戦争体験談集シリーズ「記憶の湖」第7巻 戦場と県民 2

記憶の湖7表紙

「銃後」といわれた地域社会を支えた方々、夫あるいは父親を戦場で亡くされた方々、空襲で母親を亡くした少年、学校で軍需品の生産に励んだ女学生など、戦時下での暮らしを体験された方々の体験談を掲載しています。

■掲載体験談数:21
■ページ数:338ページ(B5版)
■発行年:平成20年(2008年)11月

目次

妻との約束を果たすために

三度目の応召はもう死ぬかと思たなあ。そやけど、家内に言うたんです。「船が撃沈されたらあかんけど、それ以外は俺は一人になっても帰ってくる、全部死んでも、泳いででも帰ってくる」と言うたんです。そやから、その通りになりましたやろ。

ミンダナオ島の捕虜収容所で書いた日記

収容所に入って、紙と鉛筆をもらって、毎日毎日、召集の日からダリアオン収容所に入るまでの一年間の日記を書いていました。コカ・コーラのマークが入っている紙は、ポーカーの点数を書く用紙やと思うわ。それをアメリカ兵にうまいこと言うて、もろうて書いたんや。

フィリピンルソン島山中の逃避行

昼は潜んでいて、夜に歩いて少しずつ逃げていくんです。その辺の草やオタマジャクシやらを食べていました。私たちも少しはお米を持っていましたけども、十人で一日一合もなかったかな。草の葉っぱの上に、チョッチョッと米粒がのっているような雑炊でした。

戦友に生かされた夫

主人は、二十歳でフィリピンに行き、そこで負傷して、一年足らずで帰ってきました。でもその時のことが、あの人の一生を決めてしまったんです。一生、戦争に関わって生きていかなければならなくなったんです。

中国大陸の通信兵

作戦に出たって、私らは鉄砲の撃ち合いはせえへんのです。電話しかせえへん。電話線を引きに行くんですわ。線が通じなかったらあかんしね。

中国での飛行場建設

中国で、一ヶ月で一つ飛行場を造れというような命令やった。田んぼがありクリークがあるような所を測量して、一ヶ月で完成せよというようなね。

戦場の郵便配達員

軍事郵便が家から来ると、部隊ごとに分けて、軍の車に乗って、部隊へみな配るわけですわ。南京なら南京の部隊がいくつもあるで、それを仕分けして、トラックに積んでそれを届けに行くわけです。

たった一人の諜報活動

黒河省の漠河という所があるのですが、そこがスパイの本拠地で、満州里から、漠河まで馬に乗って一人旅ですよ。六百キロは離れているかな。

今日の命を明日に延ばすのは、並大抵やない

ああそんな、突撃したって、相手は戦車や。バ、バ、バ、バーって、回り撃ちをしとる。突っ込んだ者やらは、すぐにやられるわな。そんな後に、戦車に飛び込んでいくような兵隊は、もう誰もいない。

潜水艦乗りの八年半

潜水艦乗りは、大きな桜のマークの真ん中に、銀で白の潜水艦のマークが付いてる。上陸する時に、それを第三ボタンの右側に付けるんです。ふつうの兵隊はそんなマークはない。それは潜水艦乗りは、飛行機乗りと同じように、死ぬということが、最初から分かっているということなんや。

赤紙を書く仕事

連隊区司令部は経理と総務課で七十人くらいいてました。動員課だけでも二十人くらいいてました。動員課の仕事は赤紙ばっかりや。人を選んで、召集令状を書いてほんで送る。それが動員係や。

終戦、平和な未来のために、役場の兵事資料を持ち帰った兵事係

生き抜いたビルマ戦線

ほんでもう、弾は撃てんし。敵の弾が頭の上にきとるにゃし。敵が二メートルか三メートルまで来たら手榴弾でやったろうと思ってるんやけど、やれんし。ほんでもう、身の上話や。ここで、もう、身内やと思て二人死ぬんやさかい。どっちみちあかんにゃし。「お前兄弟あるか。親は」ゆうて。気がついたら偽装が吹き飛んでしもてあらへんにゃ。夜が明けたみたいになった。爆風で胸まで砂で埋まってる。その時に意識はなかったんや。即死やと思た。

インパールからの生還

朝の九時ぐらいにやられて、ダンプで下の方、谷底の方へ下げられて、ほっぱなされていました。そこへ真っ暗になってから、ちょうど軍医少尉が、診てくれたんですけどね。それで、助かったんです。軍医が「少尉、おまえな、インクビンもう一杯分血が出てたら、それで終わりやったな」と、その時言ってくれました。

真珠湾攻撃で戦死した髙橋亮一さん

証言 母の無言の悲しみ
証言 亮一君は、小さい時からようできました
証言 ともに予科練志願、還らなかった友へ

原爆のにおい

肋骨が折れてるのが、自分でも分かった。ほんで、爆心地から五百から八百メートルの所にいたのが分かったのは、戦後のことや。まわりの者の顔見たら、皆やけどでジャガイモの皮をむいたみたいに、皮がはがれてむけていて、私も顔の左側から側頭部にかけてやけどをしてました。倒壊した建物の下から、はい出している者もようけおった。

私の沖縄戦

負傷してもそのままです。なんにも薬とかありません。このままではいずれ死ぬと思って、運を天に任せる気持ちで、米軍の呼びかけに従って白旗を掲げて降伏し、捕虜になったんです。 昭和二十年八月二十六日でした。私で、二千六百人目の捕虜だったということです。

キスカ島からの脱出

浜で待ってたら、二発爆発音がするんです。これはまた敵に見つかって、砲撃くろてると思ってたんですけど、スーッと湾口の霧が晴れてきて、船がマストの上まで見えてきたんです。「わあ、入ってきた、入ってきた」ゆうてね。その時は、ほんまに五千二百人が、言葉に言い表せないくらいの歓喜、喜びでいっぱいでした。「バンザイ、バンザイ」ゆうてね。

負傷兵、四ヵ月かけてニューブリテン島横断

私はね、途中でのたれ死にしてもよいちゅうので、雑のうに水筒と飯ごうを持って下がったんですわ。まあ、その途中が大変で、ラバウルまで四ヵ月かかったんですよ。もう気力ですな。足をやられてますさかいに、杖ついてね。軍靴やら履いてますけど、ガバガバで。もうなんにも食うもんあらしまへんねん。ほて、患者ばっかりが集団になって、こっちへ下がってくる。それが奇妙ですよ。「生きやんならん」という気持ちですな。

☆関連地図

ご利用案内

滋賀県平和祈念館外観
施設概要
入館料 無料
開館時間 9時30分~17時(入館は、16時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日(祝日にあたる場合は開館)・年末年始・※その他業務の都合により休館する場合があります。

アクセス

マップ広域
マップ

滋賀県東近江市下中野町431番地

Googleマップ
駐車場
約50台【無料】
  • 名神高速道路「八日市IC」から車で約10分
  • JR琵琶湖線(東海道線)彦根駅または近江八幡駅乗り換え、近江鉄道八日市駅からバスで約20分「愛東支所・診療所前」下車すぐ
  • ちょこっとバス時刻表