、137人の犠牲者を出したという自身の体験と、明治29年の15mの大津波では302人の犠牲者が出たという過去の水害を教訓に、悲劇を繰り返さないと、巨額を投じて15.5mという高さにこだわった防潮堤と、普代川の水門を完成させた。

 それが、東日本大震災で効果を発揮し、集落を大津波から守った。普代川の河口から300m上流に建設された普代水門では、津波は水門を越えたものの、水流は停止。付近の住宅などに、浸水の被害はなかった。

 高さ15.5m、長さ155mの防潮堤は、津波の到達を防ぎ、集落に被害はなかった。

★【岩手県釜石市に建立された津波の事実と教訓と、慰霊の気持ちを込めた「津波記憶石」に刻まれた中学生のことば】

 ■「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて」(中学2年、女子)

★『津波てんでんこ』

 平成2年(1990年)の「第1回全国沿岸市町村津波サミット」で生まれた言葉

 「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げ ろ」「自分の命は自分で守れ」という意味

 「自分の命は自分で守る」ことだけでなく、「自分たちの地域は自分たちで守る」という主張も込めている。緊急時に災害弱者(子ども・老人)を手助けする方法などは、地域であらかじめ話し合って決めておくよう提案。

 災害時にどうするか、あらかじめお互いの行動をきちんと話し合っておくと、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして、逃げ遅れるのを防げる。

安曇川町常磐木 十八川区3 平成25年9月台風18号

★【防災訓練】

 かつて十八川区では、霞堤(かすみてい:川の増水を防ぐために、本流から流れ込む水を誘導するための堤防)の切り通しを堰板(せきいた)で塞いで、安曇川の洪水が集落に流れ込むのを防いでいた。 

 しかし、昭和28年9月の台風23号の時を最後に使われていないため、堰板の使用法を知らない区民が多い。

切り通しの堰(せき)

撮影:滋賀県

堰板をはめ込む溝


 近年、50年や100年に1度といわれる豪雨が多発していることや、平成25年9月の台風18号の豪雨で、安曇川の水位が4.12mまで上がり、非常に危険な状況になったことから、十八川区では、ここを塞ぐ対処法を、再度訓練することを決めた。 

 堰をふさぐ堰板や、それを収納する水防倉庫が新たに完成した、平成27年10月18日に実施。62年ぶりのことである。 

 当日は、県道と市道の2か所の切り通しで行うため、県道・市道を通行止めにして堰板のはめ込み訓練を行い、区民125名が参加した。 

 最初、避難場所に集まるまでは地震の訓練。そこからは、水防訓練という2つの要素を織り込んだ。 

 堰板の大きさは、県道用は、長さ6.4m、市道は4.9mで、木の厚みは6cm、幅は30cm。この板を数人で運び、数枚を溝にはめこんだら、堰板が水圧で流されないよう、土のうを足元に積んでいく。土のう作りも消防に来てもらって指導を受けた。

【堰板をはめ込む訓練の様子】

写真提供:十八川区





朽木野尻 平成25年9月台風18号

位置図
位置図
水害写真

撮影:滋賀県


体験者の語り (朽木野尻在住の男女9人による 聞き取り日 平成27年10月2日)

【この調査は立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】

 高島市の東部に位置する朽木野尻地区は、安曇川と北川との合流点付近に位置する山と川に挟まれた地区である。地区の中心を県道23号線が横断しており、住居の多くは県道23号線よりも山側に構えている。野尻地区東部の安曇川下流は蛇行し、川幅が急激に狭くなっている箇所があり、増水時にその部分で流れが詰まり、安曇川が溢れ地区が浸水するという被害を受けてきている。

 過去に昭和28年・昭和38年・昭和40年・平成16年・平成25年に地区が浸水しており、このうち、昭和28年・昭和38年・平成25年では県道23号線を越えて山側の住居まで被害が及んだ。

災害時写真

撮影:滋賀県

平常

撮影:滋賀県


 住民の方たちの体験から、地域の特性と昭和28年の水害・昭和38年の水害・昭和40年の水害・平成16年の水害・平成25年台風18号の水害をまとめてあります。

参考(滋賀県災害誌より各水害の概要)

【昭和28年 台風13号】 

 安曇川が下流の二ツ矢で決壊 

 朽木村は400mm以上の豪雨に見舞われ、橋梁はほとんど流失し道路は寸断、通信は途絶、全く孤立化して、一時は安否も気遣われた。

【昭和38年 5月6月の長雨と台風2・3号】 

 4月から5月いっぱい、さらに6月半ばまで天気は悪く、5月の降水量・降雨日数などは彦根気象台開設以来の記録となった。

【昭和40年9月 台風23・24号】 

 9月9日以来、秋雨前線による雨が続くなか、10日に台風23号が・17日に24号が立て続けにやってきた。台風24号は、この年の最も大きい台風で、各河川はこれまでの増水した水量に加え、さらに急速に増水し、9月17日23時頃には各地で堤防の決壊が起こった。そのため、家屋の全半壊をはじめ、田畑の流失・冠水などによる水害被害・農作物被害が甚大なものになった。

【平成16年】 

 この年は、梅雨前線や台風の影響で集中豪雨が頻発に起こった。台風の上陸数は、10月末までに記録を更新し10個となった。 

 特に、大型で強い台風23号は広い範囲で大雨をもたらし、浸水害が発生した。

【平成25年台風18号】 

 強風域半径500kmを越える大型の台風18号は、滋賀県で過去に経験したことのない暴風雨をもたらし、滋賀県・京都府・福井県に初の特別警報(平成25年8月30日から運用)が発令された。 

 このため、県内各地で記録的な大雨となり、高島市鴨川と草津市金勝(こんぜ)川の堤防が決壊したのをはじめ、多くの河川が氾濫し、人家や田畑等広い範囲で浸水して甚大な被害をもたらした。 

 9月15~16日の総雨量は、大津市葛川(かつらがわ)で635mmを記録している。

南鴨1 平成25年9月台風18号

位置図
位置図
水害写真

9月16日 午前7時頃 体験者宅前道路 

左端の白い車が水没している 

提供:木下正信様


【聞き取りにおける被害状況】

 平成25年9月15・16日、超大型の台風18号が近畿地方を襲い、全国初の大雨特別警報が滋賀・福井・京都に発表された。これまでに体験したことのない猛烈な大雨が降り、県内全域に未曾有の被害をもたらした。高島市鴨川沿い、鴨の隣の集落宮野の下流も決壊し、その水流が鴨の方へ向かっていって、一面浸水。 

 60年前の昭和28年9月にも、台風13号による洪水で、鴨川宮野下の今回より少し上流の堤防が決壊し、南鴨一帯が浸水した。

【体験者の語り 83才 男性(昭和5年1月生まれ ) 聞き取り日 平成25年10月29日 平成25年と昭和28年の2度 水害を体験 】

 1階の部屋のベッドにおばあさんが寝てて、私はその横に布団敷いて寝てた。おばあさんが夜中起きて、ベッドから下りたら、水がきてた。「おじいさん、水やで。」言うた。 

 わしはまだよう寝てたから、水やで言われても、なんのこっちゃわからんかった。布団は濡れてなかった。けど、その下は濡れてた。 

 えらいこっちゃ、すぐ2階へ上がらなあかん。どうして2階へ上がったかわからへんけど、とにかく足の悪いばあさんを抱き上げ、階段のとこまでいって、ほうほうのていで逃げたわけや。 

 もう水はどんどんどんどん増えてきて。その時に、ここ(壁についてる水の跡。地面から約1m)まであったら逃げられへんけど、その時はまだそこまで浸いてなんだ。それは、朝5時頃やった。

 で表の方見たら、うちのワゴン車が水に浮かんで、あっちいったりこっちいったりしてますねん。みるみる水かさも増えてくるし、お向かいさんの車も水に浸かってて、もうなんともいいようのない景色や。ただぼうぜんと、2階の窓から見てるしかなかった。家の前の道が川になって、すごい高さまで泥の水が流れてましたわ。大変な泥の川になって。

体験者宅前道路 9月16日午前7時

提供:木下正信様

通常 撮影:12月1日

提供:木下正信様


 ほんでまあ夜が明けて、ちょっと気持ちが収まってきた。 

 息子夫婦が隣に住んでて、そこは建てるときにわりと地を上げてたので、あんまり浸からなんだ。で、そこから息子と嫁が助けにきてくれた。まあ、腰ぐらいまで浸かってたんかな。おばあさん負うて、ほうほうのていで向こうへ連れて行ってくれた。で、次は私を連れて行ってくれて。

 それまで2階で向こうの方見てると、車が向こうからものすごいしぶき上げてやってくるけど、もうそのへんから動けへん、立ち往生して。 

 自衛隊のボートが助けにきたみたいで、誰か乗せてもろたちゅうことも聞いてます。けど、とにかく、道が川の状態で、すっごい流れや。もうあれはすごかったなあ。いろんなものが、なんでも流れてた。 

 隣のうちの大きい乗用車やけど、それがどーんと辻の真ん中まで流されてそこで止まって。娘さんの小型の乗用車も、向かいの車も3台ほど置いとかはったけど、それも流されて。みな、ガチャガチャで道をもう、塞いでしもて。もう、なにがなんかわからん状態でした。

 隣の家の親父さんが透析で、その日はどうして受けなあかん日で、あちこち連絡したらしい。そしたら、消防か自衛隊かが7,8人連れだってきた。一列縦隊になって、みな肩を持って。家の軒を手探りで伝って。あの人らはここらの地形も何も知りはらへんから。ほんで、みんなで肩持ってそこまで助けに行きはったのを、2階から見てましたわ。大変やなあと思てた。水は、腰より上ぐらいまであった。 

 息子が助けに来てくれたときは、もうちょっと引いてたんやろな。まあ、10時以降やったかもわからん。それまでは、どうしようもなかった。

浸水痕

孤立住民の救助にきた自衛隊 提供:自衛隊


 雨は全然わからなんだ。16日の夜明け5時頃に起きたときに、ジャーという大きな雨の音を,、初めて聞いた。寝るときは、何にも知らんかった。急に降ったんかな。寝るときは、ここらはそんなに降ってない。かつてないほどの大雨やったというかんじやなかったですわ。 

 で、5時頃起きたときに、ジャーて大きい音してました。けど、そのときにはもう、すでにすごい水がきてたんやさかいに、やっぱり奥がもっと早うから降って、切れたんやろな。朝になっても、防災無線やらで何の情報も得られなかったことが未だに悔やまれますわ。

 けど今回は、ボランティアさんに助けられたなあ。ありがたかったです。そらもう、県内からも県外からも、毎日毎日来てくれはるねん。その気持ちがうれしいがな。お弁当持って、お茶まで持って、来てくれはった。 

 ほんまにあんなことなあ。お願いするのもどうしようかと思うぐらい、きつい仕事でした。

 床板全部めくりますやろ。床板取ったあと、歩けるような状態やないんや。そこへ足場板をそうっと架けて。それを継いで継いで奥まで架けて。で、昔は床下に石がいっぱいや。床板めくったら必ず塚の下に丸い石がありますんや。で、地べたは全部土ですやろ。そこへ足場板を架けて、上がったり下がったりしながら一輪車でどんどんどんどん、外へ出してくれはる。すごい重労働でっせ。よう、あんなことしてくれはる。黙々とやってはった。ほんまにようやってくれはった。

 で、息子に言うてますんや、今度こんなことあったら、どこでもかまへん、手伝いに行け、て。それがお礼の気持ちやからいうて。絶対行く言うてますわ。

 で、泥を表に山に盛っとくと、ありがたいことや、役所の方から車回してくれはって、溜まったら次から次からダンプで持ち出してくれはって。 

 すごい量でっせ。見てる間に山になりますやん。流木もみな放りだしてたから。土もすごい量でした。それみなそこに盛っとくと、みな持って行ってくれて、朝になったら何にもない。ほしたら、またそこへ山に盛って。それがずっと続きました。

 昭和28年9月25日に、滅多にない大水で大変やったという記憶がありますわ。その時に、鴨川の宮野の集落の下流の堤防が切れたゆうの聞いてたんやけど。 

 それから60年経って、同じようなとこが切れたゆうことで、もうちょっと何らかの対策ができてたら、こんな悔しい思いをすることいらなんだのになあと悔やめて、一人ぼやいてますんや。

 しかし、危ないとこいっぱいあったんやて。もう、手が洗えるぐらいのとこまで水がきたったて、子どもの時分からよう聞いてたけど。それは、もうそこまで水がきてるちゅうことや。まあ、安曇川はいっぱい警報出たったし、避難もしたそうやし、鴨川も八田川も危なかったって聞いてるし、今回ももし宮野が切れんかったら、どっか他が切れてたかもわからん。それはしゃあないことやけど。

 まあこんなことがあって、これからはみんな神経質になるやろ。われわれの油断もあったと思う。 

 少し離れたところの家は、ちょっと高かったから床下ですんだ言うてた。うちらのとこ、ちょっと低いんやな。ほんの紙一重で人生の運・不運は決まるもんやなと、ばあさんと苦笑してる。

 避難場所もなあ、集会所も平屋やし、おんなじように水に浸かってる。安全な場所は思い浮かばん。2階しかしゃあないけど、おばあさんが具合が悪うて、2階へ上がるゆうこともちょっとなあ。これから、みんなもっと考えなあかんな。これから先も災害は絶えんことやし。 

この男性の昭和28年の体験へ 

南鴨のその他の写真(水量に注目!)

2013年9月16日

提供:木下正信様

2013年12月1日

提供:木下正信様


2013年9月16日

提供:木下正信様

2013年12月1日

提供:木下正信様


南鴨2 平成25年9月台風18号

水害写真

9月16日9時16分AM 県道558号永田交差点付近

撮影:滋賀県

水害写真

9月17日 6時30分AM頃

提供:県民

鴨川決壊の洪水による流木が多数、家に当たって引っかかっている。


体験者の語り 男性 61歳(昭和30年2月生まれ)聞き取り日:平成29年2月7日

【聞き取りにおける被害状況】

 平成25年9月15・16日、超大型の台風18号が近畿地方を襲い、全国初の大雨特別警報が滋賀・福井・京都に発表された。これまでに体験したことのない猛烈な大雨が降り、県内各域に未曾有の被害をもたらした。 

 高島市では、鴨の上流側の宮野地先で鴨川堤防が決壊し、洪水が鴨に向かっていったため、鴨は一面浸水し、大変な被害を被った。 

 60年前の昭和28年9月にも、台風13号による洪水で、鴨川堤防宮野地先の、今回より少し上流の堤防が決壊し、南鴨一帯が浸水した。

【体験者の語り 】

 平成25年、台風18号により鴨川堤防が決壊し、洪水が襲ってきた。家は住宅基礎を高くしてあったので、全体的な床上浸水は免れたが、住宅基礎内に浸水したため、そこから水が上がってきた。 

【あんな勢いで流れていく水は、初めて見た】

 平成25年9月16日、2階で寝ていた。 

 朝5時頃、家内がなにか音がするというので起きてみたら、すでに家の周りに水が流れていて、「うわ!」という状況だった。 

 これは大変だと1階へ下りたら、しばらくして家の中に水が入ってきた。 

 うちは基礎が高いので、この冠水状態だと外から家には入ってこないんだが、基礎の通気口から床下に水が入って、そこがいっぱいになり、床上へ上がってきた。それが、5時20分ぐらい。 

 けれど、家全体が水に浸かってるわけやないので、床上の水を掻き出して水の少ない玄関へ落としてた。だから、大変やという気持ちはあったけど、命の危険とかは感じなかった。 

 特別警報が出たのが6時くらい。その時にはもうすでに一面が水で、すごい勢いの流れで、とても歩ける状況ではない。車でも行けない状況だった。 

 あんな勢いで流れていく水は、初めて見た。小さいとき、道路が浸かったのは見てるけど、流れてるというのは見たことない。 

 台風が来ることは知ってて、警戒せんとあかんと思ってたけど、直撃はしないと安心してた。 

 16日朝8時頃、防災無線で、あちこちの集落に避難勧告が出るんやけど、南鴨は全然言わない。最後まで勧告は出なかった。南鴨の水は何なんやろうと言ってた。 

 避難の話は、雨風がちょっと収まってからやったけれど、そう言われても、あの水の中をどうやって避難するのかと思ってた。 

 8時半ごろまでずっと床上の水の掃きだしをやってて、ひと段落してからテレビをつけても、京都の嵐山ばっかりやってて高島の状況はわからずで、あっちよりここの方がひどいぞと言うてた。 

 鴨川が決壊したことも知らず、どこからこんなに水がきたのかと思ってた。

【隣の家から助けを求められて】

 その頃、隣りの家から、家の基礎がえぐれて、家の中から流れてる濁流が見えるぐらいで、怖いので避難させてもらうかもしれないと言ってきた。どこまでえぐれるかわからんし、2階にいても家が倒れるかも知れない。その家には、夫婦と小学生の子どもが2人いる。 

 一面水浸しで、どうやってくるかと話してたけど、最終的には来なかった。 

 うちの斜め向かいの家には、自衛隊か消防かがボートで救助にきていた。おかあさんと、帰ってきてた妊娠中の娘さんの2人。 

 ここは平屋で、そこの家の前に止めてあった車の、窓わくの下まで水がきてたから、1mぐらいは冠水していた。

体験者宅のまわりを川のように流れる洪水。

軽トラックの車輪が見えないほど、浸水している。

撮影:9月16日午前7時 50分頃

提供:県民


【この洪水は、鴨川決壊のため】

 南鴨の集落は、集落の北の方の通りあたりが、川沿いで一番低い。浸水位は1m超ぐらいで、たぶんそこが一番深かった。 

 鴨川からの洪水は、南鴨集落の中の2つの通りを勢いよく流れて、集落で床上浸水させたのと、決壊地点からさえぎるものがなく、田んぼをまっすぐ流れて、集落を通りぬけ、JR湖西線方面に流れていったのが、被害が大きかった。 

 隣の家の基礎もコンクリートやけど、それがえぐれるぐらいやから、すごい水の勢いで、このあたりも浸水深は1mぐらいだった。 

 遠くの方には水しぶきを上げながら走る車も見えるけど、こっちの方には近寄れない。だから、たぶん他の集落の人は、南鴨がここまでなってるとは知らなかったと思う。その日はこの状態で、身動きできなかった。 

 最終的に水の流れが止まったのは、翌日の昼ぐらい。 

 鴨川が決壊したという情報は、自分であちこちから情報を集めてわかった。 この集落の消防団も、警報が出てたので、前夜15日から詰めていた。それによると、鴨川が危ない危ない言うてて、翌16日朝4時過ぎ頃、下流の水深がストンとなくなった。で、切れたんやなあと言ってたらしい。

【被害の状況】

 うちの家の床は、みんな水に浸かった。 

 和室の床板を取ったら下は泥だらけで、20cmぐらい溜まっていた。この泥が、全部の床下に入ってる。 

 和室の泥は上を開けて取れるけど、フローリングの床は開けられんから大変で、基礎コンクリートの床下通気口を下まで切って、人が中に入って出した。 

 バケツも、知り合いにあるだけ持って来てと頼んで、染料が入っていたものを50ぐらいもらった。それも集落の人に分けて、全部使った。

【流木で駐車場がダム化】

 車は、近所もみんな水没してだめになった。うちは2台あって、1台は水没してしまった。 

 ところが、もう1台の車は、奥の方へずーっと流されただけで、助かった。 

 なぜかというと、その車も最初は洪水をかぶってたけれど、どんどんどんどん木や竹なんかが流れてきて、駐車場の入り口をダムのように塞いでしまったので、浸からなかった。 

 うちは、川から少し距離はあるけど、その間がずっと田んぼなので、洪水が直撃した。川に向かって道沿いに、塀の開口部がガレージ2つと門があるので、ここから家に水が入る。洪水で、直径が20cm以上もある木やら竹やらがどんどん流れてくる。一方の駐車場の入り口は、たくさんの木が引っ掛かって、完全にビーバーのダムのようになって、塞がれてしまった。おかげで中の車は浸からず、最初に水の勢いで駐車場内を端まで流されただけで済んだ。 

 もう流木がたくさん引っかかり、駐車場の入り口だけでも、2トントラック2杯分ぐらいあったのと違うかな。 

 あんな太い木が、まともに家に当たったらひどいことになるんやけど、流木が直撃したという話はどこからも聞いてない。

決壊箇所からの洪水が直撃し、流木やらでふさがれた 駐車場入り口。

家の内側から撮影

家の前の道路から撮影

提供:県民


【集落中央にある古い方の家】

 集落北の一番低い道は、明くる日もまだ水が流れてたので、通れなかった。 

 ここの人も、台風当日、自衛隊に救出してもらっている。 

 知り合いの家では、朝5時にすでに相当水が上がってきていたから、電化製品は持てるだけ持って、2階へ上げたらしい。 

 うちも、今は住んでないけれど古い家が近くにあって、そこも床上浸水やった。畳は上げてあったので、床板の上に泥が溜まっていた。土間にも、泥が10cm以上は溜まってた。 

 止めてた軽トラックはアウト。小屋も泥だらけ。 その泥は、土のう袋もなくなって持って行くところもないので、土のうを積んでプールを作って、その中に泥を溜めていった。 

 うちのように通り沿いの家は、水が家の前を流れていってまだましやったけれど、流れが突き当たった家はひどかった。ここには流れが集中していって、ドアを破って家の中をまっすぐ抜けてる。木造で基礎はないから、縁の下からも水が入ってる。

和室の床下も、土間も、奥に見える床上も一面泥だらけ

提供:県民


【仕事は 2週間休んだ】

 後始末には相当な時間がかかった。僕は2週間、仕事を休んだ。ボランティアの人も大勢来てくれはった。うちは、親戚や知り合いが、毎日10人ぐらい来てくれたので、ボランティアさんは、他へ行ってもらった。 

 田んぼも大変やった。今もまだ石がいっぱいある。そして、たくさん流れてきたのがタイヤ。うちの田んぼにもタイヤが4本ぐらいあった。それから流木。 

 うちの横の道路を、洪水が流れていって、その下流にある道路沿いの工場は、1m以上浸水した。湖西線でせき止められて、そのあたりがダムになってしまって。さらに、湖西線の下を横切る道路のところは開口部になっているから、周辺の水がそこへ集中して抜けていった。 

 で、さらに抜けていったら、今度はバイパスで遮られて、またダムになって、抜けるとこは水流が強いから、アスファルトも舗装がめくれてガタガタになってた。その勢いで丸太とかタイヤも流れてくるし、盛土の抜けてるとこが何カ所かしかないから、あちこちでダムになってる。それで被害が拡大していた。 

 水害リスクは、単に川だけでないと思う。

 【過去の水害について】

 親から水害について聞いたことはない。 

 ただ、小さいときに住んでた古い方の家の前の道が、10cmぐらい冠水してたのは覚えてる。裏の、集落で一番低い道が冠水してたのも覚えてる。けど、大きな被害はなかったように思う。 それで、水に対する警戒心はなく、全然心配してなかった。 

 この台風の後、何回か大雨があったときはすぐ避難勧告が出て、みな避難所になってる「B&G海洋センター」へ行った。

 【洪水の浸入を防ぐために、家を壁で囲うと安心】

 近所に、まともに水を受けてるのに、被害の少なかった家がある。なぜかというと、水がきた方向に塀があったから。それと、家の基礎が高くなっている。それで流れを受けてるけれど、ほとんど家に入ってない。ちょっとの違いで全然違う。 

 うちの家も基礎がちょっと高いから、全部塀で囲ったらまず大丈夫。 

 うちは、川から少し距離はあるけど、その間がずっと田んぼなので、川からの水が直撃する。すると、川に向かって道沿いに塀の開口部が、ガレージ2つと門とで3つあるので、ここから水が入る。それでこれを塞ごうと思う。 

 今の雨の降り方では、堤防が切れることはないかもしれんけど、溢水は絶対ある。洪水の浸入を防げるように、家を囲うと安心。

 【集落の避難に関して】

 地域で、防災計画は作っているが、避難訓練はしていない。 

 ここの避難場所は、一番は近くの「南鴨会議所」。水害では危なかったけれど、火災や地震とかの避難所でもある。 

 ここは、平成25年の時に浸水したけど、水の流れはこの建物でせき止められられたので、その横の広場にはあまり水はなかった。 

 そして次は、「B&G海洋センター」。 

 避難勧告は高島市の防災無線で。屋外にもスピーカーがある。車もみなあるし、ほぼ各自で避難できると思う。 

 個人的には、災害があった時のために貴重品をかためておいたり、非常時のライトやガスボンベとかの一式は、準備している。

 【伝えたいこと】

 ●水の来る向きは、塀などで塞ぐこと。 

 これまでの50年に1度の雨が、これからは10年に1度ペースで降るかも知れない。川の構造も今の雨に合ってないの で、何か対策が必要。水がどんどん溢れていったら、結局、堤防は決壊する。 

●家屋の保険は、水害も対応できる保険に入っておくこと。 

 うちは今回は火災保険だけだったので、早速入った。 

●車対策は、車両保険に入っておくこと。 

 でないと、水没して廃車になっても一銭も出ない。 

●土のう袋やバケツ・スコップの準備。 

 ボランティアさんに来てもらっても、道具がなかったら仕事にならない。準備が必要。

皆さんの援助に、感謝しています】

  災害の時には、近隣やボランティアさんら、たくさんの皆さんに助けていただいて、本当にありがたかった。 大きな災害でしたけど、人的被害がなかったのが幸いです。

宮野 平成25年9月台風18号

位置図
位置図
水害写真

台風18号鴨川右岸浸水状況(県防災ヘリ動画より)

9月16日 11時50分頃 撮影:滋賀県


【聞き取りにおける被害状況】

 平成25年9月15日から16日にかけて、台風18号が本州を襲い、全国初の特別警報が滋賀県・福井県・京都府に発表された。これまでに経験したことのない猛烈な大雨により未曾有の被害をもたらし、16日午前5時頃、鴨川の野田橋下流の宮野地先で堤防が決壊。場所が集落より下流だったので、直接水の流れを受けなかったが、逆流水を警戒して、集落で避難した。

 60年前の昭和28年の台風13号のときは、今回の決壊場所の上流の堤防が決壊。溢れた水が集落を襲って、一部の家屋を直撃している。

体験者の語り 男性 78才 ( 昭和10年生まれ ) 平成25年と昭和28年の2度 水害に遭う 聞き取り日 平成25年10月29日

【鴨川が、宮野のお墓のとこで切れた】

 恐ろしいこっちゃな、ほんまに。一生に2へんも水害に遭うてな。

 鴨川の堤防のここ両側にブロックが積んだるんやけど、川の水がここ(左岸)へバーッとあたるから、そこからブロックがずれとったんや。で、その水が宮野の方(右岸)へバーッとあたって、その勢いで堤防が痩(コ)けていったんや。こら、あかん、ここ切れたら、鴨が水びたしや。ここが危ないゆうのは、みんな知ってた。

 ほんで、野田橋は付け替えられてるんやけど、元の橋のとこは石垣を積んで丈夫にしたるわな、。そこもカーブになってるから、宮野の方ばっかり水が当たってた。もう、ブワーッブワーッと流れよる。これは切れそうな水やったんや。これはあかんなあゆうてたら、野田橋の下流のここが切れたんや。

 消防団は夕方から警戒しとった。台風が来る前からな。鴨川が切れたんが、朝方の4時か5時頃かなあ。

 宮野のお墓が堤防の下にあんねんけど、はじめはお墓のとこが破れよったんや。で、ごっつい木が倒れよって、今度は水の方向が変わって、堤防がバーッと切れたんや。

 本流が、いかい堤防をバーンとぶち破ったさかい、お墓の方が切れたんやけどな。先にお墓のとこが破られたんや。野田橋からまっすぐや。うちのお墓もみな、さらわれたんや。

 ほらもう、水がダーッと鴨のほうへ流れてた。ほんで、切れたとこにうちの田があるねけど、なんと何にもあらへん。みな、抜かれた。深う深うなって。こんなもん、元の田になるんかい言うてたけど。この田のあたりから、水が滝のように落ちてたわ。あら、ひどいもんやな言うて。

 で、その下に隣の田があんねんけど、雨が降るさかい、田を刈らんとコンバイン置いて去(イ)んどった。それが、ダーッと流されて。コンバインも何もかもあらへん。ほんで、材木が根ぐち、ばーっと倒れとるがな。ほらすごいわ。

 ほんで、田んぼの真ん中に1軒、家があるねん。切れた下(シモ)にな。ここ向いて、バーッと水がいってたわ。ここの家は、地上げしてはったからましやったけど、あんなもん上げとかはれへんかったら、まともに家ごと持って行かれてるわ。

 それから、朝の8時頃かな。消防がBG(B&G海洋センター)へ逃げてくれゆうて、1軒1軒歩きよった。逆流する水がこわいから、みな、逃げてくれゆうて。一生懸命やっとった。わしらうろうろしてて、おい何してんねや、早よBGへ逃げて来いて怒られて。

 水が逆流しよるからな、怖いねん。はじめはダーッと向こうへ流れていったけど、それが今度は逆流してくるねん。ほんなら、ここらも見てる間や。はじめはどうもなかってもな。

 そこに、草の根ハウスてあるけど、あんなん低いさかいあかんし、BGにしようゆうて、今決まってそこに逃げたんや。

 昭和28年の時も、すぐそこが決壊したけど、誰も逃げともなんとも言わへんわ。最近は避難避難て言うてるけど。

 鴨川平もBGへ逃げてきた。ここも危ないんやわ。上の武曽(ムソ)が越水しとったらしい。消防も夕方から見回ってたけど、晩のうちには逃げなさいとは、言うてなかったなあ。朝まで警戒しとったけどな。

【前に切れたとこを警戒してた】

 けど、ここが切れたんは、知りよらへんかったな、みんな野田橋の方ばっかり、寄って眺めてるだけで、下が切れたん知らへんねや。わからへんねん。

 ほんで、鴨へ下がっていったら、なんやここ、水あらへんやんてなって。

鴨川野田橋下流の決壊箇所

撮影:滋賀県

宮野地先より見た決壊箇所

撮影:滋賀県


 ほんま、危なかったんや。もう、見たらぞっとするわ。で、水が多いさかい、下の気配が全然わからへんやん。もう、消防も橋のとこばっかりおったさかい。誰も下まで行かへん。

 ほんで、部落のもんが誰か、朝ふっと見たら、ほらまあ、ひどい水や。ここらの田んぼ、水浸しや。ほんで、切れたんちゃうかゆうて。そんなもんや。みんな橋ばっかり見てたから。あそこが切れたら在所が危ないさかいな、ここらがみな。

 今度は幸い宮野の在所では水が浸いたとこはなかったけど、その代わり、鴨がかわいそうやった。この下にアパートが建ったる。1階の人は、自動車も電気製品も全部あかんかった。ベーリング工場でもみな水に浸かったさかい、あかへん。

 それから、夕方の4時頃か、建設会社が出てきて、なんとか止めるゆうてたけど、どないして止めるんや、こんなおおさわな水。ザバーッときてるし。 

 ほんだら、流れてきたブロックやらを埋めよるんやけど、そんなもん、あかん。けど、根気ようどんどん持ってきて、沈めよ沈めよゆうて埋めよるんやわ。で、やっと本流が向こうへいった。どんどんどんどん、川上かどっかにあったんやろな、土砂を持ってきて。

 若いもんも、これから家建てるんやったら地上げもしはるやろ。考えてると思うわ。あとは、早めに避難するしかない。こないだも、27号(平成25年台風27号)が大きいて危なそうやったから、また逃げなあかんどていうてたんや。ほんですぐ、橋見に行った。あんまり降らへんかったからよかったけど。関係のないもんは知らん顔しとるわ。

 もう、雨が降るとこわいわ。

避難場所になった高島B&G海洋センター 

16日午前7時38分ー浸水していない


伝承・言い伝え
Adobe Readerのダウンロードページへ(別ウィンドウ)

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先から無料ダウンロードしてください。