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近江八幡市 昭和34年伊勢湾台風

水害履歴

位置図
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水害写真
水害写真

日野川の決壊洪水で家屋浸水
場所:近江八幡市牧町
撮影:彦根地方気象台
提供:琵琶湖博物館

竹町 昭和34年伊勢湾台風

位置図
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水害写真
水害写真

体験者の語り

【決壊しないように堤防で火焚き。「魔よけ」する】

質問:伊勢湾台風の時の、竹町の状況を教えてください。
Bさん:安養寺が切れたということで、竹町は大丈夫だった。

質問:堤防から水が溢れて出ることはありませんでしたか?
Bさん:溢れる寸前やった。堤防から手が洗えるぐらい。あと1メートルで堤防を越える水位だった。
Cさん:「どこかが切れる」と皆が思った時、安養寺が切れた。ここは桐原橋があって、JRの線路が通ってますね。その橋桁に上流から流れてくる流木等が引っかかって、水が橋にもたれたので、橋の上が切れた。JRから上の住吉の堤防。安養寺の堤防。そして、桐原橋の下の池田本町の堤防も、盛り超すぐらいの水で、どこが切れてもおかしくない状況だった。

質問:手が洗えるぐらいの水が来たと言っていましたけど、その時は家にいてはったんですか?
Dさん:杭打ちに出てた。堤防のこっちの畑の方が、長靴でもボコボコボコボコと歩けんようになるぐらい。

質問:集落に水が入ってきたんですか?
Eさん:ここに堤防があって、ここが畑になっとるわけや。ここが歩けんように、ボコボコボコボコと水がでてきました。
Aさん:ですがね、大正6年に、竹町は一変恐い目にあっているので、川に大水が出た時には非常に神経質になってましてね。

地下(ジゲ)」の役員さんが、雨が降って水が出てくると、日野川の方へ見回りに行って、状況をみて、「大変や」と言うと、避難というよりも堤防へ、各戸から男の人一人ずつ出てもらって、ココがもういっぺん切れへんように、火を炊いて、魔除けみたいなことをやった。もう一遍決壊するといけんさかい。ココ(堤防)に詰切りで、火の番をしていた。竹町以外にもあったと思いますけど。特にうちの在所はそういうことをしました。
 それと同時に堤防が緩んだらいけんさかいに、土嚢とか杭やとかも用意して、緩んだ所に杭を打ちこんだり、土を盛ったりしてたんです。それが伝統的になっとったんです。

当然、伊勢湾台風のときも、相当な水が出とったさかいに、「一軒、一人ずつ出てください」ということで、ココに鐘があるんですけども、町内中鐘を叩いて。この音を聞くとですね、「いよいよ、みんな出んなあかん」ということで、男が一人ずつ堤防へ出たんです。ところが一方、避難については、のんびりしてたんです。「ここいこ。どこいこ?」と。

質問:堤防で火を焚いていたのですか?
Aさん:かがり火ですな。その辺の松の木なんかをですね。だいたいそうゆう時は(木が)用意されてました。炊くもんとか、土嚢とか、「カマス(藁むしろを2つ折りにして作った袋)」と言うてね、縄だとか。

質問:それは、どこに用意されていたんですか?
Aさん:この公民館の前の建物だったさけ、木造の建物が、ここにありました。
Cさん:水防倉庫。

質問:公民館は水防倉庫になっていたんですか?
Aさん:兼ねてたんです。実際は、ここまで水が来た。大変なことやったです。そら、 川幅いっぱいに水がきたらすごいですよ。夜やさけ、「まだこんなモノかな」と見てますけれども、昼やったら見てられんと思いますよ。
Cさん:川が海みたいになって。
Bさん:北風がでたから、ものすごいよ。流れが堰き止められるうえに川幅が狭い。今は広いが。昔は狭かった。

質問:伊勢湾の時は、かなり高いところまで水位がきたときには、集落の住民の方は、まだ家におられたんですか?
Bさん:待機だけはしとった。

質問:炊き出しとかしていたんですか?
Bさん:そこまでは、しなかったけど。
Cさん:役員さんのための炊き出しはしていた。青年団があった時は、炊き出しをやってはった。

一番心配なのは、大正時代に堤防が切れて復旧されたときに、資材が無かったんです。大正6年の堤防決壊での復旧工事は材料がなかった。それから相当の年数が経っているので芯となっている物が腐り、堤防が弱くなっていると思うので、心配しています。

質問:危険を知らせるために、鐘を鳴らす役割の人がいたのですか?
Bさん:いてないけど、町内の役員さんがやってた。
Aさん:役員さんが誰でもいいさけ、緊急の警鐘やわな。

質問:それが鳴らされると、皆さん堤防の方に、水防活動に行った?
Aさん:相当な水が出たんですよ。水が出たさけ、警戒をせんなあかんのに。
Bさん:家の人は、鐘の音を一生懸命聞いている。
Aさん:その当時、私は19歳でした。もう大人扱いでしたので、一軒に一人が出よということで、私は父親の変わりに出ました。丁度、鐘がなるし、堤防に行ったんですわ。そうすると、いろんな人が寄ってきて「おい、火を焚かなん」とか「土嚢を」とかね。

そうしている間に水嵩が段々と増えてきて、何時ぐらいか知らないけれど「もう危ないで。切れるかもわからん」ちゅうことで。ほんで、「こんなところ(堤防)にいるよりも、家の方の避難を」ということで、50人ほどいる中で相当な人が家に帰った。責任ある人だけ残って火の番をしていた。

私も、家に帰りました。そして、家で風や雨が収まったりするのを待ちました。

そうしたら、今でも覚えているんですけど、フッと風がやんだ。そして、お月さんが出てるんです。それで、また堤防を上がっていった。ところが、堤防はブカブカでした。水を含んでいるから。堤防に行ったら、人が集まってきて、「あ、どっかが切れた」ということで、水位が引いていったんです。台風の最中に何故お月さんが出たかというと、ちょうど台風の目の中に入ったんです。すばらしいもんです。
 その時のお月さんの明るさがね、十七夜か十九19夜ぐらいの明るさやった。それから月が真上に来た時は、ものすごく明るかったですわ。ホンマに奇麗やった。どこも日中と同じ様に見えた。堤防の上から見ると余計に。台風の目の先の雲は、渦を巻いて見えました。ドームの中に入っているような感覚で、風も何にもない。

30分ぐらい台風の目の状態が続いたんかな。ほて、だんだんと曇ってきて、風が吹いてきました。吹き戻しという、風の方向が違うんやけど。

質問:水防資材はこの竹町公民館にありますか?
Bさん:今は置いていませんが、市役所の方にありませす。
市役所:あと、桐原橋。倉橋部、竜王町の横関町など、何カ所かあります。
Dさん:当時の公民館の上は、茅葺屋根だったから、二階には杭ばっかり置いてあったわ。
Aさん:伊勢湾台風のときに状況を見ていると、いくつかの状況が重なって起きたんです。

  1. 滋賀県に一番風が近づいた時には、北風になったもんやさけ、それに雨が伴ったさけ、この日野川の川の上流に綿向山の斜面が北向きに向いとるわけです。斜面にあたった雨が、みんな日野川に流れていった。
  2. 河川そのものが竹が生えてあったらり草が生えてたりして、川の水の流れがスムーズではなかった。
  3. 北風になったときに、河口のところから逆に水がきた。
  4. 台風の目の中心みたいで、台風の目は気圧がものすごく下がるんですわ。気圧が下がるということは、水位が上昇する。上にはお月さんで、丁度満潮の時期になる。海と同じようになったと、私は思う。日野川未来会議でもこの事が出てた。そのことが重なって、100年に1回に匹敵するぐらいになったんだと思うわ。この被害があったもんやさけ、とにかく日野川を改修せんとあかんということで、改修されてきて。

Dさん:墓地も何回も水に浸かった。
Bさん:決壊したとき、墓地のこの辺を削っていきよるわけ。

質問:伊勢湾台風の時はお墓は大丈夫でした?
Bさん:みんな棒が流れた。
Dさん:50年前でも、ここが切れた時には、倒れた。他所の墓地も河原に流れて、他所の位牌やら流れてくる。あっちこっちに流れきたな。

小田町 昭和34年伊勢湾台風

位置図
位置図
水害写真

場所:近江八幡市小田町地先
撮影・提供:岡野征朗氏


体験者の語り1

【日野川小田地先堤防が2度も決壊】
 9月26日の夜、11時は過ぎてたやろ。自治会から「みな出てください。危険状態にあります。」と言われ、組から2人ずつ出たと思うわ。
 消防団は先に出てはんねんけど、それとは別に町内の組から出た。当時、小田は15組あったと思う。そして30人の人たちが出てくるわけよ。ほして、出て見てるわけよ。手の施しようがないから。
 で、堤防に上がってビックリした。堤防から1m下に水があったんや。1m下は水屋で、届くんやで。

水害写真

【仁保(にほ)橋流失】
 日野川の近江八幡市十王町と野洲市小南を結ぶ仁保橋は、昔は木橋。それが、痛んできたんで補修をしはった。それは良かったんやけど、みなボルトで閉じはったわけや。ほして仁保橋が流された。バーンと橋が橋の形のまま、野村町の野村橋にもたれたわけや。

【1回目の堤防決壊】
 一番に切れたのは、共同墓地より200m位上のところ。9月27日の午前2時ぐらいかな。これは小さい傷やったわ。
 決壊した場所は、川幅が狭かったから、”ボン”といってしまいおった。堤防の足下が持ちきれなんだ、砂だったから、ザッといきよった。
 堤防が切れた時には、白波が立っとった。堤防の落差が10mあって、それがバンと落ちてくるんやから、恐ろしゅうて。
 切れたとこは”キレショ(切所)”という小字がついとったわ。ということは、何十年か前に実績がある。明治の代か、それより先か分からんけど、切れているわけや。
 ほいで、堤防が切れると水の流れは早くなるわな。そしたら、次に相手方(対岸の)小南の方が、引き切れやわ。川がカーブになってるやろ、カーブになっているところは水あたりがキツくなるさけ、水がみんなダーッと流れてくる。そして堤防をなぶって小南が切れたわけや。
 ほて、小南が切れたもんだから、小田の樋のところが最終に切れたわけや。


【2回目の堤防決壊】
 2回目に堤防が決壊したのは、9月27日の午前10時過ぎだったわ。その時も、手の施しようがなくて見てるしかなかった。「あ、切れる。うわっ」というような感じやったわ。
 全部、小田の方が水を受けたわけや。小田の裏をみたら(水茎の方向)、一面の海。それに併せて水茎が水を受けたわけや。

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【田んぼの被害】
 私は、15反ほど田んぼを作ってた。2カ所日野川の堤防が決壊したおかげで、5反ほど田んぼが飛んででしもうて、水に引っかかって田があらへんがな。ほいて、砂の中で穂が出たわ。穂だけが残って。25俵で、そのうちの砂だらけの米が15俵あったな。もったないゆうて、砂でも刈ってたしな。でも、砂で食べられへんだわ。

【避難】
 家は在所の西の隅やから、切れた日から一週間浸かっていた。避難は小学校だったかな。
 で、よその地区の親類がいろいろ持ってきてくれはったら、「誰々が見舞いくれはったから、あんたも食べてんか」と言うて、お互いに物を配ってた。


体験者の語り2

【決壊した時】
 当時19歳やった。
 親父が、「えらいこっちゃ、堤防が切れたぞ」と朝起こしに来たんですわ。ほたらね、「ゴー」って音がしとるんですよ。
 普通、波しぶきって白いでしょ。でも違う。まだ夜明け前で真っ暗やし、美しい水やないから、黒い壁みたいなものが「グワーッ」っと来よるわけですよ。そしてみるみる水が浸いていってね。しばらくして明るくなってきました。

【小田の被害】
 腰まで浸かりました。家には、水は入っているが、砂は入っていない。小田は、床下か床上かは別にして水に浸かっただけ。もう、全面浸いてます。
 田んぼは、稲刈り前でした。今だったら稲刈りが終わってますけどね。
 砂で埋まった田んぼは、収穫はほとんど無かったと思います。
 避難は昔、看護学校があったところに、小学校があって、そこやった。小学校の運動場の真中まで水が来とったのを覚えとる。この運動場の真中へんまで田舟が行っとった。ワシは、舟で小学校まで行ったのを覚えとんねん。
 炊き出しは、調理室でしていました。飲み水は全部ダメですわね。しばらく、井戸水は使われへんだ。

野村町 昭和34年伊勢湾台風

位置図
位置図
水害写真

場所:近江八幡市仁保橋
撮影・提供:岡野征朗氏


水害写真

近江八幡市野村町地先日野川決壊箇所 農地に濁流が流れ込み、冠水
写真:県所蔵


体験者の語り

【日野川野村地先の切所(キレショ)決壊】
 野村地先の堤防が決壊したのは、昭和34年の9月27日の午前3時頃です。
 堤防決壊前、27日午前0時頃に半鐘が鳴って、消防団の呼び出しがかかりました。「堤防が危ない」と言うので、堤防まで出てたんやわ。
 堤防に行ったときには、堤防の一番上から1mぐらいのところまで水があって、土嚢積みをしていました。
 ほんなら、日野川の近江八幡市十王町と野洲市小南を繋ぐ仁保(にほ)橋が、ヘビみたいな形で”ガターン、ビシビシー”と流れてきたんですわ。その時「何が流れて来たんや?」と思いました。
 仁保橋は木造やったんで、水流で壊れて、木材のフタやら柱とかが野村町の野村橋にもたれたんよ。
 そしたら、いっぺんに日野川の水位が上がって。みんな長靴を履いているのに、長靴の中へ水がザっと入りかけて。ほんで、「危ない」と言うてるうちに、上の方で”ビシビシ”と音がしたんや。
 それで堤防がバーンと切れた。20mか30m切れたのですわ。でも、最初からこんなに大きな切れ方をしたんじゃないんですわ。ジョジョジョジョと水が盛り越して、下におっついたんや。それはまだ良かったんや、土嚢を積んでいたしね。ところが、堤防は竹やぶになってたんやわ。そして竹やぶが「ザッ」とこっちへ来たらね、一発で「ボン」と10mぐらい飛んでしまった。決壊した場所は、昔から「ここよう切れるところ」やった。一番危ないというところで、”キレショ”と名前がついてるんです。

【野村町の被害・避難】
 堤防(野村町地先)が切れて、共同墓地が全部ダメになった。埋葬された遺体が一部流されてしまった。
 そして田んぼを見たら、すっごい水の流れやったもんな。決壊した場所から水が道(国道477)にあたって、野村町や水茎町に、水がダっと流れていったわけです。
 野村町に水が来る前に、家の中で飼うてた牛を寺の本堂やお宮さんの高台に避難させた。自分の子供が泣いとっても、牛の事を先に世話をして。牛を頼りに仕事せなあかんやろ。牛がおらんかったら、仕事が出来んわけよ。災害の時は、まず牛を守らなあかん。
 そして、家では炊き出しをしていた人もいた。切れて水が来るまで、少し時間があるからって。
 当時避難する場所は、社務所。田舟に乗って逃げてきた人もいた。野村は床上浸水をしたところもあった。

水茎町 昭和34年伊勢湾台風

位置図
位置図
水害写真

場所:近江八幡市水茎町
提供:青山朝男氏


水害写真

洪水で水没してしまった農地
写真:滋賀県所蔵


体験者の語り1 「水茎干拓地の水害について」 青山朝男著より

【伊勢湾台風の状況】
 昭和34年9月26日の伊勢湾台風は、県東部を北東方向に進んだ雨台風で、特に伊勢湾岸に大きな被害をもたらした。彦根では、観測史上最低の949.5hpを記録し、降水量は鈴鹿山系400ミリ~550ミリ、伊吹山系で300~400ミリ、風速も平均風速20m/s以上の暴風雨であった。

【まさかの日野川決壊による 水茎干拓地の水害】
 前日来の雨で、日野川が増水し警戒水位を突破したため、低地帯の水茎干拓地区内の住民に、避難勧告が出されました。住民は万一に備えて準備はしていたものの、その多くは、まさか日野川の堤防が決壊すると迄は想像もしていなかったようです。
 日野川の水位が警戒水位を突破した状況の中で、北里消防団にも出動命令が出されました。団員であった私も、同僚と共に日野川堤防の警戒にあたっておりましたが、水位は上昇の一途をたどり、ついには、日野川に架かっていた木造の仁保橋が、水圧に耐えきれず橋桁もろとも押し流されました。そして、4キロ下流の野村橋(コンクリート製)の橋桁に横たわり、流れを塞ぎ止める状態となり、さらに日野川の水位が上昇してきました。
 かねてから危険箇所として注目されていた小田町地先の堤防では、水位の上昇により、消防団が必死で土嚢を築いておりました。水嵩は増すばかりで、そのうちその土壌を乗り越えた濁流は、物凄い音とともに一挙に堤防を押し流し、すさまじい勢いで水茎干拓方向へ流れてきました。その様は、正に巨大な白蛇が牙をむいて襲いかかる姿にも似ていて、そこに居合わせた消防団員もあまりの恐ろしさに声もなく、その場を離れるのが精一杯の状態でした。
 堤防決壊を知らせる半鐘が乱打される中で、私はやっとの思いで、堤防づたいに野村町の会議所へ辿り着きました。
 その頃、私が住む水茎干拓地は、干拓以前の内湖の姿となり、僅かに住居の屋根が見えるくらいでした。
 野村町の会議所の廻りにも、ひたひたと水が流れつき、万が一に備え、附近の木々には牛が繋がれていました。
 その会議所も避難して来た住民でいっぱいでしたが、その中に水茎干拓から避難した人の姿はなく、混乱して連絡の方法もなく、私はただ一人家族の安否を気遣っておりました。
 私は、家族の安否をこの目で確認するべく、承水溝に設置されていた新畑樋門を渡り、岡山の廻りを一周し、牧町社務所へ行きました。そこへたどり着いたのは、午前8時頃でした。
 牧町社務所には、水茎干拓から避難した人でごった返しておりましたが、その殆どの人は僅かな身の廻りのものだけを持ち出して避難してきたようでした。その中に家族全員の元気な姿を見つけだした時は、本当にホッとしました。
 父の話では、27日午前3時ごろ野村町の半鐘が乱打されたので、リヤカーに僅かな身の廻りの物を乗せ、牛を引きながら、牧町の高台まで水に追われるように、避難をして来たとのことでした。自宅で飼育していた300ほどいた鶏は、そのまま水死してしまっただろうとも話していました。そして牛は、知り合いの家に預かってもらい、家の荷物も牧町の倉庫に預かってもらったそうです。その倉庫も、干拓の人の荷物で一杯でした。
 社務所に辿りついたその夜、私は牧町の社務所で過ごし、夜明けとともに、牧町の皆さんの好意により炊き出しを受けました。その後、社務所に避難してきた人たちは、社務所だけでは手狭のため、寺の本堂や民家でお世話になった人もいたようです。
 その後、岡山学区の好意により岡山公民館を避難場所とし、そこで避難生活が始まりました。各方面からの見舞いや援助により、私たちは不自由ながらも、食事だけは十分に戴いて居りました。そして、入植者たちは連日会合を開き、避難所での集団生活の対応や、干拓地の復旧についての話し合いが続けられました。
 私の父は、避難所の中では最長老であったため、区長の指示で庶務の仕事を任されていたようでした。 父は、その間を縫うように『災害日誌』を記しておりました。今では、当時の水害を知る唯一の資料にもなっています。

【復旧への成り立ち】
 日野川堤防決壊により、水茎干拓地に近い位置にあった浜田静雄さんの家が、各方面から見舞いに来られた方々のための接待場所として利用されていました。しかし、刻々と水位が増してくる水に、この家も床まで水に浸かり、退避せざるを得なくなったとの事です。
 その後、関係機関のご尽力により、浜田静雄さん方近くの承水溝堤防上に、仮設の大型排水ポンプが設置され、昼夜兼行で排水が続けられて行きました。その間入植者は、手分けをしながら排水ポンプの管理や、激しい水流で決壊した承水溝堤防の復旧工事など、働けるものは全員出動し、懸命に復旧作業に携わって居りました。その結果、一ヶ月あまりの日数を経て、ようやく元の干拓地の姿に戻ったのでした。
 しかしながら、長い間水没していた稲は腐って物にならず、住んでいた家も辛うじて倒壊は免れたものの、壁は落ちてボロボロ、室内は泥まみれで足の踏み場もなく、悪臭鼻をつく、無残な姿になっており、しばしば茫然としておりました。
 水害を期に災害救助法が発動され、当時の開拓農協の今井組合長の土地であった加茂町沖野に応急住宅が建てられ、避難生活をしていた岡山公民館から移動したのは11月も末のことでした。その後も、入植者たちは応急住宅から、それぞれの家屋の復旧や腐った稲の後始末など家族総出の作業が、年を越しても続けられていきました。

【父が記録した水害日誌から、当時の水害を振り返る】
 私は、水害当時に書かれた父の日誌から、水害の水位は最高水位7.25米との記録があるのに興味を持ち、当時を知る人の話を聞きに廻っていましたが、確かな返事も得られぬまま時を過ごしてきました。
 その後、別の記録集から、県の水茎干拓内部の水深調査の際に、田舟を借りにこられた3名の方を見つけ出しました。その内2人はすでに亡くなっており、ただひとり牧町に住む浜田静雄さんから話を聞くことが出来ました。
 牧町側から田船に乗り、目測で県道沿いに進み、幹線排水路に架けられた弥治橋を探り当て、竹竿をつき当て水深を図ったとのことでした。水害後46年目にしてようやく、当時の父の記録に残された水深の場所を突き止ることが出来ました。

【浜田静雄さんの聞き取りから】
 そして、浜田静雄さんが経験した当時の様子も聞くことができました。
 決壊直後より低地帯である水茎干拓へと流れ込んだ水は、すぐに満水の状態になりました。吐き口のない水は、更におおい被さるように水茎干拓へと流れ込みました。溢れた水は、承水溝の内部にある既成田へと流れ、稔った稲穂までも水に浸かって居りました。
 そんな状況の中、牧町の古老の話から「干拓以前、岡山の西の麓から大型の舟が出入りしていたので、その場所を切り落とせば、溢れる水だけでも排水出来るのでは」との話が出ました。けれど、そこの場所は、知らぬ間に水田になっていて、耕作者がその場所を切るのを頑強に反対されたとのことでした。しかし、登記台帳を調べた所、公共用地であることが分かりました。「所有権がなく緊急の場合到し方がない」と話し合いが続きましたが結論が出ませんでした。その場所に居合わせた元水茎消防団の一人である小野信夫さんが「全責任を自分ひとりが背負う」との気構えをみせておりました。そして、同行して居られた消防団長の浜田友次さんが「君一人だけに責任を押し付けることはしない。団長である自分が全責任をもって切る」と殺気立った雰囲気でした。結局その場所は、消防団の手によってスコップで切り落とされ、水が坂落としのように琵琶湖へと流れて行ったとの事です。その結果、満水の地区内の水も除々に水位の低下が見られるようになりました。
 そんな出来事も、あの当時ではごく一部の人にしか伝えられて居らす、この干拓を水害から救おうとした人がいたことを、私たちは忘れてはならないと思います。

【過去の水害を教訓にすることが大事】
 47年とどまる事のない時の流れは、その全てを過去へと押し流し、今では何事もなかったような静かな田園風景がかもしし出されて居ります。しかしながら、昭和34年の秋、あの水害は今も私の心の奥に、深い傷跡として残っております。
 確かに、過去の水害を契機に日野川の改修が進められ、以前に比べ安全性は向上したと思います。しかしながら、水害の可能性が全くなくなったとは言えません。過去に水害をもたらしたような大雨が、あれ以降っていないからです。
 私たちは、大切な命や財産を守るためにも、過去の水害を教訓として、水害に対する対処方法や日頃からの備えをおこたる事なく、さらには住民の創意工夫による安心安全なまちづくりを構築することが肝要かと思います。


体験者の語り2

【3ヶ月の避難生活】
 日野川の堤防が切れた時は、水は勢い良く来たけれど、幸いにしてジワッと浸いたんで、不幸中の幸いで人命は無かった。
 堤防が切れる数時間前夜に堤防を見に行ったら、雨は止んで本当にカラッとしていた。近所のおじさんも「こんななら、どうもない」と油断があって・・・。結果的には、嵐の前の静けさだったんですね。
 水茎へ水が流れてきて、とりあえず、隣の牧町へ逃げていったんです。幸いにして、個人的に親しい家があったんで。ほんで、牧町の社務所とかお寺とか知り合いの家に分散して、生活をしたんですわ。
 水茎では牛と豚を飼育してたんです。ほして、私が最後に水茎から逃げて行く時に、共同墓地(野村町と小田町の間)の方から、水の焦げ茶色がどっと流れてくるのを見ました。私が、牧町の県道に行くまでのわずかな時間に、排水路と小さな水路が埋まってしもうて。その時私はまだ豚を棒で追っていて、道路と排水路が一緒になって、どこがどこだか分からん様になってね。
 当時の記憶を辿ってみますと、まず牧町の社務所やお寺にご厄介になって、それから岡山公民館にご厄介になりました。ここでは、ドラム缶のお風呂に入ってね。それは酷い生活を強いられまして、3ヶ月ぐらいそうゆう生活をしました。その間、国の救援とかいろいろ援助をしていただいて。
 水茎は土地が低いので、まず承水溝という大きな用水路が周囲にあるので、それを復旧してから排水ポンブで水を琵琶湖へかき出したんです。
 最終的には、元の陸が見えてくるのに一ヶ月半かかった、。それから県・市に応急仮設住宅を建てていただいて。水が引くと同時に、毎日我が家へ通いながら、後始末をしました。
 岡山の公民館にいるときに、救援物資とか衣類とかありました。その時、人間の醜いところをみました、物資の取り合いみたいな。 ああゆう共同生活というのは、人間関係が大変ですわ。
 災害の後はひどいものですね。家は完全に死んでしまいましてね。消防の方が来て、屋根を切り抜いて、タンスとかを出していただいたんですが、出したらタンスがバラバラとくずれて。長い間浸水してたからね。スーツとか洗濯しても、全然ダメでした。

【田んぼの被害】
 ほとんどの田んぼは、泥水だけ浸かっとるんですよ。ただし、収穫前でしたので、稲は実が入っていたと思う。だから、浸かってないところは収穫自体は、ほとんど変わっていないと思うんです。ただ、とにかく煙、土ぼこりが「ブワッ」と、あっちこっちの田んぼで土ぼこりが飛んで。 


体験者の語り3

 9月24日~25日の集中豪雨により日野川が増水。
 26日午前7時頃、日野川の堤防が決壊して、私たちの町水茎町は全戸水没した。早くから警戒していたため、早目に高台に避難していたので、幸い難をまぬがれましたが、あとから押し寄せる水の勢いは、今も忘れる事は出来ません。今思う事は、自然の力を絶対あなどってはいけない事だと思います。

元水茎町 昭和34年伊勢湾台風

位置図
位置図
水害写真
水害写真

体験者の語り (昭和9年生まれ)

 日野川右岸が決壊した。決壊口からの水は、干拓地である水茎・元水茎の方に向かって流れた。
 向こうからごーって音がしてるのが、分かるんや。 私もバイクを堤防の橋の上に持っていって、父親は布団 とかを入れる箱をひっくり返して、布団をその上に乗せてた。まさかそんなとこまで来るとは思ってなかった。
 うちは、一階が水没するほどの水が来たので、隣の集落(牧)の親戚の家に避難した。
 元水茎や水茎は、水没した。
 決壊後、船に乗って、集落の見回りを行った。また、水没した家の中から、衣類や家財類を引き出すなどの作業も行った。

安養寺町 昭和34年伊勢湾台風

位置図
位置図

体験者の語り

【日野川の左岸堤防が2度目の決壊】
 ひと月前の台風7号で決壊した箇所は、土のうを積んで仮締め切りして、復旧作業中だった。その場所が伊勢湾台風で再び決壊した。


伝承・言い伝え