展示期間 平成28年11月7日(月曜日)~平成29年1月26日(木曜日)
滋賀県において、マザーレイクと称され親しまれている琵琶湖は、古くから人々の生活と密接な関わりがありました。日本一の面積を誇るこの湖は、ホンモロコやビワマスなど固有の魚種を育んだほか、琵琶湖における独特の漁法なども生み出してきました。たとえば、琵琶湖の風物詩でもあり、文献上、鎌倉時代からその存在が知られている魞(えり)漁業は、障害物に出合っても前進するのみで後退することを知らない魚の習性を利用して、編み出されたものでした。
一方で、豊かな恵みがもたらす漁獲による利益は、激しい権益争いも起こし、明治中後期にいたっても、漁場をめぐる争いは絶えませんでした。これに対し、滋賀県は、漁民の争いを調停し、豊かな資源を保護していく目的で、漁場・漁具の制限や、定置・特別・区画の三種に代表される漁業免許制を実施するなど、様々な規制を構築していきます。乱獲防止を目的として、今では全国各地に出荷されている鮎の養殖漁業が官民あげて行われたのも、明治初期が始まりでした。
今回の展示では、限りある資源を守りつつ水辺に暮らす人々が、明治期以降、どのような漁業(なりわい)を営んでいたのか、史料から探っていきたいと思います。
【コラム】琵琶湖の漁業
江戸時代までは、諸藩がそれぞれの政策で琵琶湖における漁業を統制していましたが、近江国全体にわたる保護政策はありませんでした。明治時代に入り、初代県令松田道之は、特定の区域の中で独占的に漁ができる「借区免許」、特定の漁法であれば特定区域で独占的に漁ができる「専稼免許」、借区を除いた一般の湖上で漁ができる「雑稼免許」の三種類による鑑札免許制を定めました。【明う48(-)】
多くの伝統的な漁法のなかでも、魞漁は「酷密ヲ極ムルモノ」だったようです。稚魚の育成を阻害するもので、将来の漁業への影響が大きいとされ、明治12年には、県から規制されることとなりました。段階的には規模を縮小し、同17年の全面禁止が目標とされています。史料1.の規則も同12年に改正され、最も権限の強い「借区免許」が認められなくなりま した。【明い105(75)】
琵琶湖や県内河川の魚を保護するため、全32条にわたり定めたものです。水産動植物の繁殖・保護のため魚籍をもうけ認可制を採りました。また、漁業の行えない保護区域や禁漁期間、魚場ごとの漁具の制限などを定め、違背者には漁具や漁獲物の没収などの罰則が加えられました。【明い25合本2(10)】
明治23年(1890)に東京上野公園で開催された内国勧業博覧会に、蒲生郡島村と同郡沖島村で捕ったヒガイ魚出品の可否を、同郡役所が県に問い合わせたものです。ヒガイは琵琶湖の固有種であり、全長20センチほどに成育します。史料中でもこのヒガイを「湖魚中、最も名魚につき」と評価しています。【明て51(91)】
昭和5年に、県職員から田寺俊信県知事に提出された調査報告書です。この調査は、漁業取締規則の改正に反対する漁業者への反証のため作成されました。主に鮎地曳網従業者について記され、法改正以前の漁具と新たに導入される漁利増進や繁殖・保護に有効とされる漁具との比較などを調査しています。この報告書からは、地元漁業者がこの法改正に伴う新漁具新調による経済負担増加を憂慮していることが分かります。【昭つ35(1)】
漁業者にとって、近代以前の為政者によって発給された古文書は、非常に大切なものでした。それは先祖から引き継いできた漁業の慣行を証明するものだったからです。明治34年制定の漁業法で、従来の「慣行」が漁業権という形で権利化され、旧来の村に代わって漁業組合に付与されることになりました。この写しは、制定を受け滋賀郡和邇村の人びとが漁業権を認めてもらうために作成したものであり、慶長期から文政期にわたる内容です。漁業者にとって「記録の継承」がいかに重要であったかうかがえます。【明つ26合本1(2)】
免許状は、漁業者の申請により更新が重ねられていきました。更新期間はおおむね1年から2年程度で、個人もしくは団体で漁場図を添付し申請していました。免許状には漁業の種類、名称、漁場の位置、漁獲物の種類、漁業時期が記され、「水産植物の蕃殖、保護その他公益上必要あり」と認められた時は、制限や停止などの処分が加えられました。【明つ10(6)】
高島郡百瀬村の漁業者による特別漁業免許交付の嘆願書です。明治時代になり、旧来の魚場占有利用権は形式的にいったん消滅し、政府の免許によって発生することになりました。この陳情書は、同村近辺の漁業権を獲得した一個人に対し、その影響により漁場を制限された村民が、自分たちにも免許を与えてほしい、という訴えです。結局この件は、その一個人と嘆願者の間で調停が行われ、村民にも5パーセントの利益分与をすることで、和解が成立しました。【明つ22(24)】
野洲郡、蒲生郡、県関係者立会いのもと、野洲郡北里村、蒲生郡岡山村の漁業者が署名した漁場認定図です。蒲生郡大名川に置かれた魞漁場の位置に関し、野洲郡北里村より異議が唱えられたため、両村の関係者が北里村役場に召集され、認定図を作成しました。大名川の中央は両村の境界線があり魞の設置に関していさかいが生じましたが、この認定図で両岸からの網設置地点が細かに定められ、解決をみました。【明つ25合本2(1)】
江戸後期の経済学者佐藤信淵(のぶひろ)の著書を再版したもので、上下ニ冊からなります。この図は地引(曳)網を写したものです。地引網漁法は、ニ艘の船が一ヶ所から左右に分かれ、中央に設置した大きな嚢(ふくろ)に魚を追い込んでいく漁法で、現在も沖島などで行われています。地引網は大・小に分けられ、大地引網では、鯉やフナなど、小地引網では、モロコなどを漁獲しました。(県史資料5-46)
県租税課が作成したもので、32種類の漁法と漁が行われている地域、漁に使用する道具、採れる魚の種類、収益、漁期など詳細に記されています。このページの「胴引網」とは、さおで水面を叩いて、魚を湖中に沈めた網の中へと追い込む漁法です。引網とも呼ばれ、犬上郡松原村(現彦根市)で行われていました。この漁法で、ワタカやコブナなどを漁獲しました。【明く9合本4】
愛知郡の漁業組合から提出された内湖を利用した鯉の養魚場設置の申請書です。内水面漁業である琵琶湖の漁業は、漁獲量の維持・増大をはかるためには、養殖なども行わなければなりませんでした。明治33年には県水産試験場が犬上郡福満村(現彦根市)に設置され、鯉類漁獲量の増大に貢献しています。【明な199(6)】
近江水産組合から県に提出された鮎苗の放流報告書です。これによると、4月と5月のニ回、放流事業は行われ、東浅井郡姉川(現長浜市)で漁獲した稚魚を佐倉川など琵琶湖の支流に放流しました。その数はニ度の放流で2万5千尾に上ります。一時は全国の放流用鮎苗の70パーセントが琵琶湖産であると評価されていました。【大つ14(10)】
愛知川上流漁業組合が専用漁業免許を申請した際の添付図です。ここに描かれている「打網」は鮎、鯉、マス、イワナなどを漁獲するため通年使用したもので、水視眼鏡などを併用して魚群を一網打尽にしました。昭和9年の時点で、この組合だけで88名の打網漁業従事者がおり、十万尾の鮎放流計画も立てていました。【明つ28合本2(7)】
ここに掲載の簗(やな)漁は、アユやウグイ、ハスなどを漁獲する漁法で、古い漁法として知られています。河川で扇形にすのこを設置し、琵琶湖から遡上してきた魚を川岸にあるカットリヤナ、もしくはアンドンと呼ばれる部分に誘導します。安曇川河口の北舟木や姉川河口の南浜が大仕掛な簗の設置場所として知られていますが、近年はその数が減少傾向にあります。(県史資料5-48)