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【コラム2】緑茶の輸出

コラム1では紅茶の製造をとりあげ、明治政府・滋賀県の茶の輸出拡大へ向けた取組を紹介しました。【コラム2】では、緑茶の輸出をとりあげ、その取組を追ってみたいと思います。

粗製濫造

緑茶の輸出といったとき、明治時代にいったいどこの国へ緑茶を輸出していたのだろうと不思議に思われることでしょう。実は20世紀初めまで、緑茶の最大の輸出先はアメリカ、次いでカナダでした。アメリカ、カナダでは緑茶に砂糖とミルクを入れて飲んでいたといわれています。

緑茶の輸出において、常に問題となっていたのは粗製濫造でした。県に残っている粗製濫造を戒める文書の中で最も古いものは、明治9年(1876年)7月に政府からの通達を受けて県内に向けて出された告諭です【明い82(58)】。そこでは、粗製茶や古茶を混入したものを正規の値段で売っていることが問題とされ、日本茶への信頼が失われたことで価格が下落したと指摘されています。それでは次に、粗製濫造を防ぐ取組を見てみましょう。

製茶共進会と組合設立

粗製濫造を防ぐためにまず考えられるのは、茶の品質改良です。政府は明治12年(1879年)、横浜で生糸繭茶共進会を開催し、製造者の勉強の程度、製品の優劣を競わせました【明あ160(50)】。生糸は当時日本の輸出品第1位、茶は第2位という重要な物産でした。4年後の明治16年には、横浜で行われた共進会からどれだけ茶業が改良進歩しているかを競うために神戸で製茶共進会が行われています【明あ71(116)】。横浜・神戸という開港場で共進会が開かれたのは、国内だけではなく国外の商人へも品質改良への取組をアピールする目的があったのでしょう。滋賀県でも、県規模での製茶共進会が開催されています。明治19年に甲賀郡水口村で開催された製茶共進会がそれです【明い162(59)】。この製茶共進会の規則は、神戸での製茶共進会の規則と非常によく似ています。政府の取組を参考に、県内の茶業振興のために製茶共進会が開催されたのでしょう。

明治16年に神戸で開催された製茶共進会の期間中には、茶の製造者・商人の有力者を集めて、茶業に関する議論をさせる製茶集談会も開催されました【明あ205(4)】。その集談会では、改良組合を設立して粗製濫造を防ぎ、製品の品位を改良することについても話し合われました。この集談会ののち、組合による品質の取締りが本格化することになります。

滋賀県では製茶集談会に先立つ明治16年4月、「製茶業者取締仮規則」を定め、茶業者が組合を設立して粗製濫造等を取り締まることを命じています【明い136(45)】。同年11月、製茶同業会で「近江製茶組合取締規約」が議決され、翌17年2月に県によってこの規約は認可されました【明い153合本1(12)】。しかし、その直後の3月に政府が「茶業組合準則」を定め、製品に組合の名称や製造者等の氏名を明記すること、組合員は府県の検印を受けた証票を携帯すること、府県内に取締所を設けることなどを命じたため【明あ213(2)】、それに合わせて「近江製茶組合取締規約」も改正され、4月に「近江国茶業組合規約」として改めて県から認可されています【明い153合本1(35)】。さらに5月、県は「茶業組合規則」を定め、罰則規定を設けて取締りを強化しています【明い144(53)】。

直輸出への取組

しかし、粗製濫造の防止は国内での品質改良だけでは不十分でした。明治16年4月27日に滋賀県令籠手田安定(こてだやすさだ)が出した告諭【明い142合本4(8)】には政府が出した「茶業者ノ注意」が添えられていますが、そこでは外国人商人が粗製茶に着色するために茶葉の価格が下落し、日本の茶業者はその損失を補填するために粗製濫造を行うという悪循環が指摘されています。当時、ほとんどの茶は開港場の外国人商人を通して輸出されていました。また、国内で流通していた緑茶は水分が多く、海外へ輸出するには外国人商人が中国人を雇って再製(最終的な乾燥作業)を行わなければなりませんでした。その過程で着色が行われていたのです。日本人の手で再製を行い、外国人商人の手を通さずに直輸出する仕組み作りが必要だったのです。

滋賀県では明治13年(1980年)、静岡県から教師を招いて土山村に再製茶伝習所を開設しています(『滋賀県勧業課年報第二回』)。志願者34名中12名が卒業し、そこで製造された再製茶は三井物産会社・大倉組に委託してニューヨークに輸出されています。また、明治18年には県内の有志者を集めて再製を行い、大倉組に委託してニューヨークに輸出しています【明お45(37)】。しかし、こういった取組は単発的なもので終わってしまったようです。明治32年の『滋賀県実業要覧』では直輸出の販路が途絶えたことが記され、輸出は開港場である神戸や横浜への「輸送」として表現されています。また、滋賀県は気候が寒冷なため、伊勢・駿河・遠江地方で二番茶が出る頃にようやく一番茶が出るという「不利ノ地位」にあるとも述べられています。さらに、製法を改良しようという気運にも乏しいため、茶業一般の不振が滋賀県では一層の打撃となっていると指摘しています。しかし、人類の喫茶の嗜好は絶えることがないので、製品の改良・費用の削減・機械の運用に努力を重ね、人々の嗜好に適した茶を作ることができれば、今日の衰退は決して憂慮する必要がないとして、茶業者のより一層の努力を求めています。そのかいあってか、県内で生産される緑茶のかなりの部分は茶商人たちの手を通じて国外へ輸出され続けていました【明て57合本3(5)】。

日本茶の輸出自体も、20世紀初めには中国を抜いてアメリカの緑茶輸入の第1位に立ったといわれています。また、カナダでは常に緑茶輸入の首位に立っていました。しかし、そこへインド・セイロン紅茶が入ってきます。日本の緑茶はインド・セイロン紅茶に市場を奪われていきました。一方、日本経済は日清戦争・日露戦争を経て綿工業から重工業を育成する段階に達していました。それに伴い、茶は綿糸や石炭などに抜かれ輸出品としての地位を低下させていったのです。滋賀県では大正時代初め(1910年代前半)ごろから国外向けではなく国内向けの生産が中心となっていきました(『滋賀県史』第4巻)。

参考文献:角山栄『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』(中公新書、1980年)

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