戦争体験談集シリーズ「記憶の湖」第9巻 中国・朝鮮半島での県民の体験

記憶の湖9表紙

中国東北部のかつて満蒙と呼ばれた地域と朝鮮半島に、主に民間人として渡られた県民の方々の体験談を紹介しています。

■掲載体験談数:23
■ページ数:307ページ(B5版)
■発行年:平成22年(2010年)7月

※ 滋賀県庁県民情報室で、1冊920円で有償頒布しています

目次

第一章 中国・朝鮮半島の戦争体験

母と四人の子どもが歩いた日本への道

母は二十九歳だったんですよ。それで四人の子どもを一人で連れて帰ったんです。一人背負って、一人抱っこして、両脇に荷物をぶら下げて、その母の姿を思い出すと涙が出ますね。

やっと踏んだ祖国の土

日本の土を踏んだ時、「わぁー祖国だ」と叫びました。そして、旗を持って迎えて下さる人たちを見て、とても感動しました。

弟の手

弟は私が必死になって引っ張ってるから足なんかついてへんわねぇ。弟の手を離したら流れていってしまう。弟の手をしっかり握って、水の中で目を開けて、まっしぐらに母親の後をついていった。とうとう息が続かんようになって、もうアカンと思った時に、ちょうどうまいこと浅瀬に出て、顔が水から出たんです。それがなかったらもう死んでたやろねぇ。

十三日の金曜日で、仏滅の三隣亡(さんりんぼう)

私が満州に行っている間、父と兄とが一番心配していたみたいです。満州行きに反対した母が嘆いていますし、父は私を満州にやった言い訳が立たんもんですからね。父は「満州へやって」と言うて、母にとがめられるもんですから。
「帰ってきてほっとした」と父が言いました。いつも母に責められてたそうです。私を満州にやった日は、十三日の金曜日で、仏滅の三隣亡やったんやろてね。最悪やった言うて。

郵便貨車内での出産

列車が止まってる間に、私を屋根の付いた郵便貨車へ移してくれはりました。そこには兵隊さんが一人鉄砲を持って立ってはったんです。小さな窓があって、そこから外の様子を見張っていやはりました。軍隊の毛布を敷いて下さって、私はそこへ寝て、お産をすることになりました。

「おばあさん、私が背負ってあげますよ」

発疹チフスのあとで、まだ体力は十分には回復してないけど、今はそんなことは言うてられへんわな。
おばあさんのところに行って、おばあさんの肩をたたいて、「おばあさん、私が背負ってあげますよ」と言った。ほたら、奥さんが「ありがとうございます。どうぞ、助けて下さい」と言って涙を流してた。

第二章 満州開拓と県民の体験

満州へ嫁いだ花嫁

新聞に出たんですわ。その書き出しがね「鍬を銃剣に変えた 兄の代わりに満州開拓はこの私が…」ちゅうような見出しでね。それで、もう、どうしても満州へ行かんならんようになってしもたんです。

中国人のもとで、働き続けた日々

死んだ弟は裸にして、荒縄を拾てきて、理男が背たろうて山の麓にほってきたんや。ほんで、十日も経たんうちに妹が死ぬやろ、また持って行くやろ。ほんだら、先に置いといた弟の遺体がもうあらへん。野良犬やらに食われてバラバラ。
みんな飢えと寒さで死んだんや。そやけど、生きてるもんも、生きてても食うもんがあらへんから座ったまんまや。ただ死なれへんから生きてただけや。

国境に近い滋賀県満州報国農場

第三章 満蒙開拓青少年義勇軍と県民の体験

母親代わりの小隊長

小隊長として受け持ったのは三十名です。やはり子どもですのでね、泣いとる子はないか、抜け出とるのはいないか、目が覚めたらずっと回ってね。布団の中におらないということがあれば、どっか行っとらへんかという心配はありましたね。誰かおらんということになれば捜すと、望郷の念が起きて、星空を眺めて泣いとる。それをなだめる。そういうようなことはよくありました。

十四歳で渡った満州

日野駅では小学校の子ども全員、婦人会や青年団の人らに兵隊送りと同じように、「バンザイ、バンザイ」言われて、行ったんやけど、内原での三ヵ月間は泣いたわ。今でいうたら中学二年生。そんな子どもに、朝から晩まで軍事訓練や。

「ここにいよ」と言ってほしかった

親に、満州での状況を言うた。ああやった、こうやった、そやけど辛かったわとな。そんな辛かったら、もういなんでもええて言いはるかいな思た。汽車賃やらは開拓団でもろうて帰ってきたんやけど、若い時やで、途中で使いますやろ。
「もう、銭もないし、帰らんとこかな」て言うたら、「お国のためやで、一日も早よ帰らんなんで、こしらえせなあかんわい」言うて、百円くれはったくらいや。
「ここにいよ」言わはったら幸いやと思ったけど、味気なかったわ。

「弟よ」と書かれた写真

兄貴は、シベリアへ連れて行かれる時に、もしかしたら弟を知っている人が拾ってくれるかもしれないと思って、軍隊手牒に僕の写真をはさんで国境沿いの畑に置いて行きよってん。うちの団員がソ連軍の使役で道路補修に行った時に、畑の中からその写真を見つけて、僕の写真やったので、拾てきてくれたんや。
その写真は、兄貴が現地応召の時に持っていたもので、写真の裏を見たら、「弟三郎、もう逢う時はないと思う。元気で」と書いてた。それを見て、兄貴は元気でシベリアへ行ったというのが分かった。

大地主を夢見て

家族は猛反対でした。勘当同様というか、それこそ実印盗み出してという口ですよ。親のハンコがないと行かれへんのに、もう親は絶対ハンコを押さんと。けど、最後にはしぶしぶ許してくれました。反対されたから、よけい反発して行ってやろうと思ったのかもしれません。

手帳は生きた証し、自分への励まし

税関で、変なものを持っていたら、その人だけではなくみんな帰れなくなると脅かされました。自分は手帳を持っていたので心配でした。みんなお互いに「持ってないな」「大丈夫か」「何もないか」ゆうてました。
自分の列の前の方でも厳しく検査していたけど、「ニエット、ニエット(ない、ない)」ゆうて、通り抜けて、手帳を持って帰りました。

パン工場で生きさしてもろた

お前焼け言われて。パン工場には食うもんがいっぱいあったんで、おかげさんで生きさしてもうた。捕虜の食事は一日黒パン三百グラムだけやったけど、わしらにはすぐくれよったから。そこで体重がグーッと戻ったがな。

離ればなれになった双子の兄弟

それから、二人別れてしもた。
二人一緒にいてても生活できへんでな。まだ十五、六や。子どもみたいなもんや。

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滋賀県平和祈念館外観
施設概要
入館料 無料
開館時間 9時30分~17時(入館は、16時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日(祝日にあたる場合は開館)・年末年始・※その他業務の都合により休館する場合があります。

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滋賀県東近江市下中野町431番地

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  • JR琵琶湖線(東海道線)彦根駅または近江八幡駅乗り換え、近江鉄道八日市駅からバスで約20分「愛東支所・診療所前」下車すぐ
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