湖国三大祭のひとつで国指定重要無形民俗文化財でもある「大津祭」が12日の本祭を終えた。
大津祭は、京町三丁目(旧の四宮町)にある天孫神社(四宮神社)の例祭で、「スポーツの日」の前日の日曜日に「本祭(ほんまつり)」が、前々日の土曜日に「宵宮(よみや)」が行われる。京都祇園祭の風情を色濃く継承した祭礼で、現在13基ある曳山はいずれも江戸時代に制作されたもので、各曳山にはからくり人形が乗る。
祭礼の1週間前に組み立てられ、本祭の翌日(13日)に解体された。各町の蔵で保管され、来年にまた姿を現す。
大津祭の華である曳山の由来は、約400年前の慶弔年間、鍛冶屋町に住む塩屋治兵衛という人が、祭礼の日に狸の面をかぶり踊ったのが始まりとされます。
やがて山車が作られ、その上に乗って囃子をしながら町を巡行するようになったといわれている。そして祇園祭(京都市)や高山祭(高山市)と同じように、次第に今のような豪華で趣向をこらした山が作られるようになった。
巡行は、毎年9月16日の「くじ取り式」で決まり、不鬮取の「西行桜狸山(鍛治屋町)」以外の12基の巡行順が決定される。
見どころの一つに、精巧に作られた「からくり」がある。
故事や能楽・謡曲などから取材したこれらのからくりは、全国でも2番目に古いと言われている。
このからくりを演じることを「所望」と言い、本祭の巡行中、20数カ所で曳山の巡行を止めて、この「所望」が行われる。なお、「所望」は「しょもう」ではなく「しょうもん」と発音する。
「所望(しょうもん)」は、本祭の巡行中、20数カ所で行われる。宵宮では、人形を曳山から下ろし、曳山のそばの町家で展示されているので、間近で見学ができる。
西行桜狸山:鍛冶屋町
寛永12年(1635)
塩売治兵衛が狸面を被って踊った事が発祥となった大津祭最初の曳山。
明暦2年に西行法師が桜の精と問答を交わすカラクリを採り入れ、西行桜狸山となった。
曳山の祖となった狸は屋上に載せられ、祭の先導をする守護となった。
このため、この山はくじを取らずに毎年巡行の先頭を行く。
所望は、古木から桜の精が現われ西行法師と問答をする。
神功皇后山:猟師町
寛延2年(1749)
神功皇后が戦さに先立ち、鮎を釣り戦を占ったとされる伝説に因む。
神功皇后は当時懐妊されていたが、戦さが終った後、応神天皇を無事出産されたことから、「安産の山」として信仰されている。
所望は、皇后が岩に弓で字を喜く所作をすると、岩に次々と文字が現われてくるからくりで、文字書きからくりとしては漸新な機構とされている。
石橋山:湊町
宝永2年(1705)
謡曲の「石橋」に取材したもので、大江定基入道寂昭が宋の国に渡り、清涼山にある文珠菩薩の浄土に続く険しい石の橋を渡ろうとしたとき、文殊菩薩の使いである獅子が岩の中から現われて、牡丹の花に舞い戯れるのを見たというもの。
所望は、岩が開き、僧寂昭の前に唐獅子が歩み出てきて牡丹の花に戯れ遊んだあと、岩の中に戻ってゆく。
龍門滝山:太間町
享保2年(1717)
黄河の上流の龍門山の滝。魚は登ることができないが、もし登る魚があれば、昇天して龍になるという故事に因んでいる。登竜門という語はここから出たもの。
所望は龍門の滝を鯉が躍り上がる所を見せる。
鯉の滝登りは曳山のからくりとしては他に例がなく、たいへん貴重なもの。
殺生石山:柳町
寛文2年(1662)以前
能楽の「殺生石」から取材したもの。鳥羽院に寵愛された玉藻前は、実は金毛九尾の狐で帝の生命を奪おうとしていたのを安部泰親に見破られ、東国に逃れ、那須の殺生石となって旅人を悩ましていたが、玄翁和尚の法力によって成仏したという。
所望は玄翁和尚の法力によって石が二つに割れ、女官姿の玉藻前が現れ、その顔が狐に変わる。
西王母山:丸屋町
明暦2年(1656)
謡曲の「東方朔」から取材したもの。むかし崑崙山に住む西王母が天女とともに舞い降り、帝に桃の実を捧げ、長寿を賀した。この桃は三千年に一度花が咲き、一個しか実らない貴い桃であった。ここから俗に「桃山」と呼ばれる。
所望は、桃が二つに割れ、その中から童子が現れて所作をする。これは桃太郎説話が加味されたものとも云われる。
郭巨山:後在家町 下小唐崎町
元禄6年(1693)
郭巨は中国二十四孝の一人。
家は貧しく、子供が生まれて老母は自分の食を減らして孫に与えねばならなかった。「子供はまた得られるが母は再び得ることはできない」と、郭巨は妻と相談し、子供を土中に埋めようと穴を掘ったところ、そこから黄金の釜が出てきたという故事による。
所望は、郭巨が鍬で土を掘ると黄金の釜が出てくる。
源氏山:中京町
享保3年(1718)
紫式部の「源氏物語」をテーマにしたもの。大津祭の曳山の中で、唯一大津に由来したカラクリを採り入れたものである。紫式部人形の十二単や曳山を飾る部品、欄干を見ると平安の普を偲ばせるつくりで、女性的なデザインである。曳山に乗る緑色の岩は石山寺の観月台を模し、所望は紫式部が月を見ながら構想を練る様子を表現している。
猩々山・南保町
寛永14年(1637)
能楽の「遅々」から取材したもの。むかし唐の国の楊子の里に住む高風という親孝行の者がいた。ある夜、夢に「楊子の町に出て酒を売れ」と教えられ、売っていると、海中に住む々から、酌めども尽きず、飲めども味の変らない酒の壷を与えられたという。
所望は、高風が酌をし、猩々が大盃で酒を飲み干すと、たちまち顔が赤く変わる。
月宮殿山:上京町
安永5年(1776)
謡曲の「喜多流月宮殿」から取材したもの。
唐の皇帝が長生殿で新年を祝う節会を催され、世を寿がれたというもの。
所望は、鶴と亀の冠をつけた男女の舞人が、皇帝の前で舞を舞う。そこから俗に鶴亀山とも呼ばれる。
西宮蛭子山:白玉町
万治元年(1658)
町内の伝承では、古くから西宮の蛭子を祀っていたが、後に奥山に載せるようになり、鯛を釣りあげた蛙子に商売繁昌の祈りを込めるようになったとある。
所望はえびすさんが鯛を釣り上げる所作で人気がある。この所作から俗に「鯛釣山」と呼ばれている。創建当初は宇治橋姫山と称していたが、延宝3年以後、いまの西宮蛭子山となった。
孔明祈水山:中堀町
元禄7年(1694)
蜀の諸葛孔明が、魏の曹操との合戦に際し、 「敵の大軍を押し流して下さい」と水神に祈り大勝した故事に因む。孔明が扇を開いて水を招くと、水が沸き上がり、流れ落ちる。
湯立山・玉屋町
年未詳
天孫神社の湯立ての神事はこの山から捧げるといい、曳山は天孫神社を型どり、周りはその廻廊を真似たものである。
所望は称宜がお祓いをし、市殿が笹で湯を奉り、巫女が神楽を奏する。昔からこの湯をかけられたものは五穀豊穣、病気平癒、商売繁盛など縁起がよいという。
創建当初は孟宗山といっていたが寛文年間にいまの湯立山となった。