戦争体験談集シリーズ「記憶の湖」第3巻 戦争の中の青春

記憶の湖3表紙

軍需工場勤務や、琵琶湖干拓等の学徒勤労動員の様子、学校での軍事教練や青年学校の様子など戦時下で青春時代を送られた方のお話を掲載しています。

■掲載体験談数:16
■ページ数:263ページ(B5版)
■発行年:平成10年(1998年)8月

目次

彦根の機銃掃射

ちょうどわしら二人のはたへ、女の子がおって、女学生で、ほの時季やから白い服着てやったわね。われわれはカーキ色の服やで見えにくいけど、その白い服着た女の子はよう見えるわい。ほれを狙ろて撃ってきよった。おそらく五ミリ砲かなんかで撃ってきよった。バッバッバッバッと土煙があがってた。あの機関銃の音と、土煙、あんな怖いことはなかったなあ。 証言 近江電車への機銃掃射

悪夢にうなされた東レの爆撃

爆弾はたった一発でしたが、空気を切る音ですな、爆弾が落ちる瞬間ズザーッという音がして、ザァーといって、ドッカーンという音がし、しばらくすると砂がたくさん降ってきました。表に出てみたら、血だらけの人が、もう、皆さん、半狂乱ですわ。その日から、私だけじゃなくってね、他の同級生も、夜、寝られへんようになった。恐怖心で神経衰弱みたいになってね。あくる日も出勤したんですが、とりあえず、怖いんです。

小銃でアメリカ機を撃っていた兄

その日の午後にもグラマンがやって来て、同じように大津の海軍と陸軍の基地を爆撃したんです。そうしたらそのアメリカ軍機がバンバーンと家の方めがけて撃ってきたんです。びっくりして親父が家の裏に回ってみたら、兄貴が小銃を構えて、敵機を撃っておったんです。 証言 戦時下の東洋レーヨン

捕虜と干拓

伊庭に捕虜収容所があって、オランダ軍の捕虜とかが収容されていたんです。その捕虜の人たちも内湖の干拓をやらされていたんです。干拓の行き帰りに出会うことがありました。外国人を見たんはそれが初めてでした。捕虜の人は何か統一された作業服を着てましたな。みすぼらしい格好でしたけどな。

明治三十年式直立円筒上方差入下方引出郵便箱

その時分は、英語は敵国語やちゅうことで、もう三年生になるとほとんど習ってませんわ。あるのはあったやろうけど、英語軽視でした。干拓に行った時も、「えんぴ、えんぴ」て何のことやろうなと思ったら、円匙と書いて「えんぴ」ちゅうんです。それがスコップのことでしたな。

勉強より干拓

三年生の時に、松原内湖に干拓に行ったんです。その後は小中ノ湖にも行きました。内湖を干拓するために、承水路という川を掘るんです。ほして水を外に出して、そこを干上がらして田んぼにするんです。今の近江高校や彦根のグランドになっている、あのあたりです。承水路は今も残ってます。雑草が生えてますけど、川があります。あれがその承水路です。あの辺の低いところは、みんな内湖でしたんや。

饗庭野と琵琶湖

毎日土木作業ばっかりですわ。朝はわりと早かったですね。軍隊生活に準じた生活だから、点呼があって、朝の体操があって、食事して、ちょっと休んで、それから隊をつくって、たんぼや堤防をつくったり、干拓といって、琵琶湖の入江のところに堤防をつくって、琵琶湖の水が入ってこんようにして、そこから、ポンプで水をかい出して、たんぼをつくる計画やったからね。私らの学校だけじゃなくって、いろんな学校がやって来ました。捕虜も来てはったです。

証言 滋賀の捕虜収容所
 野田俘虜収容所
 大阪俘虜収容所第九分所(伊庭捕虜収容所)

兵器を作っているとは知らずに

工場では旋盤をやらされてました。せやけど、何をつくってるのかは、ぜんぜん知りませんでしたし、だれも教えてもくれませんでした。ただ、もう図面を見せられて、こっちからこんだけを削って、磨いてと、言われるままにやってただけです。せやから、その時分は、兵器を作ってるやて、知らんかった。

待ちに待った学徒動員

本気で「お国のため」と思っていました。病気になって、工場から家に帰ってきたときも、他の人達が仕事をしてはるのに、自分とこだけ、家にいるのがいやでした。早く工場に戻って、もっともっとお国のために働きたいと思っていました。お国のためなら、死んでもいいと、本気で思っていました。

落下傘作り

出発当日、家の門先には日の丸の旗が立てられ、在所の人々、婦人会の方、小学校の生徒さんたちが家に来て、お酒で出発を祝ってくれました。私の服装は、この日のために母の着物をつぶして作ったモンペに、役場の人が墨で「女子勤労挺身隊」と書いてくれた白いタスキを掛けていました。

仮病と言われたくやしさ

学徒勤労動員がきまった時には、それまで「お国のために」ということを教えられていたので、みなが緊張しましたが、未知の世界に行くようでもあり嬉しかったです。しかし出発の二、三日前になると、家族と離れるのが悲しくなって、行くのがいやになりました。

女学生たちの銃後

昭和一九年に専攻科に入るなり、四月に学徒動員令が施行されまして、七月二十四日から滋賀県女子勤労報国隊が結成されたんです。大津の女学校、その当時は大津裁縫いいました、そこと彦根と愛知川、日野の高女で一つの勤労報国隊が結成されたんです。それで名古屋のほうへ出勤せいという命令がきたんです。もう勉強どころやありません。(日野高等女学校の同級生のみなさん)

「滋賀県女子学徒勤労報国隊の歌」
「学徒動員の歌」

上丹生の八ヶ月

働き手が足りない農家に学校から勤労奉仕に行ったりしてました。六月頃の麦刈りです。なかなか慣れなくて、「疎開してるやつは、だからだめなんだよ」とかさんざん言われながらやりました。はじめはケガもしました。でも要領さえ覚えたらザクザクとじょうずに刈れるようになりました。農家の勤労奉仕は、白いご飯のお握りとかが出るのでうれしかったですねぇ。

戦争の中の青春

銃後の守り
銃後の若者たち
勤労奉仕から動員へ
女子勤労挺身隊
少年兵
満蒙開拓青少年義勇軍
学徒勤労令

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滋賀県平和祈念館外観
施設概要
入館料 無料
開館時間 9時30分~17時(入館は、16時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日(祝日にあたる場合は開館)・年末年始・※その他業務の都合により休館する場合があります。

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滋賀県東近江市下中野町431番地

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約50台【無料】
  • 名神高速道路「八日市IC」から車で約10分
  • JR琵琶湖線(東海道線)彦根駅または近江八幡駅乗り換え、近江鉄道八日市駅からバスで約20分「愛東支所・診療所前」下車すぐ
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