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【展示】世界に挑んだ近江の茶―明治輸出奮闘記―

展示期間 平成27年1月26日~3月19日

茶ポスター

滋賀は古くから茶とかかわりが古く、大津市には伝教大師最澄が唐から持ち帰った茶種を植えたという伝承をもつ「日吉茶園」があります。その茶は幕末の開国以降、日本の海外貿易の花形として一躍脚光を浴びることになります。明治20年代末に綿糸に追い抜かれるまで、茶は生糸に次ぐ輸出額を誇っていました。
今回の展示では、私たちの日常になじみ深い茶の輸出をとりあげ、明治政府・滋賀県が茶の輸出拡大に向けてどのような取り組みをしていたのかを追ってみたいと思います。世界経済の荒波の中で奮闘する彼らの姿からは、「グローバル化」という言葉が飛び交う現在に生きる私たちも学ぶところがあることでしょう。
【コラム1】 紅茶の製造
【コラム2】 緑茶の輸出

滋賀県と茶

「製茶献進ノ件ニ付具状」 大正7年(1918年)6月12日

製茶献進

滋賀県は古くから茶とかかわりが深く、大津市の「日吉茶園」には、伝教大師最澄が唐から持ち帰った茶種を植えたという伝承があります。この文書は、皇室へ「日吉茶園」の茶を献上することを願い出た際に提出された茶園の由緒書です。弘仁6年(815年)4月に嵯峨天皇が韓崎(唐崎)に行幸した際に大僧都永忠が茶を献じたという『類聚国史』の記事や、茶園に数株の老樹が存在し、根元の周囲が4尺(約120cm)、高さ8、9尺(約2.4~2.7m)に繁茂していることなどが記されています。【大か22(41-3)】

「製茶悉皆執行之図」 明治6年(1873年)

物産図説

甲賀郡は滋賀県内でも茶の生産が特に盛んな地域です。この絵は、甲賀郡土山村の茶の製造を描いたものの一部で、右が「茶目方改之図」、左が「茶蒸之図」です。茶を摘み、重さを記録してから茶葉を蒸し、揉みながら乾燥させ、選別してから茶壷に詰めます。日本の緑茶は、蒸すことで茶葉の発酵を止めるところに特徴があり、それが茶葉を発酵させて作られる紅茶と大きく違うところです。この冊子は、滋賀県勧業課がオーストリア万博に出品する県内の物産についてまとめたうちの一冊です。『滋賀県管下近江国六郡物産図説 甲賀郡(下)』(滋賀県立図書館所蔵)

紅茶の製造

「紅茶製法書」明治7年(1874年)4月25日

紅茶製法書

明治7年4月25日、「紅茶製法書」が各府県に配布されます。この当時、日本の緑茶は主にアメリカに輸出されていましたが、茶の輸出拡大を目指す明治政府は「海外各国ノ好ム」紅茶の製造に取り組むことにしたのです。そこで紅茶の輸出大国であった中国の製法を研究し、この「製法書」によって国内に広く普及させようとしました。しかし、この紅茶は海外では不評でした。この「製法書」では「天然ノ山茶、薮茶、所謂(いわゆる)捨作リノ茶、又ハ山開キ原開キ等ニ植付ケタル茶」、つまり「上好(じょうこう)ノ製ニ不適(てきせざる)」茶で製造するようにと指示されていますが、これでは低い評価しか得られなかったのも当然かもしれません。 【明あ107(8)】

「紅茶製法伝習規則」 明治11年(1878年)1月17日

伝習規則

「紅茶製法書」により製造した紅茶が不評だったため、政府は紅茶製造の新興国であるインドの製法を研究し、高知県内で試製してそれが外国人の嗜好に合うことを確認します。そして、この規則を発布し、粗製濫造を防ぐために伝習所を設けてその製法を指導することにしました。この年、静岡県に開設された勧農局出張伝習所に滋賀県からは4名が応募して3名が卒業しています。また翌12年には、滋賀県のほか東京府・三重県・静岡県で伝習所が開設されています。滋賀県の伝習所は、5月15日から9月20日まで甲賀郡土山村で開設され、近隣の2府9県から42名が参加して23名が卒業しています。 【明あ152(1)】

「紅茶取扱規則」 明治13年(1880年)

取扱規則

紅茶製造伝習所での指導の結果、滋賀県でも紅茶の製造者が増加していきます。しかし、その生産量はごく僅かで、流通ルートに乗せることも難しい状況でした。そこで県は、土山村の閉鎖された紅茶製造伝習所を利用して紅茶取扱所を開設します。県内で生産された紅茶を集め、品質に応じて5等級に分類し、三井物産会社・大倉組に販売や海外輸出を委託したのです。また、輸出はその利益が確定するまで時間がかかるため、取扱所に持ち込まれた紅茶の時価の7割までの資金を希望する者に貸与していました。さらに、紅茶の取り扱いが終了した秋には、同じ場所で再製茶伝習所を開設し、緑茶の輸出には欠かせない茶葉の乾燥作業=再製を指導しています。『滋賀県勧業課年報第二回』(滋賀県所蔵)

「英国倫敦送紅茶量数及売価」 明治14年(1881年)

紅茶数量

前年(明治13年)に紅茶取扱所に集められた紅茶を三井物産会社に委託してロンドンで売却した価格表です。白毫(ペコ―)・小種(スーチョン)・工夫(コンゴー)の3種類、総重量3,912ポンドで代金は166ポンド10ペンスとなっています。また、続けて再製茶伝習所で製造した再製茶を三井物産会社・大倉組に委託してニューヨークで売却した価格表も記載されています。こちらは、緑茶とその粉茶をあわせた総重量12,320ポンドで2,316ドル60セントとなっています。緑茶の再製はもともと西洋人に雇われた中国人しか行うことができませんでした。日本人の手でその作業を行うことは緑茶の直輸出を推進する上で必要不可欠なことだったのです。 『滋賀県勧業課年報第三回』(滋賀県所蔵)

「紅茶製造所取調方回答」 明治36年(1903年)1月29日

紅茶製造所

明治政府の目指した紅茶による輸出拡大は、結局は成功しませんでした。その理由を『滋賀県実業要覧』(明治32年)では「微力ナル地方製造家ノ能ク経営シ得サル処」と分析しています。この時期はインドがプランテーションでの大規模栽培によって、紅茶市場での勢力を拡大していました。明治35年の大津市と各郡からの茶の製造に関する報告書では、紅茶の製造は大津市の5貫目(18.75kg)だけが記載されています。翌年になって県は大津市にその製造場所を問い合わせていますが、大津市はこの文書で昨年7月までは大津市東今颪町で製造されていたが、「近来ハ製造不致(いたさず)候」と回答しています。 【明た40(77)】

緑茶の輸出

「製茶濫悪の品製すべからざる件告諭」 明治9年(1876年)7月10日

茶1

茶の輸出にあたって一番の問題となっていたのは粗製濫造でした。この文書では、開港場での製茶価格の下落について、粗製品によって日本茶への信頼が失われたのが原因であると述べています。ここで特に問題になっているのは、日乾(ひぼし・釜で少し炒った後で日干ししてまた釜で乾燥させたもの)・半天(はんてん・蒸した後に日干しして釜で乾燥させたもの)・古茶を混入させた茶です。中国茶は見た目が良くても風味は良くないのに対し、日本茶はその逆なのでアメリカ人は日本茶を好んでいるのに、粗製品を混入させては今後どのような損失を生むかわからない、という言葉に政府の危機感を見て取ることができます。 【明い82(58)】

「生糸繭茶共進会規則」 明治12年(1879年)5月19日

茶2

明治12年、粗製濫造の防止に取り組む政府は横浜で生糸繭茶共進会を開催します。当時、日本の輸出品の第1位は生糸、第2位は茶でした。茶については、9月15日から10月15日まで開催され、その優劣が競われました。明治16年には神戸で製茶共進会が開催されています。横浜・神戸という開港場で共進会が催されたのは、国内外の商人にアピールする目的もあったのでしょう。また、明治19年には甲賀郡水口村の広業学校で滋賀県規模での製茶共進会も開催されています。 【明あ160(50)】

「茶業者ノ注意」 明治16年(1883年)4月27日

茶3

共進会を開催して品質改良に取り組んでも、粗製濫造を撲滅するのは容易ではありませんでした。そこへ明治16年7月1日からアメリカで「贋製茶輸入制禁条例」が施行されるという知らせが届きます。政府はこの文書を発して条例の条文を周知させるとともに、製造者たちへ注意を促します。この文書では、粗製濫造の原因も分析されています。当時、外国人商人を通さずに茶を輸出するのは難しい状況でしたが、その外国人商人が粗製茶を着色しているというのです。その結果、茶葉の価格が下落し、製造者はその損失を補うために粗製濫造を行い、さらに信用を失うという悪循環に陥っていました。粗製濫造を防ぐには、貿易の仕組みを改善する必要もあったのです。【明い142合本4(8)】

「製茶共進会規則中製茶集談会手続及問題」 明治16年(1883年)7月27日

茶4

明治16年9月1日から神戸で開催された製茶共進会では、製品の優劣を競うだけではなく、製茶集談会も開催されました。各地の有力な製造者・茶商人を集め、茶業について議論させたのです。その「問題(=議題)」には、粗製濫造の防止については各地に組合を設立して品質改良に取り組むこと、貿易問題については再製・荷造所を各地に設立して外国人商人を通さない直輸出の仕組みを整えることや、海外に視察員を派遣して実情を明らかにし、紅茶の販路を開拓することが設定されていました。この集談会での議論をもとに、組合設立による取り締まりが本格化するのです。 【明あ205(4)】

「近江国茶業組合規約」 明治17年(1884年)4月9日

茶5

製茶集談会に先立ち、滋賀県では明治16年4月25日に「製茶業者取締仮規則」を出して、製茶業者に組合を設立するよう指示していました。同年11月12日、製茶同業会で「近江製茶組合取締規約」が議決され、翌年2月12日、県はその規約を認可します。しかし、その直後の3月3日に政府が「茶業組合準則」を発し、製品に組合の名称等を明記すること、組合員は府県庁の検印を受けた証票を携帯すること、取締所を設置することなどを定めます。その準則に合わせて改正されたのがこの規約です。取締所は滋賀郡大津町に設置されました。さらに5月9日、県は「茶業組合規則」を出して取り締まりを強化しています。【明い153合本1(35)】

「製茶ノ事」

茶6

組合による取り締まりの一方、明治18年には滋賀県は県内の有志者を集めて茶の再製を行った上、大倉組に委託してニューヨークに輸出しています。翌年のこの文書では、「追々心ヲ直輸ニ傾クル者アリ」としていますが、利益が確定するまで待つことのできない資本力の弱い製造者のために、再製所に茶を集めた際に仮価格の何割かの資金を前貸しする方法を設けることが必要であるとしています。また、粗製濫造の防止については、各府県での取り締まりには限界があるため、政府による取り締まりが重要であるとして、神戸・横浜・長崎などの要港に製茶の検査所を設けることが提案されています。【明お45(37)】

「製茶ニ係ル告諭」 明治19年(1886年)4月1日

製茶7

横浜・神戸・長崎への検査所の設置は、政府が「製茶検査法」を「茶業組合準則」に追加したことを受けて茶業組合中央本部会議で議決されました。しかし、滋賀県令中井弘は、開港場には「多年ノ弊習」があるため充分に検査するのは難しいとして、油断せずに品質改良に努力するよう告諭を出しています。また、前年にサンフランシスコで日本茶が高い評価を得たことに触れつつ、アメリカは日本茶だけを飲んでいるわけではなく、中国・インドといった強力な「供給者」がいるほか、コーヒーという相手もいると述べ、一時の高評価で安心しないよう気を引き締めさせています。日本茶は中国緑茶と市場を争っていましたが、そこへ徐々にインドの紅茶が進出してきていました。【明い1合本1(1)】

「一般ノ観察」 明治32年(1899年)4月

製茶8

品質改良と直輸出を2本の柱として輸出拡大に取り組んできた滋賀県ですが、直輸出は一時増加するものの年々減少し、この頃は茶商人を通しての輸出となっていました。その後は、国内向けの生産が中心になっていきます。滋賀県は気候が寒冷なため、伊勢・駿河・遠江地方で二番茶を出荷する頃にようやく一番茶を出荷するという「不利ノ地位」にあったのです。また、製法の改良に取り組む気運が乏しいとも述べられています。しかし、人類の喫茶の嗜好は絶えることがないので、製品の改良・費用の削減・機械の運用に努力を重ね、世間の人々の嗜好に適した茶を作ることができれば、今日の衰退は決して憂慮する必要がないとして、茶業者の一層の努力を求めています。 『滋賀県実業要覧』(滋賀県所蔵)

「全国茶業者大会議題」 明治32年(1899年)4月24日

製茶9

アメリカへの日本茶の輸出自体は順調に増加し、緑茶では20世紀初めに中国を抜いて第1位に立ちます。また、カナダの緑茶市場では圧倒的なシェアを占めていました。その一方で、インド・セイロンの紅茶も急速に市場を拡大していました。この文書は、カナダで提出された製茶課税法に対して、日本の製茶を倒して世界の製茶供給権を独占しようとするインド・セイロンの製茶業者の陰謀であるとして、一致団結して抗議することを呼びかけたものです。インド・セイロン紅茶に対する危機感が伝わってきます。その後、日本の緑茶はインド・セイロン紅茶に市場を奪われてしまいます。一方、日本国内の軽工業の発達とともに茶は輸出品の中での地位を低下させていくのです。【明て59合本3(1)】

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