文字サイズ

【展示】近代化する生活~明治のインフラ整備~

展示期間 平成28年5月23日(月曜日)~7月21日(木曜日)

infra

明治時代には、様々なインフラ整備が行われはじめ、人々の生活は大きく変わっていきます。
明治になると馬車や人力車などによる運送業が広がり、明治の10年代には東海道を交差する天井川として知られた大砂川、草津川のトンネル工事など街道が整備されたり、逢坂山トンネルの開削による鉄道が敷設されるなど交通環境が整えられていきます。
また、明治5年に新しく電報が導入されるなど、通信設備も整備され、滋賀新聞や琵琶湖新聞の普及により、庶民が情報に接触する機会そのものも大きく高まりました。そして、明治30年代から40年代にかけては、電気やガス・水道、電話など近代的生活の基盤となる設備が徐々にできるようになり、人々の生活は格段に向上します。
今回の展示では、こうした明治時代のインフラ整備に焦点を当て、どのように滋賀県内に整備されていったのか、それにより人々の暮らしにどのような変化をもたらしたのか、県の公文書から探っていきます。

【コラム】明治におけるインフラ整備

交通の整備

「道路掃除規則」 明治5年(1872) 8月

infra1

文明開化が進み近代的な衛生観念が広がりを見せるにつれて、伝染病の温床となる街道の牛馬糞散乱を予防することが、課題となりました。この規則は全15条からなっており、前文において県令松田道之は、無用の物を有用な肥糞へと変えることが病気の予防となり、物産の繁盛・国益増加の基礎にもつながる、と説いています。条文では、朝晩の軒先掃除と牛馬糞の肥料活用が規定され、各家の掃除範囲も敷地だけでなく道路の中央までと、細かく指定しています。【明い31(18)】

「逢坂山修繕中、通行人への心得」 明治7年(1874)10月29日

infra2

古来より、逢坂山は関所が設けられ、交通の要所・難所として知られていました。多くの旅人が行き交い、物資運搬の利便性を高める車石も整備されていました。この文書は、明治時代の修繕にあたり、県が工事中に設置した案内板の起案書です。往来の人びとに石や砂に気をつけるよう、注意をうながしています。左ページに記載されている「伺之通 明治七年十月廿九日 県令」という朱筆は滋賀県初代県令、松田道之の直筆と考えられます。【明い192合本2(56)】

「馬車開業の件」 明治6(1873)年2月8日

infra3

明治時代に入り、それまでにはなかった馬車が姿を見せます。この文書では、京都府東若宮町(現上京区東若宮町)の田中寅吉という人物が、大津浜での通行営業を開始することを告知し、特に馬車と牛馬・人力車が行き違いになる時は互いに左へ寄るよう定めています。開業から6年後の明治12年の時点で、県下には7台の馬車があったとされていますが、3000台近くに及ぶ人力車に比べれば、まだ珍しいものだったと言えます。【明い36(54)】

「観音坂隧道開削に付、奉願口上書」 明治9(1876)年9月11日

infra4

かつて、坂田郡長浜から岐阜県不破郡関ヶ原までは、伊吹山のふもとにあたり、冬には大変雪深い交通の難所となっていました。とくに、石田村(現長浜市)と春照村(現米原市)の間に位置していた観音坂は道が険しかったため、地元住民たちは坂の開削切り抜き工事を願い出ます。しかし、この工事はすぐにはできず、昭和8年の県工事による完成まで待つことになります。完成した隧道(トンネル)は、今年3月26日に完成した新トンネルに代わられるまでの間、長く人々に利用されました。【明な332合本1(2)】

「鉄道建築に付、工部省達」 明治11(1878)年6月21日

infra5

工部省から滋賀県に達せられた三件の鉄道建築指令書の写しです。京都から大津間、米原から敦賀間、長浜から関ヶ原間の達(たっし)が、それぞれ工部省御用取扱の伊藤博文、工部卿の山田顕義、佐々木高行らによって出されています。特に、京都-大津間で工事された逢坂山トンネルは日本人技師のみによって行われており、外国人の手から離れる契機となりました。【明と3合本4(1)】

「甲賀郡大砂川隧道工事目論見帳」 明治17(1884)年頃

infra6

大砂川隧道は、県下最初の隧道として築造されました。大砂川は、東海道と交差する交通の要所でありながら、天井川として川越えをする多くの旅人の往来を水害などで悩ませていました。明治18年4月16日、長さ16.4メートル、幅4.4メートルの構造アーチ両側切り石積みの隧道が完成します。土木遺産の価値としては、重要文化財にも相当すると評価されています。【明な337(7)】

「草津川隧道工事目論見調査の件」 明治18(1885)年11月30日

infra7

栗太郡大路井(おちのい)村(現草津市)の草津川隧道の工事目論見書を作成するため、技師派遣を上申した文書です。草津川も大砂川と同じように天井川であり、かつ東海道と中山道が交わる交通要所という二つの特徴がありました。地元の人びとは水害に悩まされたため、県令中井弘に工事の請願を行います。明治19年3月20日には藤田組が施工を請け負い、長さ43.6メートル、幅4.5メートルの隧道が完成しました。【明う108(82)】

「御幸橋改築工事に関する請願書」 明治24(1891)年11月

infra8

愛知(えち)郡の御幸橋は、明治23年に橋梁の改修工事に着工し、明治24年9月には一応の完成をみました。しかし、10月に開かれた渡橋式に大勢の群衆が押し寄せたため、落橋事故を起こし多くの人びとが亡くなります。この請願書は、事故を受けたのち、再度地元町村長が橋の再改修工事を求めて提出したものです。この請願を受けて、御幸橋は明治26年7月13日、本県最初の鋼橋として、ついに完成をはたしました。【明に20(2-1)】

情報環境の整備

「東海道駅伝馬所廃止に付、伺」 明治5年(1872)1月

infra9

明治4年1月24日、民部省は「郵便創業の布告」を発布し、3月1日には東海道の各駅伝馬所に郵便取扱所が置かれました。しかし同年10月、郵便事業は民間の陸運会社に委嘱されることとなり、伝馬所は廃止されます。本史料は、その後も陸運会社の取締りのために、主な駅に置かれた官員に関する伺書です。従来から各駅に支給されていた30石を返納すべきか、引き続き彼らの給与に充てるべきか、県より大蔵省に照会しています。【明う171(54)】

「琵琶湖新聞発刊布告」 明治6(1873)年3月8日

infra10

日本における日刊紙のはじまりは、明治3年の横浜毎日新聞と言われていますが、県内では同5年に滋賀新聞が発行されています。本史料の琵琶湖新聞は、明治6年に甲賀郡石部村の藤谷九郎次が始めたものです。現在発行されている日刊新聞とは異なり、大きさはA4版程度の冊子となっています。内容も日々の速報ではなく、世事の論評や、政府による布達の告示などが主でした。この史料の布告も、県令松田道之の名前でなされています。【明い37(47)】

「大津にて伝信局開設の御願書」 明治6(1873)年8月22日

infra11

明治8年1月20日に大津湊町(現大津市)に電信局が開局されるなど、大津の地は急速に情報伝達の仕組みが整っていきます。この史料は、その1年半ほど前に、米相場所が改称した第一米商社から提出された請願書です。「京都・大阪の喉元」にあたる大津の地理的重要性が説かれ、早急に大津へ電信局を設置するよう求めています。【明と96(27)】

「大津師範学校書籍縦覧所規則」 明治12(1879)年5月6日

infra12

上堅田町(現大津市)にあった大津師範学校は、在学期間を180日とし、学校資金は文部省の委託金と管内の寄付金からなっていました。その校舎内に設けられた書籍縦覧所は、午前9時から午後4時までの開館で一般に公開・貸出しが行われ、一回10冊の利用で15日間、年間1000名以上の利用者がいました。新刊を収集する経済力はなく、明治20年にはいったん閉鎖されてしまいますが、明治40年に、代わって大津図書館が設立されます。【明い105(29)】

都市の整備

「京都電灯株式会社、大津市街電柱設置許可の件」 明治28(1895)年2月18日

infra13

明治30年 1月1日に京都電灯株式会社は大津支社を設置し、大津営業事務所を上京町に、変電を行う減圧所を神出に設け、営業を開始します。この文書はそれに先立って県が、第2号国道東海道と仮定県道西近江路筋に電柱の設置を、無料で認めたものです。これにより町内に設置された400灯に送電が行きわたり、明治33年には膳所への送電も開始されました。【明な323(3)】

「大津市内電話開通祝賀会祝辞」 明治39(1906)年12月1日

infra14

電話開通祝賀会において、鈴木定直知事が述べた祝辞案です。電話布設に関しては、祭礼の曳山を巡行するときに差し支える、との反対意見もありましたが、大津商業会議所から逓信大臣への開設請願などもあり、実現しました。開通したのは、官公庁22台、商工業者123台の合計145台で、これにより大津市内の郵便・電信・電話設備が整います。【明お58合本1(177)】

「近江瓦斯株式会社企業目論見書」 明治42(1909)年3月5日

infra15

この史料は会社発起人たちによって県に提出された、将来的な企業運営の計画書です。明治43年9月29日、県は瓦斯営業取締規則を定め、12月には大津瓦斯株式会社(近江瓦斯株式会社から社名変更)が大津市内の一部地域で、石炭を利用したガスの供給を開始します。現在とは違い、当時は熱源としてよりもむしろ光源として利用され、戸数676戸に設置したガス器具のうち、熱用は527個、灯火用は1959個でした。【明な272(3)】

「大津市水道布設に付、企業目論見書」 明治42(1909)年7月29日

infra16

明治後期頃までの大津は、明治18年に琵琶湖の水を京都市へ流すために始められた疏水工事の影響で、水源の枯渇が深刻でした。大津運河を掘りはじめたために、大津の西部地域一帯で、次第に井戸水などが枯渇していったためです。そこで、その代償として京都市がつくり、のちに大津市に引き継がれたのが西部地区の上水道です。これは大津市において最初の近代的上水道で、明治44年3月1日に給水を開始しました。【明な271(6)】

お問い合わせ
滋賀県総合企画部県民活動生活課県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
FAX番号:077-528-4813
メールアドレス:[email protected]