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ヤングケアラーの事もっと知って!彦根で「大かっぱまつり」開催

実行委員会のメンバー写真
芹川の河童のメンバーら

 ヤングケアラーへの支援事業や、家庭や学校以外の第三の居場所づくりなどに取り組む特定非営利法人・芹川の河童(彦根市、代表:河崎敦子)は6日、滋賀県彦根市銀座町にある滋賀銀行旧彦根支店を会場に『大かっぱまつり』を開催した。

 来場者にイベントを通じて、ヤングケアラーについて知ってもらうこと、当事者である子どもたちには相談場所や居場所があることを伝えることを目的に開催したもので、昨年に続いて2回目の開催。

 運営は、ヤングケアラーの当事者を含む学生スタッフらが中心に実施した。音楽ライブや大道芸ショーのステージイベントのほか、ポップコーンやカレーの屋台と千成亭のキッチンカーも出店。ほかにもカッパの頭の皿にちなんだ「皿回し体験」が目についた。皿回しを一緒にすると仲良くなれるという。

 会場では、「きょうだい児」というタイトルの特別展示も行われていた。

きょうだい児とは障害がある兄弟姉妹のいる若者のこと。まつりの運営に携わる学生スタッフの一人、滋賀県立大4年の前田友晴さん自身のこと。前田さんの4歳上の兄には障害がある。前田さん自身がどのようなことを思い、どのようなことを負担に感じていたのかが写真と文章でつづられていた。

 前田さんは、きょうだい児が小さいころから参加できる自助グループが必要だと話した。自身がつらかったのは「(周りに)話せる人がいなかったこと」だという。

 前田さんは、きょうだい児やヤングケアラーを支援するNPO法人「つなぎのね」を立ち上げ、今春に県立大学を卒業したあとは、実家のある奈良を中心に活動を拡げていきたいと話す。
 

つなぎのねインスタグラムカウント「TSUNAGI_NO_NE」
https://www.instagram.com/tsunagi_no_ne/

前田さんのエッセー「きょうだい児について」

はじめに
「きょうだい児」という言葉について、皆さんはご存じだろうか?
「兄弟」ではない。ひらがなの「きょうだい」に児童の「児」、と書いてきょうだい児という単語になる。
わざわざきょうだい児、と書くのだから、もちろん普通の兄弟を指す言葉ではない。大まかな意味としては、きょうだい児とは、障害をもった人を兄弟姉妹にもつ人のことを指すのだ。
そんなきょうだい児とは、どのような人か。
様々な障害を抱える兄弟を、ともに歩む優しさをもつものか。
あるいは、生まれついての「ケアする人」という使命を背負うものか。
それとも、障害に苦しむ兄弟の裏で普通の人生を謳歌する身近なものか。
いずれにせよ、きょうだい児という立場は曖昧なものであり、当事者との関係や周りの人の見る目によって印象の変わるものだ。
ここでは、そんな兄弟のケアをするきょうだい児が、どのようなことを思い、どのようなことを負担に感じているのか、筆者の経験に則り述べようと思う。

筆者について
さて、こんな風に語る私の名は、前田友晴という。年齢は 21 歳。現在大学に通い、心理学を勉強している、学生である。
前田友晴は、前田家の次男として生まれた。父も母も健在で、きょうだいは兄が一人。何の変哲もない、普通の境遇であろう。
私は、母、父、そして兄の愛を受け、すくすくと育ってきた。
普通の学校に通った。普通の友達を作り、遊んだ。普通の恋をし、失恋した。
普通の喜び、普通の怒り、普通の哀しみ、普通に楽しんで生きてきた。
「普通」の人生を送ってきたと、私は自負をそう考えている。
ただ一つ、特筆すべきことがあるとするならば。
兄が、障害を持っていたことだろう。
そして私は、生まれついてより、兄の弟であった。

「きょうだい児」というアイデンティティ
あらかじめ断っておくが、きょうだい児に生まれたことは不幸である、という結論を出すつもりはない。私が現在行っている研究として、きょうだい児が抱える心理的負担を論ずるものがあり、この文章はその先駆けとなるものであるが、負担があるからと言って、不幸な生まれである、とは言いたくない。
そのような意図を含んだものではない、これははっきりと真実を伝えたいと思う。
実際、私は自らがきょうだい児であるということを、ある程度ポジティブに考えている。
私の人格形成において、兄は実に多くの影響をもたらした。なにせ、生まれてから一人暮らしを始めるまで、ずっと同じ家で暮らしてきた存在だ。きょうだい児として過ごしてきた人生は、私の中に強く根ざしており、「きょうだい児である」ということは、私の大きなアイデンティティとなっている。
これを見ている方々の中にも、障害者と関わることによって自らのアイデンティティを作っている人がいるのではないだろうか。
共感を得られるかはわからないが、私は今の自分を形作に至った兄の存在と、兄と共に過ごした幼少期を、好ましく思っている。だって兄がいなければ、あるいは兄が健常であれば、私の性格は今と全然違うものになっていただろうから。
勿論、これは 21 歳というある程度大人になった私であるゆえの考え方であり、幼少期当時の私や、今きょうだいに悩まされている人々にとってもっと違う考え方が生まれている可能性は大いにある。

兄について
ちょうどいいので、ところで兄の話をしようと思う。
兄は、先天的には障害を持っている。小難しい病名や、受けている支援などその深度を表すことはたくさんあるが、ここではそれらを作らず、ただ兄の事実のみを陳列していく。
まず、兄は言葉を発することができない。囁きを混ぜて出るのは「あー」とか「ん」みたいな言葉にならない音だけである。健常の人に比べて意思疎通の難しさが相違いだ。おはようからおやすみまでの交わすことのできないし、世間話は成り立たない。だからできないし、助けてもらうこともできない。兄は聴覚障がいなので、客観的にも見た時、兄の側に立つ人の声は聞こえるのだろうか。手話やトーキングエイド(音声読み上げの機能ある機械)という代替手段があるだけがいいのだ。
兄は私のふたつ上であり、その年齢は今年 26 歳を迎えるが、その知能は実年齢にそぐわない。医師曰く、兄の知能は 5 歳半の手元に相当するらしい。私にとって、兄は、永遠の 5 歳半。幼稚園児、というか未就学児と向かい、私は道端にある NPO で子どもたちの世話をするアルバイトをしているのだが、未就学児を相手にすることもある。
あるので、彼らと兄を比べてみる。兄が彼らと同じくらいの知能がある。
兄は基本的に自由で、好きにはしゃぎまわり、こちらの言うことを 8 割がた聞いていない。たまに会話が成立しない。
一方、兄も基本的に自らの思うままに行動しており、人を気にせず叫んだりするし、こちらが越しかけても 8 割がた返事してくれない。たまに会話が成立しない。
だが、認めがたいのだが、部分的に兄は 5 歳児である。
兄は時折、癇癪を起こす。彼の機嫌は、彼なりに考えがあるのだろうが、癇癪は時折、彼の機嫌が悪いとき、彼の機嫌は突然に悪いとき、彼の機嫌が突然に悪くなり、時折、癇癪を起こす。彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。特に怒鳴るときは、大声で叫ぶ。その時、彼の耳元で「うるさい」と怒鳴られても、彼は叫び続ける。彼は音を聞き分けられるのかもしれないが、彼が音を聞き分けることができないのかもしれないが、彼は大声で叫ぶ。
兄は時折、癇癪を起こす。彼の機嫌が悪いとき、彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。特に怒鳴るときは、大声で叫ぶ。その時、彼の耳元で「うるさい」と怒鳴られても、彼は叫び続ける。彼は音を聞き分けられるのかもしれないが、彼は大声で叫ぶ。彼の機嫌は突然に悪くなり、彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。
怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。特に怒鳴るときは、大声で叫ぶ。その時、彼の耳元で「うるさい」と怒鳴られても、彼は叫び続ける。
兄は時折、癇癪を起こす。彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。特に怒鳴るときは、大声で叫ぶ。その時、彼の耳元で「うるさい」と怒鳴られても、彼は叫び続ける。彼は音を聞き分けられるのかもしれないが、彼は大声で叫ぶ。彼の機嫌は突然に悪くなり、彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。
兄は時折、癇癪を起こす。彼の機嫌が悪いとき、彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。特に怒鳴るときは、大声で叫ぶ。その時、彼の耳元で「うるさい」と怒鳴られても、彼は叫び続ける。彼は音を聞き分けられるのかもしれないが、彼は大声で叫ぶ。彼の機嫌は突然に悪くなり、彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。
兄は時折、癇癪を起こす。彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。特に怒鳴るときは、大声で叫ぶ。その時、彼の耳元で「うるさい」と怒鳴られても、彼は叫び続ける。彼は音を聞き分けられるのかもしれないが、彼は大声で叫ぶ。彼の機嫌は突然に悪くなり、彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。
兄は時折、癇癪を起こす。彼の機嫌が悪いとき、彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。特に怒鳴るときは、大声で叫ぶ。その時、彼の耳元で「うるさい」と怒鳴られても、彼は叫び続ける。彼は音を聞き分けられるのかもしれないが、彼は大声で叫ぶ。彼の機嫌は突然に悪くなり、彼が怒鳴ったり、突然に叫んだり、壁を叩いたり、家具を倒したり、物を投げつけたりする。

幼少期
私が「物心ついてから小学校 3 年生になるまでの幼少期に、兄と私の関係について記述すべきことは、実はあまりない。
というのも、当時の私にとって兄は「にいに」でしかなく、他の家庭と比べてどうかと考えていなかったからだ。
小学生までの私は、世間を知らず、前田家が世界の中心であった。ゆえに、他のきょうだいと自分たちを比べるということをせず、ただ「にいに」を慕っていた。
言葉を話せないのも、ちゃんとした姿勢で歩けないのも、関係なかった。
それに、兄は養護学校に入るまでは、あまり大声で叫ぶことがなかった。
だからこそ、私は無知で、無垢で、子どもで、甘えられる弟だった。
知らないということは罪であるが、時として救いにもなり得るものだ。
とりわけ、現実なんて、知らないほうが幸せなもの典型例だろう。
だから私は、幸せだった。兄と近くにいられて、兄と同じ世界にいられて。
同じであることに、抵抗がなかった。
みんなが同じじゃないと、知らなかったから。
…兄は自閉症をもつ者のなかでも、穏やかな気質なほうであり、自傷や他害をすることがほとんどない。
私が幸せな幼少期を過ごせたのは、きっとそのおかげだろう。
他のきょうだい児にとって、幼少期が良いものであるとは限らない。
暴力的なきょうだいに苦しむものも、きっとこの世界にいる。

転換期
小学校5年生から、私は勉強に本腰を入れ始めた。
正確には、塾に通い始めた。17 時の門限を守り、19時に晩ごはんを食べ、20 時に風呂に入り、21 時に布団に入っていたそれまでと違い、20 時まで塾で勉強する生活は、当時の私には凄まじい衝撃だった。
私は、賢くなっていった。知識をつけていった。
義務教育というのは馬鹿にできない。なんのことはない簡単な内容でも、ひとつひとつ学んでいくことで、「ある」ということに慣れていくことができる。
それで、私は知り、気づいたのだ。兄が普通ではないことに。
子どもにとって、周りと違うというのは死活問題である。周りの友達がゲーム機で遊んでいるなかで、自分の分だけのゲームを持っていなかったとき、その疎外感はとてつもない。「あいつは○○もってない」といった遊びに誘ってもらえないこともあるだろう。子ども社会において、「違う」ことは、権利を持たないことと同じである。
そして、普通でないということは、「違う」ことと一緒だ。
「違う」は、不利だ。同じになれなければいけない。
ではどうするか。
ゲーム機がないのであれば、対処法は、親にゲーム機を買ってもらうようおねだりすればいいのだ。
子どもなのだから、親に頼ればいい。なるほど、明白で簡単な答えだ。
では、親に頼んでみよう。
きょうだい児という「違う」を、みんなと同じにしてくれ、と。
できるわけがない。
そう、同じにはなれないのだ。
私と周りの友達は、同じになれず。
兄と私もまた、同じではなかった。
私の認識は、そう移り変わっていった。
いずれ、私は兄のことを、友達に話せなくなった。
…周囲との違いに苦しむ、というのはどんな人にも起こりうることであるが、きょうだい児にとって、それは私にだけ起こりやすい事象なのではないか。
私が幸せな幼少期を過ごせたのは、きっとそのおかげだろう。
他のきょうだい児にとって、幼少期が良いものであるとは限らない。
暴力的なきょうだいに苦しむものも、きっとこの世界にいる。

中学生
中学生になり、塾の時間も増え、私は受験勉強を始めた。
兄は、叫び始めた。
そう、兄の癇癪が始まったのは、たしか私が中学 2 年生ぐらいの時だった。
このころになると兄も私も個室をもち、それぞれの部屋で過ごすことが多くなったのだが、時折隣の部屋から聞こえる叫び声と、ドタドタとなる素足の足音は、私の精神を乱すのに十分だった。
私が塾の課題をやって、テスト勉強をし、1 時間だけ 3DS を開く横で。
兄は勉強せず、本を読み、ゲームをし、youtube を見て、そして不機嫌になり、叫んでいた。
私はこのころ、「違う」ことを恥じるだけでなく、怒るようになっていた。「僕がこうなのに、にいにかがそうなのかは、おかしいじゃないか!」と。
私は、キレ始めた。
そりゃキレるだろう。兄の世話をするのは母だけでなく、自分もなのだから。
だが、それを兄にぶつけることはしなかったし、できなかった。
ただただ、心の中でキレ戻くした。
それは、母が兄に対して十分なお叱りを与えたというのもあるし。
「僕が怒っても仕方ないし変わらない」という考えがあったからだ。

高校
喧嘩ぶつぶつと喧嘩しながら(実際には殴り合ったわけではない)、私は高校受験を一応乗り越え、大阪の私立高校に入学した。
そして、私の自己肯定感はゴミになった。
突然びっくりするかもしれないが、いろいろ理由がある。
兄が普通でなくなり、よく体調を崩していた。
・通学先が私立で、勉強漬けの毎日だった。
・毎日 5:30 起き、元気にではない!
・ほとんど友達ができなかった。
・スマホと iPad が与えられたことで、ネットに触れることができるようになり、必然と厳しい現実を知る機会が増えた。
とまあこれらの理由から、私の自己肯定感は地に落ちることとなり、当時の自己評価は「陰キャのクソザコナメクジ」だった。
ネメクジに謝れ、失礼だ。
さて、兄に対する私のスタンスも、それに伴い変化していた。
私は、兄に対し申し訳なく思っていたのだ。
「俺が健常者になってごめんなさい」と。
て、兄に対し申し訳なく思っていたのだ。
私が健常者であれば、もっとうまくできたろうな、と。
健常者を持つ兄に対し、自分が健常であることを申し訳なく思い、勝手に苦しんでいたというわけだ。
それはそれとして、受験勉強をしていく兄に対しイライラを感じていたのだが、
集中して暮らしながら兄のトイレに付き添ったり、夜中に叫んだ兄のためにご近所廻りをしたりしているとき、私の胸には様々な感情が渦巻いた。
…健常である自分とそうでない家族とを比べ、申し訳なさを感じるという人は、意外といるのではないだろうか。なにせ、ケアをするということはその人の特性を熟知することにつながる。知ってしまえば、自分が恵まれているということに気づいてしまう。

独り立ち
さて、なんやかんや大学受験が終わり、私は一人暮らしをすることになった。
下宿先の決定、水道や電気とガスの契約、ネットの開通準備など、いろいろとやることがあった。
そんなある日、父がガス会社の人と電話をしているときに、また兄の機嫌が悪くなり、叫び出した。
おっとこれはまずいと思い、私は電話をしている父から兄を離そうとした。
しかしなかなか兄がうまく動かず、私は兄の近くで大声をだしている。
私は、気が気じゃなかった。「これでここの人から怒ったらどうしよう」「新生活に影響があったらどうしよう」と。まあ冷静に考えたらたぶんそんなことは起こらないのだが、私もまた冷静ではなかった。
なんとかして兄を自室に押し込み、私もまた部屋の中に入り、ドア前に座った。
そして、兄の話を聞いた。何に怒っているのか、なにが不安なのか、と。
だが、いつものごとく兄の機嫌は治らない。私ではなく、父に話を訊かせたいようなそぶりを見せ、私の背後にある、ドアを無理に開けようとした。
これは収まらないな、と思い、私は兄に言った。
「大声出さないなら通してあげる」と。
兄は手を挙げて了承し、私は兄を通した。
そして兄は部屋を出て、父に近づき、大声をだして叫んだ。
有り体に言えば、私は限界だった。
「大声出さないっていったじゃん」「電話中のわかんねぇのか」「うるさい、いつもいつも」「なんで嘘つくの」「相手が困ったらどうすんだよ」「なんで知ってんの」「なんでいつも勝手に不機嫌になんの?」「好きなことやってるくせに」「俺の一人暮らし邪魔してないよ」「嘘つくのはダメだろ」「怒りたいのはこっちだよ」「うるさい」「俺はいつも我慢してんのに」「なんでだよ」「なあ!」「なんでなんで」と、まあ、そんな感じで、そんなくだらないことをきっかけに、積年の思いが爆発した。
私は、怒りながら号泣した。
互いにごめんねをして、このことがあって、私は一人暮らしを始めた。
一人暮らしをずっと夢見てきたこと、私はすっきりした。
これはきっと、関係性の清算であったのだろう、と私は思う。
…きょうだい児が、自らの思いをぶつけられる対象や機会は、あまりない。
親に言うのは薄情な気がして憚られる。きょうだい本人に言うのは、とても残酷だ。かといって他人に語るには重い。友人に話すとなると自分の所有者の家族であることを聞かせねばならない。
憂いをごまかせる場所が、必要なのではないだろうか。

将来
そんなこんなで、兄と暮らし、ともに育ち、そして衝突した私は、今少し兄から離れて一人暮らしをしている。
普段は療育にいるが、時たま奈良に帰省しては、なりふり構わずボランティアとして働きに来て、兄の働く様子を見ている。
兄から離れて分かったのは、兄はとても善人の人間であるということだった。
よくある話だ。一度距離を取って冷静に見ると、その人のいいところが見えてくる。それが、兄にも当てはまった。
兄は、みんなに慕われている。ならいで生活する皆が、兄のことを気にかけ、様々な形で手をかけてくれていた。それはひとえに、兄の人柄がよくある裏表だ。
それに、兄は自らの宿命(障害や特性)と向き合い、乗り越えようとしている。いつの日か「おかあのぼく」と認めることを目標に、日々必死に生きている。
そんな兄を見て、私はもう、兄に対し怒りを抱かないようにした。
しかし、二十歳を超え、大人になったことで、私にも見えるものがある。
それは、将来への不安だ。
もっとも、よくある就職の不安やら、行く先の見えない不安といったものではない。
むしろ、ある程度予見できる未来の不安と言ってよいだろう。
それが、親亡き後だ。
親が亡くなった後、私は兄をどうすればいいのだろうか。
やきょうだい児の親は、すでに 50 代後半に差し掛かっている。これを言うと怒るかもしれないが、色々と思いが交差する年代だ。
皆が健常者であれば、もっとうまくできたろうな、と。
母は「あなたは心配しなくていい」と言ってくれるが、心配なものは心配なのである。
だって兄は兄だし。私の人生だからだ。
将来への不安は、尽きないばかりである。
…きょうだい児の抱える不安の大き一つに、将来の不安があることは自明である。それは親亡き後だけでなく、進路や恋愛にまで及ぶものだ。
きょうだい児の力になる進路を取らなくてよいのか。
結婚したいけど、相手は障害者であるきょうだいを受け入れてくれるだろうか。
そんな悩みを、きょうだい児は思ってしまうのではないだろうか。
それがきょうだい児の優しさから来るものなのか、それとも現実的打算から来るものなのかは定かではないが、いずれにせよ対処せねばならないものだ。

必要なものとは
ここまで、私の人生の振り返りにつきあってくださって、どうもありがとう。
さて、私が経験した出来事に付随して、少しずつきょうだい児について考察したわけなのだが。
それで、結論としては。
小さいころから参加できる、きょうだい児の自助グループが必要なのではないだろうか、ということになる。
私がつらかったのは、話せる人がいなかったからなのだ。
母や父、兄はともに苦しんだ人ではあるが、同じ立場の人間じゃない。
だから、同じ立場の人間同士で集まれる機会があれば、きっと安心できる。
自分だけじゃないって、思うことができる。
「違わない」居場所を作ることは、きっときょうだい児にとって素晴らしいことだと思うのだ。
よって私は、きょうだい児の自助グループが必要であると結論付ける。

おわりに
最後まで読んでいただきありがとうございます。
私は今回の研究を通じ、きょうだい児の皆さんと交流を深め、より深くかかわっていきたいと考えています。
そしてゆくゆくは自らの組織を立ち上げ、きょうだい児と障害児がわだかまりなく過ごせる社会をつくる活動をしたいと考えています。
その第一歩といたしまして、きょうだい児のみなさんに対してインタビューを行い、きょうだい児が抱える心理的負担を明らかにする研究を今行っています。
きょうだい児に限らず、ケアをする人の中にもケアが必要な人たちがいます。しかし、それらの人々に対するケアが重要視されることはあまりありませんでした。
でも、そろそろ目を向けてもいいと思うのです。
現代社会において、身内のケアに任せっきりにする時代は限界を迎えています。
ここらで、ケアをする側に対し何か働きかけをしないと、福祉の世界は成り立たなくなる、と私は思います。
皆さん、どうですか?

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