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【コラム2】浜縮緬

滋賀県を代表する伝統産業の1つに「浜縮緬」があります。浜縮緬は、元々近江縮緬と呼ばれ、宝暦2年(1752年)浅井郡難波村の中村林助と乾庄九郎が始めたと言われています【明ふ54(6-2)】。同地は毎年姉川の氾濫にともなう水害のため、耕地の収益は少なく、年貢を納めるのに苦心していました。そこで林助と庄九郎は、村内の女性たちを養蚕製糸の仕事に就かせ、収入を上げようとしたのです。そんなとき、宮津庄右衛門と名乗る丹後の商人が来村し、縮緬織りの利を説きます。2人は大いに感じ入り、丹後国その他の産地を回ってその製法を学び、縮緬業を始めたのです。その後は生産量を拡大し、近江縮緬の名は「天下ニ著ハル」に至ります。さらに長浜が地方に輸出する縮緬の集積地となったことで、浜縮緬と称するようになり、「一国ノ名産」となるのです。

品質改良の試み

明治維新後、浜縮緬は株仲間の解散により自由営業が可能となり、飛躍的に生産を伸ばします。明治7年(1874年)にはアメリカで開かれた万国博覧会に出品され、湖北の実業家浅見又蔵らにより海外輸出も始まりました(『浅見又蔵伝』)。しかしその一方、従来の規制がなくなったことで、明治10年前後から粗製乱造が広がり、その声価を失うことになります。
これに危機感を抱いた滋賀県は、明治18年(1885年)12月26日、「織物業取締規則」を発布して品質の向上をはかろうとします【明い157(109)】。翌19年3月、近江縮緬絹縮業組合が結成され、取締所が長浜町大字東本町に設置されます。21年に近江縮緬業組合、31年10月に浜縮緬同業組合と改め、製品検査の励行に努めました。
明治28年(1895年)10月には、組合有志の手で長浜町大字三ツ矢に浜縮練物株式会社が設立されます【明て72(57)】。「近江第一ノ名産」で知られる浜縮緬でしたが、生糸からセリシン(タンパク質)などの不純物を取り除く精練作業は、京都の仲買人に託して行っていました。余計な手間がかかり、販売価格も高騰したため、自前で実施しようと試みたのです。さらに明治34年(1901年)6月、組合は精練作業などの改良のため、県の紹介で和歌山県の技術者である平松昌次郎を雇い入れました(月俸50円)。しかし同業者の理解が得られず、十分な改良費が集まらないため、思うような成果は上がりませんでした。さらに組合員から、改良費が多額であるにも関わらず、その効果は微々たるものであるとして、「絶対ニ改良延期」を主張する者も現れる始末でした【明て77(35)】。明治36年(1903年)5月、同社は解散し、個人経営の山田精練工場に移管されることになってしまいます(『浜縮緬沿革誌』)。
しかし品質改良の試みはその後も続けられ、明治36年6月には、県からの補助金を得て、模範工場が設立されます【明て77(51)】。同工場では、丹後縮緬四郡同業組合の技術者を雇入れ、輸出向けに「羽二重」の技術を取り入れました。
ただしこちらも長続きはせず、明治41年(1908年)長浜町に県立工業試験場の設立が決まると、同年5月模範工場は廃止されてしまいます。江戸時代より続く在来産業の「近代化」は、そう簡単なことではなかったのです。

工女たちの労働実態

浜縮緬の製造は、明治中期頃までは農家の副業として営まれていました(『浜縮緬沿革誌』)。明治19年(1886年)には378戸が製造に携わっていますが【図1】、比較的「大製造家」といわれる家でも手織機数台を有するに留まっています。
この頃の「工女」たちは、地元農家の子女が多かったものの、美濃地方からやってくる場合もありました(『滋賀県実業要覧』)。彼女らは最初、12歳頃から機業見習いとして雇われ、25歳頃まで働いた後は、県内で結婚する場合が多かったようです。
口入屋を通じて雇用主を求め、年期契約を交わすのが一般的でした。ただし年期中であっても、結婚などで退職する者も少なからずいたようです。「工女」たちは雇用主の自宅に泊まり込み、下働きを経たのち、徐々に機織りに就きました。賃金は熟練度に応じて異なり、明治30年頃の年収は、上等21~26円、中等13~16円、下等7~9円ほどでした。雇用期間が終わると祝儀として、箪笥や鏡台、その他日用品が与えられたようです。

浜縮緬の産業革命

ほとんどが零細経営だった浜縮緬業界ですが、明治33年(1900年)頃より原料・織物の相場変動が激しくなり、副業としての経営が困難になっていきます。大正13年(1924年)には76戸まで減少し、株式・合資会社などの工場経営が多数を占めるようになりました。
大正元年(1912年)12月には大塚商店工場が設立されます。この工場では、浜縮緬業界で初めて力織機(動力織機)が導入され、縮緬生産の機械化に大きな影響を与えました。昭和7年(1932年)6月には浜縮緬工業組合が設立され、南呉服町に精練工場も新設されます。そして第一次大戦時の好景気を背景に浜縮緬の産業革命は達成され、昭和一桁台は浜縮緬業界にとって空前の盛況となるのです。

【図1】浜縮緬製造家内訳表
年代 坂田郡長浜町 坂田郡北郷里村 坂田郡南郷里村 坂田郡神照村 坂田郡六荘村 坂田郡西黒田村 坂田郡鳥居本村 他4村 他郡
1886 30 48 20 45 47 38 12 6 8
1924 9 27 15 4
 【図1】浜縮緬製造家内訳表
年代 東浅井郡七尾村 東浅井郡虎姫村 東浅井郡大郷村 東浅井郡上草野村 東浅井郡下草野村 東浅井郡速水村 東浅井郡湯田村 犬上郡 合計
1886 5 29 60 7 1 1 21 378
1924 1 5 3 1 1 76

*参考:『浜縮緬沿革誌』(浜縮緬同業組合、1924年)

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