展示期間 平成28年7月25日(月曜日)~9月21日(水曜日)
今年は、4年に一度開催されるオリンピックの年にあたり、これを機としたスポーツの関連展示を企画しました。明治5年(1872)、明治政府は国民の体格・体力改善を目的に小学校の教科に「体術」(体育)を取り入れます。この教科は、翌6年に「体操」と改められますが、この語の元になった “gymnastics”は器械運動や格闘技など軍事目的の身体運動を意味していました。しかし、当初この「体操」は子どもたちの興味を引くものでなく、後に徒競走や野球など趣味娯楽的運動を示すスポーツ(遊戯)や、体の曲げ伸ばしを行う軽体操(普通体操)を採用し、体育に含めたのです。
今回の展示では、明治~昭和初期の体育やスポーツの様子、戦時下での総力戦体制に向け、行政事務効率化の一つとして取り入れられたラジオ体操などの史料を御紹介します。
【コラム】体育とスポーツの移り変わり
西洋から伝えられた体操は、早速学校の教科として取り入れられました。史料中に「体術」と示されています。しかし、導入当時この内容を知る人は少なく、指導者もいませんでした。明治6年に「体術」は「体操」へと改称され、明治政府は1日1~2時間実施することや、体操の絵図が描かれた『東京師範学校板体操図』を手本とする指示を出します。ただ、それでも理解できる人は少なく、十分な指導はなされなかったようです。【明あ19(214)】
明治11年10月、東京に体操指導者を育成する体操伝習所が設置されると、学校教育における体育が全国に普及しました。この史料は、授業時間や教科内容をまとめたものです。「体操」の教科を見ると、尋常小学校においては、「遊戯」を初めに行い、しばらくして「普通体操」を加え、男児には「兵式体操」の一部を教えることとあります。そして高等小学校では、男児には主として「兵式体操」を、女児には「普通体操」もしくは「遊戯」を教える定めとしました。また、適宜戸外運動や水泳をさせる記述も見られます。【明し174(33)】
「遊戯」・・・・徒競走や野球などスポーツ競技を主な授業内容としていました。
「普通体操」・・徒手体操や器械体操といった身体運動の授業を指します。
「兵式体操」・・整列や行進を主とする隊列運動が行われる授業です。
当時の体操授業に必要な設備と器具とが記された史料。この中には、尋常小学校・高等小学校の各学年における授業内容を、具体的に示した表も添付されています。【大し185(21)】
これは、県商業学校(現在の県立八幡商業高校)から県に対し、生徒増員のために生じた銃器不足分の購入を求める内容の史料です。明治19年の同学校設立前に出された「滋賀県商業学校規則」において体操の教科が定められ、その教科に兵式体操で銃器を扱う課程がありました。県立学校による銃器の補充は、一度県に申し出がなされ、県より陸軍省に払い下げを求める手続きを取っていました。【明し33合本2(36)】
大正14年(1925)、公立の中等学校以上の学校に陸軍現役将校が配属され、これまでの「兵式体操」より軍事教育の要素を踏まえた「教練」が教科に導入されました。この史料は、昭和7年10月、皇子山射撃場(現在の大津市山上町)で第1回県下中等学校連合射撃大会が計画されたことを示すものです。精神の涵養や規律厳守、武力向上が大会の目的で、各中学校から代表の生徒合計140人が出場し、一人5発ずつ的に当てその点数を競うルールを定めています。【昭し157(15)】
県の学校教育で水泳が導入されたのは、大津市教育会によって紺屋ヶ関(同市浜町付近)で指導が行われた大正14年(1925)以降のことでした。これは、滋賀郡膳所町(現在の大津市)の琵琶湖湖面に設定された臨時水泳場の図面です。県師範学校が生徒の水泳練習のために設けました。【昭ぬ19(18)】
ボート競漕大会の最も古い記録は、明治28年7月に開催された琵琶湖連合競漕会です。これは、県主催で行われた短艇競漕大会で、関西の各大学の他、東京からの参加もありました。この史料では、第4回大会に際し、組織改良と会務拡張に取り組もうとする記述が見られます。大会名称も大日本連合短艇競漕会に変更されました。短艇とはカッターボートともいい、手こぎボートの一つを指します。【明お58合本1(41)】
京都日出新聞社(現在の京都新聞社)が主催した和船競漕大会に関する史料です。京阪石山坂本線の浜大津―島ノ関駅間付近の琵琶湖湖面で開催されました。和船とは、古代の丸木船以来、国内独自で発達した船を指し、船底に側面板を継ぎ合わせた構造をしていました。琵琶湖を代表する和船には丸子船があげられます。【大ぬ20(106)】
大津市石場浜の琵琶湖湖面において開催された短艇競漕大会のコース図面です。この図面より、中等学校と高等専門学校の発艇線(スタート位置)がそれぞれ別位置に図示され、中等学校が1100m、高等専門学校が1300mで争われたことがわかります。京都帝国大学学友会端(短)艇部は、明治39年(1906)に大津市三保ヶ崎で行われた第1回水上大会に合わせて結成された団体で、大会時には同大学だけでなく、近隣府県の学校も参加しました。【明う171(54)】
大正8年(1919)10月、当時の知事堀田義次郎によって提唱された琵琶湖一周リレー競走会が行われました。この競走会は琵琶湖を3日がかりで1周するもので、同13年の第6回大会で一度は中止されたものの、昭和10年11月に琵琶湖一周駅伝競走大会として復活します。史料では、当時の県社会教育課において大会の再開を計画していたところ、大阪毎日新聞社大津支局でも同様の計画があり、両者一体で開催する内容を伝えています。大会は同14年の第5回大会まで行われました。【昭き13合本2(13-4)】
この大会は、昭和7年より年に1回の割合で開催され、第5回大会は大津市緑ヶ丘球場が会場となりました。第1回大会より久邇宮朝融(あさあきら)王の台覧があり、今回も同様に台覧を仰ぐ内容が記されています。大会へは近畿各府県より2チームずつが出場したようです。【昭お9合本1(7-3)】
緑ヶ丘球場は、昭和2年7月、地元地主の土地を借りて京阪電鉄が建設した球場です。現在の大津市藤尾地区にあり、一部は藤尾市民運動広場となっています。昭和5年7月に開催された全国中等学校野球大会京津予選では、同電鉄京津線四宮―追分駅間に、試合期間中「緑ヶ丘運動場前仮停留所」が設けられ、観客の利便を図りました。この球場は昭和17年頃まで存在しますが、食糧増産のため芋畑へと変わり、同20年、京阪電鉄が用地を地主に返還して姿を消しました。【大と20(15-1)】
県所蔵史料の中で、「オリムピック」という語句が登場する数少ない史料の一つです。日中戦争(昭和12~同20年)などの影響から実現には至りませんでしたが、昭和15年のオリンピック開催は東京で予定されていました。この史料では、全国的に有名な県の競技は端艇(ボート)であること、県が最も力を入れているスポーツは琵琶湖を利用した水泳であることがわかります。そして、県よりオリンピック東京大会へ選手を輩出させるため、陸上と水泳の2種目について講師を招き、講習会を開く予定であるとしています。【昭お45(24)】
昭和12年6月15日、県庁舎は改築のため大津市別所に仮庁舎として移転しますが、その日の正午から、県庁職員全員でラジオ体操を開始することになりました。これは、同年5月、政府から出された「第一線行政事務刷新」により、戦時下における行政業務の簡素効率化が図られたためです。すでに作成していた大阪市の「事務改善運動の概要」を手本に設定しました。職員の健康増進のために、庁舎前庭広場などで実施されました。ラジオ体操は昭和9年より全国放送され、すでに第2体操もありましたが、県庁では第1体操のみを2回行ったようです。【昭お30(5)】
『大阪朝日新聞』・『大阪毎日新聞』(ともに滋賀版)が、県庁で開始されたラジオ体操の様子を伝えています。【昭お30(6-2)】
昭和12年7月に日中戦争が起こると、県庁で行われていたラジオ体操は、健康維持のみでなく、規律訓練の役割が求められるようになります。厚生省は県に「大日本体操」(大日本国民体操)の実施を求め、指導者養成のための講習も行われました。同体操は、厚生省がさらなる国民の体力増強を目指して設定したもので、昭和14年12月には、ラジオ体操の第3として組み入れられることになります。【昭お36(20)】