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HOME > ライブラリー > 滋賀県民戦争体験談集シリーズ「記憶の湖」 第8巻 「暮らしの中の戦争」2

第8巻 「暮らしの中の戦争」2

「銃後」といわれた地域社会を支えた方々、夫あるいは父親を戦場で亡くされた方々、空襲で母親を亡くした少年、学校で軍需品の生産に励ん だ女学生など、戦時下での暮らしを体験された方々の体験談を掲載して います。

■掲載体験談数:17
■ページ数:234ページ(B5版)
■発行年:平成20年(2008年)11月





目次

戦場へ行った三人の兄

爆弾で手も足も吹き飛ばされた人を、「ダルマさん」と言ってたんです。ほんで兄は「ダルマさんになってもかまへん。二人で弟の世話したらええ」言うて、二人で一生懸命拝んだんです。

母と五人の子どもたち

主人は三十四歳、間に合うような兵隊やなかったんですが。その時、子どもは五人、数えで十一歳、十歳、八歳、六歳、三歳。上四人が女で、下一人が男。もうおじいさん、おばさんは死んではったんで、私一人で五人の子どもを。もう何がなんだか分からなんだ。

戦死した父の家族への思い

お父さんが家を出ていきしなにね、この子は八才でしたが、「師範学校に入れてやってくれ」言うて出て行かはりました。ほんで、お父さんが出ていかはってから、ふっと見ると、火鉢の横に、お父さんの抜けた歯が紙に包んで、チョコッと置いてありました。もうお父さんは覚悟してはったんやろうねぇ。

母と私の戦中・戦後

農業は母親一人でやってました。私も子どもの頃は田んぼに行きましたわ。母親は夜も田んぼに行ってたわ。父親が戦死して、母親はよう言うてました。「男ざかりの三十三歳で死ぬというのはどういうことやろ」と。ほんで、母親は夜も昼も働いて「自分は死んでへん、死ぬほどなんとかすると言うけれど、まだ自分は死んでへん。死ぬまで働いているけど、まだ死ねへんがな」。

憧れて渡った戦時下のカナダ

しばらくは、生活に困ることなく幸せな日々を送っておりましたが、その年の十二月に太平洋戦争が勃発しました。ラジオのニュースでそのことを知ったうちの主人は「えらいことになったでぇ、困ったことや。日本がハワイを襲撃した」と言って、もう震えてました。

捕虜収容所に入れられたカナダ移民

アングラーの収容所だけは他と違て、捕虜収容所と言うてた。脱走でけへんように鉄条網が張られてて、タワーという見張り台がいくつもあった。ここに入れられたのは日本人だけやった。なぁんにもないところで、狼も熊も来ます。バックワイヤーのすぐ前で熊が立ちよるんです。

「絵日記」と回覧板-資料から見える戦時下の生活

忙しくて、悲しい銃後の守り

「勝つまでは文句言いません」言うてな。なんにも文句言わんと一生懸命やりました。サツマイモを採っても、みな良いとこは兵隊さんに出して、私らは屑だけをよばれました。それでもあんまりつらいと思いませんでした。「兵隊さんに」て、言われたら、文句言わんと「はい」と思いました。

大阪から嫁いできた保健婦さん

保健婦の試験の時は、二歳の子どもを連れて、一ヶ月ほど大津の親戚の家に泊めてもろて、保健所で勉強しました。そして、保健婦になって、水尾村の役場に勤めるようになりました。当時、大津から高島までで一人しかお医者さんがいらっしゃらなかった。ほでね、大津の保健所から一ヶ月に一回、先生がみえてね、処方箋を書いてくださって、処置は私がみなしてたんです。

女学校で真綿づくり

水をタライに入れて、炊いた繭をタライに浮かべて、それを一つずつむいて、ほんで、木で作った枠にバァと引っ張って掛けていきますねん。掛けると真綿がビヤァと広がるんです。ひと粒の繭が薄う薄う広がるんです。繭一つでハンカチぐらいの大きさの真綿がとれます。

疎開児童の寮母として共に暮らした七ヶ月

もう家族と一緒でした。自分の妹がにわかに増えたなという気がしてね。お母ちゃんのそばにいてたら、あの子らももっと甘えられるのになあと思って、できるだけのことはしてあげよ、と思いました。

防空監視競技会で優勝した監視員

実際に敵機を見つけたのは、終戦間近のほとんど終わり時分です。飛行機雲みたいのが絵に描いたような編隊になってね。昼でも夜でも、南方からサイパンから来よるねん。それがこの琵琶湖に見当をつけて来よる。

夫の戦死、そして東レの空襲

行かはってすぐは、だんだん日も長ごうなるし、もう家に帰るのが寂しいて、寂しいて。この子をおんぶして、日が暮れるまで外にいてねぇ、それがもうつらかった。本当につらかったね。そやけど、戦地に行ってしまってからは、半分ぐらい覚悟はできてました。

機銃掃射の犠牲になった母

鉄道の南側には三人いやはって、一メートルほど手前に弾が落ちたんやけど、泥被っただけで、当たらなんだ。そこに弾が七発落ちた。母親に当たった弾は、直撃やった。即死でした。隣にいやはった人は、「ちょっと休憩に帰る」と言うて、家へ帰らはって、そこにいたのはおふくろだけやった。

目前で見た、米軍の列車襲撃

豆畑まで来た時、頭の上の方に、にわかにね、翼に白い星のマークが付いた飛行機が、ウーッとやって来たんです。「あー、こわっ!アメリカの飛行機や!こわっ!」って、一人言うてたんですわ。そしたら畑にいたおじさんが、いつもは優しくお帰りとか言うてくれはるそのおじさんが、「姉よ!すっこめ!」言うて、大きな声で怒鳴らはったんです。「あー、こわっ!」と思て、私、自転車こかして、畑の中へ飛び込んだんです。

滋賀県と空襲

☆関連地図
守山駅、列車への機銃掃射
証言 十歳の少年が目撃した、列車への機銃掃射
証言 自宅で負傷者を介抱

滋賀県民戦争体験談集シリーズ「記憶の湖」 各巻の目次


▶各巻の概要紹介


第1巻
女性たちの戦争体験


第2巻
子どもたちと戦争


第3巻
戦争の中の青春


第4巻
「外地」の県民


第5巻
戦場と県民


第6巻
「暮らしの中の戦争」


第7巻
戦場と県民 2


第8巻
「暮らしの中の戦争」 2


第9巻
中国・朝鮮半島での県民の体験

県民の戦争体験冊子「戦争なんか大キライ」県民の戦争体験冊子「戦争なんか大キライ」

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