戦争体験談集シリーズ「記憶の湖」第2巻 子どもたちと戦争

記憶の湖2表紙

戦時下の学校生活、遊び、くらしの様子、また学童疎開の様子など戦時下の子どもの世界について、当時の子どもだった方や学校の先生などからのお話を掲載しています。

■掲載体験談数:17
■ページ数:293ページ(B5版)
■発行年:平成10年(1998年)8月

目次

第一部 近江のこどもたち・・・戦時下の子どもの世界

戦争の絵

兵隊さんや軍艦や飛行機とかの絵を描いたら、先生は二重マルをくれるんです。戦争が始まる前はお花の絵とか描いていたけど、戦争が始まると、頭の中がそればっかりになってしまったの。

潜水艦乗りになりたかった

みな大人になったら兵隊になると思ってましたから。面白いことに陸軍に行きたいという陸軍組と、海軍に行きたいという海軍組とに分かれてました。私は父が海軍やったから海軍組で、もう海軍の兵隊になるんやと思ってました。海軍いうても僕は体が小さかったから、潜水艦に乗るんやとばっかり思ってましたね。

月夜のたんぼ

学校に行く前の朝には、稲の束をおじいさんに渡して、おじいさんが稲をこぐのを手伝う。朝の四時頃からするんです。 学校から帰ったらの「はさがけ」いいまして、いまはコンバインになってそれはないですけど、それをするんです。夜の十時頃まで、月を眺めながら一生懸命しました。

戦時下の子どもの遊びと暮らし

戦時下のこどもの体験、遊びや暮らしを、三つの老人クラブの方々に語っていただきました。
(高月町西阿閉老人クラブの方々)(甲良町長寺東和楽会の方々)
絵でみる子どものあそび
(高月町東物部老人クラブの方々)

「虫捕り」の授業

子どもらは道やあぜ道が遊び場で、そこがひとつの勉強の場にもなってて、草摘みに行ったり、イナゴを捕りに行ったりしてました。稲の葉の裏に虫がつくんですが、その虫を捕るのが「虫捕り」というて、ちゃんと学校の勉強の時間に入ってるんです。

少年飛行兵になりたかった子

それはもう昭和二十年の戦争末期でしてねえ。アメリカの艦載機がここらへんの上空をブンブン飛んどった時代ですわ。少年飛行兵になる言うてたその子の葬式のときも、敵機が頭の上を舞ってました。

第二部 大阪から子どもたちがやってきた・・・学童疎開のお話

いつもお腹がすいていた

昭和十九年八月三十一日、中大江国民学校の三年生から六年生までの子どもたちは、空襲の危険が間近にせまった大阪から神崎郡五個荘町にやってきました。 最初は楽しかった集団生活も、さびしさがつのり空腹や慣れない農作業でつらい毎日になっていきました。

ノミやシラミと寒さに悩まされた日々

昭和十九年八月三十一日、四年生と五年生とともに神崎郡北五個荘村(現在の東近江市)にやってきた中大江国民学校の先生。親と離れて寂しがる子どもたちを世話をする毎日の先生に、五個荘の人たちは食糧の調達などいろいろ協力してくれたそうです。そんな先生を悩ましたのはノミやシラミ、そして冬の寒さだったようです。

愛知川町への疎開

昭和十九年八月三十一日、大阪市南区(現在の中央区)の精華国民学校の四年生百六名が愛知郡豊国村(現在の愛荘町)に疎開してきました。三十八名の女の子は豊国国民学校の裁縫室に、東漸寺に男の子三十三名、そして信光寺には男の子が三十五名がやってきました。
ところが昭和二十年三月三十一日、突然子どもたちは全員西小椋村(現在の東近江市)へと移ってしまいました。

お寺での生活

食い倒れの街ミナミにあった精華国民学校の子どもたちは、昭和十九年になると、空襲の心配のない親類の所へ預けられる「縁故疎開」組、同じく空襲の心配のない地方で集団生活を送る「集団疎開」組、そしてやがて空襲の被害を受けなければならない大阪に残る「残留」組に離ればなれになってしまいました。
昭和十九年八月三十一日、大阪を出発した、精華国民学校の五年生の子どもたちと先生は愛知郡豊椋村(現在の東近江市)での生活が始まりました。また、昭和二十年四月になると、寮には香川県が集団疎開地だった港区の学校の子どもたちが五人加わりました。
一年二ヶ月続いた疎開生活から帰郷した子どもたちを待っていたのは、空襲で焼け野原になった大阪の街でした。

早く家に帰りたかった

大阪市東区(現在の中央区)の錦郷国民学校は生徒数約千人、プールや給食室を完備した当時としては最先端の女子校でした。
昭和十九年、空襲の危険が間近に迫ってくると、四年生のクラスからも、田舎の親戚の家などに行ってしまう縁故疎開でお友達が歯が抜けるようにだんだんいなくなってしまいました。そして、とうとう八月三十一日、蒲生郡北比都佐村(現在の日野町)に四年生から六年生のみんなとやってきました。でも、病弱な子など集団疎開に行けなかったお友達もいて、激しい空襲の中を逃げまどう日々を送っていたそうです。
最初は遠足に行くように喜んで旅立ちましたが、家族と離れた寂しさや空腹などつらいことばかりのようで、なんとかしてお家に帰りたくて、仮病をつかったり足が折れたら帰れるとばかりに階段から飛び降りたりしていたそうです。

白バイに先導されて

大阪市東区(現在の中央区)南大江国民学校三年生だった方は、昭和十九年の夏、蒲生郡日野町に疎開してきました。おかあさんに聞いたところでは、疎開の費用として、当時のお金で月々十円を払っていたそうです。日野駅に近い北比都佐村には錦郷国民学校の五年生だったお姉さんが疎開していてときどき会いに行っていましたが、そのお姉さんも身体を悪くして途中で大阪に帰ってしまいました。「大阪に帰りたいなぁ」と寂しい思いもしていましたが、野山をかけまわって食べられるものを探したり川遊びをしたりと、たくましく疎開生活を送ったそうです。

地元の子どもの証言 学童疎開の子どもたちを迎えて

蒲生郡南比都佐村(現在の日野町)の南比都佐国民学校は、昭和十九年の夏、大阪から学童疎開の子どもたちを迎えました。

海津の生活

大阪市北区菅南国民学校の先生は、昭和十九年九月二日、三年生から六年生の子どもたちを引率して高島郡マキノ町へ集団疎開してきました。先生の担当は、四年生と五年生の女の子。昭和二十年四月に他の先生と交代するまでの七ヶ月間、おとうさんやおかあさんと離ればなれで生活する子どもたちが寂しくないようにと、自然を楽しむように外へ連れだし、浜で遊んだり雪遊びをしたりしたそうです。先生がもっとも困ったのは豪雪。除雪や食料の確保に苦労したようです。

☆写真 海津の疎開生活

明大寮のこと

高島郡海津村と西庄村(どちらも現在は高島市)には、昭和十九年九月二日に大阪北区の菅南国民学校の三年生から六年生の子どもたちがやってきました。当時の海津村には明治大学のボート部の合宿所がありましたが、そこでは三年生と四年生の男の子が二十人ほど生活していました。
当時の寮母さんと合宿所を管理をしていた村長さんの息子さんに当時の疎開のようすを聞きました。

☆「寮母日誌」と「炊事日誌」

西甲良での疎開生活

昭和十九年八月三十一日、滋賀県犬上郡西甲良村(現在の甲良町)に大阪市南区の大宝国民学校の四年生が集団疎開してきました。西甲良村の人たちはとても親切にしてくれ、楽しかったこともたくさんあったようです。それでも、いつもお腹がすいていたこと、それから家族と離れ離れの寂しさはつらかったようです。
そして、戦争もまもなく終わる七月の末、お父さんが駅で機銃掃射にあって亡くなり、みんなより一足先に西甲良村を離れて家族のいる三重県名張市へむかいました。

半年あまりで再疎開

昭和一九年九月一日、大津市膳所の響忍寺へは大阪市浪速区の芦原国民学校三年生の男の子三十人が集団疎開してきました。そうして翌年の三月二十九日、大津も空襲の危険が迫ってきたということで子どもたちは栗東へと再疎開します。
約七ヶ月間の間、ご住職、そして寮母をつとめる奥さんたちは、食糧不足のなか子どもたちのために農家へイモのつるをもらいに行ったり、おとぎ話や童話を聞かせたり紙芝居をしたりして、なんとか親元を離れた小さな子どもたちが楽しくすごせるようにと気を配っていたそうです。それから、本堂の内壁にも外壁にも子どもたちは壁いっぱい落書きをして楽しんでいたそうです。

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