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個人展示|戦場・戦地の人々

歩いてでも帰りたかった祖国

-滋賀県満州報国農場隊員として、そして終戦後のつらい満州体験-
小竹 花子さん (大正15年生まれ 蒲生郡日野町)

看護婦を夢見ていた小竹花子さんは、家庭の事情で看護婦学校入学をあきらめ東洋レーヨンに入社。「バレー部に入って、もうバレーが好きで好きでねぇ」と小竹さん。

2年後、母との約束で実家に帰り、和裁を習いながら農業を手伝う毎日を過ごしていました。そこへ、青年学校の先生や役場から、滋賀県満州報国農場の隊員の勧誘があり、母の反対を押し切った小竹さんは、半年で帰れるものと信じ、軽い気持ちで満州へ渡りました。その時小竹さんは、19歳でした。

昭和20年5月に満州の報国農場に到着。しかし、小竹さんを待っていたのは、「電気はない、食べるもんはない。アンペラ一枚で。みんな泣きましたわ。」という厳しい生活でした。7月からは、隊員たちとの農作業から離れ、本部での仕事に就きました。そして、8月9日のソ連参戦。小竹さんたちは着の身着のままで逃げました。小竹さんは、隊員や先生たちと延吉の小学校に避難しましたが、小竹さんは開拓庁長の家に預けられました。しかし、そこでの生活は困窮しており、しばらくして小竹さんは、その家を離れ、中国の郵便局に勤めなければなりませんでした。

「郵便局に勤めた時は、言葉がわからへんので、もう淋しいてなぁ。なんぼ延吉橋で泣いたことかわからん。けど、死のうということは、ちょっとも思わなんだ。どうしても日本に帰らんならんと思た。」
そして、待望の引揚船に乗船した小竹さん。

「船に乗って海を見た時は、そらぁ、もう嬉しかった。もう、海さえなかったら帰ろうと思たもん。」

小竹さんが持ち帰ったものは、ハンコだけでした。







勤めていた郵便局の局長さんにつくってくれたハンコ

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