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【コラム1】彦根製糸場

困窮する彦根士族

滋賀県における近代的製糸業は、明治維新後に職を失った旧武士層のための「士族授産」を目的として始まりました。「近江国第一之都会」であった彦根では、士族たちが生計を立てることができず、衰退の一途を辿っていました【明さ100(1)】。そのようななか、彦根を再生させるための新たな産業として着目されたのが製糸業です。当時新政府は、明治5年(1872年)に官営模範工場「富岡製糸場」を設立し、全国から工女を募集していました。同工場に勤めていた韮塚直次郎と彦根藩士の娘である妻峯の呼びかけもあり、明治8年(1875年)頃より彦根からも多数の士族の子女が派遣されることになります(『新修彦根市史3』)。滋賀県からの入所者は、判明する明治9~17年の間でも全国最多の581名にも上り、全工女の3分の1を占めるほどでした。しかし慣れない土地での寄宿舎生活と重労働により、21名(そのうち20歳未満は10名)が亡くなり、彦根再生の「原資」としては重い犠牲となりました。

製糸所設立の試み

一方明治8年(1875年)には、彦根でも洋風器械を用いた生糸の試験製造が始められ、翌9年(1876年)4月13日、彦根士族武節貫治と磯崎芳樹は県権令(後の県知事)に「製糸器械所設立之儀ニ付嘆願書」を提出します【明さ100(1)】。県としても異存はなく、4月21日には籠手田安定権令より内務省に資金拝借を求める進達書が出されています。
これを受けて勧業頭松方正義は、同年6月13日、創立趣意書や社則、予算書など、会社経営に関する詳しい規約を提出するよう県に通達を出します。そして7月29日、再び武節・磯崎より「彦根製糸所規則書」が提出されます。同規則書には「現在富岡製糸所ヨリ帰ル者ノ其器械ナキカ為メ学フ所ヲ行フ能ハス」と、彦根製糸所の設立は、富岡帰りの子女の高い技術を生かす道であることが示されています。新政府の国策に沿った事業であることが強調されたのです。このように周到に準備された規則書でしたが、権参事酒井明はその中に記された一人の人物に目をとめ、製糸所設立に対して強い警戒心を抱くようになります。
その人物とは、大音龍太郎という彦根製糸社が置かれる予定地の家屋敷地所有者でした。大音は伊香郡大音村の郷士の生まれで、京都で勤王運動に参加後、岩鼻(上野・武蔵国)県知事、彦根藩大参事などを経て、当時は大蔵省に出仕していた人物です【大え67(8)】。厳しい統治を行ったことで知られ、岩鼻県知事時代は世直し一揆に関与した博徒を大量に処刑し、政府に更迭させられたという経歴を持っていました。明治8年(1875年)1月に設立された民権結社「彦根義社」(後に集義社と改名)の発起人にも名を連ねていました。そのような曰く付きの人物が関与していることを知った酒井は、「多少与論も可有之(これあるべき)」ため、8月7日に彦根出庁を通じて現地の様子を探らせます【明さ100(1)】。そして8月12日には彦根出庁から、大音は「聊人望不宜(いささかじんぼうよろしからず)」、恐らく入社したり、資金を融通する者はいないだろう、永続的な事業となる見込みはないと報告がなされています。過去には入社希望者もいたようですが、会社設立の認可が下りたら、大音が東京より帰郷する手筈となっていることを知って、入社を断ったこともあったようです。この報告書に対して、権大属宮田義昌は「甚如何敷様(はなはだいかがわしきさま)」と書き記しています。
しかしいくつかの懸念点があるとはいえ、士族授産を重視した籠手田権令は、ともかくも9月21日に武節らが作成した規則書に県の見解を添えて松方に提出します。12月6日には、籠手田は内務省勧業寮に出仕する速水堅曹に会い、「滋賀県製糸所建築ノ根源」について相談しています(『速水堅曹 履歴抜粋 甲号 自記』明治9年12月6日付)。そのように製糸所設立に向け、着々と準備が進められていた折、明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発します。大音龍太郎ら彦根士族数名も、西郷軍に通じたとの嫌疑を受け、官憲に拘束されることになります。こうして彦根士族による製糸所設立の道は絶たれてしまうのです。

県営製糸場への転換

しかし製糸所設立に強い意欲を持っていた籠手田権令は、その構想を諦めませんでした。明治10年(1877年)5月17日には、籠手田より「製糸所建設之儀ニ付伺」が内務省に提出されます【明さ77(43)】。彦根製糸所は、今まで富裕の者を勧誘して民設を考えていたが、緊急を要する事業のため「抑圧怨嗟ノ嘆」が大きい。そこでひとまず官設にして、後に士族たちに払い下げて継続させることにしたい。その際、県税1万円で製糸所を建設するので、繭購入資金として3万円の借入れを請願したいと訴えたのです。政府も西南戦争に危機感を抱いたのか、この請願は成功し、翌年には内務省より1万円の貸し下げ金の許可が下りています。
こうした紆余曲折を経て、明治10年(1877年)10月、県営として設立されることになった「彦根製糸場」は、元家老宇津木家の下屋敷跡(犬上郡平田村)に起工され、翌11年(1878年)6月16日には無事に開業式を迎えることができました。同工場の設立にともない、その後は湖東地域で器械製糸場の設立が相次ぎます。その際には、彦根製糸場の工場長中居忠蔵の指導を受けたり、同工場の工女たちを教師として迎え入れたりしたようです。彦根製糸場は湖東地域の模範工場としての役割を果たしたのです。民間に払い下げられた後、明治35年(1902年)には閉鎖を強いられますが、既に彦根の地に新たな産業を興すという当初の役割は果たしたといえるでしょう。

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