2千年前の湖辺での水田開発の想像図
(写真提供 滋賀県立安土城考古博物館)
古墳時代(3~7世紀)のエリの遺構
(守山市赤野井湾遺跡)
水田に向かう湖魚を、農作業の傍らで捕獲するため、人々は、待ち受け型の漁具を考案し、工夫して用いるようになりました(オカズトリと呼ばれています。)。 様々な漁法が試される中、より効果的に漁獲できたのがエリ漁です。エリは、もともとヨシ帯付近に多く設置されていましたが、湖魚に対する需要の増加に伴い、沖合に向かって伸び、大型化・複雑化しました。
こうした中、江戸時代には、エリの増設が制限され、また、エリを村落で共同管理する体制が形作られるなど、水産資源の保全につながる社会的な仕組み が作られてきました。
その後、明治時代には、琵琶湖の漁業について、琵琶湖全体で、統一的な規定が整備され、現代では、科学的な調査結果を基に、漁業者が行政と一緒に、水産資源の保全管理に取り組んでいます。
明治時代中期(1890年頃)のエリ漁の絵図(近江水産図譜)
(写真提供 滋賀県立琵琶湖博物館)
エリ漁の免許に関する1903年(明治36年)の申請書
(網エリと簀エリの併設型。稚魚の保護のため、網目や簀目のサイズも記載されています。)
野洲川流域の荒廃した山林(明治20 年代)
(写真提供 滋賀県立図書館)
漁業者、林業者、地域住民が参画する「漁民の森」
での植林活動。次世代を担う子どもたちも参加。
地域における農業排水の水質調査。
子どもたちも関心を持って参加しています。