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【コラム2】近江牛と商人たち

竹中久次と米久

明治25(1892)年の牛疫発生により生きた牛(生牛)の輸送が禁止されたことをきっかけに、近江牛の評価が高まりますが、この時、生牛の輸送に代わって枝肉輸送を考案したのが近江商人でした。こうした近江牛の発展に寄与した先駆的な人物として、竹中久次と西居庄蔵の二人が挙げられます。
竹中久次は蒲生郡苗村(現竜王町)の出身で、東京を拠点にした近江商人の一人です。久次は米穀仲買商や運搬業などを営んでいましたが、彼が23才の時、家業を変えて牛を東京に輸送することを事業としました。しかしながら、東海道を利用した大規模な陸路輸送を行うも、その当時ではまだ不完全な取引手段や信用欠如のために代金の回収不能が多く、事業はあまりうまく立ちゆきませんでした。そこで、久次は明治12年に東京へ進出し、浅草近辺の茅町2丁目に牛肉店を開業します。そして近江牛の独占販売に乗り出したのでした。久次の名前の一字をとって「米久(よねきゅう)」と呼ばれたこの店舗は、もっとも繁盛を極めた時でイロハ48軒と称される支店があり、米久の牛肉といえば知らないものがいない、といわれるほど栄えたそうです。東京都内にも屠場を所有しており、その販売額は小売店だけで毎日40頭分の肉を販売していたといわれています【『近江牛の沿革』】。

篤志家西居庄蔵

近江牛の貢献者として知られるもう一人の人物として、西居庄蔵が挙げられます。庄蔵は、はじめて神戸港より牛を船積みにして横浜港へ送った人物ともいわれています。肉牛飼養管理技術の改良や普及にも尽力し、その功績は多大なものがありました。没後約40年後の昭和43(1968)年には、日本農林漁業振興会が、社会に貢献した篤志家や先覚者として、庄蔵を選んでいます。庄蔵も竹中久次と同じく蒲生郡苗村の出身で、代々牛馬商を営んでいました。庄蔵は、郡内に散在する牛馬商の経営が思わしくない状況を憂い、明治40年に自らが組合長となって蒲生郡牛馬組合を組織します。また同年には、一般農家が家畜の売買を容易にする目的で、湖東常設家畜市場も設置しました。
このように県内の畜産に貢献した庄蔵は、大正5(1916)年に実業功労者として県知事から表彰を受けるなど、竹中久次とともに近江牛の発展になくてはならない人物でした【『近江牛の歴史』】。

種畜場の建設

本県では、大正15(1926)年に県内の畜産組合が集まり畜産改良を目的とした県畜産組合連合会を設立していましたが、昭和に入ると農業大恐慌が深刻になってきました。そこで本県も政府にならい、対策として家畜を農業に有効的に活用するよう奨励しました。昭和7年には県種畜場が設置され、畜産振興の充実が図られていきます。県種畜場は、最初、野洲郡野洲町に新設されました。しかし、同場の面積が狭かったことや、野洲川の氾濫による水害を受けたことなどが原因で、他所に移転する必要に迫られ、昭和14年6月には分場が蒲生郡北比都佐(きたひづさ)村に設置されます。結局、翌16年5月に野洲本場は廃止され蒲生分場が本場となりました。

ブランドへの助走

県種畜場の新設などにより本県の畜産も盛んになりつつありましたが、戦時体制の到来により畜牛の移動統制がとられれ、一時、県内の畜産業は停滞を余儀なくされました。
戦後になると、昭和22年に行われた第1回目の近江肉牛東京宣伝を皮切りに、トラックによる街頭行進やセリの実演、試食会が開かれるごとに成功を収め、近江牛の名声を飛躍的に高めていきました。特に、近江肉牛協会会長である服部岩吉県知事のもと、昭和28年に白木屋百貨店で開かれた第3回は、近江牛を生きたままエレベーターで屋上に上げてセリを行い、その後食堂ですき焼きパーティーも開催されました。翌日の新聞各紙は、この話題で持ち切りだったそうです。
その後、農耕労力の機械化により役牛は減少していき、役牛と食肉牛の併用からほぼ肉牛のみの飼養へと変わりました。そして、その品質の高さによって、近江牛は着実にそのブランドを高めてきました。
今後も、先人の努力によってブランドとなった近江牛を、滋賀県の名産として守り育てていくことが大切ではないでしょうか。

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