けいさつQ&A

警察の仕事

日本の警察は、いつごろできたのですか。
日本の警察制度は明治の初期にヨーロッパの制度を手本にできました。
明治5年9月に、川路利良を1年間ヨーロッパに派遣して警察制度の調査を行い、これに基づき、明治6年11月に内務省が、翌明治7年1月に警視庁が作られ、日本の警察制度がはじまりました。

警察はなぜ「警察」というのですか。
「警察」という言葉は、明治のはじめにヨーロッパから警察制度をとり入れたときにできました。
「警」は、社会に犯罪や事故が起きないよう警戒すること。
「察」は、犯罪や事故が起こるのを防ぐために、それをあらかじめ知ることの意味で、国民を犯罪や事故から守る仕事として「警察」という言葉が作られました。

交番と110番

交番と駐在所はどこが違うのですか。
交番や駐在所は、地域住民の身近な所にあり、そこにお巡りさんが勤務して、地域住民のみなさんの暮らしの安全を守る活動をする拠点となっています。
交番は、主として都市部に置かれ、お巡りさんが交替で警戒活動を行っています。
駐在所は原則として1人のお巡りさんが家族とともに地域に居住し、地域の安全を守る活動を行っています。
交番と駐在所は、両方合わせて現在、全国で約1万5,000ヶ所あります。

交番制度が生まれた国はどこですか。
町の中に交番の建物を置き、そこを中心に制服の警察官が活動するという制度は、明治7年に日本(東京)で生まれました。
当初は、建物はなく、街なかの交差点などに警察署から出向いて街を守っていたのですが、雨の日や風の日など大変だったので、明治14年から交番の建物が建てられ、今のような制度で活動することになりました。
現在では、交番制度は、シンガポールに輸出されるなど、地域住民の安全を守るために日本警察が作った世界に誇るシステムとして、日本警察の大きな特徴となっています。

『交番』という名前の由来は何ですか。
明治7年に東京警視庁に「交番所」がはじめて設けられましたが、当時は、警察官が警察署から特定の場所に出向いて、交替で立番をする形をとっていました。「交番所」の名称の由来は、「交替で番をする所」ということから「交番所」といったものと思われます。
この交番所はその後、建物を建てて、そこで仕事をする現在の形に変わりました。明治21年10月に「派出所」、「駐在所」という名前で全国統一されましたが、警視庁創設当時の『交番所』という名称がそのまま『交番』という呼び名で残りました。
なお、「交番」という呼び名が市民の間に定着し、国際語としてもそのまま通用するほどになっていることから、正式名称も「派出所」から「交番」に改められることになりました

110番はいつごろできたのですか。
110番は、昭和23年10月1日に東京、大阪、京都、名古屋等の8つの主要都市でできました。しかし、当時の番号は、東京が「110」、大阪、京都が「1110」、名古屋が「118」などと都市により番号がまちまちでした。このため、利用者が警察に知らせるときに番号を間違えるなどの不都合が生じたため、全国どこでも同じ番号に統一することにしました。
そこで番号を決めるときに、

  • 「おぼえやすい」
  • (利用者におぼえやすい番号にすること)
  • 「かけやすい」
  • (緊急性を考え、ダイヤル式のダイヤルを回す距離(ストッパーまでの距離)が一番短い「1」を多くすること)
  • 「まちがえにくい」
  • (誤りを防ぐために、ダイヤルを回す距離が一番長い「0」を使うこと)
  • を考えて、昭和29年に全国的に、現在の「110」番に統一されました。

交通事故を防ぐには・・・

日本では、なぜ「車は左側通行、人は右側通行」なのですか。
日本で、車は左側通行、人は右側通行」になったのは、昭和25年ころからです。それまでは人も車も左側通行でしたが、交通安全のために、車は従来のまま左側通行とし、人は右側通行とする「対面交通」を取り入れたからです。
なお、外国ではアメリカなどが「人は左、車は右」の対面交通をとっており、イギリス、インド、オーストラリアなどが日本と同じ「車は左、人は右」の対面交通をとっています。

日本では、なぜ昔は左側通行だったの?
人や車が通るところのきまりは、明治以前には特別な定めがありませんでしたが、道路交通が発達し、明治33年に左側通行制度が採用されました。
左側通行としたのは、昔から武士は左腰に刀をさしていたので、自然に左側を通行する習慣がついていたのを考慮したとも言われています。(右側を通ると刀のさやが触れ合うし、左側からの攻撃に対して遅れをとるからです。)

横断歩道とは何ですか。いつはじまったのですか。
横断歩道は、みなさんが安全に道路を横切ることができるように、道路上に白いペイントなどで書かれた場所をいいます。
横断歩道のはじまりは、大正9年1月(1920年)に東京に設けられたものです。
東京の市電を横切るために設けられたことから「横断歩道」とは言わず、「電車路線横断線」と名付けられていました。
横断歩道には、道路を渡る人に「ここを渡りなさい」と知らせたり、自動車を運転する人に、「横断する人がいるときには、いったん停止して安全に横断させてあげなさい」と呼びかけるなど、道路を横断する人の安全を守る役割があります。

信号機のはじまりはいつですか。
日本の交通信号は、大正8年(1919年)、東京の上野広小路交差点で、木の板に「トマレ」、「ススメ」と字を書き、これを回転させて使用したものが第一号です。
また、電気を使用した信号機は、昭和5年(1930年)に東京の日比谷交差点に設置されたものが最初です。アメリカから輸入されたもので、赤、黄、緑の3色の灯器が使われました。

青信号というのになぜ緑色の信号があるのですか。
1930年(昭和5年)、日本で初めて現在のような信号機がついたときには、法令上「緑色信号」と呼び、緑色の信号でしたが、一般の人々の間では「青色信号」や「青信号」という呼び名がしだいに定着していきました。
そこで、1947年(昭和22年)には法令上も「青信号」と呼ぶようになり、信号の色も緑色から青色に改められていきました。1973年(昭和48年)以降に作られた信号機は呼び名どおり「青」色に作られていますが、それ以前の古い信号機の中には、緑色にみえるものがあります。

交通警察官が左腕につけている白と緑の腕章にはどんな意味があるのですか。
交通の安全を守る仕事をしている交通警察官は、左腕に交通安全のシンボルである白と緑の腕章をつけています。
もともとこのデザインは、鉄道関係者が交通安全意識を高める手段として考え出したもので、大正2年12月に警察にも制度として取り入れられました。腕章の色は、「よもぎ色は道路、白色線は軌道(レール)」を表しています

犯罪と刑事

刑事のことを「デカ」というのはなぜですか。
はっきりしたことは分かりませんが、明治時代の刑事が着ていた「角袖」という和服(着物)に関わっているようで、この「角袖」の四文字を最初と最後の2文字(カデ)にし、さらにこれをひっくり返して「デカ」という言葉ができたそうです。
なぜ、中2文字を取り除いたり、ひっくり返したのかはわかりません。
★警察は言葉をひっくり返すのがすき!

  • 犯罪があったことを明らかにするために、犯人の家などに行って証拠品をさがしたりすることを「ガサ」といいますが、この言葉ができたのも、「さがす」という言葉の「す」を取り除いてひっくり返したものと言われています。

鑑識とはどんなことをする仕事ですか。
鑑識とは、高度な科学的知識や技術を用いて、犯人が現場に残した物や犯罪に使われた物などを集めたり、犯罪が行われた形跡を調べたり、写真などをとったりして、その物がなんであるかを調べ、さらに、それを残した人との結びつきを解明し、犯人の発見や犯罪の証明に役立てようとする仕事をいいます。
指紋、足跡、血液は、これらを分析したり、今までにつかまった犯人のものと比べたりして、犯人を見つけ出します。
また、肉眼で見ることのできないようなごく小さな物でも、電子顕微鏡などを使って分析することで、犯人の手がかりとなることがありますから、例えば、ひき逃げ事件で小さな塗膜片が見つかれば、逃げた車の種類を特定することができます。このため、糸くずのような繊維、ペンキなどの塗膜片、ガラス片、毛髪、金属片などを集める活動を行っています。

警察官の制服と階級

警察官の制服はいつからはじまったのですか。
警察官の制服は、明治7年警視庁にはじめてできました。制服の色は紺色でした(夏ズボンは白)。その後、制服は紺色や黒色が使用されています。この色は、国民の目から見て親しみやすく、落ち着いた色として警察の伝統の色となっており、現在は、濃い紺色が使われています。
婦人警察官の制服は女らしさを強調するため、男子警察官の制服より明るい色にしています。
なお、平成6年4月1日からは、新しい制服がスタートしました。

警察官の階級とは何ですか。全部で何種類あるのですか。
会社に社長、課長、係長、主任等がいるように、警察内部の地位、つまり、上下関係を示すもので、仕事をスムーズに進めるために作られたものです。
階級は警察法という法律に定められており、警視総監、警視監、警視長、警視正、警視、警部、警部補、巡査部長、巡査の9種類あります。
なお、警視総監は警視庁のトップとして警視庁のみに置かれており、階級を表すとともに職名を表しています。

警察の乗り物

パトカーは、なぜ白と黒なのですか。
パトカーが日本に初めて登場した当時は、日本で生産される自動車の色は白色がほとんどで、パトカーも白一色だとちょっと見ただけではパトカーと一般の自動車との見分けがつきませんでした。
そこで、パトカーであることが一目で分かるようにするために、白色ボディーの下半分をその反対色の黒色にぬりました。これが、パトカーを白と黒の二色にしたはじまりで、昭和30年には全国的に統一されました。

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