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【展示】占領下の滋賀~GHQとその時代~

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展示期間 平成27年7月13日~平成27年8月27日

本年は、第二次世界大戦の終結から70年であり、平和国家として歩んできた戦後日本の歩みを振り返る節目の年です。滋賀県は、昭和20年9月30日に進駐米軍部隊の先遣隊が赴任して以来、昭和27年のサンフランシスコ条約発効以後も含めた12年間にわたり、その駐留を受けました。現在、滋賀県では、行政文書として渉外関係の史料154点を所有しています。これらの史料からは3,000人近い規模で赴任してきた駐留軍の様子や、そこで働く日本人労務者の状況が浮かび上がってきます。今回の展示では、これらの貴重な史料から改めて滋賀県に進駐軍がいた時代を振り返り、当時の状況を、見つめ直したいと思います。

【コラム1】GHQの進駐と接収
【コラム2】県民とGHQ

接収された施設

「接収家屋改造工事仕様書」 昭和21年(1946)

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進駐軍の少佐とその家族が住むために請負業者から提出されたもので、滋賀県に引き継がれた京都市山科接収住宅の家屋を改造するための仕様書です。家は木造3階建てで改造項目は22ヶ条におよび、床のフローリング張りやブラインドの取付け(No.1)、ガラス戸の新設や出入り口の洋風化(No.5)、ガレージの新設(No.22)などの項目が定められています。【昭06-6(1)】

「進駐軍用住宅地接収につき代用土地要求の嘆願書」 昭和21年(1946)11月3日

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柴野和喜夫知事に提出された、大津市の耕作者6名の連署からなる嘆願書です。彼らの土地は、戦前に皇子山射撃場用地として買い上げられ、陸軍少年飛行兵学校練兵場を経て、戦後は進駐軍用住宅地となり、なかなか手元に戻ってきませんでした。嘆願書では、離農者続出を憂い、希望する代用土地の提供を願い出ています。【昭06-16(14)】

「旧軍用地正式返還促進の依頼書」 昭和22年(1947)5月30日

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開拓課長から渉外課長に提出された旧軍用地返還を求める史料です。ここで述べられている八日市や長谷野(ながたにの)、船木のように、戦時中に接収されそのままGHQの接収地として返還されていない箇所もありました。地元住民の嘆願書と同じく、入植者や地元農家の実情を訴え、返還の促進を訴えています。接収地の返還は県にとっても大きな課題でした。【昭06-34(13)】

「連合軍使用施設一覧」 明治22年(1947)12月

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総務部渉外課長事務引継書の中に記載されている昭和22年12月当時に使用中だった施設の一覧表です。渉外課は前年の8月に、県と進駐軍との交渉・連絡を目的として、特別建設課とともに新設されました。この史料からは、県庁2階・3階の8室と1階の3室が、それぞれ滋賀軍政部と35連隊MP(ミリタリーポリス)本部に割当てられていたことがわかります。【昭06-135(2)】

「琵琶湖ホテル役務提供契約書写」 明治23年(1948)2月3日

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この契約書は、服部岩吉知事と琵琶湖ホテルとの間で、進駐軍が生活するためのホテル業務提供を契約したものです。大津市錦織町柳ヶ崎にあった琵琶湖ホテルは昭和9年に完成し、桃山様式を採用した和風建築でした。内部は洋風が取り入れられ、「湖国第一の近代ホテル」として知られており、接収されたホテルは、日本政府が賃借したうえで進駐軍に提供するかたちをとっていました。進駐軍は昭和20年の9月30日には、早くもこの地を接収しています。【昭06-15(20)】

「滋賀県庁現状記録確認書」 昭和23年(1948)11月6日

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昭和20年から接収されていた滋賀県庁の3室は、昭和23年に接収を解除され、11月5日、軍・県・所有者(服部岩吉知事)立会いのもと現状確認がなされました。この記録書によると、寝室として使用していた一室の東側の壁には弾痕が残っており、3室とも塗り替えが必要なほど汚損していたようです。この3室の評価額は、接収前と後で変わらず12,436円でした。 【昭06-4(21)】

「道路通行許可の嘆願書」 昭和31年(1956)3月

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昭和31年3月に大津市民より提出された嘆願書です。当時、皇子山には、占領後も日米安全保障条約の発効にともない、引き続き駐留軍として滞在した米軍住宅が建設されていました。その住宅地の上丘にある早尾神社および山上不動尊は、地元住民の信仰を集めていましたが、神社に通ずる唯一の道路が軍住宅地内に含まれたため、代わりの迂回路が設けられました。住民はこれを不便とし、日本人が神や仏を信仰するのは、外国人が日曜に教会で礼拝する心境と同じであると改善を求め、この嘆願書を提出しました。【昭06-149】

労務者の実態

「駐留軍労務者の勤務時間について」 昭和27年(1952)7月23日

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駐留軍関連の業務は、日本人労務者にとって社会保障や福利厚生などの面で、新しい社会的環境をもたらしました。男女平等や休暇取得などの制度は、当時の人々には目新しいものだったでしょう。この史料では、1週間の勤務時間が44時間に制限され、特別に48時間を超える場合は、業務管理下に属する部隊の地区司令部にのみ、許可の権限が与えられています。ただし、警備員や消防士、大津水耕農園の従業員などは、この規定から除かれていました。【昭06-109(1)】

「連合国軍関係使用人管理厚生規程」 昭和20年代

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特別調達庁労務管財部が発行したものです。県には総務部渉外課近江舞子出張所で使用されたものが残されています。各編には、労働基準法や労働組合、保険や福祉について記されており、日本人労務者の恵まれた労働条件がうかがえる一方、米軍本位の一面もあったため、後には新基本労務契約の改善へとつながりました。【昭06-127】

「日本人労務者用採用通知書」 昭和32年(1957)10月

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昭和32年10月5日、調達庁は関係都道府県知事に対し、占領期間中に作成された基本労務契約に代わって締結された、新基本労務契約の解釈および運用に関し、通達を出しました。この史料は、その通達に添付されていた採用通知書の様式です。職種や初任給、勤務場所などのほか、試用期間の定めが記され、その期間を満足に終了した場合に常用労務者として雇用される、としています。【昭06-59(1)】

「進駐軍労務者用坂本宿舎間取り図」 昭和25年(1950)

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進駐軍で働く日本人向け宿舎は、神出宿舎や坂本宿舎などがありました。その内の坂本宿舎は、大津水耕農園で働く人々が入居しており、旧棟1棟と新棟2棟の計3棟が用意され、それぞれ8部屋と11部屋の計19部屋ありました。最大79人の入居が可能で、4.5帖~9.5帖の広さを持つ部屋に分かれており、炊事場、浴室、トイレなどは共用となっていました。【昭06-124(29)】

「滋賀県駐留軍要員福利厚生事業<旧所・名跡めぐり>」 昭和33年(1958)5月

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渉外労務管理機関が主催して、滋賀県に雇用されている日本人とアメリカ人の駐留軍要員のために企画された日帰り旅行です。102名の対象者2班が5月26日と27日の2日間に分かれて、それぞれ延暦寺から鹿苑寺金閣、苔寺、東大寺へとまわりました。経費は特別調達資金の中の労務費と米軍福利厚生費の支出限度額4万円まで使われました。【昭06-82】

撤退した駐留軍

「昭和32年2月15日解雇者状況について」 昭和32年(1957)2月15日

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滋賀県駐留軍関係離職者対策本部第1回委員会において報告された解雇者の状況です。この年の7月には大津水耕農園が返還され、翌33年にはキャンプ大津司令部も返還されます。人員整理の対象は2月の段階で40名、平均年齢39.5才、滋賀県在住者23人となっており、職を失う労務者への対策は急務でした。【昭06-150(10)】

「日本人労務者用宿舎の入居調査について」 昭和32年(1957)6月

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キャンプ大津閉鎖にともない労務者解雇が実施されると、神出宿舎や坂本宿舎の人々は退去することになりました。この史料はその際に作成された調査書で、両居住者数の詳細が記されています。居住者の中には、病苦などのため退去に応じられず県と裁判に至る人などもおり、日本人労務者の失業や住居喪失の困難は、県にとっても大きな課題となりました。【昭06-111(4)】

「離職者のしおり 滋賀県総務部外務課」 昭和32年(1957)12月15日

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駐留軍から離職した日本人労務者のために、総務部外務課が作成したしおりです。相談の窓口、自営業を営むことや融資を受けるための方法、離職後の社会保険などについて説明しています。キャンプ大津の全面閉鎖を翌年1月に控える中、当時離職した労務者は約1,250名ほどおり、そのうち再就職を希望する人は約600人でした。【昭06-150(2)】

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