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第14回 生態学琵琶湖賞 受賞者記念講演要旨

海と鉄と地球環境

津田敦 東京大学海洋研究所

1. 鉄散布実験の経緯

海に鉄を撒いたらどうなる?これはあまりにも荒唐無稽な問いに思える。実際には、ある特定の海域に鉄を加えると植物プランクトンが増殖する。植物プランクトンが増殖することによって、連鎖反応的にいろいろなことが起こる。何故そんなことが起こるのか、順を追って説明しよう。


【HNLC海域と鉄】

植物プランクトンが増えるための栄養塩である硝酸の全海洋における分布を見てみると太陽光が十分にある夏季においても硝酸が枯渇せず十分に余っており、かつ植物プランクトンの生物量の指標であるクロロフィル濃度が低い海域がある(図1)。

図1

図1:栄養塩が高くクロロフィルが低い(HNLC)海域の分布(ハッチ)と主な鉄散布実験が行われた場所(旗印)。
英名は実験名、赤字は日本チームが参加した実験。


常に栄養塩が供給される沿岸域や湧昇域は栄養塩濃度が高くクロロフィル濃度も当然高くなる。しかし南極海(南大洋)、赤道湧昇域、亜寒帯太平洋の3海域は、硝酸が枯渇することなく季節を通じて高濃度に保たれ、かつ植物プランクトンが生物量を増すこともない高栄養塩低クロロフィル(HNLC: High Nitrate Low Chlorophyll)海域と呼ばれる。一般に、HNLC海域以外では、植物プランクトンを培養すると、ごく普通の栄養塩存在比では窒素(N)が初めに枯渇して、その増殖が終わる。窒素制限は海洋の広い地域に認められることからも、海洋表層で栄養塩が豊富にあるにもかかわらず、植物プランクトンが期待されるほど増殖しないのは特別な説明が必要な事象として扱われてきた。1980年代後半になって米国のJohn Martin博士らはこれらのHNLC海域では鉄濃度が低く植物プランクトンの成長を制限している可能性が指摘された。これがMartinの第1の鉄仮説と呼ばれる。その後、同博士は南極のアイスコアの分析から大気中の二酸化炭素濃度と鉄の供給量に負の相関があることを見つけた。すなわち氷期は風が強く乾燥が進むため、大気経由で陸域から海洋へ鉄が多く供給され、鉄の供給によって海洋の一次生産が促進し二酸化炭素を大気から吸収するため大気中二酸化炭素濃度が低くなる。反対に間氷期は風が弱く湿潤であるため陸域からの鉄の供給が小さく、海洋の一次生産が抑制されるため、大気中二酸化炭素濃度は高くなる。このように陸域からの鉄供給の多寡が、氷期・間氷期における大気中二酸化炭素濃度の増減を説明するとしたのがMartinの第二の鉄仮説である。第二の鉄仮説が正しければ、海洋の広い範囲に鉄を添加すれば、温暖化気体として問題となっている二酸化炭素を削減することが出来るかもしれない。Martinは「タンカー1杯の鉄を与えられれば地球を氷河期にすることが出来る」と宣言したといわれている。


【鉄散布実験をめぐる2つの背景】

2つの仮説からも分るように鉄散布実験には大きく2つの目的がある。第一は、HNLC海域において本当に鉄濃度が植物プランクトンの増殖を制限しているかどうかを確かめることであり、第二は氷期の部分的な再現、または地球環境工学的な手法として鉄散布技術が二酸化炭素の削減をもたらすか、また、その操作に伴う環境影響はどのようなものが予想されるかを確かめることにある(図2)。

図2
図2:鉄散布実験の概念図

初めての実験は1993年に赤道湧昇域で行われたが、その実験に先立ち米国の海洋学関係者の間では盛んな討議が行われ、海洋生態系操作に関しては慎重であるべきだが、実験は必要との結論に至り、現在に至っている。従って初期の実験では主眼は鉄制限の立証にあった。しかし、鉄散布実験の場が南大洋に移った2000年以降は、温暖化危機感の高まりや、鉄散布をビジネスと捉え研究開発を行うベンチャー企業の出現によって、地球環境工学技術としての側面も表立って議論されるようになった。

2. 鉄と海洋生物生産

【微量金属としての鉄】

海洋における鉄は酸素発生型の光合成をする藍藻の出現により酸化され沈殿し、現在我々が利用している鉄鉱床を作った。その結果、外洋域の海水にはnM(ナノモル)という非常に低い濃度でしか存在しなくなった。一般的に言われている主要栄養塩類(窒素、リン、珪素)がmM(マイクロモル)という濃度であるから、鉄は濃度としてその1000分の一程度しか存在していない。さらに、船舶や実験装置をはじめ我々は鉄に囲まれて生活している。このような環境で汚染されていない海水を採取し、鉄の汚染のない操作で、汚染のない試薬を使い分析することは想像するよりもはるかに困難である。しかし、その一方で微量元素であることが鉄散布実験を実現可能なものにしている。現在までに行われている鉄散布実験は50-100km2の海域に鉄を散布しているが、表層の鉄濃度を2nMにしようとすると、10-60t程度(混合層深度によって変わる)の溶液を加えれば済む。この程度の鉄の量ならば、研究船に多少の設備を持ち込むことで実現可能である。しかし、窒素が不足している海域で、窒素源を加え同様の効果を得ようとすればタンカーが必要になる。地球環境工学技術としても微量栄養塩である鉄を加え、余っている硝酸やリンなどを使い光合成が進むので比較的コストが安くなるのである。

3. 具体的な事例

【具体的な作業SEEDSを参考にして】

撒布する海域は、鉄が不足し植物プランクトン濃度の低い海域であることが条件であるが、水平的安定性(近隣にフロントや異なった特徴の水塊がない)、適度な表層混合層深度などの条件を事前調査で確かめ散布域を決定する。次に現場海水をくみ上げタンクにため塩酸で酸性化させ、硫酸鉄(FeSO47H2O)を溶解させる(図3)。

図表3

図3:船上で散布用の鉄溶液を調整している様子。
奥の黄色いタンクに海水を貯め塩酸で酸性化した後、硫酸鉄(25kg)を18袋溶解し、手前のグレーのタンクに調整したSF6飽和海水と混合し船尾から流す。


SF6を飽和させた海水と鉄を溶解させた海水を定量的に混ぜ船尾から水深5m付近に散布する。船は400m間隔でグリッドを描くように約1日かけて8×8km四方に鉄を添加する。400m間隔であれば一晩で混合し鉄濃度は一様になると計算されている。その後は、散布水塊の位地や形を特定する「マッピング」、散布域中心での変化と対象域の変化を観測する「In-Out観測」、断面観測、沈降粒子を捕らえるセディメントトラップの回収・再設置と主に4つの観測を繰り返す。実際には海の中には複雑な流れがあり、その中で正確な散布域をつくり、追いかけ、形を決めることは簡単な作業ではない。
SEEDSでは、赤道域での実験を除く他の実験より植物プランクトンの応答が速く、2日目にピコ植物プランクトンの増殖速度が増加し、3日目には植物プランクトンの光合成活性の指標が上昇した。4-7日目に植物プランクトンの増殖速度は最大になり、一次生産速度は初期値より5倍程度増加した。6日目にはクロロフィル濃度の増加、栄養塩濃度および海洋表層の二酸化炭素分圧の低下が明白になった(図4)。

図4

図4:SEEDS鉄散布域におけるマーカー物質SF6濃度(A)、鉄濃度(B)、二酸化炭素分圧(C)、硝酸濃度(D)および葉緑素(E)の時間変化(散布1日目から12日目までの変化)。NDは未測定。


9日目から13日目は植物プランクトンの量は緩やかに増加しピークでは初期量の15-20倍に増加した。SEEDSの場合、9-13日に比較的大きな沈降粒子束を観測したが、統計的には有意とならなった。


【各実験における共通点と相違点】

ほとんどの実験において、鉄散布後、植物プランクトンの鉄制限からの開放を示すシグナル(クロロフィル濃度の増加、光合成活性の上昇)が観測された。クロロフィル濃度の増加は赤道や南大洋では2-4mg・m-3で、北太平洋では実験により3-16mg・m-3であり、西部北太平洋で行われたSEEDSで最も高くなっている(約20mg・m-3)。しかし、初期値もSEEDSでは比較的高いため、増加比で考えれば、ほとんどの実験で5-20倍に増加したといえる。増加した植物プランクトンは、珪藻以外の藻類の生物量や増殖速度の増加も認められているが、植物プランクトン全体の生物量の増加に貢献するのは、ほとんどの場合、珪藻であった。植物プランクトン生物量の増加に伴って、海洋表層の栄養塩濃度や二酸化炭素分圧の低下が認められている。また、海洋表層の鉄濃度も低下するが、この低下には生物による取り込みよりも、無機化学的な作用で水中から取り除かれたり、分析にかからない化学形態に変化したりする効果が大きいと考えられている。沈降粒子束は少数の実験で有意な増加が認められているが、これは実際に沈降粒子が増加しなかったのか、実験期間が短かったのか、技術的に困難であったのか、判断が困難である。

4. 鉄散布実験から解ること解らないこと

【鉄仮説1】

一連の実験でHNLC海域が低濃度の鉄により植物プランクトンの生産が制限されている海域であることは確かとなった。すなわちMartinの第一の仮説は立証されたといえる。海洋において鉄は微量ではあるが窒素、リン、珪素に次ぐ栄養塩として機能しているといえる。海洋植物プランクトンの増減は、光、水温、栄養塩(N、P、Si)、捕食、沈降の5項目によって決まると考えられていたが、それに加え鉄が同様に重要であり、供給源や動態が栄養塩と異なることも、海洋学に新しい視野を広げたといえる。


【鉄仮説2】

現在の海洋に鉄を加えると植物プランクトンが増加し、水中の二酸化炭素分圧が低下することは明らかになった。しかし、だからといって「氷期において鉄供給が大きかったため、海洋一次生産が増大し、大気中二酸化炭素濃度を低下させた」という証拠にはならない。氷期において海洋一次生産が高かったという証拠は乏しく、氷期・間氷期サイクルでの二酸化炭素濃度変動を説明する20以上ある仮説の一つに過ぎない。


【二酸化炭素吸収技術として】

一連の鉄散布実験が始まる前の数値実験で、鉄を十分に海洋に供給し現在余っているHNLC海域における栄養塩を使い果たしたとしたら、年間1.7ギガトンの炭素を海洋が吸収すると見積もられた。しかし、実際の散布実験では、観測期間の問題や鉄の濃度維持の問題もあるが、栄養塩が枯渇することはなく、表層で固定された有機物の消費や分解が進んだ。これも観測期間の問題や方法の問題もあるが沈降粒子は増えたが劇的な沈降は観察されていない。したがって当初予想されていたよりは炭素吸収技術として効率の悪いことが明らかになりつつある。植食性動物プランクトンにまでは鉄散布の影響があることは明らかになったが、実験によって応答は異なり、統一的な見解にまでは至っていない。しかし、大規模な鉄散布はある特定種に対して有利に働いたりすることがあるため、現在の生態系システムの大きなかく乱であることは間違いない。沈降粒子や高次食段階生物の研究はより長期の観測が必要であるが、現在の方法では数ヶ月に及ぶ観測は困難であり、数値モデルによる予測など他の方法が必要になる。

用語説明

(表)
栄養塩 植物が生育するために必要な主な栄養素、海洋では窒素、リン、珪素が栄養塩とされる。
クロロフィル 葉緑素。植物の光合成色素で定量が容易なため、植物プランクトン量の指標とされる。
珪藻 大型の植物プランクトンで珪素の殻をもち、鉄散布実験では増加する植物プランクトンの大部分は珪藻である。
SF6 6フッ化硫黄。生物化学活性がない安定な物質で絶縁体として用いられるが、自然界には存在せず、感度良く測定できるため、鉄散布実験では水塊の目印として鉄とともに混合される。

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