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【展示】富岡製糸場と滋賀の繊維産業

展示期間 平成26年7月29日~9月11日

繊維ポスター

滋賀県は古くより農家の副業として、養蚕・製糸業が発達した地域です。明治維新後も、世界文化遺産への登録が決まった富岡製糸場(群馬県富岡市)に、彦根から全国最多の子女が派遣されました。明治11年には同製糸場から帰郷した彼女らの技術を生かして、彦根の地に県営製糸場が設立されることになります。 県下初の模範工場として設立された彦根製糸場は、滋賀の繊維産業の工業化に大きな役割を果たしました。
その他今回の展示では、江戸時代より続く湖北の伝統産業「浜縮緬」や、昭和戦前期に全国生産高の半分を占めた湖南のレーヨン工場など、近代滋賀の代表的な繊維産業を紹介してみたいと思います。

【コラム1】彦根製糸場
【コラム2】浜縮緬

彦根製糸場

「製糸場操業ノ図」(『犬上郡誌』) 明治14年(1881)1月

製糸場操業ノ図

「近江国第一之都会」と言われた彦根も、彦根藩廃藩以後は年々衰退の一途をたどり、士族たちの暮らしは苦しくなっていきました。旧彦根藩士の武節貫治と磯崎芳樹は、士族授産のため、外国への輸出品として注目された生糸の生産に着目。明治9年(1876)、彦根に製糸場を設立するよう県に訴え、紆余曲折を経て、明治11年に犬上郡平田村に彦根製糸場が創設されます。彦根製糸場の建設は、富岡製糸場と同様、模範工場としての意味合いがありましたが、それとともに地域が考えた地域復興事業であったといえるでしょう。(滋賀県蔵)

「洋風器械の図」 明治9年(1876)

洋風器械の図

明治9年4月13日付で武節貫治が県に提出した「製糸器械所設立之儀ニ付嘆願書」に添付された「洋風器械」の図です。この嘆願書によれば、この器械を100基備えつけたいとあります。滋賀県では製糸業が盛んでしたが、富岡製糸場のように器械の西洋化にはいたっておらず品質は旧来の「粗糸」のままでした。武節らはこういった「陋風」を破ろうと意気込んでいます。洋風器械の導入は、より精良な糸をつくり、生糸の販売価格をあげるうえで欠かすことのできないものであったようです。【明さ100(1)】

「製糸会社創立趣意書」 明治9年(1876)6月

製糸会社創立趣意書

彦根製糸場創立の動きが起きていた頃、富岡製糸場には全国最多の子女が派遣されていました。滋賀県にも、明治10年(1877)には富岡帰りの工女が150人程いたといいます。しかし、「富岡製糸場から帰ってきた工女は、器械がないため教えることもできない」状態にありました。富岡帰りの工女が、滋賀県の女性に「洋風器械」による製糸を教えるためにも、彦根製糸場は必要とされていたのです。【明さ100(1)】

「彦根製糸所設立ニ付探偵依頼書」 明治9年(1876)8月7日

彦根製糸所設立ニ付探偵依頼書

滋賀県権参事酒井明が彦根製糸所関係者の身元調査を命じた文書。酒井が不信感を抱いた大音龍太郎は、彦根製糸社が置かれる予定地の家屋敷地所有者でした。大音は伊香郡大音村の郷士の生まれで、京都で勤王運動に参加後、岩鼻(上野・武蔵国)県知事、彦根藩大参事などを経て、当時は大蔵省に出仕していました。厳しい統治を行ったことで知られ、岩鼻県知事時代は世直し一揆に関与した「博徒」を大量に処刑し、政府に更迭させられたという経歴を持っていました。明治8年(1875)1月に設立された民権結社「彦根義社」の発起人にも名を連ねています。そのような曰く付きの人物が関与していることを知った酒井は、「多少世論も可有之」ため、彦根出庁を通じて現地の様子を探らせたのです。 【明さ100(1)】

「探偵方報告書」 明治9年(1876)8月12日

探偵方報告書

彦根製糸所関係者についての探偵方からの報告書。特に県が不信感を抱いていた大音龍太郎は「聊人望不宜(いささかじんぼうよろしからず)」、恐らく入社したり、資金を融通する者はいないだろう、永続的な事業となる見込みはないと報告がなされています。過去には入社希望者もいたようですが、会社設立の認可が下りたら、大音が東京より帰郷する手筈となっていることを知って、入社を断ったこともあったようです。この報告書に対して、権大属宮田義昌は「甚如何敷様(はなはだいかがわしきさま)」と書き記しています。
しかし結局は、士族授産を重視した権令籠手田安定の決断により、9月21日には彦根製糸所に関する借入金が政府に請願されることになります。【明さ100(1)】

「彦根製糸場拝借金之義ニ付稟請」 明治16年(1883)9月27日

彦根製糸場拝借金之義ニ付稟請

彦根製糸場は、設立に際し金1万円を国から借用。明治17年(1884)から年賦2000円で返済することを設立時に約束します。ところが、製糸場設立後、西洋諸国では銀貨の鋳造を廃止し、貿易通貨として用いないようにして、金貨を手放したため、銀が市場にあふれ銀の価格が下落。日本は銀を貿易通貨としていたため、輸出用の糸をつくっていた彦根製糸場も損失をこうむります。こういった経済事情を受けて作成されたのがこの文書で、借入金の返済を20年賦にしてほしいと訴えています。彦根製糸場が受けた損失は富岡製糸場と同質であるという点が、経営に苦しむ当時の繊維産業の状況を物語っています。【明う39(13)】

「地種組換ノ件」 明治19年(1886)4月7日

地種組換ノ件

士族授産の目的をもって設置された彦根製糸場は、明治10年代末頃になると経営が軌道のったようです。かねてから官営工場は民間に払い下げるようにという政府からの達しがあったこともあり、明治19年に井伊智次郎(最後の彦根藩主 井伊直憲の弟)に払い下げられました。滋賀の繊維産業の近代化は、県から民間へその担い手をかえていくことになります。【明な335(19)】

「近江絹糸紡績株式会社」 昭和12年(1937)

近江絹糸紡績株式会社

彦根製糸場の設立から40年の歳月を経た大正6年(1917)8月、同じ彦根の地に近江絹綿株式会社が設立されます。創業者である夏川熊次郎は、彦根製糸場で働く父・英三を手伝っていた経歴の持ち主でした。同社は大正8年には近江絹糸紡績株式会社と改め、資本金100万円の彦根最大の大企業となっていきます(後のオーミケンシ)。【昭こ39(6-1)】

「近江実践家政女学校機械標本図書設備調」

家政女学校1

近江絹糸紡績株式会社が昭和13年(1938)2月17日付で設立を申請した近江実践家政女学校の「機械標本図書設備調」です。理科の授業に使用したであろう器具だけではなく、電気アイロンや扇風機など、現在の私たちの身の回りにある家電製品も「機械」として記されています。近江実践家政女学校は昭和十七年には近江高等女学校に改組され、今の近江高等学校へとつながっています。【昭し385合本1(7)】

レーヨン工場

「湖面占用許可に対する請書」 大正9年(1920)8月28日

湖面占用許可に対する請書

大正8年8月25日、伊藤長兵衛を中心として旭人造絹糸株式会社が設立されます。人造絹糸とはレーヨンのこと。滋賀県におけるレーヨン産業の始まりです。大正9年8月13日付で工場の吸水管敷設のための湖面の占用が許可されますが、この「御請書」はその際の許可書と占用の条件を記した命令書を書き写し、その内容を承知する旨を書いて県に提出したものです。伊藤長兵衛は、伊藤忠・丸紅の創業者である初代伊藤忠兵衛の義理の甥にあたる滋賀県出身の財界人です。しかし、旭人造絹糸株式会社は経営が軌道に乗らないまま大正11年に解散、工場は旭絹織株式会社(後の旭化成株式会社)に譲渡されています。【大ぬ9(65-1)】

「献上品の儀に付上申」 大正14年(1925)1月27日

献上品の儀に付上申

大正14年に旭絹織株式会社が貞明皇后への製品の献上を県に願い出た際に添付されていた「説明書」です。「デニール」とは糸の太さの単位で、90デニールとは長さ9kmの糸が90gであるということを表しています。これまで輸入に頼っていた90デニールのレーヨン糸の国産に初めて成功したことがアピールされています。また、「封度」とは重さの単位「ポンド」のことです。旭絹織株式会社の年間の生産額は約80万ポンド、製品は桐生、名古屋、京都西陣などの国内の織物産業の盛んな地域のほか、中国を中心に輸出もされていました。【大か22(86-2)】

「昭和7年3月末50名以上の工場の業態別及び所在地並に職工数」 昭和7年(1932)7月1日

工場の業態別及び所在地並に職工数

昭和7年に50名以上の職工を雇用している工場の業態・所在地・職工数を調査した結果を一覧表にまとめたものです。滋賀県内で千名以上の職工を雇用している工場は東洋レーヨン株式会社滋賀工場・旭絹織株式会社膳所工場・昭和レーヨン株式会社堅田工場の3工場だけです。昭和8年には滋賀県のレーヨン生産高は全国の45%弱を占めることになりますが、この表からもその規模の大きさがうかがわれます。【昭お5(16-15)】

「水産業と人絹工場排水問題解決に関する件」 昭和11年(1936)

水産業と人絹工場排水問題解決に関する件

滋賀県で大きく発展したレーヨン産業ですが、自然環境を破壊するという負の側面もありました。特に問題となっていたのが工場の排水です。旭絹織株式会社の経営規模が大きくなり始めた大正13年(1924)頃から工場の排水が問題となり、昭和2年に東洋レーヨン株式会社が生産を開始すると状況は更に深刻になりました。昭和9年には瀬田川筋で魚が大量に死ぬ事件が起こっています。県は調査・研究の上、工場に対し設備の増設・改善を求め、水質汚染に歯止めをかけようと工場課を設置して監督にあたりますが、完全な水質保全を目指すと工場の経営に支障をきたすことにもなり、苦しい対応を迫られています。 【昭お4合本1(13-2)】

「晴嵐女学校設立の件申請」 昭和4年(1929)8月13日

晴嵐女学校設立の件

東洋レーヨン株式会社滋賀工場の女子寄宿舎内には晴嵐女学校が設置されていました。晴嵐女学校は尋常小学校卒業者を対象に、「勤務外の余暇ヲ利用」して「婦徳ノ涵養」と「女子ニ必須ノ知識技能ヲ授」けることを目的としていました。これはその設立認可申請書に添付されていた「晴嵐女学校学則」ですが、この「学科課程」からは国語や算術、裁縫などのほか音楽や英語の授業もあったことがわかります。進学を諦めて働かなければならなかった女性たちにとって、働きながら学ぶことができるということは、日々の労働の中で心の支えともなったことでしょう。 【大し225(15)】

旭絹織株式会社と東洋レーヨン株式会社

園山方面から東側を写した写真。昭和初年に撮影されたものです。中央の煙突を中心とした工場が東洋レーヨン株式会社、左奥の煙突を中心とした工場が旭絹織株式会社です。両工場の間に現在のJR・京阪石山駅があります。旭絹織株式会社の奥から東洋レーヨン株式会社の奥へと続く水面は琵琶湖が瀬田川になるところです。(『滋賀県史』)

工場

浜縮緬

「浜縮緬創製伝記」 明治43年(1910)4月29日

浜縮緬創製伝記

湖北の伝統産業「浜縮緬」は、元々近江縮緬と呼ばれ、宝暦2年(1752)浅井郡難波村の中村林助と乾庄九郎が始めたと言われています。同地は毎年姉川の氾濫にともなう水害のため、耕地の収益は少なく、年貢を納めるのに苦心していました。そこで林助と庄九郎は、村内の女性たちを養蚕製糸の仕事に就かせ、収入を上げようとしたのです。そんなとき、宮津庄右衛門と名乗る丹後の商人が来村し、縮緬織りの利を説きます。2人は大いに感じ入り、丹後国その他の産地を回ってその製法を学び、縮緬業を始めたのです。【明ふ54(6-2)】

「織物業取締規則」 明治18年(1885)12月26日

織物業取締規則

明治維新後、浜縮緬は粗製乱造が広がり、その声価を失うことになります。これに危機感を抱いた滋賀県は、明治18年(1885)12月26日、「織物業取締規則」を発布して品質の向上をはかろうとします。翌19年3月、近江縮緬絹縮業組合が結成され、取締所が長浜町大字東本町に設置されます。21年に近江縮緬業組合、31年10月に浜縮緬同業組合と改め、製品検査の励行に努めました。【明い157(109)】

「浜縮緬錬物株式会社発起認可申請ニ付上申書」 明治28年(1895)5月2日

浜縮緬錬物株式会社発起認可申請ニ付上申書

明治28年(1895)10月には、組合有志の手で長浜町大字三ツ矢に浜縮緬練物株式会社が設立されます。「近江第一ノ名産」で知られる浜縮緬でしたが、生糸からセリシン(タンパク質)などの不純物を取り除く精練作業は、京都の仲買人に託して行っていました。余計な手間がかかり、販売価格も高騰したため、自前で実施しようと試みたのです。しかし同業者の理解が得られず、十分な改良費が集まらないため、思うような成果は上がらなかったようです。明治36年(1903)5月には解散し、個人経営に移管されることになります。 【明て72(57)】

「模範工場規定」 明治36年(1903)5月26日

模範工場規定

浜縮緬練物会社が個人経営に移管されて以後も、品質改良の試みは続けられます。明治36年6月には、県からの補助金を得て、模範工場が設立されました。同工場では、丹後縮緬四郡同業組合の技術者である永田九十蔵を雇入れ、輸出向けに「羽二重」(平織りと呼ばれる経糸と緯糸を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種)の摂取に努めました。ただしこちらも長続きはせず、明治41年(1908年)長浜町に県立工業試験場の設立が決まると、同年5月模範工場は廃止されてしまいます。江戸時代より続く在来産業の「近代化」は、そう簡単なことではなかったのです。【明て77(51)】

『滋賀県実業要覧』 明治32年(1899)4月

滋賀県実業要覧

県下で働く明治中期の「工女」たちは、地元農家の子女が多かったものの、美濃地方からやってくる場合もありました。彼女らは最初、12歳頃から機業見習いとして雇われ、25歳頃まで働いた後は、県内で結婚する場合が多かったようです。口入屋を通じて雇用主を求め、年期契約を交わすのが一般的でした。ただし年期中であっても、結婚などで退職する者も少なからずいたようです。「工女」たちは雇用主の自宅に泊まり込み、下仕を経たのち、徐々に機織りに就きました。賃金は熟練度に応じて異なり、当時の年収は、上等21~26円、中等13~16円、下等7~9円ほどでした。雇用期間が終わると祝儀として、箪笥や鏡台、その他日用品が与えられたようです。(滋賀県蔵)

製麻工場

帝国製麻株式会社大津製品工場

製麻工場1
製麻工場2
(『滋賀県がいどぶっく』滋賀県所蔵)

帝国製麻積善女学校寄宿舎平面図

寄宿舎平面図

大津市にあった帝国製麻株式会社大津製品工場には積善女学校が設置され、仕事の終わった午後6時30分から8時30分まで授業が行われていました。左の写真は、学校設立の申請書に添付されていた工場の寄宿舎の平面図です。積善小学校は昭和3年(1928年)3月1日付で設立の申請が出され、同月12日付で認可されています。修業年限は本科前期2年・後期3年、研究科1年で、本科前期課程は尋常小学校卒業者を対象としていました。【昭し382(10)】

帝国製麻積善女学校学科課程

学科課程

積善女学校の学科課程と毎週の授業時間数です。「工業」という学科があり「繊維工業ノ大要」について授業が行われていたようです。修身・国語・数学のような一般的な学科や、家事や裁縫の他に、自分が従事している仕事についての学科もあったことを示す興味深い史料です。しかしこの積善女学校は、昭和5年の大津製品工場閉鎖に伴って廃止されてしまいます。当時在籍していた81名の生徒のうち、24名は大阪製品工場内の私立業余家政女学校へ、16名は栃木県の鹿沼製品工場内の私立補習学校へと移動し、残りの41名は帰郷しています。【昭し382(10)】

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