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【コラム1】松田道之の地方自治構想

松田道之の生い立ち

松田道之は、天保10年(1839年)5月12日、鳥取藩家老鵜殿長発の家臣久保居明の次男として生まれました。幼少の頃に両親を亡くしたため、親戚の松田発明(市太夫)に養われ、伊三郎と称します(「松田道之事績概要」国立公文書館蔵)。その後、藩医木下家を継いだ発明の実弟が早世したため、伊三郎は木下大荘の養子となり、俊蔵と名を改めました。藩校尚徳館や豊後国の私塾咸宜園で頭角を現すようになった俊蔵は、医業にあきたらなくなったのか、再び松田家に戻って養子となり、正人と称して鵜殿家に仕えるようになります。文久2年(1862年)10月より養父発明とともに京都で尊王運動に関わり、大政奉還後は貢士、内国事務局権判事、京都府判事、京都府大参事を経て、明治4年(1871年)11月22日、大津県令に就任します。翌5年1月19日、大津県が滋賀県と改称するにともない、初代滋賀県令となりました。

議事所の開設と区制

大津県令となった松田は、次々と開明的な政策を実行に移していきます。地方自治に関する事柄では、明治5年(1872年)1月、大津南町顕証寺に開設された議事所が注目されます。これは松田の「県庁の為めに県内の人民あるにあらす、県内人民の為めに県庁あると知るへし」【明い36(23)】という考えによるもので、全国で最も早く開設された地方民会として知られています。大里正・中里正(後の区長・副区長)と富裕層が「県内の公益」「人民の福利」を議論する場として設けられました。ただし国政に関わることや、開化を妨げる議題などは堅く禁じられ、議決の執行には県庁の許可が必要という制限があるものでした。

明治4年4月4日、太政官は戸籍法を発布し、戸籍編成のために数か町村で一区を設定し、その事務を担う官吏として戸長・副戸長の設置を定めました。滋賀県では翌5年2月、村ごとに区の代表として組惣代の入札(投票)を命じていますが、4月7日にはその名称は廃止され、新たに戸長・副戸長が選出されています。さらに8月には、村ごとにおかれた庄屋・年寄などの名称が廃止され、それぞれ戸長・副戸長と改称されます。それにともない、区の代表である従来の戸長・副戸長は、それぞれ総戸長・副総戸長と改められ、明治6年3月7日には区長・副区長となりました。

全国的には大区小区制と呼ばれたこの地方制度は、府県の下に大区、その下に小区が置かれましたが、滋賀県では単に区のみが設置されました。平均11.9町村ごとに県内が158の区に分けられました。本県の大きな特徴の1つは、正副戸長(町村の代表)は町村の入札、正副区長(区の代表)は正副戸長の入札で選出されていることです。全国的には官選の区戸長が一般的だったなかいずれも民選で、人民の「公論」を重視する松田の考えが反映されたものと思われます。

松田道之の地方自治観

明治6年(1873年)1月31日、大蔵省より全国の地方官に召集がかかり、「地方緊要の件」を話し合う地方官会同が4月12日から開催されます。松田もこの会議に参加し、積極的に地方制度に関する建議を行いました。特に松田が強い関心を抱いていたのが、官民の領域の明確化でした。松田によれば、従来の地方財政は旧慣に基づき、官費で使われるべきものに民費が使われ、民費で使われるべきものに官費が使われるなど、「甚タ不公平」な状況だったといいます【明う173(6)】。そこで松田は、例えば同じ堤防・橋梁の修築でも、その土地の人民が利益を得る小さな川は民費、大戸川・高時川などの大きな川は官費の補助を仰ぐべきだと訴えたのです。松田は地租改正に関しても積極的に建議を行っていますが、それも政府・府県・郡村それぞれの「分限」(役割)を果たすべきだという考えからでした。このような松田の地方財政に関する考えと、彼の地方自治観とは深く関係しています。松田は政府からの委任事務を担う官の領域を府県に限定し、人民の生活上の利害に関わる郡村の事務に関しては、官による過度な介入を戒めるべきだと考えていました。地方民会を通じて府県行政に人民の「公論」を反映させるとともに、人民自身による自治の単位として、旧慣に基づく範囲である郡村を重視したのです。

地方三新法の策定

明治8年(1875年)3月23日、内務省に転任した松田は、近代日本最初の統一的地方制度である地方三新法の策定に携わります。地方三新法とは、郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則の3法令のことを指します。この法律の要点は、(1)府県ごとに多様であった各種の区制度を廃止し、郡区―町村の2段階に整理したこと(農村部は郡、都市部は区)、(2)多様な形で徴収されていた民費を廃止し、府県単位で一括した地方税が創設されたこと(区町村費は地方税の外)、(3)公選議会である府県会が設置されたことにあります。いずれもこれまでの松田の実践・発言の延長上にあるものです。近代日本の地方自治は、まさに松田の滋賀県令としての経験を生かして、具体化されていったのです。

明治11年7月22日、三新法施行順序の施行により、区町村会の開設が許可され、明治12年5月16日、滋賀県では町村会規則が布達されています【明い105(39)】。これは町村会の制度化を定めた内容ですが、必ずしもその開設を義務付けなかった点に特徴がありました。当時滋賀県では、町村会がなくても村寄合など村の意思決定の仕組みが存在しており、当県ではその慣行を生かす道を選んだのです。その結果、明治16年時点で町村会を設置した町村数は22に過ぎず、全体の1.3%ほどでした。旧慣と人民の自主性を重んじた松田の精神は、その後の県行政にも生かされたといえるでしょう。

このように地方自治を重視した松田でしたが、明治12年には琉球処分官として警察力を背景に琉球併合を強行しています。450年間にも及んだ琉球王国の歴史は潰え、以後は新たに沖縄県が置かれます。琉球併合を推し進めた強権的な官僚としての顔もまた、松田は持っていたのです。

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