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守山市 昭和28年9月台風13号

水害履歴

位置図
位置図
水害写真

今も残る家屋の浸水痕

撮影:滋賀県

今浜町(美崎地区) 昭和28年9月台風13号

位置図
位置図
位置図詳細

昭和30年頃の、美崎の川の流れと、北川へ通じるただ一つの通路、大川橋の位置

位置図写真

石碑「旧野洲川のすがた」より美崎部分


今浜町(美崎北川地区)

 かつて野洲川は、下流で北流と南流に分かれ、南流がさらに河口近い美崎あたりで大川と新川に分かれて蛇行し、氾濫決壊を繰り返していた。

 そのため、大川と新川の中州にある美崎北川地区をはじめ、周辺住民は、毎年何度も水害を受けてきた。

 それを防ぐため、昭和54年に南流と北流の真ん中に新放水路が造られ、それ以降水害は起こっていない。

体験者の語り 男性5人(昭和4年・8年・9年・26年生まれ )聞き取り日 平成30年8月20日

【北川地区は橋が無くなって孤立するところ】

・野洲川は昔からよう切れた。28年よりもっと前から、もうひどかった。

 大川と新川の間にも中島川いう川があって、北川地区は大川と中島川が分かれてる三角の中にがあって、みんなで生活してた。

・北川地区は堤防が低いので、あったかて無いようなもんで、すぐ水が溢れてダーッと流れ出す。多いと年に3回か4回ぐらい浸いた。床下浸水や。

 地区唯一の大川橋は木の橋やったから、水がきたら流れる。3回水がきたら、3回流されて3回拾いにいかなあかん。拾ってきて橋を架けんと、向こうへ行かれへん。

 それで、大雨が来そうなときは、先にこの橋を上げるんや。うちらの方が3割ほど、向こう(対岸)が7割。太鼓が鳴ると橋を上げる。

・家内の親元は美崎でも川の対岸にあるので、結婚してこっちに来てびっくりしてた。水が流れてきたかて、どこへも逃げられへん。橋を上げてあるから、孤立してる。

 同じ美崎でも、大川の向こう側(左岸)は、川の氾濫があらへんかったんや。

 こっち側(右岸)は、大きい水になったらあちこちすぐ溢れて、それが全部いっしょの流れになって在所を流れたから、逃げるとこあらへん。

 畑には泥が入ってそらひどい。堤防があらへんとこは、もっとひどい。大きな穴がいくつも掘れてて。

・もう毎年やし、ひどい年やったら1年に2へんも3べんも畑がダーッと流された。もう、ほんまに何べんもやから、ようこんなとこ住んでるて思てはったと思う。

【川が、あっちいったりこっちいったり】

 大きい水がくると、川がというより集落全体が川になってしまう。川自体はそんなに大きなかった。大川にしても新川にしても。

 けど、洪水が流れて水が引いた後、砂が堆積してないところが新しい流れになったりして、野洲川があっちいったりこっちいったり場所が変わってた。畑やったところが川になって大きなって、畑がなくなってしまったり。

【男も女も堤防を守る】

水が堤防を越えると、堤防を裏から削っていくから、決壊せんように、堤防に畳を持って行って立てて、その前に土のうを置くねや。そうなったら、住んでるもんは、男でも女でも行くんや。家てほったらかしや。

 土のうもあらへんし、畑の土をそのまま使うて。

 その当時、ここの在所は12・3軒しかなかった。家を守るために堤防があったんやけど、大雨が降ると、12・3軒のもんが 、その堤防も守りせんならんわけ。そやから、みんな一生懸命やった。

・切れんでも、川下の方から水がずーっと回ってくるんやわ。堤防は短いし下の方にはあらへんから、下からザーッと水が入ってくる。うちは、なかでも低いとこに住んでたから、いつも浸いたった。

【野洲川は、南流は今浜と笠原で、北流は六条で決壊】

・昭和28年は、この辺では溢れたんやけど、新川の下では切れた。その対岸でも切れた。

・上で切れたら、水はどっと引いて、またどっと流れてくる。

・28年は、南流は笠原と今浜で切れたさかい、水が引いたら野洲川のなかに大きい穴が開いたった。お宮さんの上やらひどいもんや。大きい穴がいくつも開いて。

 ひどい水の時は、あんなふうに川の中もひっくり返ったるんやな。

・北流はもっと上の方の六条(右岸)が切れてるから、対岸の服部は被害がなかった。服部の方が、堤防が高かったし。

・野洲川はもっと上の竹生(たけじょう)で2つに分かれてたけど、その時の砂の積もり具合で、水が南流にようけ流れたり北流にようけ流れたりしてた。あの時は、南流の方が浅かったんやな。

・で南流は、琵琶湖に流れるまでが長い。

・今浜の切れたとこは、今浜橋の下の在所の終わりぐらいのとこ。藪があって畑があった。今浜橋のたもとの堤防は、粘土で造っとかはるから切れん。

・浸水に遭ったところは、田んぼは泥が積もってるけど、出てる穂先をつまんで収穫してた。田の土はどけなあかん。

 家は、床下に泥が入ったら、絶対掻き出さなあかん。床下の板をめくって、きっちり乾かさなあかん。あれはしんどい。

 畳は中が藁やし、泥も吸って使いもんにならん。

 今西日本豪雨(平成30年7月)のテレビ見てたら、同じことや。気の毒になあ。わしらも何回もやってきた。

・畑は復旧しな物作れへんし、家もまた、大工さんに来てもうて直さなあかん。

・百姓やから、収穫なかったらまともに食えへんから働きにいく。堤防補修やら土方ばっかりやってた。田んぼがあるし、会社には入れん。長男やったら家を盛りたてていかなあかんし。

・鈴鹿山系に北風の時は、特に雨風がきつい。それは、子どもの時分から聞いてた。野洲川は特にそうや。ほんまにひどかった。この辺の川幅はこんな狭いのに、上流の、今の「地球市民の森」の大曲(おまがり:洲本町)あたりの旧の川幅は、こんだけ広いんやから水害になるのに決まったる。

・家だけやった引っ越しもできるけど、うちらはここの畑で生活していかなあかんから、大変やった。湖岸までの田んぼも、美崎の者が持ってたから。

洲本町開発(かいほつ)地区 昭和28年9月台風13号

位置図
位置図
水害写真

旧野洲川南流にかかる列系図(れっけつ)橋

提供:県民

決壊前の旧野洲川。橋が水没しそうなほど、増水している。ピークは過ぎ、雨は止んでいた。このあと、決壊。

水害写真

決壊後、洪水が押し寄せ、水に浮かぶ開発集落

提供:開発自治会

野洲川堤防から、見たところ。


洲本町開発地区

 旧野洲川南流沿いの集落。古くから、大雨が降ると氾濫・決壊が起こっていた。

 昭和28年9月の台風13号の時、旧野洲川の洲本と笠原の境の地先堤防が決壊し、押し寄せた洪水で集落一帯が浸水被害に遭っている。

体験者の語り 男性 5人 (大正15年・昭和10年・16年・19年・29年生まれ)聞き取り日:平成30年11月2日

【9月25日深夜、(旧)野洲川が決壊】

・切れたところは、洲本と笠原の郷境。蜊江神社のちょっと下(しも)。ざっと見て、500mぐらい下まで切れてた。

 切れたところから、下流の開発の方へ洪水がどんどん流れてくるし、堤防はえぐられるし、そらすごいもんや。

 3日も4日も流れたった。

【決壊前から40~50cm冠水】

・わしは部落を見て回ってたんやけど、切れる前から水がもう50cmぐらい冠水してて、足が動かへん。18歳やったけど、あこまで行こう思てもいかれへんねん。

 法竜川のあたりも、溢れて50cmぐらい冠水してた。

・僕は6年生やった。家の庭まで水が入ってて下駄が浮くさかい、上へ上げてた。

 それは野洲川の水やなくて、下から上がってきた水。もう、琵琶湖が浸いたったから、排水が琵琶湖へ入っていかなんだんや。

・土山(野洲川の上流)は、ようけ降ったらしいけど、このへんも降ったんや。

 役員さんの握り飯を作ってくれ言われたけど、かまどに水が入ってきてて、炊けへんのよ。23日と24日と2日間ずっと雨やったから。

・水がザーッと堤防を盛り越すんや。浜街道の列系図(れっけつ)橋を丈夫なコンクリートで造りはったんで、流れてきた木材やらが引っ掛かって水を止めてしもて。もう、恐ろしいほど盛り越すんや。野洲川は、洲本で曲がってるから。

【堤防が水を吸ってどぼどぼになって、決壊】

・消防団員は、水が出たら必ず堤防の見張りに行かなあかん。守るとこが決まったる。開発はここまで、笠原はここまでいうふうに。

 切れたとこは開発と笠原の境で、あんまり竹や雑木が生えてないとこや。内側には畑があるんやけど。

 腹付けいうて、堤防の法面に盛土するんやけど、高さがあるから下しかでけへん。

 もう、水が溢れて溢れて、堤防全体がぐしょぐしょで。杭を打っても打っても、中が緩いからボワーッと抜けてくる。重しに土のう置いても何にもならへん。ずぼんと入っていくだけ。そのくらい怖かった。

 そんなで、堤防が辛抱し切れんと、ボーンと飛びよった。下が切れて、それからずーっと上へ切れてきたもんやから、この人らは上の笠原の方へ逃げはったんや。

・私ら消防団やったから、切れたとき堤防にいた。

 切れたとき、水が引くもんやと思たら、堤防が上へ切れていくねん。堤防から盛り越した水が当たって、堤防が上へ欠けていく。上へ上へ決壊口が広がっていくねん。

 で、上の方の笠原の橋を渡って対岸の立田に逃げて、今度は列系図橋を渡って開発へ帰ってきた。向こう側は切れてへんかったから。

・先に今浜が切れて、それが9月25日の夜の11時頃で、笠原は、1時間ちょっと後の夜中0時20分頃らしい。

・笠原が決壊したときは、消防がみんな出てた。

 そやから、切れたということは、在所のなかを言いに回ってるもんも居やへんしわからん。

 お月さんの明かりでサーッと見えてきたら、景色が変わったる。こっち(開発)向いて、水がきてるねん。もう、切れたら早い早い。堰を切ってきますんや。

 下の方へいる人は、早よ逃げなあかん。どんどんどんどん切れ口が広がってくるから。

・決壊口は、いっぺんにドサッと落ちるんと違うて、どんどん広がっていくんや。

・僕は小学校6年やった。避難せよいう寺の鐘が鳴ると、橋や堤防に避難する。洲本は逃げるとこがないから。堤防の避難したとこが切れるかもわからんけど、とりあえず堤防へ逃げる。高いから。

 あとはお寺とかちょっと離れた親戚の家へ行ったり、家にいたり。

 僕は、近くの列系図橋が高いのでそこへ避難して、夜やったからそこで寝てた。

・百姓やからみな牛が家におったんや。牛は大事やから避難して、ずらーっと堤防の竹にくくられてた。今のJA「おうみんち」の幅が堤防の端から端までやけど、それを越えて、下へ落ちよるのもいた。それだけ牛が来ますねで。

 列系図橋も、水面まで1mもあらへん。ガーッと流れたって。

【洪水が集落を直撃】

・笠原で決壊したので、洪水が列系図橋のたもと付近を直撃した。浜街道が堰になって水が止められて、そこを中心にパーッと広がっていった。

 そやから集落の中でも、決壊口に近い方から浜街道までの水位が高うて、うちはそこやから、床上60~70cm。

・うちも、堤防近く浜街道までのとこで、屋根のひさし近くまで水がきてた。うちに水の跡が残った写真がある。床上1m以上あった。

・浜街道の下にトンネルになった細い生活路があって、決壊口からの洪水がそこから渦になって、集落へ流れてきてた。

・集落の多くは浜街道より下やので、だいたい床上40~50cmぐらいやったと思う。

浜街道の坂道から見た洪水

提供:開発自治会

高い列系図橋側から、下の民家側に水が流れて浸水。

法泉寺の釣鐘堂は、石垣で少し高いので、浸かってない。

民家に残る水浸の跡

提供:県民


【復旧はみなで】

・復旧工事に8日間携わった。区長さん以下男手はみな、公民館に寝泊まりして。

 決壊口に近い、今の守山北高校や老人ホームの「ゆいの里」のあたりには、1mほどの泥が溜まった。ここが1番多い。その頃はずっと田んぼやったけど。

 だいたい今の取付け道路のあたりまで、土砂がきとったね。川に近いとこはバラスが溜まって。稲が土砂を被って、開発全体が埋まってしまった。

・水が流れっぱなしやから、切れたとこを、応急処置で急いでせきとめなあかん。ブルドーザーが10台ほど来てくれたんやけど、決壊したとこの仮止めに、1週間ぐらいかかった。ちょっとずつ狭めていかなあかんし、そのまままっすぐ下に流れてくれたらいいけど、量が多いし、あっちにもこっちにも流れるし。

 ほで、そのほかの土砂はほっときよる。

 その後、雨が降らへんかったからよかったんや。ひと月ほどずーっとよい天気やった。あれで雨が降ってたら、また上から流れてきて大変やった。 

・水が止まってから、トロッコで、ほっときよる土砂を堤防へ運んだ。

 うちらの田んぼやから、土砂をどけんことには何にも植えられへん。砂の少ないとこから取っていって、1m堆積とかの多いとこは後になって、元のように作物がとれるまで3年かかった。

 細い線路を2本敷いて、そこに箱形のトロッコを置いて土を載せて、それを二人で押す。これは自分では動かんので。

 土は、堤防の腹づけ(補強用に盛土)に持って行った。

・親戚なんかにも、家の片づけの手伝いにきてもろた。1週間ほど水が流れてたし、にこ(泥)が床下とかにいっぱい溜まったる。そのにこ出しにきてくれはった。乾くとカサは低いんやけど、濡れてるとすごい量で重たい。床をみな上げて取らなあかんし、大仕事やった。

・このへんは、地盤的に一番低いから、水は必ずここを流れる。上からの水は法竜川を伝って、琵琶湖へ行く。

参考

【野洲川の改修--川の流れを変える】

 野洲川は、勾配が急なうえ流路が短いので、大雨が降ると雨水は急速に琵琶湖まで流れ下り、河川水位が急上昇する。さらに野洲川は河口近くになると分流して川幅が狭くなったうえに曲がりくねっており、上流からの流水量に耐え切れず氾濫・決壊を繰り返して、流域の住民を苦しめていた。

 繰り返される水害の脅威を取り除くため、河川改修によって分流の南流と北流の間に、新しい放水路を造る計画が進められた。

 そのため、集落の集団移転や農地の提供・代替地の確保・1つの集落が2つの地区に分断されるなど、さまざまな大きな問題が起こったが、14年の時を経てすべてを乗り越え、昭和54年に新放水路が通水した。

 野洲川新放水路の完成を受けて、その後、流域の氾濫・決壊はなくなった。

己爾乃(こじの)神社

 開発の氏神。野洲川が決壊して大水害に遭ったということを忘れないように、毎年9月25日夜、燈明を灯し、神殿を開放。大曲にも同じ名前の己爾乃(こじの)神社がある。

大正の水害

 上の小村(こむら:笠原町)の堤防が切れたとき、ざーっとここも水が流れてきて、矢島まで田やらばっかりで遮るものがないから、「助けてくれ。」「助けてくれ。」いうて、人がずーっと流されていきはるねん。

 それを、開発の浄秀寺の門徒の方が、釣鐘堂から眺めてはったんや。釣鐘堂はちょっと高いから、かわいそうやな、かわいそうやな言うて見てはったらしいけど、どうしようもないわな。

 私らの知らんずっと前の話。大正の時も、何回か切れてるはずや。年寄の言い伝えやから、何年ということは聞いてない。


伝承・言い伝え