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【展示】初代県令松田道之と地方自治

展示期間 平成26年11月10日~平成27年1月22日

松田道之ポスター

 本県の初代県令松田道之は、後に内務省に転任し、近代日本最初の統一的地方制度である「地方三新法」の作成に携わった人物として知られています。松田は県令時代に、地方民会の端緒といえる「議事所」を開設し、地方自治に関する建言を数多く行いました。近代日本の地方自治のかたちは、松田の地方官としての経験を生かして、具体化されていったのです。
 今回の展示では、松田道之が整えた近代滋賀の地方自治の歴史を振り返ります。本県では、町村自治の伝統が明治維新後もうまく機能していたといわれています。そのような自治の伝統と松田県令の関わりを中心に、長期的な視点から地方自治のかたちを考えてみたいと思います。

【コラム1】松田道之の地方自治構想
【コラム2】明治初期の備荒貯蓄制度

松田道之の地方自治構想

「議事大意条例」 明治5年(1872)1月

議事大意条例

大津南町顕証寺で開かれた全国最初の地方民会「議事所」の議事会則。大津県令松田道之の「県庁の為めに県内の人民あるにあらす、県内人民の為めに県庁あると知るへし」という「公論」重視の考えが示されています。大里正・中里正(後の正副区長)と富裕層が「県内の公益」「人民の福利」を議論する場として設けられました。ただし国政に関することや、開化を妨げる議題は堅く禁じられ、議決の執行には県庁の許可が必要などの制限が存在していました。【明い36(23)】

「松田県令建議類集」 明治6年(1873)

松田県令建議類集

明治6年1月31日、大蔵省より全国の地方官(府知事・県令など)に招集がかかり、「地方緊要の件」を話し合う地方官会同が4月12日から開催されます。松田道之もこの会議に参加し、積極的に地方制度に関する建議を行いました。本史料はその建議類をまとめたもので、松田が内務省に転任した際、後継の籠手田安定に送った引継書類と言われています。【明う173(8)】

「県治所見」 明治7年(1874)1月11日

県治所見

松田道之が県政の当面施行すべき事業を県職員に示した指針。本文は20か条から成り、冒頭では「官必スシモ営業事務ニ明ニシテ、人民必スシモ皆ナ愚ナルニアラス」と、官がみだりに人民の私的行為に介入することを強く戒めています。まず県会を興して人民に議会の便利さを理解させ、その後区町村会の設立を促すという方法や、民費の負担が大きい学校設立を強制してはならないといった柔軟な姿勢に、松田の細やかな気配りが見て取れます。【明い246(2)】

「松田道之事務引継書」 明治8年(1875)4月24日

松田道之事務引継書

明治8年3月23日、内務省に転任した松田道之は、後継の籠手田安定のために引継書を作成します。前年の「県治所見」を補足する内容で、県会や区町村会のほかにも「私会」を設けたり、盟約を結ぶことを奨励しました。世の中の事柄や県政に関する議論が活性化して、県庁が苦しむくらいが「最モ所好」だと述べています。例え議論が過激になっても、国法に触れない以上は咎めてはならず、却って県政のために喜ぶべきだと懐の深さを示しています。 【明い59(19)】

町村自治の変貌

「戸長設置の布告」 明治5年(1872)4月7日

明治4年4月4日、太政官は戸籍法を発布し、戸籍編成のために数ヶ町村で一区を設定し、その事務を担う官吏として戸長・副戸長の設置を定めました。滋賀県では翌5年2月、村ごとに区の代表として組惣代の入札(投票)を命じています。同年4月7日にはその名称は廃止され、新たに戸長・副戸長が選出されました。さらに8月には、それぞれ総戸長・副総戸長と改められ(町村の代表は正副戸長に改称)、明治6年3月7日には区長・副区長となりました。【明い30(95)】

「区長戸長ノ交代期限其選挙入札ノ方法並ニ交代ノ節事務引渡ノ規則」 明治6年(1873)11月19日

事務引渡ノ規則

区の代表を務める正副区長は、当初は町村ごとに多様な選出方法がとられていましたが、明治6年11月19日、正副戸長(町村の代表)による間接選挙に定められました。正副戸長の選出は、町村に住む小前(一般の百姓)を含めた直接選挙とされました。全国的には官選が一般的だったなかいずれも公選で、人民の「公論」を重視する松田の考えが反映されたものと思われます。【明い44(102)】

「区長戸長ヲ公撰ニ可採之建言書」 明治8年(1875)8月10日

区長戸長ヲ公撰ニ可採之建言書

明治8年6月に開催された地方官会議において、県会・区会などの地方民会はしばらく区戸長を議員とすることが定められます。権令籠手田安定は滋賀県における区戸長の公選経験を踏まえ、全国的にその実施を広げるよう内務省に求めました。人民による選挙は、「濫撰」(みだりに選ぶ)に流れることもあるが、次第に「濫撰ノ我ニ益ナク、而シテ吾事ニ損アルヲ知覚」するようになると、県下での公選は人民に浸透していると自信をみせています。【明お76(1)】

「町村会は便宜開設いたすべし」 明治12年(1879)5月16日

町村会規則

明治11年7月22日、政府により区町村会の開設が許可され、滋賀県でも町村会規則が布達されました。町村会の制度化を定めた内容ですが、必ずしもその開設を義務付けなかった点に特徴がありました。当時滋賀県では、町村会がなくても村寄合など村の意思決定の仕組みが存在していたため、その慣行を生かす道を選んだのです。松田の内務省転任後に定められた規則ですが、人民の自主性を重んじた彼の精神はその後の県政に引き継がれたといえます。【明い105(39)】

災害に備える

「社倉積穀の儀に付告諭」 明治7年(1874)4月19日

社倉積穀の儀に付告諭

明治2年2月5日、新政府は府県施政順序を定め、災害時の備えのために社倉の設立を各府県に促します。大津県でも明治3年8月、年齢・身分相応に籾米を積み立てるよう布告が出されました。廃藩置県後に近江国全域の管轄を任された松田道之は、明治7年4月19日、未積み立てや独自の積立てを行っている地域に、旧大津県の方式にならって積立てを行うよう布達しています。区長が県に積立高を報告することが義務付けられました。【明い81(37)】

「備荒概則」 明治10年(1877)4月6日

松田の後継を務めた籠手田権令は、明治10年1月4日に地租が地価の3%から2.5%に引き下げられたことを受け、減租0.5%の半額を積み立てて凶荒に備えることにしました。この積立金は、凶作の際に公租を補うため、個人ごとになされている点が特徴的です。各区の議論により管理方法を定めるとされ、区ごとの自治的な運用が認められました。後に制定される備荒儲蓄法に基づく公儲備荒金と区別され、私蓄備荒金と呼ばれました。【明い88合本2(27)】

「地方官会議議事筆記」 明治11年(1878)4月27日

地方官会議議事筆記

社倉を通じた籾米の積み立ては、町村ごとに有志の手でなされたため、思うような成果が上がりませんでした。広域積み立ての必要性を痛感した籠手田権令は、第2回地方官会議で、郡単位の公費(郡税)を設けるよう主張します。しかし政府委員の松田道之は、人民の自主性を重視したため、社倉のような積み立ては、強制的に徴収するものではないと否定的でした。多数決の結果、籠手田の提案は否決されることになります。(滋賀県蔵)

「備荒儲蓄法処分規則」 明治14年(1881)4月22日

備荒儲蓄法処分規則

籠手田が構想した郡単位の積み立ては実現しませんでしたが、明治13年6月15日、太政官より備荒儲蓄法が公布されます。災害時の備えのために、府県ごとに徴収される公儲金と政府の補助金を積み立てることとされました。事実上の増税だとして、滋賀県下では大きな反発を生みますが、翌14年にはその運用規則が制定されることになります。それにともない私蓄備荒金は廃止され、その保管・継続方法は町村の判断に任せられることになりました。 【明い120(57)】

滋賀県会のはじまり

「籠手田県令の祝文」 明治12年(1879)4月20日

明治12年4月15日、県内各郡から選出された最初の県会議員64名が県庁に招集されました。籠手田県令は、議員が県会の運営に未熟なことを考慮して、議事運営の実習に16・17日をあて、18日には懇親会も開きました。そして20日は開場式が開催され、籠手田県令より祝文が読まれます。地方税を設ける以上は、県会を開いて議員の意見を聞かなければならないと、県会開催の意義を訴えました。『滋賀県会歴史第1編1』(滋賀県蔵)

「議事細則」 明治12年(1879)4月23日

議事細則

第1回滋賀県会において、最初に話し合われた議題は、県会運営の規則を定めた「議事細則」でした。会議は午前9時に始まり午後4時に終わる、議事の終始は号鐘をもって知らせる、私語をつつしむなど、県会運営に関わる基本的な事柄が定められました。この県会では、郡役所設置や捕卒(警察)設置、書籍縦覧所(図書館)の設置などの建議が出されましたが、県令と県会が根本的に対立するような紛糾した事態にはなりませんでした。 『明治12年県会書類』(滋賀県蔵)

「第1回県会出席議員」 明治12年(1879)5月21日(推定)

第1回県会出席議員

最初の県会に出席した議員たちは、本籍を滋賀県下におき、満3カ年以上県内に居住し、10円以上の地租を納める満25歳以上の男子から、県内各郡3~5名ずつ選出されました。県下に本籍をおき、5円以上の地租を納める満20歳以上の男子による投票で選ばれています。有権者は地租納入者に制限されたため、都市部に極度に少なく、郡部に圧倒的に多く、県会議員は農村に住む地主たちの代表という性格を強く帯びるものでした。 (『滋賀県議会史』第1巻所収)

「備荒儲蓄法をめぐる審議」 明治13年(1880)12月1日

備荒儲蓄法をめぐる審議

初期の滋賀県会において大きな波紋を呼んだのが、明治13年に制定された備荒儲蓄法に関する審議でした。12月1日より臨時県会が開催されますが、同法は「我県民情ニ適セサル」ため、その得失を熟考する必要があると、審議を翌年度に延期することが決まりました。しかし内務省の強い指示により再議が命じられ、関連議案は修正可決することになります。滋賀県民にとって、同法の施行は、人民の自治に対する政府からの過度な介入と映ったのです。(『明治13年県会日誌』滋賀県蔵)

「滋賀県の区制区域」

滋賀県の区制区域

明治5年(1872)2月より滋賀県では、新たな行政単位として、いくつかの町村を合わせて区が設置されます。郡ごとに7~22の区が置かれ、「○○郡第○区」というように番号が割り振られました。全国的には県域をいくつかの大区に分けた上で、そのもとに小区が置かれましたが、滋賀県では旧来の郡のもとに区が置かれ、1区当たり平均11.9町村が所属しています。同制度は、明治11年7月22日に郡区町村編成法が制定されるにともない、廃止されました。(『滋賀県市町村沿革史別冊』)

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