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長浜市 大正10年の水害

水害履歴

位置図
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柏原地区 大正10年の水害

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水害写真


体験者の語り

長浜市高月町柏原宮澤勉さん(昭和10年生まれ)

【高月町柏原地区の位置】

滋賀県北東部、伊香郡にあった旧町名である高月町は、現在は長浜市の中南部に位置する地域です。ここは高時川や余呉川の低地を占めており、米作が盛んです。北陸本線や国道8号線が通じており、近年は工場も進出しています。渡岸寺観音堂(向源寺)の国宝十一面観音で知られ、朝鮮通信使で有名な江戸時代の儒学者・雨森芳洲の出身地でもあります。

 

【柏原地区の特徴】

 柏原の東側、約500メートルの所には高時川が流れています。この河川は普段は清流の静かな川ですが、夏季には水が無くなりいわゆる瀬切れの状態が続くことがあります。また、何日も雨天が続くと今度は川幅いっぱいになり、濁流となって急変します。昔は自然の流れに任せており、大量の水が出ると氾濫を繰り返し、村の田畑にも大量の土砂が流れ込みました。それが長い歴史の中で落ち着き、現在のような豊かな大地を造り上げてきました。この地では各地に土塁を設けて氾濫を防いでいました。 また、柏原の集落の畑地内には霞堤がありました。霞堤は、堤防のある区間に開口部を設け、その下流側の堤防を堤内地側に延長させ、開口部の上流の堤防と二重になるようにした不連続な堤防です。「霞堤」という名称は、堤防が折れ重なりまるで霞がたなびくように見える形状からつけられたと言われています。柏原の集落の東側に存在していた霞堤は、現在国道365号線の下になっていますが、その中に土塁の堤防がありました。土塁は北方の集落である雨森地区との郷境から始まり、柏原の畑地内を通過し南方の渡岸寺、落川地区の畑地へと延びていました。霞堤の排水対策としては霞堤の後方で高時川と交差する箇所に堤防の一部が除去されて欄干のついた立派な木橋が架けてありました。

 

【柏原地区への思い】

 地域の歴史は時間の経過とともに忘れ去られてしまいます。この柏原に住む者として、何らかの形で残して語り継いでいきたいと思っています。今、私が知っていることが将来何かのお役に立つことができるのであればと思い、水害について取りまとめました。地元の人々は襲ってくる洪水を防ぐために堤防を築いてきましたが、自然には勝てず、河川の氾濫を繰り返してきました。そのたびに住民が堤防を修理してきました。村を守ってきた先祖の苦労に感謝しなければなりません。 高時川と付近で生活する私たちの歴史は、普段は静かな水の流れが潤いを与えてくれ、水のある生活を喜んでいますが、天候によっては旱魃(かんばつ)と氾濫を繰り返し、住民を襲ってきました。特に水害については天候の急変でこの河川が満水となり、時には決壊して集落に多大な被害を与えてきました。当時の護岸工事は土砂を積み上げた土塁で、決壊の恐れがある場所には蛇籠(じゃかご)*などを設置して堤防を補強してきました。しかし、濁流の勢いは凄まじく、このような水防対策の努力をしても大きな被害を出して地域住民を悩ませてきました。

*蛇籠(じゃかご):編んで作る円筒型のかごのことで、中には川原石や砕石を詰めて、河川の護岸や用水口の堰などに利用されてきました。細長い形が蛇に似ていることから、この名がついたとされています。

 

【台風による地区の被害】(大正10年9月の台風)

特に柏原の集落に大きな被害があったのは、大正10年9月26日午前4時30分の堤防決壊です。当時は9月20日頃から激しい雨が続いており、山が白く見えるほどでした。25日の夜には台風が滋賀県を北上したため、高時川の水嵩が急激に増えました。雨森地区では、25日に地区住民の男性たちが総出で他の村の消防団と共に非常警戒に当たっていました。しかし、川の流れが変わり、堤防の底がえぐり取られてしまい、雨森地域の堤防が崩れ約200メートルにわたって決壊しました。私の住む柏原では大昔より高時川の氾濫はたびたび繰り返され、その都度民家や耕作地は冠水し被害を受けてきましたが、先達の口伝で残っている中ではやはり大正10年9月の被害状況です。しかし、その当時を経験した住民はすでに亡くなり、また記録も見つかりません。

しかし、さいわい付近の集落の字誌などにその当時の様子を詳しく書かれてあり、それらから当時の状況を推察してみますと、村中が泥水に浸かり凄惨な状況にあったと書かれています。危険を知らせる早鐘が打ち鳴らされ、村人たちは畳や家具などを2階へ移動させました。村の中心である会議所前は人の腰廻りまで浸かる泥水に覆われていました。泥水は柏原一帯を通り過ぎ、南側にある北陸線鉄道の線路も乗り越えて、高月・速水地区まで浸水しました。床上に一週間も水が浸かっていた家もあり、つし(屋根裏)で生活する人もいました。当時、郡長の命令で尾山集落から舟を借りて、炊き出しされた食料や水が配られました。

雨森集落部の高時川はここで折れ曲がり、西側の堤防に濁流が激突します。濁流が繰り返されることで堤防が徐々にえぐり取られ、最終的には決壊してしまいます。この場所は集落の南側で、通称「切れ所」*といわれる場所です。この場所は昔から堤防がよく決壊するため、村の人々は雨が降るたびに堤防を見張るようにしています。

*「切れ所」:決壊がいつも同じ場所なので、地元民は通称「切れ所」と呼んでいます。

 

【水天標の設置】

柏原では大正10年9月26日の水害を後世に伝えるため、村の中心地に水天標(高さは約90センチメートル)を設置しました。当初は会議所前の広場の南側に設置されていましたが、ある時、村人が牛をこの水天標に繋いでいたところ、牛が暴れて引っ張り抜けてしまうというハプニングがありました。現在、その水天標は平成18年7月に柏原自治会会議所前に移して保存されています。

 

 

【子どもの頃の記憶】

私が堤防決壊寸前の様子を見たのは、昭和23年夏頃のことだったと思います。大雨で河川が増水し、決壊の恐れがあるというので集落内の男性たちは雨森集落南部の通称「切れ所」に集結し、決壊防止策に懸命でした。私は現場から帰ってきた父から現地の様子を聞き、好奇心も手伝って2~3人で現場に行ってみました。「切れ所」の堤防はすでに半分えぐり取られていました。濁流が渦巻く堤防の下部には丸太を組み合わせた「うし」*をいくつか並べ、その前に枝葉を置き、濁流の流れを変えようと村でも屈強な男性たちが「うし」につかまり、懸命な作業をしていました。幸いにもこのような作業が功を奏し、決壊には至らずに終わりました。

*「うし」:丸太を三角に組み立てたもので、先陣に用いて掩護(えんご)用の盾の一種、また水制の一種で水の流れを弱め護岸を防御します。

 

【洪水時の伝承・長老の話】

区の長老のお話1・・・このような「うし」の設置作業は急流が渦巻く中での危険作業ですが、集落内の元気な男性たちが全身ずぶ濡れになりながら懸命に枝葉の取り付けをしていました。その中の一人は蓑を着用していたところ、水の流れに掬(すく)われて濁流の中に流されてしまいました。彼は戦時中、海軍で活躍していたおかげでこの危機を泳ぎ切り、下流で対岸にたどり着き、危うく一命を取り留めました。

区の長老のお話2・・・子どもの頃、高時川へ水泳に行くのに、八幡神社から東の藪の中の道を通り、堤防までの畑地へ入ると、よく人骨が見つかりました。これは大正時代の堤防決壊で近くにあった雨森集落の墓地が流され、そこに埋まっていた人骨が柏原の畑地に散在していたものです。

 

 

 

【区の防災記録】区の記録より

この地区の防災記録は、代々の区長の記録として残されています。

 

〇昭和5年7月9日

大雨により高時川が大増水し、夕方から各堤防が危険な状態に瀕し。それにより、直ちに消防団を始め、青年団や他の区民総動員で堤防の警護を行いました。夜8時頃から河川の水位が激増し、逆流して雨森部落の南端で堤防の約40間*が氾濫しました。各々が筵(むしろ)や俵(たわら)を持って防ごうとしましたが10日午前2時頃には、下流の速水地区で堤防の2か所が決裁したため水位が下がり減水し、柏原地先は大事に至らなかったが、この増水で雨森橋や阿弥陀橋が流失しました。

約40間*:約40間は約72m。一間は約1.8m。

〇昭和8年4月16日

川原堤防における雨森の三味越(さんまいごし)*地先が危険な状態になり、雨森並びに柏原の両区から、牟(む)牛(うし)5組および竹蛇籠46本を川岸に配置し、辛うじて危難を逃れました。

*三味越:墓地の地先を示します

〇昭和13年7月5日

高時川が増水し各堤防が危険状態となりました。直ちに消防を出動させ堤防の警護を行いました。翌6日早朝、雨森の「切れ所」が危険な状態になったため、区民を現場に召集し、雨森区民と協力して応急工事を施しました。

〇昭和21年3月5日

連日の降雨により高時川が増水し、昨年来の危険箇所が再度危ぶまれました。区民総出で3日間護岸工事に専念し、ようやく決壊を免れました。

〇昭和23年7月24日

高時川の大洪水で危ぶまれた当字地先も決壊は免れました。8月には堤防右岸の型枠工事を青年会の総出で竣工し、10月には「切れ所」での菱牛工事*(ひしうしこうじ)に成功しました。続いて、鉄線工事(蛇籠)が行われるようになりました。

菱牛工事*:川の流れを変えるために用いられる工法。特に小河川での流れを変える時に用いられます。

 

〇昭和28年9月25日

台風13号の影響で甚大な被害が発生しました。当字においても25日徹夜で警戒し、26日払暁に柏原地先の一部が危険な状態に陥りましたが、区民の緊急出動によって防水に努めた結果、その難を逃れました。

〇昭和31年7月24日

22日から続いた豪雨で高時川が次第に増水しました。24日午後、水引き時に堤防が崩壊し始めたため、早速警防団員が応急処置を行いました。さらに村人たちの協力で牛(うし)框(かまち)を入れる処置を行いましたが、次第に崩壊が進んだため町当局へ善処を要望しました。

 

【思い出】

私の思い出の中心には高時川があります。私たちが子どもの頃、高時川一帯は良い遊び場でした。夏でも水が途切れることはなく、いつもきれいな水が流れていました。泳いだり、魚を取ったりして楽しんだ川でした。


一帯を襲った過去の水害の歴史を伝える説明板が設置されている

写真は、大正10年雨森地先「切れ所」での「高時川堤防の復旧工事の様子」を撮影したものである。

撮影:滋賀県(令和6年)


浸水水位を印した水天標

柏原自治会会議所前に設置されている

撮影:滋賀県(令和6年)


[切れ所]高時川方面

撮影:滋賀県(令和6年)



伝承・言い伝え