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湖南市 昭和28年9月台風13号

水害履歴

位置図
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三雲 昭和28年9月台風13号

位置図
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水害写真
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体験者の語り

 昔ここの勅使野橋(ちょうしのばし)が、流れたんや。それで上のほうに避難したもん。
 うちらみんな水入ってきたわ。家の玄関まで水が入ってきた。荒川橋も木の橋やってんけどな、流れるのは簡単やわ。わしらあの時、土のう積みに行ったで。
 荒川も野洲川も、ものすごい水が出とってんわ。「とにかく分校へ逃げろ!」ということで、わしら逃げたけどよ。
 三雲の人はほとんど来とった。自警消防団が頼りで、消防団同士で連絡取り合ってはったけど、そら恐ろしかったわ。

【水害状況】
 
野洲川の決壊により、小字「新開(しんがい)」の水田が浸水し、土砂が流入した。
 現在の国道1号とJR草津線の線路が堤防の役割を果たし、浸水被害は新開のみであった。
 上流からゴミや木が流れてきて、橋で詰まり、勅使野橋(ちょうしのばし)が流出した。
 その結果、荒川の水が溢れて住宅地に流れ込み、床下浸水した。勅使野橋と同じように荒川橋も流失し、荒川の水が住宅地に流れ込んだ。
 夜になって雨が降り出し、自警消防団が地域を見廻り、周辺の住民に避難を呼びかけた。消防団同士で連絡を取り合い、自警団が、「これ以上雨が続くと危険だ」と避難を呼びかけていた。
 当時の三雲小学校の分校(現・三雲児童館)に避難し、一晩を過ごした。
 勅使野橋付近の住民は、家族や牛を連れて高台へ避難した。

石部 昭和28年9月台風13号

位置図
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水害写真
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体験者の語り 男性(昭和7年生まれ)

【石部の水害】

  1. 平松地先で家棟(やなむね)川が氾濫し、当時はまだなかった、現甲西駅付近国鉄線路の道床が浸水。石部駅で列車が立ち往生した。政府米の販売所から緊急米を供出してもらい、炊き出しをした。
  2. 野洲川中郡(ちゅうぐん)橋詰めで、本堤と霞(かすみ)堤の間の道路が決壊して、中島町が冠水。(霞堤ー河川に沿って堤防をところどころ切断し、上流側の端を外側に延長して重複させたもの。洪水時にはそこから遊水池に導き、本流の水位を低下させる)
  3. 中島町の霞堤が決壊。
  4. 宮川左岸の山沿い。柿ヶ沢基地下で、宮川の堤防が決壊して水田に土砂が流れ込む。そこに祭られていた6体の地蔵のうち2体が流出。のちの宮川堤防の復旧工事で1体、宮川の全面改修時に1体、戻ってきた。
  5. 宮川左岸側、国道の橋のあたりが決壊。
  6. 東寺のため池小幡(こばた)池が決壊。谷川が洗堀されて、河床が真っ白になり、下流の田んぼに土砂が流入した。
  7. 東寺の広野川に架かる広野橋(木の小さい橋)の橋脚に、山から流れてきた流木が多数ひっかかり、ダムのようにせき止められてしまったため、水が溢れて下の田が冠水した。水害があると、必ず流木がある。
  8. 東寺の落合川上流、紫雲の滝の下流でで山田地先の橋や、農業用水取水口が流されて、下流の方に土砂が入った。また、落合川にかかる農道の木橋や取水口が流されて、大きな被害を被った。
  9. 西寺で、住宅の裏山が崩れ、家が2軒つぶされた。人的被害はなし。
  10. 野洲川の水位が上昇し、そこに1軒あった住宅が冠水の危険となり、避難してもらう。低いところは腰ぐらいの水位の中、人と牛を消防団に国道まで誘導してもらった。当時は、車も機械もないので、牛は重要な労働力だった。
  11. 県道の石部草津線沿いの、善隆寺の墓地の裏あたりの石垣が崩れた。
  12. 旧平野町(現石部西)旧道沿いで床下浸水があった。
  13. 台風通過後、野洲川の頭首工の上流部で、砂利採集船で作業をしていた作業員が、川が増水したため取り残された。県警がゴムボートを出して救助した。
  14. その他、山腹や林道の崩壊が多数あった。

体験者の語り 男性(昭和7年生まれ) 当時役場勤務

【自分らの在所や自分らの資産を守ることは、当たり前やったんや】
 
その当時は、毎年1つや2つ台風がきて当たり前やったんや。ただ、被害が大きかったか小さかったかや。
 そやから、稲でも今は9月の末になったらほとんど刈り取られるけど、昔やったらまあ10月に入って、運動会も終わり、それから稲刈りちゅうなもんや。そやから、台風が来たら、なんとか家も田んぼも守ろう思て、農家も一生懸命やった。刈り取る前やから。
 長雨になると河川が氾濫するさかいに、たとえば宮川やと宮川沿いの人は、いつ切れるかゆうことで、ビクビクしてはった。雨が降ったら、川をぐるぐるぐるぐる見て回ってはった。そら、人ごとやない、自分のことやさかい一生懸命やわ。自分の家が危険かどうか、ずっと前から、長い間見て回ってはるし、田んぼでも低地の人は見に行かはるわ、蓑(みの)着てよ。
 まあ、自分らの在所や自分らの資産を守ることは、当たり前やったんや。堤防が切れんように消防団に出てもろたり、木流しをしたり、杭を打って土のうを積んだりして。みんなそれぞれが、がんばってな。
 復旧作業は、地元請負でやってた。石部の場合、裏が山で急傾斜が多い。水害の他にまだ、山腹の崩壊やら林道の崩壊もあったしな。
 道も、そら山道は急なとこやったんや。ほで、あの時分、車てあらへんし、資材は荷車で、ブロックを3つほど積んで牛に引っ張らしてな。けど、牛だけではなかなか上がりよらへんで、かじ持ちながら、端(はた)の草むしりもって、牛を追うて上がっていったわ。
 役場への連絡は、みな自転車か歩いてやでな。


伝承・言い伝え