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【コラム1】江戸・明治期の近江牛

現在、滋賀県の名産として知られる近江牛は、多くの人びとにその美味を賞味され、全国的にそのブランド価値を高めています。そこに至るまでの過程は、近代以降、多くの人びとの努力がありました。今回は、江戸から明治時代を中心に、どのように近江牛がブランド化の歩みを出発させたのかについて、述べたいと思います。

江戸時代までの近江牛

古来より日本では、人と牛のつながりには深いものがありました。寺院や邸宅などの建築や田畑を耕したりする農耕作業では牛が労役をにない、特に西日本では東日本の馬に対し、その傾向は強かったようです。移動や運搬手段などでも牛車が用いられ、その名残は車石として現在も保存されています。
牛肉を食す文化は、仏教思想の伝播もありあまり発達しませんでしたが、戦国時代に入ると宣教師の来日により、豊臣秀吉をはじめとする戦国武将が牛肉を食したといわれます。特にキリシタン大名として著名な高山右近は秀吉と北条氏政との戦いである小田原城の戦いにおいて、同軍の蒲生氏郷と細川忠興に牛肉を馳走したと伝わっています。
江戸時代に入ると、彦根藩領において牛製品の生産が盛んとなりました。一つが皮製品であり、4,000人に余る士卒の使用する武具や馬具に必要な牛皮を自給するために、城下周辺で屠牛が盛んに行われます。
またもう一つが、牛皮を取り去った後の屠肉利用でした。彦根牛肉がいつ頃から食用に供せられるようになり、その名が知られるようになったのかは定かではありませんが、元禄年間には彦根藩士の花木伝右衛門が良肉を主剤にした「反本丸(へんほんがん)」と呼ばれる薬用牛肉を製造します。これは、牛肉を食すことを忌みきらった当時の風習のために、食料品として公然と販売することを避け、薬という名目で製造したものだったと思われます。赤穂浪士の大石良雄も同志に「養老品」として彦根牛肉を送っていますが、彦根牛肉が美味で滋養に富むという評判は広く知れ渡っていたようです。特に贈答品としての名声は諸侯の間でも顕著でした。安永~嘉永年間の記録でも30件をこえる牛肉が薬用として、将軍家や諸侯に贈られていました。【『彦根市史 中巻』】
このように近江の牛肉は、彦根藩の生産を通して薬用としての体面を保ちつつも、その産地としての名声を獲得していました。

明治時代の近江牛

明治時代に入ると文明開化の影響もあり、牛肉を日常生活で嗜む風習がうまれます。牛肉に対する禁忌の念も薄れていき、東京などの大都市を商業圏とする新たな流通が整っていきました。
明治初年ころ、近江の牛商たちはまず神戸に販路を求め、当時の神戸海岸に仮屠畜場を設立し、屠肉や生肉のまま横浜への海路輸送を始めます。しかし、整備の整わない前近代的な船では不便であり、明治4年頃より東海道を陸路で直接牛を牽引して運び、横浜の外国人と取引するようになりました。翌5年には東京にも販路を広げ、直接取引による収益は相当なものとなり肉牛輸出(国内移出)のほとんどを滋賀県産が独占する、という状況にいたります【明た30(7)】。
明治9年には「屠牛及肉類売買営業準則」が定められ、牛を屠殺したり精肉を売買する免許鑑札保持者には、県庁より番号・印章を付与した看板の設置を義務付けました。この営業準則は、当時、処方のすべがほとんどなかった牛特有の疫病や伝染病を防止するために、屠殺時の警察官立会いを規定している厳しいものでした【明い73(1-20)】。
明治15年からは汽船輸送が航路を開拓し、神戸港から下田港、横浜港へ、17年からは三重県の四日市港から牛肉の輸出(国内移出)が始まります。
しかし、神戸港を利用していた時期は、滋賀県から船積みのため一時的に逗留されていた牛肉も神戸牛と称されてしまう、という大きな誤解が生まれていました。この誤解を打破するきっかけとなったのが、明治22年の鉄道東海道線の開通です。牛肉の輸送は、早くて海路のない地方にも運ぶことのできる鉄道にとって代わられ、近江八幡駅がその発着場として利用されだしました。そして25年、牛の疫病が全国にひろまったのを契機に、生きたままの牛輸送が禁止され屠肉である枝肉の輸送が義務付けられます。この時、枝肉にあった「滋賀県検印」の刻印を需要者が認めたことによって、近江牛が肉質佳良であると周知され、市場における賞賛も大いに高まったと言われています。結果、明治43年時点で、東京へ約6,000頭、京都へ約2,000頭、横浜、名古屋へ約1,000頭、といった大都市への輸出(国内輸出)だけでなく、甲府、金沢、小田原などの地方都市へも販路を広げます【明た30(7)】。

ブランド化に向けて

こうして「県下畜牛の前途は洋々として大に好望を嘱する」【『滋賀県の畜牛』】とうたわれた近江牛は、当時、丹波や丹後、但馬地方から生まれた子牛を肥育していました。その近江牛が、ブランド価値を確立するには、大正、昭和を経て、さらなる人々の努力と苦労が必要となるのです。

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