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【コラム1】紅茶の製造

安政5年(1858年)、アメリカを始め、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約が結ばれます。条約に基づき翌6年、まず神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)で貿易が始まります。この時日本は世界経済の波に飲み込まれたのです。開港から明治の半ばまで、日本の輸出品の中心は生糸と茶でした。【コラム1】では、明治期の紅茶の生産を取り上げ、日本・滋賀県が茶の輸出拡大のためにどのように奮闘したのかを追ってみたいと思います。

「紅茶製法書」

現在では紅茶といえばまず思い浮かぶのはインドではないかと思いますが、もともとイギリスが紅茶を輸入していたのは中国(清)でした。アヘン戦争(1839~42年)は、茶貿易による大量の銀の流出に悩んでいたイギリスが中国へインド産のアヘンを輸出したことが原因となっています。イギリスがインドで紅茶を製造させ始めるのはちょうどその頃のことです。

一方、明治政府が茶業振興に取り組み始めたのは明治7年(1874年)のことです。内務省勧業寮農政課に製茶掛が設置されています。同年4月25日には、勧業権頭河瀬秀治が「紅茶製法書」【明あ107(8)】を各府県に配布しています。なぜ日本で「紅茶製法書」が配布されたのかを見てみましょう。

「紅茶製法書」では、「紅茶ハ海外各国ノ好ムモノ」であり、中国の輸出量は「内国製法茶ノ輸出ニ比較スレハ幾万倍」であると述べています。従来の製法の茶を紅茶に転換すれば「其益鴻大(こうだい)ナルカ故ニ」、それまで中国が「秘シテ伝ヘサル所」の製法を各府県に配布したのです。

また、日本茶は製造過程で発酵を止めているため、それを買い集めても発酵させて紅茶に加工しなおすということができません。また、乾燥が不十分であったため、当時の西洋人は開港場で中国人を雇って保存に耐えられるように再加工していました。その再加工の経費を払っても日本茶をそのまま売るよりは利益が大きかったのです。それならば再加工の必要がない紅茶を国内で直接製造しようという目論見も明治政府は持っていたのです。

「紅茶製法伝習規則」

しかし、「紅茶製法書」を配布して紅茶製造を奨励したものの、その試みは成功しませんでした。「紅茶製法書」では「天然ノ山茶・籔茶、所謂(いわゆる)捨作リノ茶、又ハ山開キ原開キ等ニ植付ケタル茶」を用いて紅茶を製造するように説明していましたが、これでは外国人に不評なのも当然でしょう。外国人から見れば紅茶の粗製濫造です。

そこで明治政府は、「最モ精良ニシテ其声価諸州ニ冠タリ」という紅茶製造新興国・インドの製法を研究し、明治11年(1878年)1月17日に「紅茶製法伝習規則」【明あ152(1)】を発布し、勧農局製茶所(紅茶製造伝習所)でその製法を習わせることにします。この伝習所は年ごとに地域を変えて開設され、翌12年には滋賀県のほか、東京府・三重県・静岡県・鹿児島県に開設されています【明い105(4)】。『府県史料滋賀県史』によると、明治11年に静岡県で開設された勧農局出張伝習所には滋賀県からは4名が参加して3名が卒業しています。また明治12年には県内甲賀郡土山に紅茶伝習所が開設され、近隣の2府9県から42名が参加して23名が卒業しています。

滋賀県の取組

『滋賀県実業要覧』『府県史料滋賀県史』によると、明治9年(1876年)に三井物産会社が甲賀郡水口村・土山村に紅茶製造場を開き、製造は中国人に委託し、買入れは英国人に担当させています。また、明治11年(1878年)には土山の製茶家達が紅茶製造場を開いています。しかし、『滋賀県勧業課年報第二回』では、紅茶伝習所でその製法を学び、製造するものは少なくないといっても製造額が僅少であり、そのために販路を確立できないという問題が述べられています。そこで滋賀県は明治13年(1880年)、「紅茶取扱規則」を設け、甲賀郡土山村に紅茶取扱所を開設します。海外に紅茶を直輸出したいと望む製造者から紅茶を集め、品質に応じて5等級に判別し、三井物産会社または大倉組に海外輸出・売買を委託するというものでした。また、希望する者には、品質に応じて茶の時価の7割まで資金を貸与していました。海外への直輸出は、その代金が手元に入るまでに時間がかかるという問題がありましたが、その問題に対応しようとしたものということができます。『滋賀県勧業年報第三回』によると、明治13年に紅茶取扱所に集めた紅茶の売却代金は、白毫(ペコ―)・小種(スーチョン)・工夫(コンゴー)の3種類、総重量3,912ポンドに対して166ポンド10ペンスでした。

しかし、滋賀県の紅茶製造はその後、廃れてしまいます。その理由を明治32年(1899年)刊行の『滋賀県実業要覧』は「海外輸出販売ニ至テハ微力ナル地方製造家ノ能(よ)ク経営シ得サル処」であると述べています。1800年代半ばに紅茶の製造が始まったインドではプランテーションによる大規模経営方式をとっていました。イギリスの紅茶輸入を見ると、1860年代末において中国からの輸入が全体の9割を占めていましたが、1880年代中頃にはインド・セイロン茶の参入により5割を下回るようになります。インドに圧倒された中国も日本と同じく小規模家族経営方式をとっていました。日本の「微力ナル地方製造家」ではインド・セイロン茶に太刀打ちできなかったのでしょう。

明治35年(1902年)の大津市及び各郡からの茶の製造に関する報告書【明た40(79)】を見ると、紅茶については大津市の5貫目(18.75キログラム)だけが記されています。翌36年、この5貫目について県は大津市に製造場所を問い合わせますが、それに対する大津市の返答は、昨年7月までは東今颪町で製造されていたが「近来ハ製造不致候(いたさずそうろう)」というものでした【明た40(77)】。滋賀県の紅茶製造・直輸出の夢はついえたのでした。

参考文献:角山栄『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』(中公新書、1980年)

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