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【コラム1】利用と保護のせめぎ合い

明治維新後、全国の山林は旧領主などが定めた保護取締制度が弛緩したことで、各地で乱伐が相次いだといわれています。その一方、新政府は水源涵養や土砂扞止(かんし)などの「国土保安」機能の確保とともに、「殖産興業」のための木材需要の高まりに応えるため、新たな法整備に着手していきます。今回はそのような明治初期の山林保護制度を紹介してみたいと思います。

「御林」から「官林」へ

戊辰戦争による幕府直轄領の接収や、明治2年(1869年)6月17日の版籍奉還により、明治政府は「御林」と呼ばれていた旧領主林を「官林」として再編成します。さらに明治4年1月15日には、寺社領の山林も官林に編入されることになりました。

滋賀県の官林は、滋賀郡と栗太郡に集中しており、その多くは延暦寺や金勝寺など旧寺院のものだったようです【明ち312(30)】。その他、旧幕府や諸藩のものもあり、江戸時代の利用実態はまちまちでした。例えば金勝寺の山林では、近隣の村は利用料を支払う代わりに、自由に伐採が可能でしたが、その分立木が育たず、土砂崩れを招いていました。その一方、柴草の伐採を許す代わりに苗木の植栽を義務付けた藩や、松・杉・檜の伐採は禁じる一方で、雑木は期限を定めて許した藩もありました。

これらの山林は、いずれも民衆たちの生活には欠かせないものであり、官林に編入後も変わらず利用され続けました。その一方で、明治政府は官林保護のため、様々な規制を整備していきます。

まず明治4年7月、民部省より「官林規則」が布達され、良材の確保や水源の涵養のため、乱伐が禁止されました【明あ4(82)】。さらに明治7年3月2日、内務省は枯れ草を焼く際にその都度、区戸長に届け出るよう布達しています【明い48(114)】。当時集落に近い里山では、茅や秣(馬草)など肥飼草の生育を目的した山焼きが行われており、その延焼が問題となっていたのです。

しかしその後も山火事は絶えなかったようで、明治11年2月1日、内務省は民有林に火入れする際には、前日までに近隣の官林監守人に届け出るよう布達しています【明あ153(7)】。さらに盗伐を防ぐため、官林の下草や官山の秣草刈り取りなどを許可制とし、鑑札をもたない者の立ち入りを禁じました。滋賀県では、9月17日に各郡役所より鑑札が下げ渡されることが決まり、立入りが認められた町村は、1戸に1枚ずつ鑑札が配られました(鑑札料は1枚1銭)【明い104(121)】。ただし盗伐や無許可の柴草刈り取りはその後も続いたようで、明治12年2月24日には、区戸長宛てに厳重な取り締まりの指示が出されています【明い106(25)】。

民有林の保護取締

政府による山林の保護規制は、官林だけに留まりませんでした。明治維新後、全国的に山林の伐採は大きく進み、滋賀県でも桑・茶園の開墾や、製茶・陶器製造のための薪炭需要の高まりから、乱伐は激しくなっていました【明ち312(30)】。また米価の高騰により農家に余裕が生まれ、家屋の建築が進んだことも背景にあったようです。

そこで明治13年12月3日、内務省は府県に対し、官民有に関わりなく「山林保護ノ道」を立てるよう注意をうながしました【明あ174(61)】。12月14日、この通達を受けた大書記官河田景福は、各自が山林を愛護し、植栽に尽力して乱伐を戒めるよう諭達しています【明い115合本3(9)】。

県独自の取り組みとしては、明治14年1月18日、県令籠手田安定が共有森林をなるべく細かく分割配当(≠私有)するよう促した告諭が注目されます【明い233(3)】。共有森林は個人が保持するものではないため、例え所有者に森林保護の考えをもつ者がいても、全員の意見が合わなければ守られません。当時の森林の所有者たちは各々競って樹木を伐採し、将来の利害を顧みなかったようです。そこで籠手田は、家ごとに利用範囲を割り当て(割山)、乱伐を防止しようと試みたのです。

明治15年2月1日には、太政官と農商務省より国土保安に関わる民有林の伐採が禁じられています【明あ191(4)】。これらの山林は伐木停止林と呼ばれ、民有林であっても利用が制限されました。滋賀県では、明治16年12月24日に「流域諸山取締条例」が出され、野洲川などの流域で利用が制限されました。

さらに明治17年3月21日には、籠手田県令より「共有山林保護例」が布達されます【明い144(34)】。共有山林をもつ町村は連合して林区を結成し、山林保護のための取締規約を定めるよう取り決められました。
稚樹(若木)伐採の禁止と樹苗の植栽が推奨され、林区内の町村ごとに1名ずつ保護掛を選定することとされました。その一方で、伐木停止林であっても取締規約を作成すれば、選伐・輪伐(森林を区切って順番に伐採すること)や柴草の伐採は認められることになりました。明治19年9月4日には、各林区が定めるべき取締規約の基準が詳しく示されています【明い167(3)】。

明治19年7月1日には、「民林取締規則」が県令中井弘から出されています【明い162(114)】。水源涵養や土砂扞止、雪崩の防止に関わる民有林は国土保安林と定められ、柴草刈り取りや落ち葉拾いなどの作業も一切禁じられました。保安林制度が体系的に整備されるのは、明治31年の森林法施行まで待つことになりますが、それ以前の山林保護は、県独自の諸規則が重要な意味をもっていたのです。

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