展示期間 平成26年3月14日~5月22日
県政史料室では、新学期に合わせて、企画展示「学校を創る―滋賀の近代教育―」を開催しました。小学校や師範学校、実業学校など、多種多彩な「学校」に関する公文書を揃えました。
教育の機会均等を求める教員の建白書や、水口県が「県学」(旧藩校)に付随して設立した「小学」、県下初の盲学校である「彦根盲学校」の史料なども展示しています。滋賀県の地域史や教育史にご関心がある方は、ぜひご覧ください。
水口藩の教育制度や実情をまとめたもの。江戸時代の教育施設である藩校・翼輪堂(安政2年(1855)開校。明治3年尚志館と改称)や家塾・寺子屋が明治維新後も廃藩置県まで存続していたことがわかる。また、庶民であっても「藩士ト均シク」藩校に通学することが許されていたことや、藩外での遊学を認めていたにもかかわらず、専ら藩儒・中村栗園のもとで学び「他国ニ出ル者ナシ」といった教育状況も記されており、身分にこだわらない学問環境を整備しつつも藩士・藩民の学問姿勢は内向きだったことがうかがえる。【明し162】
明治4年(1871)7月、廃藩置県により水口藩は水口県となる。水口県では「県学」(藩校尚志館)と「小学」(小学校)を設置し、7・8歳児を「小学」に入れて素読・習字・算数を学ばせ、習熟者を「県学」に進学させる制度をつくる。「幼齢」期の学問の「習熟」を特に重視していた水口県の意識がうかがえる。しかし、実際には小学校設置にいたらず、「県学」に「小学」を兼ねさせたため、従来の藩校教育と変化となく、同年11月に水口県が大津県に統合されたことで、水口県による小学校設置は実現に至らなかった。【滋賀県所蔵】
太政官より発せられた日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令の序文。従来の儒教思想に基づく教育は批判され、欧米の個人主義・実学主義の教育観が色濃く反映されている。「学問ハ身を立るの財本」であることが説かれ、学校教育を受けなければ、自らの身を立てその繁栄をうることができないことが強調されている。【明し161(1)】
初代県令松田道之が小学校設立の方法を具体的に示した布達。原則として1区につき1校を設立し、学校入費は貧富に応じた戸別割とすることを定めた。一方で極貧者は出資を免除されたり、講や会社などを通じた多様な資金徴収の方法が示されている。他にも私学・私塾の活用や、校舎の民家・寺院の借り入れなど、民衆の負担を考慮に入れた柔軟な運用法が提示されている。【明い36(59)】
長浜尋常高等小学校の校舎図面。同校は明治4年(1871)9月9日、長浜小学校として西本町の下村藤衛門邸を本校として出発した。後に滋賀県第1小学校と名付けられ、明治7年(1874)洋風学校を神戸町に新設した際、開知学校と改称される。さらに長浜学校を経て、明治26年(1893)長浜尋常高等小学校となる。現在も残る同校舎は、平成22年(2010)国の有形文化財に指定されている。【明し136(84)】
県大書記官河田景福が記した臨時試験巡回の記録。当時小学校には、卒業試験と他校の生徒と学力を競い合う臨時試験の2種類があった。河田は10月19日から11月11日までの間、湖南(坂本)~湖西(海津)の各村を回り、臨時試験を視察している。試験所の多くは、仮校舎である寺院が用いられた。河田は各所で生徒や教員、戸長などに演説をしており、特に戸長に対しては、教員の待遇の悪さに対する懸念をあらわしている。(滋賀県所蔵)
県学務課長奥田栄世が執筆した県独自の郷土教科書。明治10年前後は、県地誌教科書が多数刊行されていた時期である。その中でも本書は、最も著名な県地誌であり、刊行から10年間の長きにわたって利用されていた。本書を用いて「問 管内ノ物産ハ如何ナル者ナルヤ」、「答 米、茶、生糸、煙草、鉱物、織物、陶器等」というように、問答形式で授業が展開されていた。(滋賀県所蔵)
県権令籠手田安定が文部省に提出した教員伝習所の設立許可を求める上申書。すでに明治7年(1874)12月には、大津仮伝習所が設立されていたが、翌年5月に廃され、同年6月1日、新たに小学教員伝習所として上堅田町の旧郡山藩邸内に設立されることになる。官立大阪師範学校の卒業生横山昂蔵が招かれ、小学校教員の養成にあたった。同校は明治8年(1875)10月、滋賀県師範学校と改称される。 【明し163(2)】
学区取締外村省吾が県権令に提出した共立学校設立の願書。上等小学校・予科生徒の教場と愛知以北5郡の小学教員伝習場が設立目的に掲げられ、彦根藩主井伊直憲と集義社(法学教育中心の私塾)社員により資金が集められた。明治9年(1876)8月、彦根元川町に彦根学校として設立され、明治13年(1880)4月には、県下初の公立中学校(現彦根東高校)となった。【明し164合本2(1)】
明治15年(1882)7月に開校した女子師範学校の課程表。同校には普通女学科と裁縫専修科が設けられていたが、本表は後者のもの。明治初期の女子の修学実態は男子に比べて低く、就学率を上げるために、小学校の授業科目に裁縫科を設置する動きが出ていた。同校はその教員を養成するため設立されるが、明治18年(1885)には師範学校と合併し、師範学校女子部となった。【明い168(16)】
中井弘知事が商家子弟の教育のために設けた滋賀県商業学校の規則。県会に設立案を1度は否決されるが、有力実業家の後援により再度提出して認可される。船頭町の仮校舎で開業式を挙げた。明治34年(1901)には八幡町に移転し、建築家ヴォーリズも教鞭をとった。【明い162(37)】
県令松田道之が設立した欧学校の入学希望を呼びかける告諭。ドイツ人エミル・レーウェンスタインとイギリス人の妻メリーを外国人教師として雇い、校舎は坂本町の旧淀蔵の一部が利用された。入学年齢は8歳から25歳、在学年限は3ヶ年とされ、初年度の入学生徒は男子100名、女子50名程度だったという。ただし学校の維持費調達に苦労したためか、明治7年(1877)8月には廃校となっている。【明い224(47)】
伊香郡木之本村外十ヶ村組合によって明治29年(1896)に伊香農業補習学校が設立された。坂田郡六荘村(現長浜市)で開校した蚕糸業組合立の簡易蚕業学校と同年の設立であり、これらは滋賀県における農学校の始まりに位置付けることができる。この教科課程表は、明治33年に農業補習学校を組合から郡の管轄に改める際の添付文書である。農業の実習に多くの時間が割かれ、内容が充実していたことが分かる。【明し57(88)】
甲賀郡長野村に簡易工業学校を設置する案に添付された設置概則。信楽陶器改良の目的で設置が期待された。図画や実業の授業が特徴的で、それぞれ一週間の授業時間のうち6時間と8時間が割り当てられた。しかしすぐには計画が進まなかったようで、結局長野村には、11年後の明治39年(1906)になって信楽実業補習学校(甲賀郡初の実業学校)が設置された。【明ふ9合1(24)】