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【コラム2】明治初期の備荒貯蓄制度

滋賀県は古来より、琵琶湖や河川から多くの恵みを受け取ってきた一方で、水害のリスクを常に抱え、旱魃時には水争いが頻発する自然災害に悩まされ続けてきた地域です。松田道之の後を継ぎ、2代目県令となった籠手田安定は、明治元年に大津県に判事試補として赴任して以後、備荒貯蓄と呼ばれる災害対策に力を入れました。今回は籠手田の災害対策と松田道之との関わりを紹介したいと思います。

社倉の設立

籠手田は民心の安定を重視した人物で、明治2年(1869年)6月、大津県知事朽木綱徳と協力して、「地方引立掛」という人民の意見を県政に反映する部局を創設しました(「黙斎漫録」)。組合惣代や庄屋・年寄から人材を登用し、県と人民の意思疎通を図ろうとしたのです。当時大津県では水害が頻発し、特に明治元年は琵琶湖周辺の村々が完全に水没するほどでした。そこで同掛の上申を受けた籠手田の手で、新たな備荒貯蓄制度の整備が進められることになります。

籠手田は蟻と蜻蜓やんま (大型のトンボ)の寓話を用いて、社倉設立の必要性を説きました。社倉とは、飢饉などに備えて米や雑穀を蓄えておく倉のことで、天明飢饉後に全国に広まったものです。蜻蜓が遊んで暮らしていた暖かい季節に、蟻は「一和一致」して食物を探し、「同心協力」して穴に貯えていたので、寒くなっても困窮せずに済んだ。このような寓話を用いながら籠手田は、蟻にならって凶作に備えるべきだと主張しました。明治3年8月25日には、組合惣代宛に社倉積み立ての布告が出され、年柄相応・身分相当に籾米の積み立てがなされることになります【明い81(37)】。

廃藩置県後に、近江国全域の管轄を任された初代滋賀県令松田道之も、この政策を引き継ぎました。明治7年4月19日、未積み立てや独自の積み立てを行っている地域に、旧大津県の方式にならって積立てを行うよう布達しています【明い81(37)】。積み立てを徹底させるため、区長が県に積立高を報告することが義務付けられました。

私蓄備荒金の整備

明治8年(1875年)3月23日、松田道之が内務大丞に転任したことにともない、参事を務めていた籠手田安定が権令(後の知事)に昇格します。翌9年11月15日、籠手田は地租改正により年の豊凶で納税額が増減しなくなることから、社倉積み立ての一層の注意をうながしています。

しかし再三にわたる勧告にも関わらず、思うような成果は上がらなかったようです。明治10年には、金銭510円37銭5厘、米5724石1斗、籾4500石5斗、粟10石が積み立てられていましたが、明治7年以降、積立額にほとんど変化は見られません(「滋賀県史」2編13)。

社倉停滞の背景には、幕藩体制時代の分割支配があったようです。近江国では、一つの村の中でも領主が異なる時代が長く続いたため、一村内でも人情を異にする状況がありました。また水利をめぐる村同士の水争いも盛んで、「数百年ノ結習ヲ除キ一致統合スル」のは甚だ困難だったのです(「牧民偉績」)。村ごとに富裕層の出資に依拠する積み立て方法では、限界を迎えていたといえます。

そこで籠手田は、明治10年(1877年)1月4日に地租が地価の3%から2.5%に引き下げられたことを受け、減租0.5%の半額を積み立てて凶荒に備えることにしました【明い88合本2(27)】。この積立金は、凶作の際に公租を補うため、個人ごとになされている点が特徴的です。各区の議論により管理方法を定めるとされ、区ごとの自治的な運用が認められました。後に制定される備荒儲蓄法に基づく公儲備荒金と区別され、私蓄備荒金と呼ばれました。個人単位の新しい積み立て方法により、私蓄備荒金は毎年順調に備荒金が積み立てられていきます。明治15年には、積立額は65万7192円31銭に達しました(「滋賀県史」3編6)。

広域備荒貯蓄制度の提唱

しかし籠手田は、私蓄備荒金の整備だけで十分とは考えていませんでした。明治11年(1878年)4月27日、第2回地方官会議で郡単位の公費(郡税)を設けるよう主張しています(『地方官会議議事筆記』)。籠手田は、社倉は一町一村では設立が困難で、一郡で協議して金穀を積めば、その効果も高くなる。山手で不作であれば、川辺で豊作であるときに互いに融通することができる。一郡でなければ社倉の効用もないと、広域備荒貯蓄の制度的保障を求めたのです。

それに対して、政府委員の松田道之は、公費は一人も逃れられない義務であり、社倉のような積み立ては、一般に賦課すべきものではないと、公費の性格上から反対しました。人民の自治を重視する松田にとって、備荒貯蓄は富裕層による出資に任せるべきものであり、住民全員から強制的に徴収すべきものではないと考えられていたのです。会議の議決も、籠手田の提案は多数を占めるに至らず、結局籠手田が構想した郡単位の積み立ては実現しませんでした。

その一方で、明治13年6月15日には、太政官より備荒儲蓄法が公布されることになります。災害時の備えのために、府県ごとに徴収される公儲金と政府の補助金を積み立てることとされました。事実上の増税だとして、滋賀県下では大きな反発も生みますが、翌14年にはその運用規則が制定されることになります【明い120(57)】。以後は、公的備荒貯蓄制度は、同法に基づく公儲備荒金に一元化することになりました。こうして籠手田が情熱を傾けた備荒貯蓄制度は、郡単位から県単位へと形を変えて実現することになったのです。

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