展示期間 平成27年11月30日~平成28年1月21日
古来より人々は、牛を農耕や運搬の際に労働力として利用するなど、牛と深いつながりを築いてきました。近江国で育てられた牛は、そうした役牛(えきぎゅう)としての利用に加えて、薬用牛肉が贈答品として製造されるなど、江戸時代から産地としての名声を得ていました。
明治時代に入り、西洋文明による本格的な食肉文化が始まると、県内の牛商も東京をはじめとする各地に販路を拡大していきます。その過程には、文明の最先端である鉄道の利用など、近江牛に関わる人々の様々な努力がありました。
今回の展示では、現代ではブランドとして認知されている近江牛が、明治から戦前期までの間はどのような実態にあったのか、その黎明期を史料から探っていきます。
【コラム1】江戸・明治期の近江牛
【コラム2】近江牛と商人たち
牛馬の売買者に免許鑑札を交付する際の規則です。1枚につき7匹の牛馬を引き連れることが可能でした。免許鑑札は1年につき税金1円を上納したものに交付され、無鑑札で売買したものには免許税の10倍の科料が科せられていました。縦3寸横2寸の鑑札には「牛馬売買免許鑑札」の文字と住所・氏名が記され、売買者の営業資格を証明するものでした。【明い32(25)】
牛を屠殺したり精肉を売買するものに課した営業準則です。全22条にわたって定められており、免許鑑札を受けたものは県庁による番号・印章を付与された看板をかかげたうえで営業するよう求められています。特に屠殺の際は、警察官の立会いのもと疫病や伝染病の有無を確認し、罹患の場合は解剖を差し止められるなど、その伝染阻止に配慮がなされています。 【明い73(1-20)】
畜業家にとってもっとも恐れるべきことは、伝染病などの牛病でした。この図は「牛脈振之法」といって、牛病予防のために牛の角の温かさを計っているところです。牛の角は寒い時でも温かみのある状態であり、弱ってしまうとその温かみは消失しました。政府は伝染病防止のためさまざまな施策をとりますが、効果的な手段に乏しく、いったん病気が広がるといつも苦慮していたようです。【滋賀県蔵】
明治25年度の農商工統計表の年報です。郡ごとに運搬用・農用・繁殖用・乳用に用いられていた内種・雑種・外種の頭数がそれぞれ記されています。史料には食用が記されておらず、農用がもっとも多く、次に運搬用となっています。現代とは違い、明治中頃においては食用飼育よりも労働力がある役牛(えきぎゅう)としての役割を求められていたことがうかがえます。【明て65(1-15)】
伊香・西浅井郡長から県知事大越亨に報告された木之本牛馬市(現長浜市木之本町)の景況報告書です。毎年、夏と冬の2回開かれている牛馬市は11月10日より15日まで開かれ、美濃・尾張・伊賀・伊勢・紀伊・東近江地方から牛馬を求める人々が参集していました。一方、供給者は若狭・越前・加賀・丹波・但馬・西近江地方など日本海側の地域の人びとが多かったようです。合わせて500頭以上の牛馬が20~45円で売買されていました。【明て66(60)】
県知事折田平内により発布されたもので、全9条にわたります。種付に使用する雄牛の飼育免許を、獣医の調査証明書を添えて出願する際の規則でした。種付に使用する雄牛は、1日2回以下、1年間で60頭未満の制限が加えられていました。運搬用や耕作用などに使役することは許されておらず、2歳以上10歳以下の性質善良な雄牛が選ばれています。 【明ふ12(93)】
大津市長村田虎次郎から知事鈴木定直に提出された報告書で、牛と馬の頭数を雌牛、雄牛ごとに集計したものです。雑種では雌牛が63頭、雄牛が4頭と、その差に大きな違いが見られます。その7割近くは乳用として飼育されていました。大津市の他にも各郡から牛馬の数が報告されており、滋賀県全体の統計にそのデータが役立てられています。【明た40(90)】
牛などの運搬については、明治5年ころまでは東海道を陸路で運び、明治15年ころからは神戸港を出発地として海路を利用していました。しかし明治25年以降、新たに開通した官設鉄道(東海道本線)が運搬に利用されるようになっていきます。この史料では種牛と乳牛の附添人に限り運賃の5割低減が明治39年より運用されることになっており、その利便性は高められていきました。【明た44(2-1)】
明治40年に県知事川島純幹に上申された、県下における畜産業の概況を示したもので、近江牛を、他地方で生産した和牛を転入して、肥育した後に京浜地方へ移出したもの、と位置づけています。そして県内生産量より需要超過となっている現状を危惧し、県内を分割して北部を生産地、西南部を育成地として畜産業の奨励を図るべき、と提言しています。【明て61(4-1)】
明治初年から40年代に至る県内畜産業の沿革を記した貴重な史料です。東海道を陸路で運び直接取引をしていた明治5年ころは、国内における肉牛移出のほとんどを滋賀県産が独占、と評しています。また官設鉄道(東海道本線)の開通により近江八幡駅が輸出の最前線となったことや、牛の疫病阻止のため生産地表示として付された刻印が、近江牛の名を高める契機となったことが記されています。【明た30(7)】
滋賀県内務部が編纂した県内における畜牛の沿革や現況を分析したものです。畜牛調査では伊香郡、東浅井郡、蒲生郡、野洲郡の4郡が対象となっていますが、当時より湖南地域における畜牛の盛んな様がうかがわれます。本書でも「良好ナル育成地トシテ其名海内ニ喧伝セラレ(中略)県下畜牛ノ前途ハ洋々トシテ大ニ好望ヲ嘱スル」と評価しています。【滋賀県立図書館蔵】
明治40年から大正2年にかけて誕生した合格牡牛の一覧表です。産地は滋賀県などの関西諸府県をはじめとして北海道、岩手県、東京府、石川県など全国におよびます。またアメリカやドイツなど外国産牛も記されています。育用地は蒲生郡や甲賀郡、犬上郡などで、湖東から湖南にかけて幅広く育用されていました。史料からは、血統や産地、育用地の情報が重視されていたことがうかがえます。【大た54(2-4)】
滋賀県畜産組合連合会は、畜産の改良発達を図り、県内所属組合の利益を増進する目的で大津市に設置されました。そこでは種畜の供給と種付を行うとともに、飼料作物の栽培奨励や家畜市場取引状況の調査、品評会、共進会、講話会をしました。そして品評会で優等賞を授与するなど、県内の畜産技術改良に貢献しています。【大あ58(179)】
農務大臣山本悌二郎からの設立認可書です。県種畜場は野洲郡野洲町に設置されました。昭和初期は農業大恐慌が深刻となり、米麦を主体とした単なる副業的畜産ではなく、農業経営の各部門を有機的に組み合わせた、いわゆる有畜農業が奨励されます。畜産の振興を目的として造られた種畜場でしたが、面積の狭さや野洲川の水害により、昭和14年には分場が蒲生郡に設置され、16年にはさらに蒲生分場に本場が移設されます。【昭た474(1)】
滋賀県が昭和7年に発行した県内有畜業の概況を示したものです。畜産組合や種畜場などの関連団体に関するデータや、畜牛の飼育・生産・移出入状況などが示されています。添付の「滋賀県略図」では、新設された県種畜場や畜産組合、家畜市場などが表記されていますが、県東部における畜業の盛んな様子がみてとれます。【滋賀県立図書館蔵】
第二次世界大戦中、戦局の激化とともに、軍需資材の確保や農業生産力の増強が図られました。県でも畜力の適正配分と円滑な動員のため、牛籍を作成し牛の移動統制を強めることとしました。これにより、牛の県外移出が制限され、その動態が明確に把握されるようになります。しかし飼料配給の重点が乳牛と役牛に置かれることになり、県民の食事情に影響をもたらしました。【昭あ50(37)】