展示期間 平成27年5月25日~平成27年7月9日
明治維新後、全国の山林は旧領主などが定めた保護取締制度が弛緩したことで、各地で乱伐が相次いだといわれています。その一方、新政府は水源涵養や土砂扞止(かんし)などの「国土保安」機能の確保とともに、「殖産興業」のための木材需要の高まりに応えるため、新たな法整備に着手していきます。その保護規制の対象は、政府が所有する官林にとどまらず、民衆たちがもつ民有林にもおよぶものでした。
今回の展示では、そのような政府・県が定めた保護取締制度と民衆たちの山野利用の実態をご紹介します。山林をめぐる人と人、人と自然の関わり合いの歴史を紐解くことで、現在の私たちが直面する「自然との共生」という課題を考える一助になれば幸いです。
【コラム1】利用と保護のせめぎ合い
【コラム2】地租改正の波紋
明治5年2月、大蔵省は「地券渡方規則」を府県に布達し、土地の永代売買の許可と地券の発行を命じました。これを受け滋賀県では、同年8月、田畑などの面積(反別)を提出するよう管内に布達します。本史料は、県より正副総戸長(数か町村が属する区の代表)や正副戸長(町村の代表)に、その調査手順を具体的に示したものです。境界が不分明で田畑・山林が入り混じっている村は、争いのもとになるため、合併してもよいと指示しています。【明い31(36)】
地券発行に際して、県令松田道之が管内の村々に示した告諭。複数の村が利用する入会(立会)の山林原野を、なるべく細かく分割するよう指示しています。ただし数十か村が利用する広大な山野は、無理に分割すれば争いが生じる可能性があるため例外を設けました。そのような山野は、東西南北の境界を記した絵図に、村々の連印を押して提出することとされました。山野利用をめぐる村同士の争いの深刻さは、県当局もよく理解するところだったのです。【明い231(90)】
蒲生郡北脇村の持ち山は、地租改正にともなう紛争の後、北脇村・瓜生津村・石谷村の3か村で共同利用(立会)されてきました。しかしその後、瓜生津村と石谷村は、茶畑の肥料に用いるため、草木を刈り荒らしたようです。そのため北脇村の耕地に土砂が流れ、大きな損害が出るようになります。本史料で同村総代たちは、瓜生津・石谷両村が至急、土砂留めを行うように県からの説諭を願い出ています。【明ち327(1)】
蒲生郡南東部に位置する日野山は、近隣の多数の町村が共同利用していた山で、地租改正事業は関係町村の利害が絡み合って難航を極めました。本絵図で描かれた原山と呼ばれる区域は、鎌掛村の北方と南西に広がる山地で、江戸時代には15か町村が利用していました。しかし明治5年の地券発行の際、鎌掛村がその所有権を主張し、これに異を唱える日野大窪町・上野田こうずけだ 村と激しい争論が繰り広げられました。【明な232(6)】
戊辰戦争による幕府直轄領の接収や、明治2年6月17日の版籍奉還により、明治政府は「御林」と呼ばれていた旧領主所有の山林を「官林」として再編成します。さらに明治4年1月15日には、寺社領の山林も官林に編入されることになりました。これらの山林は、民衆たちの生業に欠かせないものであり、官林編入後も変わらず利用され続けました。その一方で、政府は本規則を布達し、良材の確保や水源の涵養かんよう のため、乱伐を禁止していきます。
【明あ4(82)】
滋賀県の官林は、滋賀郡と栗太郡に集中しており、その多くは延暦寺や金勝寺など旧寺院のものでした。その他、旧幕府や諸藩のものもあり、江戸時代の利用実態はまちまちでした。例えば、本絵図で描かれた金勝寺の山林では、近隣の村は利用料を支払う代わりに、自由に伐採が可能でしたが、その分、立木が育たず、土砂崩れを招いていたようです。その一方で、柴草の伐採を許す代わりに苗木の植栽を義務付けるなど、植林に熱心だった藩もありました。【明ち303(29)】
明治7年3月2日、内務省は枯れ草を焼く際にその都度、区戸長に届け出るよう布達しました。当時集落に近い里山では、茅かや や秣まぐさ (馬草)など肥飼草の生育を目的とした山焼きが盛んに行われており、その延焼が問題となっていたのです。しかしその後も山火事は絶えなかったようで、本布達では、民有林に火入れする際に前日までに近隣の官林監守人に届け出るよう布達しています。さらに盗伐を防ぐため、官林への立入りは許可制となりました。【明あ153(7)】
上記の布達により、官林の下草や官山の秣刈取りは許可制となり、鑑札をもたない者の立入りが禁じられました。滋賀県では、各郡役所より鑑札が下げ渡されることが決まり、立入りが認められた町村は、1戸に1枚ずつ鑑札が配られました(鑑札料は1枚1銭)。ただし盗伐や無許可の柴草刈り取りはその後も続いたようで、明治12年2月24日には、区戸長宛てに厳重な取り締まりの指示が出されています。【明い104(121)】
明治12年3月19日、内務省地理局は「山林沿革史」編纂のため、山林関係の書類や古くから伝わる慣習などの調査を県に依頼しました。本史料は県から提出されたその調査結果です。この報告書によれば、明治維新後、滋賀県では桑・茶園の開墾や、製茶・陶器製造のための薪炭需要の高まりから、乱伐が激しくなっていたといいます。また米価の高騰により農家に余裕が生まれ、家屋の建築が進んだことも背景にあったようです。【明ち312(30)】
政府による山林の保護規制は官林にとどまらず、民有林にもおよびました。明治13年12月3日、内務省は府県に対し、官民有に関わりなく「山林保護ノ道」を立てるよう注意をうながします。滋賀県では、この通達を受けた大書記官河田景福が、各自が山林を愛護し、植栽に尽力して乱伐を戒めるよう諭達しました。山林の保護をおこたれば、全国の殖産の道を妨げ、一家の需要の欠乏をきたすと説いています。【明い115合本3(9)】
県独自の取り組みとしては、県令籠手田安定が、共有森林をなるべく細かく分割配当(≠私有)するよう促した本告諭が注目されます。共有森林は個人が保持するものではないため、たとえ所有者に森林保護の考えをもつ者がいても、全員の意見が合わなければ守られません。当時の森林所有者たちは各々競って樹木を伐採し、将来の利害を顧みなかったようです。そこで籠手田は、家ごとに利用範囲を割り当て(割山)、乱伐を防止しようと試みたのです。【明い233(3)】
明治15年2月1日には、太政官と農商務省より国土保安に関わる民有林の伐採が禁じられています。これらの山林は伐木停止林と呼ばれ、民有林であっても利用が制限されました。滋賀県では本条例が出され、野洲川などの流域で、土砂扞止を理由に利用が制限されました。樹木の伐採や草根の採掘などを希望する者は、利用の6か月前に願い出ることが義務付けられ、違反者には、2~5日の拘留、もしくは50銭~1円50銭の罰金が処せられました。【明い136(50)】
民有林のうち共有山林の保護を定めた条例。共有山林をもつ町村は連合して林区を結成し、山林保護のための取締規約を定めるよう取り決められました。稚樹(若木)伐採の禁止と樹苗の植栽が推奨され、林区内の町村ごとに1名ずつ保護掛を選定することとされました。その一方で、伐木停止林であっても取締規約を作成すれば、選伐・輪伐(森林を区切って順番に伐採すること)や柴草の伐採は認められることになりました。【明い144(34)】
県令中井弘より出された、県下初の体系的な民有林保護規則。水源涵養や土砂扞止、雪崩の防止に関わる民有林は国土保安林と定められ、柴草刈り取りや落ち葉拾いなどの作業も一切禁じられました。ただし厳重な規約を設け、県庁の認可を受けた場合は利用が許可されています。保安林制度が全国的に整備されるのは、明治31年の森林法施行まで待つことになりますが、それ以前の山林保護は、県独自の条例・規則が重要な意味をもっていたのです。【明い162(114)】
民有林山林保護例を受けて、滋賀郡坂ノ下村(現大津市)ほか3か村は、南葛川山林区を結成し、本規約を定めました。各村に設置された保護掛は、野火・盗伐・虫害などの予防に努め、毎年針葉樹苗を植えることとされました。共有山林の火入れは一切禁じられましたが、草刈り場については、許可を得れば認められたようです。山林の保護は、政府・県による一括した管理が行われたわけではなく、地域ごとの自治的な運営に支えられていました。【明ち257合本2(1)】
上記史料の付図です。戸長や村惣代とともに(山林)保護掛の名がみられ、共有山林や草刈り場は色が塗られています。【明ち257合本2(1)】